002 彼女の正体

 「オフィーリア、オフィーリア……」



 ため息が出そうなほど透明な声で誰かに名前を呼ばれて、私は夢見心地で軽く目を開けた。私の顔を覗く2つの蜂蜜に濡れた月に焦点があって、私は昨日の夜によく知りもしない美しい少女を拾ったことを思い出した。えっと……彼女の名前は……



 「……エステラ。お、おはよぉ……どうしたの? よく寝れた?」



  エステラは小さく頷くと、とても気まずそうに目を泳がせながら聞いてきた。



 「その、あの、えっと……汚物はどうしたらいい?」



  ……はい?



 意味のわからない質問に、一気に目が覚めた。エステラの背後、部屋の隅には私のお気に入りのシリアルボウルが見えている。あれはいつもキッチンの戸棚にしまってあるはず……。私は立ち上がって、やがて絶叫した。



 「ひぇぇぇえええーーっっ!」



 白にインディゴブルーでケルティックノット模様が施されたお気に入りのシリアルボウルには人間の汚物がお行儀よく収まっていた。その横でエステラは罪悪感たっぷりの表情で、教師に叱られている生徒のようにしょんぼり俯いている。泣きたいのはこっちだ。



 ……私の……私のお気に入りのシリアルボウルがぁ……。



 「いい? ウ○コはここでするの! 終わったらトイレットペーパー使って拭いて、全部流す!」



 私はエステラをバスルームへ引っ張っていき、トイレにボウルの汚物を乱暴に便器に入れると、トイレを流した。



 「わ、わわわわわ……!」



 汚物がトイレの渦に吸い込まれていく様子を、エステラは便座に張り付いて眺めながら感動していた。いや、あの……近いんだって、便座との距離が。いくらなんでもトイレにそんなに顔を近づける人間は見たことがない。というか、一般人なら誰もそんなに便座に顔を近づけたくないだろう。





 「……全部、一体どこに行っちゃったの?」

 「……あなたねぇ……」



 誰かに冗談だと言ってもらいたい。昨日から変な人だな、と思っていたけど、トイレを使ったことのない人間が21世紀のこの国に存在するだろうか。それだけではない。昨日の言動を思い出しても、ズボンを男性の服だと言うし、ソファーベッドに驚いていたし、レストランという存在も知らない様子だった。



 ……山奥で生まれ育ったとか?



 戦争がまだ続いていると信じ込んで山に何十年と籠ったままの人間が発見されるというニュースを読んだことがある。エステラの両親や祖父母はそんな人でずっと山の奥で育ったのだろうか。難民かとも疑ったが言葉の発音を聞く限り、この国の人間としか思えない。



 ……荒唐無稽な話だけど……タイムスリップ? それとも異世界からきたとか?



 いやいや、と私は首を振った。まず異世界なんて存在しないし、タイムスリップなんてできるわけがない。そんなファンタジー小説に出てくるような現象が現実に起こるなんて絶対の絶対の絶対に有り得ないのだ。けど、じゃあどうすれば、今、私の目の前に水洗トイレを知らない人間がいることをどう説明できるだろう。少し怖くなって、私は無言でリビングへと戻った。ひどく混乱していた。ソファベッドのすぐ下に落ちている携帯を取って、警察へ電話をかける。



 ……なんて言おう……「昨日の夜、町で迷っていた少女を保護しました」でいっか。そのままうまく警察に引き取ってもらおう……。



 呼び出し音が何回か鳴ってから、自動音声に切り替わった。背後にはバスルームから静かに出てきたエステラの気配を感じるけど、なぜか怖くて私は振り向くことができないでいた。携帯をさらに力強く耳に押し当てた。



 ーーこちらは警察です。事件や事故など緊急の方は直ちに電話を切り、999を、騒音など緊急性のない案件の方はダイアル2を……



 私はダイアル2を押して、回線が繋がるのを待った。ラジオのスイッチに手を伸ばし、部屋の静寂を掻き消す。



 ーー続いては地方の話題です。



 ーーグライフの中心部で、路上の蹄鉄が外れているのが見つかり、地元民の間で話題になっています。



 ーー蹄鉄は1697年の魔女裁判の直後に、魔女が処刑され、埋められた場所につけられました。今でもグライフの町を魔女の祟りから守る魔女除けだと信じられています。



 ーーツイッターをはじめとしたSNSでは多くの写真や、魔女裁判に関する投稿が見られ、国内のトレンドワード100位内に……――



 「……嘘でしょ? ……マジ勘弁。」



 全然繋がらない携帯を耳に当てたまま私は窓のブラインドを開けた。窓に左頬をつけたら、ここからぎりぎりの角度で蹄鉄のある交差点が見える。ボクシングデーの朝なので出歩いている人の数は少ないが、みな路上に転がった蹄鉄と私がマンホールだと思っていた金属の蓋に目をやったり、指差したり、携帯のカメラで写真をとっている人も見える。



 ……なんなの、これ。夢?



