019 エスプレッソとカレー

 ……集中しなきゃ、集中しなきゃ……!昨日のような仕事ぶりは許されない。


 終始、自分に喝を入れて仕事を終えた私は完全燃焼した後のように頭がぼーっとしていた。


 「オフィーリア、なんか疲れてるな。なんか飲むか? 新しい赤ワインの味見も兼ねてどうだ?」


 店長の声が背中から聞こえる。店長は私が客にワインの味を答えられるように、新しいブランドのワインを仕入れたら必ず味見がてら飲ませてくれるのだ。いつもなら喜んで飲むワインだけど、今日この状態で飲んでしまったらここで爆睡してしまいそうだ。睡眠時間ゼロでバイトに来たのだから。


 「あの、すいません、ワインじゃなくてエスプレッソもらえますか? ダブルで」

 「ええ? こんな夜中にエスプレッソって大丈夫か? 寝れなくなるぞ? それとも今日はこれからお出かけか?」

 「いいえ、ただ体がエスプレッソを欲してるんですよ、明日は休みなんで寝れなくても大丈夫です」

 「お……おう。わかった、ちょっと待ってくれよ、すぐ作るから」


 エスプレッソマシンの音とコーヒー豆の芳醇な香りが私の五感に心地いい。食べ物のにおいが充満していた店内に、まるで爽やかな明るい朝のようなにおいが漂い始めている。安心感があった。


 ……今日を乗り切ることができた。


 店長から差し出されたエスプレッソカップを受け取ると、私はキッチンに一番近いテーブルに腰かけた。


 「オフィーリア、なんかあったか?」


 店長がエプロンを外しながら前に座る。心配している瞳が私に真っすぐ向けられている。両親がいなくなってから必死に意地を張り、気丈に生きてきた私は、この手の視線に私は弱い。強がっている自分と、抱えている弱さを見透かされているような気持ちになるのだ。


 「いいえ、何にも……」


 そう言いながら、エステラのいないアパートに帰るのが億劫な私は、頭の中で何か別の話題を考えた。店長と話して少し気晴らしが欲しい。


 「それより、賄いで食べた新作のラムチョップ美味しかったです! 冬休みの間に新しいメニュー研究したんですか?」

 「ああ、大晦日に実家に帰ってな。俺のレシピのほとんどは、おふくろのレシピなんだよ。少し自分流にアレンジは加えるけどな。おふくろも、祖母ちゃんから受け継いだ料理だから、うちの家で先祖代々受け継がれてきたレシピってことになるかな」

 「なーんだ、店長のオリジナルじゃあないんですね。でも親から受け継がれてきた料理とか、なんかいいなあ。店長の実家ってどこでしたっけ? 西の方って聞いたことある気が……」

 「キルダだよ、って言ってもわかんねえか?」

 「キルダ……?」

 「西海岸からフェリーを2つ乗り継いで行くちっちぇ小島な。人口も500人ぐらいしかいねーんだ」

 「へえ……! 島だったら魚介類とか美味しそう。それに納得いきました。店長の作る料理ってハーブとかスパイスの使い方が特徴的というか、このあたりとは少し味付けが違ってて、それがまたいいんですよね。この前のクリスマスディナーも頬っぺたが落ちそうでしたよ」


 「へへへ」と照れながら店長は鼻の下を掻いた。

 

 「キルダって何か特産物あります?」

 「特産物かあ……。一応、島に小さなビール醸造所があるぞ。生産数は少ないが、なかなかうまいんだ」

 「地ビール? うわー、素敵な響き。飲んでみたいなあ」

 「今度帰省する時に買って来てやるよ」


 久々に店長とたわいもない話をして、心がホッコリしてくるのが自分でもわかった。そうだ、最近の私の生活はちょっと激動すぎた。クリスマスの夜に超絶の美女を拾って、しかもその美少女が300年前に魔女裁判で処刑された魔女で、聖ミレン教会の裏庭の井戸に飛び込んでエステラの家の地下室に行ったり、魔女の仕事とかで神様に会ったり……。


