017 エステラがいなくなった日
年が明けて仕事始めの今日。私はあまり仕事に身が入らなかった。今日という日を想定して、年末年始にエステラの合鍵を作ったり、プリペイドの携帯電話を渡して使い方を練習したりしたし、キッチン用品の使い方も教え込んだ。お金も少しばかり渡しているから、何か必要なものがあれば店に行って買えるはずだ。もちろんお遣いも練習した。それでもバイト中はエステラのことが気になって仕方がなかった。なんだ、これ。恋に煩わされて勉強が手につかない中学生みたいではないか。
エステラのことを考えると、おまけのようにエヴリーナ・ゴッドリーフの話まで頭に浮かんでくる。
……エステラが領主ジョセフ・ショーに会ったことがあったなんて……。
1697年の魔女狩りは、領主の娘の原因不明の病が発端となって始まったのだ。今まで領主とエステラは見たことも会ったこともない、全く無関係だと思っていたけれど、それが覆された。故意にエステラを魔女裁判にかけた、と思うのは少し無理があるような気がするけど、顔見知りなんだったら可能性はゼロじゃない。
……エヴリーナ・ゴッドリーフにエステラを紹介された領主はどんな印象を受け、何を思ったんだろう?
もしかすると「綺麗なお嬢さんだな」ぐらいの印象しか持たなかったのかもしれない。それとも何か別の、もっと魔女裁判に関わるようなことを思ったのかもしれない。
「オフィーリア、大丈夫か?」
店長の声に私はハッとして顔をあげた。まだ開店前で客は入っていない。少し薄暗い店内は閑散としていて、電気の灯った厨房からだけ包丁の音や食事を煮込むいい匂いが漂っている。
「ええ、すみません。私、ぼーっとしてましたか?」
「いや、ちょっと顔が火照ってないか?」
確かに暑い。1月で気温はまだ5度前後。店内の暖房はついているけれど、暑く感じるほどの室温ではない。
「確かにちょっと……」
火照っているなぁ、と自分の頬に手を当てた瞬間、エステラからもらった石のネックレスがいつも以上に熱を帯びていることに気が付いた。
「ちょっと顔洗ってきます。別に風邪とかひいてないんで大丈夫ですよ」
そう言って、私は化粧室へと走った。石を胸元から出してみると、やっぱり熱い。火傷するほどではないが、いつもなら気にならないぐらいの熱しか持ってない石が今日はやけに熱く感じる。私はネックレスを首から外し、掌の中の石をじっと見た。
……肌身離さずつけておいて、って言ってたけど……やっぱり外さない方がいいのかな?
それでも熱さが仕事の邪魔になったら嫌だと思って、私はそのネックレスをズボンのポケットに入れた。熱はほんのり感じるけど、直接肌に当ててる時ほど熱くない。
「オフィーリア、大丈夫か?」
「はい、もう大丈夫です。顔洗ったらちょっとすっきりしました」
普段通り、仕事に戻った私は、それでもエステラのことが気になったり、ふとエヴリーナ・ゴッドリーフのことが頭に浮かんだりして、仕事中にぼーっとすることが多かったように思う。そのせいか、ちょうど店閉めをしている時に店長に声をかけられた。
「オフィーリア、お前……大丈夫か? なんか今日ちょっと変だぞ」
「え、そうですか? すみません……自分でもちょっとぼーっとしてた気が……本当にすいません。明日からはもっと気を引き締めます」
「その、なんか悩み事とかあったら、ちゃんと言えよ? 出来ることがあるなら、力になるから」
「たぶん冬休み明けで、休暇モードが抜け切ってないだけだと思います。今日は早く帰って明日に備えますね。お疲れ様です」
私は素早くエプロンをとって、ジャケットを羽織ると足早に店を出た。店を出ると3軒隣のカレー屋さんの前でオーナーのチャトが煙草を吹かしていた。一応人見知りだ。私が軽く会釈するとチャトは笑顔で私を引き留めた。
「おお、オフィーリア、待ってたんだよ。今日、ウチ全然客が来なくってな……そっちはどうだった? カレー持って帰るか? すげえ売れ残ってんだ……」
「年始だし、ウチも今日は少なかったですよ。クリスマスの後、世間は節約モードに入りますからね」
「だよなあ。えっと、オフィーリアはいつものジャルフレージカレーでいいか?」
「やった、チャトのジャルフレージカレー本当に美味しいですよね。レシピ知りたいなあ……!」
「ははは、オフィーリアといえど企業秘密は教えれないよ。サモサとパコラも入れとくな。今日は余り過ぎだ……」
チャトはタッパーに3人前はあるカレーとサモサなんかの揚げ物を入れて渡してくれた。エステラの分も夕食が調達できて私は嬉しくなった。
……そういえば、エステラが来てからカレー食べてないな。エステラはきっとカレー食べたことないよね? 17世紀……たぶんこの国にカレーは伝わってないよね? ビックリするんじゃないかな。 「こんな美味しい食べ物があるなんて」とか言って、またあの綺麗な瞳をキラキラさせるのかな。チャトのカレー絶品だからなあ!
