023 秘められた真実
「私……少しだけ嬉しかった……かも」
研究室を後にして、美術館内のスタッフ専用の通路を歩いているエステラは俯きながら小さくそう呟いた。
「副所長さんは私を心配してくれてたんだ……それがわかっただけでも良かった。少し救われた」
エステラの名前が記録から消された背景を調べることは、エステラにとって何の利益もないと思っていたけれど、300年経って心が救われることもあるのか。助けてもらえなかったとしても、心のどこかで寄り添おうとしてくれてる人がいた、ということは大きいだろうな、と私はぼんやり思った。
「ねえ、美術館の展示品もちょっと見ていく?」
一度も足を踏み入れたことのなかった美術館だけど、実は展示品は充実していた。グライフの歴史を辿る展示エリアを私はゆっくりと歩いた。今までだったら、グライフの歴史なんかにここまで興味はなかった。けど今は違う。エステラの生きていたグライフを見たい、そこからエステラや当時の人々がどんな生活をしていたのか、そしてグライフの町がどう変わっていったのかも見たい、と純粋に思えた。
まだ建物が少ない緑豊かなグライフ。川では水力を活かしてか、水車がいくつも描かれている。町の中心に聳える修道院。近代化が進む前、グライフはこんな町だったんだ。
「あ……これ……」
私は1つの絵画の前で立ち止まった。3人の人間が描かれていた。真ん中に立っている男性は30代だろうか。40代かもしれない。その男性の前には女性と少女が、膝と膝をくっつけるように椅子に座っている。ドアよりも大きなその絵画は存在感を放っていた。タイトルは「ショー一家」――。年代もピッタリだ。
……これが……領主ジョセフ・ショー?
そっとタイトルの下にある説明文に目を遣る。
『領主ジョセフ・ショー、妻マージョリー、娘リリー。1697年の魔女裁判後、病気から快復した娘を祝した1枚。画家オフィリウス・ファーガス』
……やっぱり……。
この絵画は当時の領主ジョセフ・ショーに間違いない。そして、ここに描かれている少女が当時、原因不明の病にかかり、魔女狩りの発端となった娘リリー。こちらを見て少しだけ目を細めて微笑んでいる。その微笑が少し憎らしく思えた。
……わかってるの? あなたが発端となって、何人もの善良な民が殺されたのよ?
絵の中の少女に向かって、言ってみる。憎しみをこめて。少女は何の罪悪感も感じてなさそうに、笑顔のまま私を見ている。変に苛立っている自分がいた。
「ああ、これよ、ジョセフ・ショー様」
大きな絵の前に突っ立っている私の後ろから、ため息が出るほど透き通った声がして、私の苛立ちは一気に気化した。
「うん……これ、魔女裁判の後に描かれた一枚らしいよ。娘のリリーの病気が治ったお祝いだって」
「そっか、あの後、病気は治ったのね。よかった……」
「この後、このリリーは富豪と結婚して、産業革命に一躍買ったみたいね。ビジネスウーマンとして紡績業で富を築いたみたいよ」
何か悟りをひらいた仙人のように、エステラは純粋にリリーの回復に安心したようだった。自分が酷い目にあった元凶の少女だというのに、どうしてこうも彼女の病気を心配したり、回復を喜んであげられるのか、私にはまったく理解ができない。
「……ショー様のお顔、懐かしいわ。本当にこの絵そのまま。まるでこの絵が動いて話し始めそうなぐらい、本当にこの絵のままよ。娘さんは見たことなかったけど、こんな少女だったのね……」
私は見たことも会ったこともない人。
エステラにとっては、実際に会って、言葉を交わしたことすらある人。
私たちはその大きな絵画の前に立って、長い間その家族を見つめていた。
「今」が「遥か遠い場所」と繋がっているような不思議な感覚を覚えた。
そのまま美術館の進路に沿って進もうとした次の瞬間だった。エステラの顔がみるみると青ざめて、唇がガタガタと小刻みに震えているのがわかった。まるで傷付いた子犬が、恐怖のあまり噛みついてこようとするような緊迫した空気が漂い始める。声もかけられないほど異様な雰囲気に、私はエステラが爆発でもしちゃうんじゃないかと思ったぐらいだ。
「……エ、エステラ……?」
「……ゃ……! いや……!」
エステラは1つの絵画を凝視して震えていた。絵の中には、上流階級に属するであろう男性が20人ほど並んでいて、真ん中には聖職者らしき人も見える。領主ジョセフ・ショーも真ん中に描かれていた。
……この絵が何?
