幹事引き継いで
@qoot
第1話
だいたい学校の夏休みが始まる頃には明ける梅雨なのに、今年は7月末にようやく、ぼくの住む地域も『梅雨明け宣言』が発表された。昨年より1週間以上も遅いらしい。また今月は日照時間が観測史上で最も短いようだ。そう言えば7月としては、想定外の肌寒い日が何日かあった。
さあ待ってましたとばかりに朝から鳴き続ける夥しい数の蝉たち。昨日まではどこで何をしていたのだろう、不思議でならない。
梅雨がいつ明けるのか、毎日気が気ではなかった。情報番組のお天気コーナーはもちろん、仕事中も頻繁に気象情報をスマホで確認していた。いつもながら、この時期のコンペ幹事は憂鬱だ。
ぼくが勤める守友食品は、食品業界という大きなマーケットでは全くの無名と言ってよい。ただし、乾物部門の中の海産物カテゴリーではトップメーカーだ。乾燥ひじきや干し海老と言えば分かりやすいだろうか。売上規模の大きい海苔や鰹節は別カテゴリーだから、要するに地味で小さい土俵の大横綱なのである。
かつてはスーパーマーケットなど市販用では、およそ70%のシェアを誇っていた。大手量販店から地域の小売店まで、“モリショク印”の商品をメインに売場は作られていた。当社以外の商品は、地元の零細企業が生産する地域色のあるものか輸入品であった。当社の新商品や販売戦略がスーパーや卸問屋の売上を左右する。自ずと当社の意向が売場に反映されるので、安定した売上と利益を上げることが出来ていたのである。
しかし、数年前に大手海苔メーカーが“乾物の総合メーカー”を新たに掲げ、海産物カテゴリーにも参入して来た。知名度の高いブランドと主婦層に人気の俳優をイメージキャラクターに起用して急速に売上を伸ばした。今年上半期の当社シェアは、50%台まで落ち込むのではと業界では噂されている。
当社も手をこまねいていたわけでなく、大々的な消費者キャンペーンや商品ラインナップの強化を実施。右肩下がりに歯止めがかかり、売上増に転じてからは順調に伸ばし続けている。長年無風状態であった海産物カテゴリー市場は活気づき、昨年は二桁の伸びとなった。業界としては喜ばしいことである。
また手薄であった業務用ルートへの販売を強化し、成果を上げている。今後は、弁当チェーンや居酒屋などにメニュー提案を実施、消費の拡大を図る計画である。
ぼくが所属するのは、本社の総務課である。工場敷地内に事務所がある、いわゆる本社工場だ。そのため総務課もグレーの作業服着用がルールであり、事務所棟以外ではヘルメットを被らなければならない。自宅から会社までは徒歩で約10分。朝にスーツを着ても、10分後には会社の更衣室で作業服に着替えなければならないい。半年程でスーツを着るのを止め、カジュアルな服装で通勤している。
5年前、東京多摩エリアにある大学の商学部を卒業し、地元の守友食品に入社した。大手志向はなかった。東京で勤務したいとも思わなかった。地元ではそこそこ名の通った中堅企業に入社出来て、本当に良かったと思っている。両親も喜んでくれた。
工場、物流、営業、開発などの研修後に配属されたのは、希望していた営業ではなく総務であった。同期の大卒は営業に配属され全国を飛び回っている。作業服やヘルメット着用は免除されており、スーツにネクタイ姿がまぶしい。同期は他に、地元高校の水産科から男子2人が工場に。商業科から女子1人が経理課に配属されている。明るく愛らしい紅一点は、同期の中ではアイドル的存在である。
総務課は課長と係長以外は全て女性社員だが、残念ながら・・母親世代ばかりである。貰い物のお菓子や自家製の梅干しなどをよくくれる。
「お前は女の楽園で働けて良いよなぁ」
月イチの同期会で、いつも弄られている。
