021 古い日記
指定されたのは、グライフにある小さな美術館だった。注意して見ておかないと気付かずに通り過ぎてしまいそうなほど小さな美術館の入り口には受付もなければ警備員も立っていない。ただ小さく、けれども荘厳に「グライフ歴史美術館」とだけ書いてあり、入館料は無料らしい。入館料無料でどうやって維持費なんかを賄っているのか疑問に思った。
小さな入り口からは想像もつかないほど、館内は奥行きがあって広く、展示品も充実していた。グライフの歴史エリアに、産業革命期に町を繁栄させた紡績業に焦点を当てたエリア、美術品エリアなど巧みにエリア分けされていて、意外にも私は感心してしまった。
「オフィーリア、このビジュツカン? って言うんだっけ……のどこでその人に会うことになってるの?」
広く静かな美術館の雰囲気に圧倒されてか、隣にいるエステラは囁くように聞いてくる。
「えっとね……着いたら館員の人に声をかけて、って言われてるんだよね」
キョロキョロと周りを見渡しながらスタッフらしき人を探すも、館員や警備員どころか客さえも見えない。
……この美術館、ホントに大丈夫なの?
これでは泥棒が入って展示品を持って行き放題ではないか。それとも、こんな寂れた美術館に泥棒が欲しがるようなお宝は置いてないのか? それともグライフが平和すぎるのか? はたまた警備員は実は壁の後ろとかに隠れているのか? よくわからない。
「あの」
ふいに遠くから女性の声が聞こえた。振り返ると奥に館員証のようなIDを首に下げている中年の女性がこちらに向かって歩いてくる。静かな館内に彼女の足音が響く。
「すいません、美術館のスタッフの方ですか?」
「はい、もしかしてルーリーさんと面会のお約束のお方ですか?」
「はい」
「お待ちしておりました。ルーリーさんのお部屋までご案内致しますね。どうぞこちらへ」
紺色のスカートとカーディガンに襟元が立ったブラウスを着た上品なその館員は、笑顔で優雅に手をあげながら行く先を示してくれた。
スタッフ専用の通路を進むと、1本の真っすぐな廊下がある。廃校になったような廊下の窓からは、資料の修復作業のようなことをしている学芸員の姿が見えた。あまり知られていない美術館の裏側を垣間見た気がした。その通路の一番奥のドアを抜けると、次は大学の教授の研究室のようなエリアへと移った。静かで絨毯が敷かれた廊下の両サイドには等間隔に木製のドアがあり、1つ1つのドアには研究者であろう人の名前と「不在」やら「在室」の札がかかっている。
「こちらです」
ルーリー・ヴィラールと書かれた部屋は、誰にも知られずそっと潜んでいるように廊下の一番奥にあって、ドアには「在室」の札がかかっていた。
「ルーリーさん、面会のお客様がいらっしゃいました」
ドアをノックしながら館員の女性は声をかけた。
「どうぞ、入ってもらって」
中から地の底を這うような低い声が返って来て、私は緊張して背筋を伸ばした。エステラもその声に怖気づいてか、さっと私の背中に隠れるように移動した。
……ラジオで喋ってた時ってこんな怖い声だっけ……?
ドアを開けると人懐っこそうな初老の男性が笑顔で立っていた。
「はじめまして、オフィーリアさん。ルーリー・ヴィラールです」
こんなに顔と声がマッチしない人が世の中に存在するだろうか。声だけ聞くと、むちゃんこ怖い頑固親父みたいに威圧感たっぷりなのに、見た目は中肉中背、白髪と白髭に眼鏡の背の低い可愛らしいおじい様だ。私はホッとした。
「は、はじめまして、オフィーリア・ファーガスです。こっちはアシスタントのエステラ。今日はお忙しい中、お時間いただきましてありがとうございます」
エステラに視線を移すと、ルーリーさんはエステラの美しさに一瞬目を見開いて息を飲み、その後すぐにっこりと笑って「どうも」と挨拶した。エステラもホッとしたように息を吐き「こんにちは」と応えた。
「エステラさんは、グライフ出身の方?」
「えっと……あ、はい、そうです」
ルーリーさんが何やらエステラに興味を持ったように見えたような気がした。魔女の専門家だし、エステラが300年前の魔女見習いだって見抜かれたらどうしよう、と内心ドキドキだった。
研究室は、窓以外は魔女や魔女裁判関連の本で埋め尽くされた本棚で囲まれている。背表紙だけでも「魔女」の「魔」が書かれていない本はなさそうだ。まず世の中に、こんなに魔女に関する文献が存在することに驚く。
ルーリーさんは私とエステラを中央のコーヒーテーブルに座るよう促し、お湯を沸かし始めた。
「コーヒーがいいですか? 紅茶がいいですか?」
「紅茶を2つお願いします」
「いやぁ、嬉しいです。こうして魔女の話を聞きに来てくれる方がいらっしゃるだけで。私はもう魔女の話が大好きでね、研究者というよりはオタクかな」
ルーリーさんはにこにこしながら、早く魔女の話を始めたいと言わんばかりに紅茶とクッキーをコーヒーテーブルに出してくれた。
「えっと……年末のラジオを聴いて下さったとか。今日は魔女について話を聞きたいんでしたね」
「はい、グライフの蹄鉄の一件から興味を持ちまして。まだ記事にするのか、それとも本にするか、或いは物語にするか、何も決まってないんです。魔女のことに関して情報を集めて、勉強しているだけの段階で……」
「ああ、あの落雷で外れてしまった魔除けの蹄鉄ですね」
「実は私、あの蹄鉄の近くに住んでまして。それまでマンホールだと思っていたので、魔除けの蹄鉄だと知った時には驚きました。ルーリーさんはどのような経緯で魔女の研究を?」
ルーリーさんは机から古びたノートを持ってきてコーヒーテーブルの上に置いた。
「きっかけはこれです」
私はそっとその年季の入ったノートをとった。エステラの実家の地下室で見た古い手紙のような紙質で紙は茶色っぽく黄ばんでいる。
「これは?」
「私の先祖の日記です。実は私の祖先はグライフ郊外にあったアスキン牢獄の副所長をしていたようでね。その牢獄は1697年に処刑された魔女たちが拘束された場所だったのです」
……アスキン牢獄の副所長ライル・グッドウィンの日記……!