一段飛ばしでアパートの階段を駆け上がって、部屋のドアを開けると、アパートの電気は全部消えていて中はしんと静まり返っていた。
「ただいまー。エステラ?」
声をかけるも返事はない。
……また怪しげな仕事でもしてる、のかな? それとも寝てるのかな?
カレーの入った袋をダイニングテーブルに置いて、エステラの部屋の様子をうかがってみた。部屋のドアは開いてるけど、そこから光は漏れてきていない。
「……エステラ?」
小さな声で声をかけるも、中から何の音も聞こえてこない。まるで無人だ。
「エステラ? 入るよ?」
ゆっくりとドアを開けると、エステラはいなかった。今は夜の10時過ぎ。外は真っ暗だ。嫌な予感が私の内側を支配し始めて、鼓動が速くなった。
……いない。エステラがいない……。
慌ててバスルームもリビングもキッチンも見てみたけれど、やっぱりエステラの姿は見えなかった。
……ど、どうしよう……。どこに行っちゃったの……?
咄嗟にスマホを手に取って、エステラに渡した携帯電話にかけてみる。自分の手が少しだけ震えているのがわかった。
――お客様のおかけになった番号は、現在、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため繋がりません――
目の前が真っ暗になった。
……迷子になった? それとも、消えちゃった? どこかに行っちゃった……?
ジャケットも羽織わず、私は聖ミレン教会へ走った。もしエステラが行くとしたら、あそこではないか。それしか行きそうな場所が考えられなかった。1月の夜の空気は非情なほど肌に突き刺さる。しかし、エステラがいなくなった今、私にとってはそんな寒さなんて気にならなかった。
聖ミレン教会の井戸のある裏庭へ着くと、私は井戸を覗き込む。以前見た通り、井戸には鉄格子がつけられていた。
……どうやったらエステラの家の地下室に行けるんだろう……?
前にエステラの家の地下室に行った時は、魔術か何かを使ってエステラはこの鉄格子を消すことができた。だから私たちは井戸に飛び込んで、繋がっている地下室へと行くことができた。けど今の私には、この鉄格子を消すことも、エステラの地下室へ行くこともできない。今の私にできることは限られている。
「エステラ―、エステラ―。聞こえるー?エステラ―」
こうして井戸に向かって呼びかけたら、この声は届くのだろうか。もし、エステラが地下室にいるのだとしたら、私のこの声は聞こえているのだろうか。わからないけど、それでも私は呼びかけずにはいられない。
「エステラあ、いるのー? 帰ろう。一緒に帰ろう。エステラー」
井戸からは何も聞こえない。ただ自分の声だけが虚しく井戸の中をこだまするだけだ。井戸に響く自分の声を聞きながら涙が零れ落ちそうになってくる。
……いやだよ。また独りぼっちは……
夜の闇と、凍りつきそうな1月の空気が私の虚しさを増長させて、心の奥の孤独感を膨張させる。自分の目から流れる涙と、ポケットに入れたままのネックレスの石だけが凍てつく自分の身体に小さな熱を感じさせる。
……戻ってきて、エステラ。戻ってきて。私を独りにしないで……
どれぐらい井戸の前にそうしていただろう。いつの間にか凍雨が降り始めていた。身体を凍てつかせるほど冷たい雨に打たれながら、私はエステラと出会ったクリスマスの夜のことを思い出していた。その時、私を支配していたのは先の見えない孤独感だけだった。
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