001 マンホールから出てきた少女
店のあるラーレン通りからブルームランド通りに出て左に曲がる。
嵐のクリスマスの夜に歩いている人なんて私以外いないし、見事に車も一台も走っていない。ゴーストタウンのようにしんと静まり返った町中だが、少し遠くに見える家々の窓辺には大きなクリスマスツリーが色鮮やかに輝いていて、その奥からは暖かい光が漏れている。そこではきっと、家族が揃ってテーブルを囲んでいるに違いない。笑顔でクリスマスクラッカーを引っ張り合い、クリスマスジョークなんかを言い合いながら心温まる夜を過ごしているのだろう。
私は聖なる夜に降り注ぐ凍雨に打たれながら、暗闇と一緒に襲いかかってくる孤独感を振りきろうと足を速めた。近付いてくる雷の音だけが嫌みっぽくクリスマスムードを盛り下げている。
私がちょうどブルームランド通りからギャローグリーン通りに出るその時だった。突然空がカッと光ったかと思うと、その数秒後には物凄い轟音が響いて地面を揺らした。
「ひゃっ……」
光と轟音に驚きすぎて思わず足が止まった。この近くに落雷したと思わずにはいられないほどの音と地響きだった。さすがに怖くなってきたので、私はギャローグリーンに出てから少し駆け足気味で左に曲がった。その次の角を右に曲がって真っ直ぐ数分ほど行けばすぐ自宅のアパートだ。数秒ごとに空から放たれる閃光は、寒い暗闇に降る雨を照らし、天はまるで怒っているような雷鳴を浴びせてくる。早く建物の中に入りたくて、私は真っ暗な町中をずぶ濡れで駆けた。
その時だ。
次の角にある車道のマンホールが微かに動いたように見えたのは。
「ん?」
気のせいかな、と思った通りが、なぜか目が離せなかった。いつもは気にも留めないそのマンホールが気になって気になってしかたなくて、私はそこに立ち止まり、遠目からマンホールを凝視する。
カタ……
……やっぱり! また動いた!
今度ははっきりと見えた。確かに車道のマンホールが動いたのだ。まるで下に何者かがいるように、下からマンホールの蓋が押し上げられたと思ったら、また元の位置に戻る。
……何なんだろう……? 水……? マンホールから雨水が溢れてきてるのかな……?
私はただその場に突っ立ったままカタカタと微かに動いては止まるマンホールをじっと見つめていた。不思議と冷たい雨のことも、頭上に現れる閃光のことも、響く雷鳴のことも気にならなかった。
ガタッ……
再びマンホールが動き、次はその隙間から華奢な色白の手が現れ、コンクリートの地面にしがみつくように指に力が入っているのがわかった。
「ひいぃっ!」
……やばい。誰もいない雨の夜にマンホールから手が出てくるなんて……ホラー映画でしかない。ヤバすぎる。
「た、助け……。誰か助けて」
マンホールの中から聞こえてきた若い女性の声は、こんな光景に似つかわないほど透き通っていた。私はというと、恐怖で完全に腰が引けている。
……こ、怖い。今微かにだけど「助けて」って声が……したよね? 女の人の声が……。やばい。やばい、やばい、やばい。マジ怖い。
「ちょっ……! ちょっと、誰かいないの? 助けなさいよ!」
確かに同じ透明感ある女性の声が語気を強め始めた。
……ん? なんだか強気になった?