「この日記を読んで、私は1697年のグライフ魔女狩りについて猛烈に知りたくなってしまったのです。それがきっかけで、当時の魔女や魔女狩り、魔女裁判などを研究するようになりましてね。好奇心ではじめた研究も面白くてね、調べれば調べるほど止まらないのですよ」
ほっほっほっ、とサンタクロースのように笑うルーリーさんの前で私の心は震えていた。貴重な資料を損壊しないように丁寧にページを開くと、達筆な文字がぎっしりと詰まっていた。川のように流れる筆跡はまるで読む人のスピードに合わせるかのように滑らかに続いている。
「すみません、これ、今読ませていただいてもいいですか?」
「ええ、もちろん構いませんよ」
自然に細くなったり太くなったりする筆跡と、インクの掠れや滲み具合が妙に現実的で、ライル・グッドウィンがこの世界を生きていた実在人物なんだと実感させられる。
「えっとね、1697年1月ぐらいから読んだらいいんじゃないかな……」
そう言って、ルーリーさんは全てのページを熟知しているようにお目当てのページを開いてくれた。
「私の先祖、アスキン牢獄の副所長をしていたライル・グッドウィンは魔女裁判について疑問を抱いていたようです」
「疑問、ですか?」
私は日記の中の文字をを目で追いながら訊ねた。
「読んでもらったらわかると思いますがね、ライルは牢獄の上司である所長を日記の中で厳しく非難しているんです。もちろん、この日記はとてもプライベートなものであると同時に、他の者には見つかってはいけないものだったと思うんです。自分よりも権力のあるものを非難することは、リスクを伴いますから……なので遠回しに書かれている部分も多い。しかし私は、このアスキン牢獄と魔女狩りについての彼の魂の叫びを書いているのだと思います」
私の横に座っているエステラが全てを悟っているかのように大きく頷くのがわかった。
魔女狩りの発端となった領主の娘が原因不明の病に伏せるのが、魔女裁判のあった1697年の前年1696年の8月だ。そこから時間をかけて少しずつ魔女狩りをし、裁判にかけ、翌97年の6月に刑が実行される。97年の1月と言えばちょうど半ば。魔女の疑いをかけられた人間を全て拘束・尋問し、裁判を待っていた段階ぐらいか。
頭の中で年代と裁判の経過を必死に整理する。
「これは、日記を通しての私の個人的な見解になりますが……副所長ライルは所長から何らかの圧力をかけられていたのではないかと考えています」
「圧力、ですか……」
そういった瞬間、私の目に日記の一文が飛び込んできた。
『私はこれ以上、罪のない人々が苦しめられるのを到底見てはいられないのです。もし神がいるのであれば、どうかこの哀れな町民達をお救い下さい。私はこうして心を痛めながらも、自分よりも上の権力に逆らう勇気すら持てないのです』
その一文から目が話せなくなった。
……『罪のない人々』……副所長は知っていたのか……魔女狩りで拘束された人々は本当は何もしていない、ってこと……
血が逆流するようだ。当時の人間の中にも、知っている人はいたんだ。けど上からの圧力なのか階級制度のせいなのか、権力者の罪を告発することができなかった。
「『誰かの作り上げた正しさ』を壊すのがいかに難しかったか……。私は300年前を生きたことはありませんがね、当時の社会というのはそういう社会だったのだと思いますよ……」
ルーリーさんの低い声が妙に悲しげに聞こえた。
……誰かの作り上げた正しさ、か……。
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