配属当初は少し腐ったりしたが、雑用期間が終わって担当を持つようになるとだんだんと面白くなって来た。自分なりの工夫も出来る。今年で5年目だが、“総務も悪くないぞ”と思っている。去年の春には同期トップで幼なじみと結婚した。12月には子供も生まれる。
ささやかだが幸せで充実した日々だ。
「吉村君!こっち、応接室に来てくれるかい」
「はい!」
営業本部長の三浦常務が事務所中に響き渡る大声でぼくに呼びかけた後、首に掛けたタオルで汗を拭いながら大股で応接室に入っていく。守友一族以外で唯一の役員である。
「忙しいのに悪いね。明日は、とうとう予報が晴れに変わったね。過酷なゴルフ日和だよ」
「明日にも梅雨明け宣言が出るみたいですよ。スマホで最新情報を確認しました。かなり暑そうですが、雨になるよりましですものね」
「そうだよ。いつ梅雨が明けるか分からず、土曜日は大雨という予報もあったからね。いや、良かった良かった」
タオルで首筋の汗をゴシゴシ拭き、持っている書類でパタパタと扇ぎながら大声で三浦常務は笑う。その人懐っこい笑顔のファンは、社内にも社外にも多い。営業になるために生まれて来たような人だ。
「失礼します」
営業事務の女性が、冷たいお茶を持って来てくれる。「サンキュー」と同時にお盆からグラスを奪い取り、喉を鳴らして一気に飲み干した。
「すまんが、もう一杯もらえないかな」
三浦常務は、申し訳なさそうに事務員を見上げる。ぼくはデスクで水筒の冷たいお茶を飲んでいるので、喉は乾いていない。
「常務、私は結構ですので、よろしければ私の分を飲んで下さい」
「そうかい。悪いね」
これも一気に飲み干す。
「では、あらためてお二人分をお持ちしましょうか?」
「いやいや、これ以上飲むとお茶が汗になって止まらなくなる。どうもありがとう」
「吉村くんは?」
「私も結構です。ありがとうございます」
「よしっと、じゃあ明日のコンペの最終打ち合わせをしよう。確認程度だから、すぐ終わるよ」
事務員がグラスを片付けるのも待てず、三浦常務が書類を広げる。
ぼくがゴルフを始めたのは、入社した年の夏であった。きっかけは猛暑日を記録した暑い金曜日で、終業時刻が過ぎ、帰り支度を始めた時である。
「吉村くん。この後何か予定あるかな?たまには軽く行かないか?」
課長からの誘いは珍しい。突然のことで、おそらく戸惑った顔をしていたのだろう。
「いや、独身の若者に週末突然じゃ無理かな?」
上司に気を遣わせてしまい、申し訳ない気持ちになる。
「いえ、予定なんてありませんよ。喜んでご一緒させて頂きます」
優等生的な受け答えに、ホッとした表情を浮かべた課長は、チラッと腕時計を見て、
「うん。じゃあ、5分後に出ようか」
「課長。例の件なら私も一緒の方が良いですよね」
忙しげにファイルをめくりながらパソコンにデータを打ち込んでいた係長が、課長の返事を待たずに片付け始める。
(例の件?)
ぼくの怪訝そうな表情を読み取ったのだろう、課長が台詞でも言うように取り繕う。
「なに、大層な話じゃないさ。3人で楽しくそして大いに飲もう」
会社から歩いて5分ほど、守友食品御用達の居酒屋の広いテーブル席。取り敢えずビールで乾杯した後、枝豆、名物のモツ煮込みを係長が人数分注文する。
「遠慮しないで、好きなものを注文していいんだぞ。俺たち中年は、あんまり食べないから。ねぇ、課長」
「そういうことだ。吉村くんはこの店たまに来るの?」
「そうですね。月イチの同期会はいつもここですし、係長にも残業で遅くなった時ご馳走になってます」
「ここはサラリーマンの味方だからね。俺の小遣いでも安心して奢ってやれるよ」
「いつもありがとうございます。では、すみませーん!スタミナ焼きと串カツの盛り合わせお願いしまーす!」
「ははは。若いっていいねぇー」
「大将、俺は冷奴ちょうだい!」
