第一章

Ⅰ-1

「うぐ・・・ぬぁあ。・・・っかは。」


意識が覚醒すると、同時に猛烈な飢餓感と渇きに襲われた。


異常すぎる感覚。

腹が空きすぎて腹が無いかの様だ。

腹をさする。


「あぁあッ!?」


知らない手触りに驚愕し、上半身が跳ね上がった。

まともに開けていなかったまぶたが、かっぴらく。


「ぁんじゃこりゃあああっ。」


目に入ってきたのは、まったくもって見たことのない腹部。

見るも無惨なぼこりと膨れた下腹。

肥満体ではない。

むしろ下腹以外は骨と皮。

しかも肌は土気色。


手を見、足を見る。

骨格にしなだれた皮が力なく被さっている。

爪は人のそれには見えず、蜥蜴の鋭利な爪を思わせた。


中年に差し掛かろうという年齢ではあった。

しかしながら中肉中背。細すぎず太すぎず。

肌の張りこそ陰りを見せてはきていたが、目の前にあるものは自分の身体ものとは到底思えない。

今一度腹をさする。


「ちくしょう。俺の腹だ。」


何だこれは。夢だろうか。夢だよな。

頭の中を自問自答が駆け巡り、不安と恐怖が満ちていく。

身体の芯から震えが起こり、全身へと伝播する。


がちがち、と歯がぶつかりあう。

と、同時に違和感に襲われ口に手をやる。

全てが犬歯のように尖っている。

多きさも不揃いで、前歯の一対に至っては獣の牙のよう。


「・・・何なんだよぉ。どうなっちまったんだ。」


自分の物とも思えぬ顔を混乱の中でまさぐりながら、視界に入ってきていた周囲の情景に意識を移す。

まばらに樹木が生えており、枯れているものも多い。

そう遠くない木々の先、岩肌を晒した小山が連なっているようだ。

自分の背後がふと気になり振り向けば、巨木が鎮座していた。

どうやらこれに寄りかかっていたようだ。


「いやいや、待て待て。不明な情報が多すぎる。そもそも夢じゃないのか?」


尖った夢で膨れた腹を掻いてみる。


「・・・痛えな。そうか。・・・夢じゃないか。」


薄々そうなんだろうとは感じていた。五感が無意識に取り込む情報が、夢の中のそれとは一線を画していたからだ。


「ああ、どうすっかなぁ。どうすりゃいいんだ。」


「いや、そもそも何なんだ。何がどうなってこうなる。」


「んんんッ!何でこんな時に飢えてるんだよ!うがぁぁッ!。」


未だ混乱の極み。

何とか落ち着こうと思考を巡らせる。と同時に猛烈な飢餓感に襲われ思考を邪魔され怒りがこみ上げる。


「・・・いかん。こんなの腹を空かせて駄々を捏ねるガキと変わらん。」


落ち着かせるベく顔を両手で覆う。視覚からの情報を一旦遮断し、思考の隅に追いやろうとしたのだが、指先から伝わる更なる追加情報に襲われた。


(マジかよ・・・これは、あれかなぁ。生えてるのかな。いや、何かが刺さってるという線も無きにしも非ず。・・・でもアレっぽいよなぁ。生えてるんだろうなぁ。)