 「……あの、オフィーリア……?」



 背中からまた途切れそうなほど透明な声が私の名を呼ぶ。けど怖くて振り向けない。



 ……私の背後にいる人は一体誰?



 「何?」



 冷たく素っ気ない返答になってしまった。人にこんな冷たい態度とりたくないのに。



 「……ご、ごめんなさい……」



 ストレートな謝罪の言葉は、私の混乱した頭と熱を冷ますのには十分すぎた。振り替えってエステラを見ると、彼女の美しい瞳から大粒の涙が溢れ落ち、頬を濡らしていた。無邪気で純粋な子どもが不安で泣いているのを見ているような錯覚を覚えた私は、無意識に電話を切って、エステラのところへ歩み寄っていた。泣き止ませなきゃ、慰めなきゃ、と思わずにはいられないほどエステラは繊細で儚い存在に思えた。



 「……エステラ……今のラジオ聞いた?」

 「ラジオ……?」



 ラジオに指を指しながら「男性の声が流れているでしょう」と教えてあげると、エステラは黙ったままコクリと小さく頷いた。



 「変なことを聞いたらごめんなさい。エステラ……あなた……一体誰なの? 家は? 家族は? どこから来て、今からどこへ帰るの?」



 真剣に問いかける私の目をエステラはただ無言で見つめていた。一生懸命、どこから話せばいいのかを考えているようにも見えた。



 「私の言うこと信じてくれる?」

 「うん、信じる」



 覚悟を決めたように、私はエステラの肩を抱きながら、ゆっくりと小さなダイニングテーブルへ連れてゆき、座らせると彼女の向かい側に座った。



 「……その、実は私にもよくわからないんだ」

 「何が?」

 「私、死んだはずなのよ。ギャローグリーンで処刑されて……」



 なんだろう、心臓が痛いほどうるさく脈打ち始めた。こんなことある? この人、本当に魔女なの? 300年前に処刑された? 物語の中に出てくるような超非現実的なことが今目の前で起こっていて、信じがたかった。怖いし気持ち悪いし、少し目眩もする。夢なら早く覚めないかと願わずにはいられない。



 「オフィーリアはここがグライフだって言うけど、私の知ってるグライフじゃないし。けどギャローグリーンはあるし聖ミレン教会は私の知ってるままだし……」



 まだ自分の身に何が起こったのかわからず混乱したエステラの名前を呼ぶと、私は静かに深呼吸した。



 「すごく馬鹿げた話をしてもいい? 有り得ない話だけど、それしか全ての辻褄が合わないの」



 エステラはコクリと頷いた。



 「私はね、あなたが昔の人なんじゃないかって思ってるの。それも300年前を生きていた人じゃないか、って。あなたが生きてたのは西暦何年か覚えてる?」

 「西暦……なんてわからない。けど……領主様はジョセフ・ショー様だったわ」



 ひとつ貴重な手がかりが得られた。私はすぐにスマホで「グライフ 領主 ジョセフ・ショー」と入れて検索した。



 ……やっぱり。1697年の魔女裁判の時の領主だ。



 「……じゃあ、あなたは300年ほど前を生きてた人ってことね。どうして、て言えばいいのかな、なんで、て言うべきなのかな……なんで生きた姿でここにいるの?」



 テーブルの中央の一点に目を落としたまま、エステラは小さな声でただ「わからない」とだけ言った。混乱した自分をどうにかして落ち着かせようとしているようだった。





 「エステラ……さっき処刑された、て言ったよね? 何したの? どんな罪を犯して処刑されたの?」



 私が聞くと、エステラは急に暗い表情になって氷のように固まったまま黙りこんでしまった。顔色が良くない。真っ青だ。



 「……知らない」

 「え?」

 「……知らないの、私。なんで処刑されたのか。どうしてあんな酷いことをされたのか」



 エステラの手は痙攣した小動物のように小刻み震えていて、そのまま爆発でもしそうな緊張感が漂った。



 「エステラは、その……魔女なの?」



 震えているエステラの目が一瞬力強く見開いたのがわかった。



 「魔女……そう、魔女。そうよ、私は見習いだったのよ。魔女見習い。修行を積んで、白魔術を使う白い魔女になって、病気に苦しむ人を助けたり、農作物が豊作になるような、たくさんの人が幸せに生きれる世界にしたかったのよ……」