3人とも内勤とはいえ今日の暑さである。競うように飲み、瓶ビール2本はあっという間に空いた。
「課長、次、何飲まれます?」
「それでは私のボトルで」と、係長がキープしている一升瓶の芋焼酎を課長は水割り、係長とぼくは炭酸水で割ることにした。
「飲み切ったら君の名前で、私がボトルを入れるからね」
「ありがとうございます、課長。これで気兼ねなく飲めるぞ!おい、ケチケチせず濃い目に作れよ!」
飲み物作りは、当然ぼくの仕事だが、これがなかなか難しい。それぞれ好みの濃さがある。お代わりも飲み切ってからでは「遅い!気が利かない!」と怒られ、半分くらいだと「まだいい!今が飲み頃なのに」と言われるから厄介だ。
課長のお代わりを作りながら、そろそろ良いだろうと気になっていたことを切り出す。
「係長、さっき“例の件”って言われたじゃないですか?それって何ですか?」
課長と小さくうなずき合い、係長が説明を始めた。
「そういうことですか。強制だが、仕事ではないと。つまりそういうことですか」
同じ台詞を繰り返してしまった。“理解は出来るが、納得出来ない”と、そんな感情を醸し出したつもりだったが、係長は了解を得たとばかりに畳み掛けて来る。
「なに、良い経験だよ。総務の仕事に無関係でもない。じゃあ、休み明けの月曜日に引き継ぎということで良いかな?」
それまで黙って聞いていた課長が、殊更明るい調子で簡単に締めてしまった。
「さあ、この話はこれで終わりだ。3ヶ月後のコンペがデビュー戦だから、しっかり頼んだよ!」
「はぁ・・」
守友一族は、皆んなゴルフが好きである。子供の頃から親しんでいるので、揃って上手い。今の社長は、大学のサークルで腕を磨き、オフィシャルハンデは2のトップアマだ。オーナー企業によくあるように、従業員にもゴルフを勧める。というか強いる。社内にゴルフ同好会があり、男性社員全員と希望する女性社員が所属している。福利厚生として会社から相当額の補助金が出ており、プレー費の一部と豪華な賞品に充当されている。また貸切バスでゴルフ場と会社の送迎もしてくれる。そのため少ないお小遣いでも年4回のコンペに参加出来るのである。
居酒屋での係長の話を簡単にまとめるとこうである。
・ゴルフ同好会が年4回のゴルフコンペを開 催する
・営業本部長を同好会会長、総務課若手男性
社員を幹事に任ずる
・準備その他は、勤務時間内に会社の資産や
備品を使用して行って構わない
係長も入社の夏より幹事を務めている。途中3年ほど若手社員に譲った時期もあったが、その若手が営業に異動してからは、また幹事に返り咲いていた。係長も若手の配属を心待ちにしていたことだろう。
私にとって今回の話には、2つの問題がある。まだ入社半年で幹事が務まるか?ということ。そしてゴルフを始めなければならない!ことである。道具やシューズにウェア、それに練習代とかなりの出費だ。係長が言うには「新入社員の夏のボーナスにはゴルフ関係の購入代が含まれている」である。
確かに、学生時代の仲間と先日飲んだ時、ウチのボーナスが突出して多いことが話題になった。仲間からは「冬のボーナスが楽しみだな」と羨ましがられた。
(そうゆうことだったのか)
5年前のことを思い出しながら、ぼんやりテレビを観ていたら家内が話し掛けていたようだ。
「・・ねぇヨッシー、明日は実家に泊まって来ても良いでしょう?日曜日の昼過ぎには帰って来るから」
家内は小学生からの幼馴染なので、今でもぼくのことをヨッシーと呼ぶ。吉村だからヨッシーだ。
「良いよ、愛ちゃん」
結婚してからも、意識して名前で呼びあうようにしている。会話に名前を入れることによって、喧嘩になり難いのだ。
「明日の晩ご飯はどうするの?」
「表彰式のパーティーで軽食が出るから、帰ったら軽く飲むくらいかな」