驚き過ぎて疲れたのか、情報を制限したことが功を奏したのかは判らない。自分の額よりやや上、ボサボサの髪の生え際に、硬い2本の異物があることを受けとめた。


「あるもんはあるんだからしゃーねーよな、うん。しゃーない。」


もはや開き直りともとれる言を吐くと、ゆっくり手を下ろしつつ眼を開けてゆく。

続けざまに手をつきゆっくりと立ち上がる。


「やや低い。比較対象がないから判りにくい。150cmくらいか?」


自らの視線の位置からおおよその身長を予測したのである。

これにより、身体の輪郭がぼんやりと見え始め、己が何に変貌したかの仮定ができた。


「この際、『何故』は置いておこう。」


きっかけは恐らくあのバナー広告なんだろう。信じようが信じまいが事実として最後の記憶はあれだ。


「さて次だ。俺は生きているのか、死んでいるのか。それが問題だ。」


ハムレットを気取ったわけではない。

ただ、一つの取っ掛かりができたことによって若干の余裕が生まれたのはある。


俺がアレだとするならば、ここが死後の世界と言われても驚けないわけだ。

落ち着けば落ち着くほどに飢えと渇きの欲が湧き出してくる。

六道の一つに落とされたと思いたくもなる。

とは言え、死後の世界が必ずあるとも知れん訳で。

ただ、五感のそれは生きてるときとなんら変わらないんだよなぁ。


しばし逡巡。


「うっし。生きてる前提で行動しよう。」




改めて周囲を見渡す。

まばらに枯れ木と寂しく葉を茂らせた高木が見える。

低木もちらほら見えるが数は多くない。


食べられる木というのはないのだろうか。

倒れた枯れ木がブッシュドノエルならいいのに。


寄りかかっていたであろう巨木が最も大きいようである。

目算で25~30mといったところか。幹も太い。


地面をみれば落ち葉と共に渇いて白んだ土が目立つ。

落ち葉をかき分けたらキノコの一つや二つ生えてないかな。

あまり植物には優しくない土地なのではなかろうか。


見上げると晴れ渡った蒼空が広がっていた。

しばらく雨は期待できそうにもない。

雨は降らなくとも飴くらい降ればいいのに。

僅かな違和感を感じたが、それどころではない。


あまりにも空腹で思考が食い物にもっていかれる。


視線を奥にやると岩山が見える。それほど高くはない。

田舎で言うところの家の裏山といった感想を抱いた。緑は限りなく無いに等しい。

ぐるりと周囲を囲うように連なっており、一方向のみ欠けている。

八方位の一方位分空いていると言えばいいか、ホールケーキのワンピースが欠けていると言えばいいか。


最後に自分の身体を見る。


変わらず腹以外はガリッガリに痩せている。肌もカッサカサである。

肌の色も相まってホッケの開きの干物が頭をよぎった。

油など微塵も乗っていないが。


「ぐっ。ダメだ。食い物を考えるな。無、無だ。」


自分に強く言い聞かせる。

考えれば考えるほど飢えと渇きが襲ってくる。


はっとして股間に手をやってみる。

布の感触。

ぐい、と腰を折ってのぞき込むと、陳腐な腰布が巻かれていた。

恐る恐る布をずらしてみる。


蛇の抜け殻が揺れていた。


「せ、性欲なんてないし?食欲い、一本だしぃ?」(震え


無駄に強がった。


気を取り直し今後を考える。

まずは知らなくてはならない。自分の事。この地の事。

そもそも生きている前提にしているだけでそれが正しいとも限らない。

行動すれば多少なりとも見えてくるだろう。


「まずは、何か喰わなくっちゃあ。」


落ちていた程よい枯れ枝を拾い持ち手のあたりの樹皮を剥いてみる。

杖代わりに携えて一歩踏み出す。

まずは岩山の切れ目を目差す。


体感で4、50分程度だろうか、歩幅も違ければ木々の間を抜けてきたため定かではない。

岩山の切れ目に辿り着いた。

渇いた丘陵があり、所々に1mにも満たない低木が見て取れる。


次の目標を目の前の丘に定め、歩き出す。

身体を動かすと、動かないでいた時の何倍も飢えと渇きを感じる。

頭の中を食べ物が浮かんでは消え、飲み物が浮かんでは消える。

気が紛れるでもないのに口から漏れてしまう。


丘の頂上に着いた時に目を見開いた。

緩やかに下っていく丘陵が、低くなるにつれて草が生い茂っていく。

その先には、森と呼んで差し支えない程の立木が並び、緑の色彩の間に空の色を写した水面が見えたのだ。


「水だッ!」


叫ぶと同時に丘を駆け下りた。

夢中で駆けた。手に持った杖をぶんぶんと振り回しながら足下も見ずに駆けた。

丘の途中、何度か無作為にあいた穴ぼこに足を取られ、盛大に転がったが起き上がると同時にまた駆けだした。


森に入ると木々が乱立し、走る速度を緩めなくてはならなかったが、身体をぶつけ切り傷を付けながらも走り続けた。

そしてついに木々の間から水辺が見えてくる。


「池?湖!どっちでもいい!」


走る勢いそのままに湖に飛び込む。水中で大きく口を開け思いのまま飲み込む。

飲み込んだ瞬間、『生水』『危ない』と言葉が浮かぶも、渇きから解放されたい一心が吹き飛ばした。


がぶがぶと水を飲み込むと飲み込んだ瞬間渇きから解放された。

ところが喉を過ぎるとまた渇く。ならばとまた飲み込む。がまた渇く。

もう一度、もう一度と繰り返した。


ざばりと水中から立ち上がり、きっと身体が吸収するまで間があるのだと、自分に言い聞かせながら水面に映る自分の顔を見た。

身体が無意識に強張っていく。


水面に映ったそれは、しばらく微動だにしなかったが、ようやく口を開けギザついた歯をみせるとぽつりと発した。


「ちくしょう。餓鬼・・・だな。」









































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