「だーれーかー。いないのー? 出れないんだけどー!!」
状況が一気に現実的になったような気がして、私は我に返った。助けを呼んでるんだから、助けてあげなきゃ。私は車が来ないか確認しながら慌てて車道のど真ん中にあるマンホールへと走り寄った。
「だ、大丈夫、ですか? ……て、……あれ……これ、マンホールじゃない……?」
少しずれたマンホールに目を落とすと、それはマンホールではなく円形の金属と割れた蹄鉄だった。
こんな分厚い金属の蹄鉄を重機なしで割れるはずがない。ここにさっきの雷が落ちたことは容易に察せられた。
私は蹄鉄と金属の円盤を横にずらし、暗い穴から出た細い腕を引っ張り出すと、出てきたのは顔立ちの整った若い女の子だった。暗くて目の色も髪の色もハッキリとわからないが歳は20歳前後。もしかしたら高校生ぐらいかもしれない。
「やだ、寒っ! 雨降ってる。てか……」
助け出してもらったお礼も言わずに、彼女は両手を腕に廻して、肩から腕を寒そうに擦り始めた。彼女の髪と服がみるみるうちに濡れていくのがわかった。
「……ここ、どこ?」
「……グライフですけど?」
私の言葉に彼女はぽかーんと口を開けて、周りをキョロキョロと見渡した。
「え? グライフ? そんなはずない……。グライフはこんな町じゃない」
「あの……とりあえず私、帰りますね。寒いし。雨どんどん激しくなってるし」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
彼女が私に手を伸ばしながら呼び止める。
「私こんな見ず知らずの所でどうしたらいいの? お願い、あなたの家で雨宿りさせてもらえない?」
正直、面倒臭いなと思った。
……これが見ず知らずの人に物を頼む態度か! まったく近頃の若いヤツは……。
助け出してあげた上に、名前も知らない他人を家に入れるなんて私の常識ではありえない。まず、このマンホールから突然出てきた彼女は怪しい人ではないのだろうか。知らず知らずのうちに犯罪者を囲い込むなんてのも、まっぴらだ。
私は返答に困りながら、舐めるようにじっくりと目の前の若い女を見た。頭にコアフのような白い被り物を纏い、はいているスカートは足首まで長い。そしてその長いスカートの前につけられた白いエプロン……。
……変な服装……。まるで大昔の人みたい。降誕祭の帰り? 降誕祭にこんな衣装の人なんて登場したっけ? こんな寒いのにコートも着てないし、怪しすぎる。
彼女は棄てられた子猫のような潤んだ瞳を向けながら、無言で私の良心に訴えかけてくる。その整いすぎた綺麗な顔立ちと、吸い込まれるような瞳に私の気持ちは簡単に切り替わった。まるで魔法にでもかけられたような不思議な感覚だ。
……ま、私とて鬼ではないし。若い女性をこんな寒い夜に放っておけるほど冷酷じゃない。明日の朝イチで警察に連れていけばいっか。
「わかったわ、夜も遅いし、こんな天気だもの。うちへ来るといいわ。すぐそこなの。ついてきて」
私は彼女の手を引いて、足早にアパートへと向かった。ここからだと歩いて五分もかからない。早くウチに帰ってヒーターのついた暖かい部屋に入りたい。店長からもらったクリスマスディナーで空腹を満たしたい。私は言葉を発することなく視界に入るアパートを目指した。
「あれ……ここ……」
小さな教会を通り過ぎようとした時、彼女が小さく呟いた。
「聖ミレン教会よ」
「え……。え、え、ええ? じゃあ、やっぱりここはグライフなの?」
「だからグライフだって。さっきから言ってるじゃん。さ、急ぎましょ」
私は彼女の手を軽くぐいっと引っ張った。
「この通りはなんて通り?」
「リオネル通り。さっきの角を曲がる手前がギャローグリーン。あの交差点で通りの名前が変わるのよ。あのまま曲がらず、真っ直ぐ行けばマックスウェルトンに……」
「……ギャローグリーン……」
まるで何かを思い出したように、そしてその記憶を圧し殺すように彼女は黙り混んだ。何だかよくわからないけど訳ありそうだな、という印象を受けた。
私の部屋はアパートの4階にある。建物の中に入って階段を上っても、しんと静まり返っていて、ただ自分達の足音がカツカツと響くのが聞こえるだけだ。アパートの住人のほとんどが、クリスマスを家族と過ごすために、部屋を空けているのだろう。ドアの鍵を開けて、私はさっき出会ったばかりの見知らぬ女を招き入れた。
「どうぞ入って。狭いけど。あ、びしょ濡れよね。ここで服脱ぐ? タオルと着替えを持ってくるわ」
私は壁のスイッチを押して電気をつけると、奥の部屋からタオルとスウェットの上下を掴み、玄関に突っ立っている彼女に差し出した。
明るい栗色かと思っていた彼女の髪はミルクティーのような優しく淡い色で、彼女は自分の姿を鮮明に照らし出す天井の電気をじっと見ていた。その明るい電気に照らされて、はじめて彼女の目が蜂蜜に濡れた月のような色をしていることに気が付いた。まるで作り物のような白い肌が雨に濡れて光っていて、こんな綺麗な人見たことがないと断言できるぐらい彼女は美しかった。私は魂が吸い込まれるように彼女から目が離せなくなった。
……変わった髪と目の色……。だけど何だろう……この人……人間とは思えないぐらい綺麗すぎる。
「えっと……」
「あ、エステラよ」
「はい、エステラ、これ着替えとタオルね。ここのドア、バスルームだからそこで着替えたらいいわ。私の名前はオフィーリア」
エステラは覚えるように「オフィーリア、オフィーリア」と二回小さく呟くと「ありがとう」と言って着替えとタオルを抱え、一歩一歩ゆっくり部屋中を興味深そうに見渡しながらバスルームへと入って行った。その間に私も自分の寝室で部屋着に着替えた。エステラがまだバスルームから出てくる気配がないので、私は携帯で警察のホームページにアクセスし、グライフとその周辺地での失踪者リストに「エステラ」という名前の女性がいるかどうかを調べた。
……んーー……、該当なし、か。まだ失踪の届けが出てない、て可能性もあるけど……。もっと広域で見てみた方がいいのかな?