「はいはい、軽くね。じゃあ、ヨッシーの好きな肉じゃがを作っとくね。あとはチーズとかハムとか適当に食べて」
「サンキュー、愛ちゃん。明日は早いから、風呂入って先に寝るよ。朝は勝手に起きて行くから」
「朝ごはんくらい作るよ。5時半にご飯が炊けたら間に合うよね」
家内はゴルフに理解があるから助かる。お義父さんがゴルフ好きだからだろう。結婚前、初めて家内の実家に挨拶に行った時、ゴルフの話で盛り上がった。
「今度一緒にラウンドしよう」
まだ実現していないが、ゴルフをやってて良かったと思った。
守友食品のゴルフコンペは、4月、7月、10月、1月の年4回開催される。凡そ月末近くの土曜日と決まっているが、時に前後することがある。特に幹事泣かせなのが、7月のコンペだ。梅雨明けのタイミングを見計らうのが難しく、梅雨明け間際の大雨で中止に追い込まれたこともある。
ぼくが初めて幹事を務めたのは、入社した年の10月のコンペである。係長から引継ぎを受けたのが8月の初めで、この時から幹事業務が実質スタートする。まずは日程調整から始めて、早急に開催コースを予約する。アウト8組、イン8組、合計16組を押さえなければならないが、開催は毎回同じコースだ。守友一族が多くメンバーとなっているコースで、現会長が副理事長を務めているので、かなりの融通が利く。
係長の指導のもと、最も困難な日程調整から着手する。仲間内のゴルフなら一斉メールで候補日を送れば良いが、会社だとそうは行かない。
まずは三浦常務、係長と共に会長の元を訪れ、都合を確認する。
「今回から吉村くんが幹事を務めます」
「おう、そうかね。吉村くん、それでゴルフの経験は?」
「これから始めます。よろしくお願い致します」
中小企業では、新入社員でも経営層と親しく会話が出来る。
「よし、分かった。クラブはこれから揃えるんだろう?それなら私のパターを上げよう」
「吉村くん。会長から頂けるパターならスコッティーキャメロンだよ。高級品だから大切に使わないといけないよ」
常務がお追従にならない程度に説明する。
「いや三浦くん、私のお古だ。それにただの道具なのだから気にする必要はない」
「会長、ありがとうございます。大切に使わせて頂きます」
「ゴルフはパターが重要だからね。家の中でも出来るから、しっかり練習しなさい。この後、社長のところにも行くんだろう?ドライバーでもウェッジでもねだるといいよ」
「会長、パターなら問題ないですが、さすがに他のクラブは上級者向けですから、彼にはまだ・・」
「そりゃそうだな。では何でも良いから吉村くんにやれと電話しておくよ」
これも幹事の特権だろう。ありがたく頂くことにしよう。
「それで本題ですが、秋のコンペは10月31日の土曜日でご都合はいかがでしょうか?」
「ちょっと待ってよ、いま手帳を確認するから・・・うん、この日なら大丈夫だよ。支配人に仮予約で連絡しておこうか?」
「ありがとうございます。ただ、社長はじめ役員の皆さんのご都合を今日中に確認しますので、OKでしたら改めてお願いに上がります」
「分かった。シーズンだからね、出来るだけ早い方が良いな」
「かしこまりました」
直ぐに社長の了解を得た後、副社長と2人の専務の了解を取り付けた。これでやっと日程が確定した。会長にその旨報告し、ゴルフクラブの支配人に電話して頂く。ただし、当然の事ながら正式な申し込みは幹事の役目である。間違いのないよう、申込書をメールしなければならない。並行して社内への案内と出欠の確認、送迎バスの手配などやる事は色々ある。
組合せ、各賞品の選定、当日の進行など幹事がまず原案を作成し、営業本部長と打ち合わせる。そこで案がまとまれば、その都度会長以下、同じルートで説明に回らなければならない。これがなかなかの労力を使うのである。
(次回からぼく1人で係長のように幹事が務まるだろうか?)