 エステラの大きな蜂蜜色の目からは大粒の涙がポロポロと2、3粒溢れ落ちてテーブルの上に小さな水溜まりを作った。次々に溢れ落ちる涙の滴は宝石のようで、その美しさに目を奪われたら、エステラは堰を切ったようにテーブルに伏して泣き始めた。



 「やだやだやだ、私……なんで有罪判決受けたんだろう。何もしてないのに。ただ人の役に立てるように、世の中をよくしようと精一杯生きてただけなのに……どうして処刑されたんだろう……」



 昔の裁判と言っても、証拠がなかったり、自白がなければ有罪にはなりにくかったはずだ。処刑されたという事実を見れば、きっとそれなりの証拠か自白があったのだろう。この国の司法制度は早くから確立されていたはずだ、と法学部の私は心の奥で冷たくそう思った。



 「自己弁論は置いておいて、あなたの罪状は?」

 「本当にわからないのよ。ある日、突然2人の男の人がやってきて拘留されて、拷問を受けて……。私、何度も言ったのよ。『もし私が何か過ちを犯したのなら言います、本当のことを包み隠さず言います』『私は何の疑いをかけられているのですか』『私は何をしたのですか』『あなた方は私が何をしたと思っていらっしゃるのですか』って。けど具体的なことは何も教えてもらえないの。いつも『それならわかるだろう、白状しろ』『自分の胸に手を当てて聞いてみなさい』『自分のしたことならわかるだろう』『今、自白すれば生きたまま火あぶりは免れるぞ』て言われるばかりで……」

 「……で白状したの?」



 エステラは首を横に振った。



 「何のことを言われてるのかわからなかったから話しようがなかった……。けど有罪になっちゃって。16の時よ。ギャローグリーンで処刑されることになっちゃったの」



 気がつけば私の体が微かに震えているのがわかった。




 「拷問されて、有罪判決を受けて……いつだったかな、私の巻き込まれた裁判は『魔女裁判』だったって聞かされたの……。それで処刑されたはずなんだけど……突然大きな音がして、目が覚めたら真っ暗な中にいて……あの穴から出てきたのよ」



 エステラは興奮を落ち着けようと、胸に手を当てながら「ふう」と深く息を吐いた。



 「ごめんなさい、オフィーリア。お水もらえる? 朝起きた時に水瓶を探したんだけど、どこかわからなくて……井戸の場所も知らないし」



 ……井戸に水瓶?



 頭痛がした。エステラの常識と私の常識があまりにかけ離れ過ぎている。私はコップを戸棚からとり、キッチンの蛇口を捻って見せた。



 「今の時代はね、この蛇口を捻ればきれいな水が出てくるのよ」



 そう言って水で満たされたコップを見せると、エステラはまた感激したように目をきらきら輝かせて、勢いよく立ち上がった。目を潤ませてキッチンのシンクの前に立つと、何度も蛇口をひねって、水を出したり止めたりしている。



 「す、すごい……! これは魔術なの? どういう仕組み? この出てきた水は飲んで大丈夫なの?」



 水道に感動しているエステラを見ながら私は脳みそをフル回転させて、これからのことを考えていた。



 ……警察に引き渡す、って言ってもこの世に存在するはずのない人間だよ? 帰る場所も家族もないでしょ。 昨日の夜、偶然出会って連れて帰ってきたこの子を私はどうすればいいの……?



 例えば彼女がこの国で生きるとしても戸籍も何もないから、国民として認められない。つまり医療サービスや各種手当なんかも受けることができない。とにかく今のこの世に存在していなかった人間なのだから。



 「エステラ、あなたこれからどうするの?」



 水を口に含んだエステラは私の顔をじっと見て、ごくりと水を飲み込んだ。



 「んーー……どうしよう」



 私のフリーターの収入だけで大人もう1人を賄えきるのはきっと無理だ。もし病気にでもなって莫大な医療費を自費で払うなんて絶対に出来ない。いつまででもウチに居ていいからね、なんて無責任な言葉は今の私には到底かけてあげられない。



 「ちょっと私の家、行ってみようかな」



 ……は?



 「聖ミレン教会があったでしょ。もしかしたら、あそこから行けるかもしれない。オフィーリアも一緒に来て」



 私はよく意味がわからないままエステラに促されて用意を始めた。

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