 ……もしかしたら長い夢を見てたのかもしれない。普段の日常に戻っただけだ。


 こうして夢から醒めたように、エステラのことが記憶の片隅に押しやられて、夢だったのか現実だったのかさえおぼろげになってしまうのだろうか。遠い昔の思い出のように。


 「さ、そろそろ閉めるか。明日はゆっくりしろよ」

 「はい、店長。エスプレッソご馳走様でした」


 少し心が軽くなったのを感じながら、今朝よりは随分と足軽に店を出た。店内から真冬の夜に身を投じると、寒さで全身が引き締まり、思わず肩を縮こまらせた。マフラーに顔の半分を埋める。


 ……今日も少しだけ寄ってみるか。


 蹄鉄のあった交差点を曲がって、聖ミレン教会の前まで来たら私は迷わず教会の裏庭へと周った。ひっそりと暗闇に佇む井戸を覗き込む。


 「エステラー、私だよ、オフィーリアだよ。そっちにいるのー?」


 井戸の中を自分の声がこだまするだけで、返事はない。井戸を覗き込みながら私はしゃがんだ。井戸の石が氷のように冷たい。顔の前に自分の吐く白い息が見える。


 「エステラー……あの……もし、私がエステラのことを根掘り葉掘り聞いて、嫌な思いをさせてしまったんならごめんなさい。私は……私はエステラがアパートに戻って来てくれたら嬉しいよ……本当に。父さんと母さんが死んでから、こんなに楽しい日々はなかったっていうぐらいエステラと一緒に生活するのは楽しかったんだ……だから、待ってるね。エステラが帰ってくるの」


 私の想いは届いただろうか。自分の想いの全てを井戸の中にぶつけて、自分のできることは待つ他にはもうないと悟った私は自分のアパートに戻った。


 ……お腹すいたな、昨日貰ったカレーでも食べよ。


 アパートの階段を一段上る度に、忘れていた疲れが襲ってくる。いつもよりも4階が遠く感じた。


 ……やっぱり寝なかったのは駄目だったかな……、


 「おかえりー! オフィーリア!」


 アパートのドアを開けると、そこには笑顔のエステラがスウェット姿で出迎えてくれた。驚きと混乱で、疲れと睡魔が一気に吹っ飛んだ。疲れで閉じてしまいそうだった目がパチリと見開く。


 「え、え……エステラ?! え? なんで?」


 頭が混乱してうまく言葉が出てこない。


 「ごめんね、ちょっと留守にして」


 エステラはニコリと笑いながら舌を出して謝った。え、テヘペロ?


 「ごめんねって……ど、どこ行ってたのよ?」


 心配した親の子供が、遅くに帰宅した時ってこういう気持ちなんだろう。心配させられた苛立ちと、子供が無事に帰ってきた安心感が絡みながら溶け合って、笑顔なのに少し咎めるような口調になってしまっている。


 「ちょっと実家の地下室に行ってたの。仕事してたら時間を忘れて没頭しちゃって……」


 エステラは2回目のテヘペロを炸裂させた。可愛いではないか。ちょっとムカつくし、すごく心配して損したけど、エステラが戻って来てくれることが一番の望みだったから、もう何でもいい。


 「これからは、外出する時は置き手紙残していってくれない? 心配になるから」


 私はそういうと冷蔵庫の中からチャトからもらったカレーを出した。


 「もう何か食べた?」

 「ううん、何も」

 「エステラって『カレー』って食べ物は食べたことある?」

 「ない、かな」

 「よし、じゃあエステラにインドの味を教えてあげる!」


 エステラは予想通り「何これ! むっちゃ美味しい! なんて名前だっけ、カリー? カレー? カーレ?」と目をキラキラさせながらチャトのカレーを食べた。私も誰かと一緒に食べる食事のおいしさを満喫したものの、睡眠時間ゼロにバイト、エスプレッソ、カレーは胃への負担が大きすぎた。


 その後のことは、よく覚えていない。私は倒れるようにリビングのソファーで眠りに落ちた。

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