いずれ後任に引継ぐのだから、マニュアルを作成することにした。そうすれば、ぼくが理解を深めるのにも役立つだろう。
4月のコンペが終わった翌週から、夏のコンペの準備が始まる。ぼくが幹事になってもう5年が経過した。すっかり慣れて来たし、ぼくなりの工夫も少しずつ反映している。係長時代よりも、だいぶ業務が簡素化しているし、イベント性も増している。その都度マニュアルも更新しているので、次に引継ぐ幹事は楽だろう。
いつもの通り、三浦常務と2人で会長を訪れるところからスタートする。
「会長、失礼します。土曜日はありがとうございました」
「おう、君たちか。幹事ご苦労さん。まあ座りなさい」
「おかげさまで、春のコンペも無事終えることが出来ました」
「いや実に良かった。吉村くんもすっかり名幹事だな」
「いえ、まだまだです」
「しかし、こうも社長ばかり優勝ではしらけてしまうね」
「まぁそれぞれ実力に応じたハンディキャップで競う訳ですから」
コンペはダブルペリア方式などではなく、各人にハンディキャップが与えられている。社長のオフィシャルハンディは2であるが、社内コンペではゼロである。
「次回はマイナスでもいいんじゃないか」
冗談とも本気とも分かりかねる言い方である。やっかいなことにならないよう、常務が本題に入る。
「会長、夏のコンペですが、7月31日の土曜日はいががでしょうか」
「うん、だいたいその辺りは空けてるからね」
会長は手帳を開けて「大丈夫だ」と言いながら、ペンで書き記す。
「ありがとうございます。それではいつもの通り、皆さまの予定を確認しましたらご報告に上がります」
「今日はこのあと出掛けるんだ。携帯にメールしてくれたら良いから」
「承知致しました」
社長はちょうど電話中で、ドアの前で終わるのを待つ。
「お待たせしました。どうぞ」
「失礼します。社長、土曜日はありがとうございました。それと、優勝おめでとうございます」
「ありがとう。まぁどうぞ、掛けて下さい」
社長は40代とまだ若い。よく日焼けして引き締まった身体は、経営者というよりもアスリートのようである。誰に対しても丁寧だが、遜った言葉遣いではない。
「幹事ご苦労様でした。もう夏の打合せですか」
さっそく本題に入ろうとの合図だ。会長のように無駄話はしない。
「はい。夏のコンペですが、7月31日の土曜日でご都合いかがでしょう。会長には確認済みです」
社長はスマホのスケジュールアプリを軽やかに操作しながら話を聞いている。
「生憎ですが、その日は先約がありますね。24日の土曜日なら大丈夫ですよ」
経営者ともなると公私共に忙しい。予定がぶつかることはよくある。そのための日程調整である。
「分かりました。もう一度、会長に相談してみます」
「申し訳ないですね。もし皆さんが31日と言うのであれば、残念だが欠席ですね」
「会長、失礼します」
「早いねぇ。もう確認出来たの?」
「いえ、実はですね、社長がご都合悪いとのことでして。24日でどうかとのことですが、会長のご都合はいかがでしょう?」
「大丈夫だ。どちらでも構わないよ」
出掛ける支度をして、立ち上がりながら言う。
「悪いがもう出掛けるから、よろしく頼むよ」
「承知致しました。ありがとうございます」
常務は丁寧にお辞儀しながら、会長を見送る。ぼくも慌ててお辞儀する。
「常務、会長は手帳を見てませんでしたが、大丈夫でしょうか?」
会長は、手帳が手放せない。
「これがなくなれば、明日の予定も分からない」
よくそんなことを言って笑っているので、少し不安になって聞いてみた。
「さっき見ていたからね、それくらい覚えていたんだろう」
「社長、失礼します」
「どうでしたか?」
何かの書類に目を通しながら、顔を上げずに聞いて来る。
「会長は24日で大丈夫でした」
「分かりました。ご苦労様でした」
白い歯を見せて笑った後、パソコンに向かい凄まじい速さで指を動かしている。
「失礼しました」
その後、副社長、2人の専務は異論なく簡単に日程が確定した。
「吉村くん。悪いけど会長に念のためメールしといてくれるかな。ゴルフクラブの支配人への依頼をヨロシクとな」
「承知しました。ゴルフクラブへの正式依頼は、明日の朝会長に確認してからですね」