私は携帯を置き、随分と長い間、バスルームに籠っているエステラに声をかける。
「エステラ? 大丈夫?」
「……え、あの、その……」
がさごそと音がした後、バスルームのドアから顔だけを出したエステラの表情は困惑したものだった。
「オフィーリア、あなた……」
「何?」
「男なの?」
……はい?
「いや、女だけど……」
今まで生きてきて男に間違われたことは一度もない。巨乳ではないけど、一応女らしい胸だってあるし、髪型も顔付きも女っぽいはずだ。なんでいきなり男性疑惑を持ちかけられているんだろう。理解に苦しむ。
「……でもこれ……男性の服でしょう?」
そう言いながらエステラはスウェットのズボンを差し出してきた。そうしてから、私の部屋着をじっと直視した。つられて私も自分の足元を見下ろす。
……スウェットのズボン……が? 男性の服? 何言ってるの?
「私は女よ。男も女も関係なくみんなズボン履くでしょ? あなたの知ってる女性たちはズボンを履かないの?」
エステラはしばらく黙って考え込んだ後、小さな声で「わかった」と呟いて、再びバスルームのドアを閉めた。
お互い部屋着になると親近感が増すのは私だけだろうか。それだけで突然ぐんと心の距離が縮まって私はエステラの前で始めて自然に笑いかけることができた。にしても可愛い。エステラはこの世のものとは思えないほど綺麗で、女の私でさえも惚れてしまうのではないかと焦るぐらい魅力的だった。
「エステラ、お腹すいてる?」
私の自然な笑みにエステラも緊張が解けたのか、可愛い笑顔で小さくコクリと頷いた。
……うん、可愛い。
私は手早く皿を2枚とると、店長からもらった七面鳥、ハム、ソーセージにローストポテト、季節野菜のローストなどのせて電子レンジで温めた。これにクランベリーソースを添えて、温めたグレービーソースをかければ立派なクリスマスディナーの完成だ。部屋中を見渡し続けていたエステラの前に温めたクリスマスディナーを置くと、彼女の目が大きく開いた。
「す、すご……! これ、お肉? あなたが作ったの?」
エステラは深い森の奥でお菓子の家を見つけた子供のように、その蜂蜜色の瞳を輝かせている。
「違う、違う。私じゃなくて店長がね。私、この近くにあるレストランで働いてるから。店長が気を利かせて、余りを持たせてくれたのよ」
「……店長? レストラン……?」
首を横に傾かせながら呟くエステラは、レストランという物を知らない様子だった。私の中に膨れ上がる「エステラ変人疑惑」がより一層膨れていく。なんで私の言ってることが伝わらないんだろう。司法や政治の難しい話をしているのではない。ただ、この料理は私がバイトしているレストランの店長が持たせてくれたものだ、と言っただけだ。
「あなた……いや、オフィーリア。家族は?」
「1人暮らしよ。親は死んじゃって、いないの」
私がナイフとフォークでターキーを切って口に運んだのを見て、エステラも恐る恐るといった様子でソーセージを一口サイズに切り始めた。
「けど随分と裕福みたいね」
「え、なんで?」
「こんな豪華な食事……私は食べたことないから……。それに……」
ソーセージを口に入れてゆっくりと噛み締めるエステラは、カトラリーを持ったままの手を口に当てて、少しだけ目を潤ませながら頬を赤らめた。よほど美味しかったらしい。美味しいクリスマスディナーに感動しているのが純粋に伝わってきた。
「それに何?」
私はエステラが言いかけた先を促した。
「あなた読み書きできるみたいだから……。そこに分厚い難しそうな本が何冊もあるでしょ……。なんか、良家のご令嬢みたい」
固まった。そしてフォークに刺さっていたニンジンのローストがポロリと皿に落ちた音がした。
「はあ?! 私が良家のご令嬢?」
いや、両親が死ぬまでは見る人から見たら、格式ある司法一家の娘だったかもしれない。それでもご令嬢までは言われなかっただろう。エステラの発言が面白くて私は目尻を潤ませながら笑った。
「違うわよ。私は普通の一般市民。強いて言うならただのフリーター」
「……フリーター?」
「さあ、今日はもう遅いし寝ましょ。私のベッド使って。私はこの部屋で寝るから。ソファベッドなの」
そう言ってソファをベッドへと変えると、エステラは魔法でも見ているように、また感激して頬を赤らめた。
……小さい子どもみたい。
クリスマスディナーやソファベッドを見たエステラは純粋な子どものような反応を見て、変な人だなと思いつつも、私はこの人が悪人や家出した失踪者のようには思えなかった。
……明日はボクシングデー。警察って通常営業だっけ? 行方不明者として引き渡せるかな?
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