032 夜番の日記Ⅲー地獄のはじまりー



――




 今日は非番の日でしたが、父が大切にしている懐中時計を忘れていったので、アスキンまで届けることになりました。この懐中時計は祖父が先代領主様から贈られたもので父の宝物です。




 アスキンに着き、私が取調室の横を過ぎると、夜番の時には聞こえないような悍ましい叫び声が響き渡っていました。たった今、取り調べという名の拷問が壁の向こうで行われていると思うと怖くなりました。これが身体的苦痛を味わっている人間の出す声なのです。その声は怨念のようで、この日記を書いている今も私の耳に響いて消えません。声を聞いてしまった自分が、罪人にでもなったようなひどく居たたまれない気持ちになりました。私は早くアスキンから出たくて急いで父を探しました。




 一刻も早くアスキンを出たくて、探し出した父に懐中時計を渡し、急ぎ足でその場を去ろうとしたその時でした。




 「……お願いです……」




 小さな蝋燭の火さえも揺らさない吐息のような、そして悲しいほど透明な声がすぐ横の壁の向こうから聞こえてきました。この美しい声には覚えがあります。彼女の声に間違いありません。私の身体は硬直し、その場から動けなくなりました。




 「だから身に覚えのあることを全て白状してみなさい、と言っているのだよ」


 「……しょ、所長さま……大変恐縮ながら、私には罪を犯した覚えがないのです。お願いします、もし私が過ちを犯しているのであれば、ご寛大にご教示くださいませ。私は神に誓って嘘は申しません。もし私が罪を犯しているのであれば、罰を受ける覚悟です」


 「罰を受ける覚悟……か。はは。よし、脱がせろ」


 「……なっ? ……や、やめっ……!」




 がさごそと数人の動く物音が聞こえてきます。彼女の叫び声はやがて籠った声になったので、口枷のようなものをされ、口の自由を奪われたことが察せられました。言葉を含まない泣き叫ぶ声だけが聞こえてきました。




 「さすがに良いな、若い女は……」




 言葉にならない苦しみに悶える絶叫が滝のように絶えず響き渡ります。静かに取調室のドアノブに手をかけてみたものの中から鍵がかけられていました。彼女は今、地獄の中にいるのです。年配の男の快楽の声だけが、彼女の叫びの背後に微かに響いていて、私は自分の血が沸騰しているような感覚を覚えました。握りしめた拳が震えています。




 ふと肩を震わせていた自分の背後に父が静かに立っていることに気が付きました。父は私の目を真っすぐ見て、1度だけ深く頷いた後、追い払うように手を振りました。帰れ、という意味です。




 私は歯が全て砕けるほど歯を食いしばって家まで走り、自分の部屋の壁を何度も何度も叩きましたが、私の心が落ち着くことばありませんでした。全身に火がついたように熱く、自分がこのまま発火して灰になってしまうような気がしました。あの神様のように美しい罪なき彼女は、純潔や人間の尊厳までも失い、心身ともに痛めつけられ、魔女というありもしない罪で死に処せられていくのです。




 彼女を助けられない自分の無力さが一番許しがたく感じられます。

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