「エステラ……大丈夫? この絵の中に知ってる人でもいるの?」
「こ……この人……端から2番目の……」
「この人、誰?」
「ア、アスキン牢獄の……ロバート・ショー……」
震える透明な声は、まるでいつ破裂してもおかしくないシャボン玉みたいに儚かった。こんなに動揺しているエステラは初めて見たかもしれない。私はルーリーさんの研究室で見せてもらった日記のことを思い出した。
「これがアスキン牢獄の所長ロバート・ショー……。日記にあったようにエステラはこの人に単独で取り調べを受けたの?」
エステラは吐き気をもよおしているように、手で口を押さえながらカクリと頷いた。
「どうして所長が直々にエステラを取り調べることになったんだろう? 何かわかる?」
質問した直後、エステラの艶めくお月さまの瞳から、真珠のような大粒の涙が止めどなく零れ始めた。
「エ、エステラ……」
まるでパールのネックレスが切れたように、大粒の涙が次々と零れ落ちる。エステラの肩が揺れている。この絵と私の質問がエステラの心の傷を抉っていた。エステラの涙を流す姿を見ると、もう会話はできそうにない。
「もし嫌なこと思い出させてしまったんならごめん……。もう帰ろう。ね?」
涙を流し続けるエステラの肩を後ろから翼のように包み込んだ。いつかエステラが私にしてくれたみたいに。気持ちを落ち着けようと、なるべく深くゆっくりと息をしようとしていたエステラは肩を揺らしながら大きく息を吐いた。
「……ぼうされたの」
小さな蠟燭の火でさえ揺れないほどか弱いエステラの声が聞こえた。
「え? なんて?」
「……乱暴されたの、あのロバート・ショーって人に……」
「え……」
一瞬、頭がフリーズした。エステラの言ってることがわからず、すぐ傍のエステラの顔を見た。
「あの人が直々に私を取り調べた理由……。取り調べの度に……私……あの人に……」
血がまた沸騰し始めた。見開いた目が瞬きさえ拒否する。
「私……何回も……何回も……!」
絞るように出すエステラの声は、震えていると同時にかすれていて、それなのに途切れそうなほど透明で、悲しいほど澄んでいた。その声に私はなんて言葉をかけたらいいのかわからない。どう反応したらいいのかわからない。私の大切な大切な新しい家族であり友人を、こんなに痛めつけたのは誰? それは私なのだろうか。とれとも過去なのだろうか。
エステラは両腕を組んで、自分の上半身を包んでいる。まるで何かから自分を守るように。誰にも心を開かないように。自分の心を守るかのように。
私は知らず知らずのうちにエステラを抱き締めていた。ショック、怒り、悲しみ、罪悪感、いろいろな感情がごちゃ混ぜになって沸き立ち、しかもその感情は全て純粋で真っすぐな感情だった。何かエステラに声をかけてあげたいのに、混乱した私の気持ちと頭はなかなか冷静さを取り戻せず、言葉という輪郭を結ぶことすらできなかった。
……エステラが……拷問されただけでなく、権力者によって強姦されたなんて……
こんな辛い経験を思い出させてしまうなんて、自分の口から話させてしまうなんて……私は自分の心臓を、見えないアイスピックでめった刺しにしてやりたい気分だった。静謐な美術館の中で長い間、私とエステラの2つの魂が涙を流していた。
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