「そうだな。メール見て返事くれれば良いけど、会長は苦手だからな」
会長はパソコンのキーボードなら、なんとか指1本で押せるが、スマホの小さなやつはダメである。
「明日は終日、得意先周りで会社にはいないんだ。いつも通り進めておいてくれるかな」
「承知しました。何かあればメールします」
「分かった。俺はメール返信出来るからな」
右手の人差し指で軽やかにスマホを操作するような仕草に笑ってしまう。もっとも常務のメールは、「了解!」「電話乞う」など電報のような一言だけだが・・
翌朝、ぼくは1人で会長を訪ねる。
「おう、吉村くん。今日は1人かい?」
「はい、三浦常務は終日外出だそうです」
「そうか。君からのメールは見たよ。支配人にはさっき電話で頼んでおいたぞ」
「ありがとうございます。それでは直ぐに予約申込書をメール致します」
会長に確認出来たこと、ゴルフクラブには正式に申込み済みであることを三浦常務にメールした。
直ぐに『了!感謝!』と返信が来た。
それから送迎バスの手配、地元の百貨店外商部へ賞品の選定と見積り依頼など、慌しくメールと電話でやりとりする。その合間に社内への案内をメールする。出欠の返信期限は来週の金曜日までとした。管理職クラスはほとんど返信が来ないので、個別に確認に回らなければならない。
(参加者はほぼ毎回同じだから、メンバー確定を待たずに組み合わせ案を作成しておこう)
過去3回分の組み合わせ表と突き合わせて、いつも同じような組み合わせにならないよう配慮しなけらばならない。
「しょっちゅうあいつと同じ組になる。今回は変えて欲しい」
メンバー表をメール発信すると、1人2人とこのようなクレームが来る。
「もうあいつとは回りたくない」
「今度は彼と回らせろ」
コンペ後にはこんな希望も必ずある。
複雑な方程式を解くように、毎回組み合わせを考えるのは、しんどい作業である。
(前提条件を入力したら、簡単に組み合わせを考えてくれるソフトウェアを誰か開発してくれないかな?)
「はい。吉村です」
スマホが三浦常務からの着信を告げている。
《三浦だけど、いま会長から電話があって、あっ、夏のコンペの件だけどね・・》
いつも明るい口調の三浦常務だが、少し戸惑った様子だ。嫌な予感がする。
《24日は、ご都合が悪いそうなんだ》
(予感的中だ)
「そうですか・・」
《なんでも土曜日は北海道から移動する日だそうなんだよ》
会長が理事を務める同業者組合の会合が23日の金曜日に札幌であり、その日は泊まらなければならない。新千歳空港から翌日朝一のフライトでも、羽田空港で乗り継ぎしなければならず、ゴルフコースに到着するのはお昼前になる。
「会長は手帳に細かくメモされるはずですが、今回に限りうっかりされていたのですかねぇ?」
《会長が仰るには、航空券が取れたら便名や時間を予定欄に書き込むのだが、まだフライト予約が出来てないそうなんだよ》
土曜日の欄には何も書かれていないので、予定なしと勘違いしたということか。既にいくつかの作業を終えた後だけに、苛立ちが込み上げて来る。
「北海道出張なんて会長でも滅多にないのですから、覚えていても良さそうなもんですが。それにあの時、手帳をもっとよく見て頂いていたら・・」
《おいおい、会長批判はいけないぜ。君にも謝っておいてくれと言われていたよ》
「・・・申し訳ありませんでした」
《このままだと、会長を取るか、社長を取るか、究極の選択だなぁ》
三浦常務が大きな溜息をつく。
翌朝はいつもより早めに出社して、三浦常務と会議室で対策会議を行った。有効な打開策もなく、沈黙しがちであった。
「取り敢えず、もう一度会長、社長の予定を確認してみるか?」
「そうですね。それと副社長や専務たちの24日のご都合もまだ分かりませんからね」
「よし、まずは会長のところから行こう」
「いやぁ、悪かったねぇ。うっかりしてたよ」
「とんでもない。もともとあった予定ですから、致し方なしです」
「吉村くんも、二度手間になってすまないねぇ」
「いえいえ。どうかお気になさらないでください」
「それで皆さんの予定はどうなんだい?24日と31日は」
「役員の皆さんの予定は、まだ31日しか確認出来ていません。この後、念のため社長に確認してから、他の役員にも伺います」
