010 調べよう
漆黒の雫が一滴、心にぽつんと落ちて波紋が広がっていく。こびりついて取れない血のような嫌な感じが私にまとわりついて離れない。ショックだったと同時に胸が張り裂けそうだった。あんな天使のように美しいエステラが魔女狩りで捕まえられて拷問されたこと。死にたいと思って実の母親に毒を頼んだこと。過酷な状況に身を置く中でも希望を捨てず、同時に母親の身を案じ続けたこと。様々な感情が私の中で複雑に絡み合っている。
そして頭に浮かぶのはやっぱりあの謎――どうして記録からエステラの名前だけがきれいさっぱり抜け落ちてるんだろう?
私の中では「何か」があったのだと疑わずにはいられなかった。エステラの名前が記録に残っていないのには理由があるに違いない。当時の身分階級でかなり上級に属するものが、何らかの理由でエステラだけ歴史から「なかったこと」にしようとしたのではないか。
私は部屋から出るとエステラの部屋の前に立った。ドアの隙間から温かい明かりがこぼれて廊下に真っすぐとのびている。
「エステラ……」
ドアをノックすると、私の古いパジャマに身を包んだ美女がひょっこりと顔を出す。
「……読んだ……これ。その、なんか……ショックというか、動揺しちゃった……」
差し出した手紙を受け取ると、エステラはドアを大きく開いて私を部屋へ招き入れた。このまますんなり眠れそうもなくて、私は促されるがままエステラの部屋へお邪魔させてもらうことにした。
「……なんでなのかなあ?」
「……何が?」
「牢獄であれだけ痛めつけられたのに、どうしてその傷が1つも残ってないのかなあ?」
エステラは袖を捲り上げて、その陶器のように白くて艶やかな腕をじっと見つめて不思議そうに呟いている。
……いや、私的にはエステラがどうしてそんな平気な顔して拷問のこととか話せるのかが謎過ぎるよ……。
「たぶん肩の骨とかも折れてたはずなんだよね。指の爪も剥がされたはずなのに、きれいに元通りだし……」
「……うっ……」
想像しただけで悪寒と軽い吐き気が襲ってくる。背中を走るゾクゾクとした何かを吹き飛ばそうと、無意識に腕を前で組んで必死に擦る。
「この手紙を書いた後にね、母さんから薬が届いたんだ」
ハッとして、私はエステラの顔を見た。3つ目の手紙には確かにそう書いてあったのだ。ストゥルーンに死ねる薬を渡してほしい、と。いつでも死ねるように手元に薬を持っていたい、と。
「処刑の直前に飲んだの、薬。リンジー兄弟が……あんな仲良しの元気で愛らしい兄弟の処刑を見てたら胸が苦しくなって……。けど死ななかったの。なんでだろう……」
「お母さまの作った薬が失敗作だったってこと?」
「それはあり得ない。母さんがあれほど簡単な薬を失敗するはずがない」
「……じゃあ、どういうこと?」
「わからない。わかるのは母さんは私に死ぬ薬を届けてはくれなかった、ってこと。あれは母さんからのメッセージだったのかなあ?」
エステラの母さんの薬といい、エステラの名前がない記録といい……なんだか引っかかる、この一件。
「ねえ、エステラ。調べてみない?」
「ん? 調べる? 何を?」
「この一件。私、手伝うからさ」
私はエステラの名前がきれいさっぱり抜け落ちてる記録のことを丁寧に話した。告発された人の名前や職業、時には細かな証言まで記録に残っていて、調査官や裁判官なんかの名前の記録もしっかりされているのに、エステラの存在の影も形もないのは、どう考えても不自然だ。そして、どうしてエステラのお母さんは死ねる薬ではなく、他の薬を届けさせたのだろう? その薬は一体何のための薬だったのだろう?
「300年も前のことだけど……ここまで記録が残ってるってことは、探せばまだ何かあるのかもしれない。知りたくない? どうしてあなたの名前だけが記録から消されているのか」
「……別に知りたくないよ」
出鼻を挫かれて私は固まった。
「私は処刑されたんだもん。別に記録に私の名前があろうとなかろうと、今となってはどうでもいいことよ。ただ……」
「ただ?」
「母さんがどうなっちゃったのかは……知りたい。手紙に『遠くに逃げて』って書いてたでしょう? 当時、魔女裁判で有罪になった被告人の家族はひどい扱いを受けるんだ、ってストゥルーンが教えてくれたの。財産没収、土地没収、あと処刑費代を請求される……とか。母さんはちゃんと逃げたのかな……」
「お母さまのお名前は?」
「シャルレ―ヌ……シャルレ―ヌ・ジェラルディーン……」
……ということは、エステラはエステラ・ジェラルディーンが本名か。
「調べましょう。エステラのお母さまがどうなったのかも。記録を探して辿っていけば、お母さまがその後どうなったのかわかるかもしれない」
エステラの月のような目がゆらゆらと揺れている。きっとエステラが知りたいのはお母さまのその後だけ。知ることができる可能性があるのであれば、迷いはないだろう。
「わかった、調べましょう。私の巻き込まれた魔女狩りと、母さんのその後……。その前に1つだけ教えて。オフィーリアはどうしてこの一件をそんなに調べたいの? あなたには何の得にもならないことだけど……」
聞かれるかもしれないと思っていた。だから私は答える。
「私ね、司法の道を志していたの」
エステラに私がどのようにして両親を亡くしたのかを話した。
「小さい時から、司法は私の心の軸のようなものだった。父さんや母さんのように正しい正義の下で生きていきたいと思っていたの……罪を犯した人間は罰せられ、被害者や遺族の心を守って……。私、魔女裁判のことも少しだけ大学で勉強したのよ。その昔、何の罪もない人たちが魔女裁判という名目だけの裁判で処刑された、って……」
視界が滲む。私は泣いているのかな。
「私はあなたが無実の人間だった、ってわかる。魔女裁判なんて許せない。無実の人間を殺すなんてあり得ない。その無実の人間には家族だっているのよ……! だからこそその誤った歴史の中で、どうして記録がちゃんとなされなかったのかも調べたいの」
声が震えている。胸が熱い。胸だけではない。喉に目に頬に、そして魂にまで火が点いたように私の全てが熱い。熱い精神の高ぶりが体の中を駆け巡る。この火がついたような怒りは何なんだろう。その熱と怒りは解けるように結びついて、精神の最も高いところにある、ある種の「高潔さ」に達している。これは自分の中の本当に真剣で純粋で清らかな部分なのだろう。
エステラを処刑に追い込んだ人間がいて、その人たちはエステラが無実だと知っていたに違いない。調べたってなんの意味もないことかもしれない。けど私は真実が知りたい。昔のことすぎて調べられないかもしれないけれど、それでも知りたいのだ。
「オフィーリア……あなたっていい人ね」
顔をあげると天使の微笑みと見間違うぐらい優しい目をした微笑みが目に飛び込んできた。
「ありがとう。見ず知らずの私に親切にしてくれて。私が無実だって信じようとしてくれて。あの時にオフィーリアみたいな人が周りにいてくれたらな……それでも結局は有罪判決を受けることになったんだろうけど」
その夜、私とエステラは同じシングルベッドで眠ることにした。狭さなんて全く気にならなかった。隣で眠るエステラの寝息のリズムと彼女の体温が切ないほどに心地よくて、私は両親がいなくなってから初めて深い眠りへと落ちていくことができた。
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