「どうだろうか。24日と31日だけでなく、日曜日も候補日にしてみては?」
「と言いますと、25日と8月1日の日曜日ということですね?」
「土曜日に拘っていても、最後は私か社長のどっちを取るか、みたいな話しになるだろう?」
会長が戯けた調子で、こちらが言い難いことを切り出してくれた。思わず三浦常務と顔を見合わせる。
(そうか、日曜日か。なんで今まで思いつかなかったのだろう。思い込みとはこういうことか)
「常務、日曜日という手がありましたね!」
「確かに。土曜日しかダメだ。7月にしなければならないって決めつけていたな。いつでも良いんだよ!」
「おいおい、そんな大層な話しじゃないだろう。休みの日ならいつだって良いんだから」
「なんか、伝統行事なので、変えてはいけないという意識がどこかにあったようです」
「私は両日とも大丈夫だから、早めに確定してくれるかい」
「承知しました」
社長、副社長、両専務とも日曜日はどちらでも構わないとのことであった。
(よし、これで何とかなるな)
“会長を取るか、社長を取るか”の難題を前に憂鬱な気分で過ごした時間が嘘のようだ。何とかなるものだ。
会長の了解を得て、ゴルフコースに電話して日曜日の予約を問い合わせる。
《確認しますので、しばらくお待ちください》
左の肩と耳に受話器を挟み、パソコンのメール発信の準備を始める。添付ファイルの日付だけをブランクにして、土曜日を日曜日に書き換える。
「長いゴルフコンペの歴史で日曜日開催は初めてじゃないかな?」
係長に確認したら、そんな見解だ。
(やけに長いなぁ)
そう感じ始めた時、やっと保留音が途切れた。
《大変お待たせして申し訳ありません》
待たせたことを詫びる以上の申し訳なさを感じる言い方だ。
《生憎、両日とも予約がいっぱいでして。ご希望に添えかねます。申し訳ありません》
一瞬言葉が出ない。何とか絞り出した言葉は、我ながら情けない。
「そこを何とか、調整出来ないでしょうか?」
《大人数様のコンペですので、如何ともし難く・・》
「・・分かりました。改めて電話します」
《本当に申し訳ありません。よろしくお願い致します》
「あっ、すみません。24日と31日の土曜日は大丈夫ですか?」
《はい。御社の守友会長様から両日の予約を生かしておくよう承っております。あの、土曜日ですので、多くの問い合わせを頂いております。恐縮ではございますが、出来るだけ早めに確定して頂きますと助かります》
「分かりました。ご迷惑をお掛けしており、申し訳ありません」
重い気分で電話を切る。いつからいたのか、三浦常務が心配げに顔を覗き込む。
「どうだった?」
慌てて立ち上がる。
「それが両日とも予約で一杯だそうです」
「そうか。それは困ったなぁ。もう一度、会長に頼んでもらうか」
「三浦くん!」
会長が呼んでいる。
「いま支配人から聞いた。社長の部屋で話そう」
くるりと背を向けると同時に、「入るぞ!」の言葉より早く隣の社長室のドアを開ける。
三浦常務とぼくも「失礼します!」と小走りで後に続く。
「どうしました、会長」
「面倒だから、副社長と専務たちも呼んでくれ。コンペの話だ」
社長が副社長に電話し、両専務に声を掛けて社長室に来るよう伝える。応接セットには専務以上が座り、三浦常務とぼくは近くの空いている椅子を持って来る。
「日曜日は、ゴルフコースの予約が取れないらしい。つまり私が欠席の24日か、社長が欠席の31日かの二択だ。三浦くんや吉村くんにこれ以上の日程調整を頼むのは申し訳ない。この場で決めてしまおう」
会長が宣言するように提案する。副社長と両専務はどちらでも構わないので、成り行きを興味深げに見守っている。
「このゴルフコンペは会長の思い入れが強いのですから、31日の土曜日でいかがですか?残念ですが、私は欠席で構いません」
「いや、24日でやってくれ。私が欠席するよ」
「会長は、私の知る限り今まで欠席はなかったと思います。私は都合で何度か欠席しています。ですから是非。会長が欠席する訳にはいかないでしょう」
社長にはたかが社内行事を何時やるかに、なぜ経営トップが協議しているのか?という表情がちらっと見えた。どっちでもいいから早く決めて、仕事に戻りたいのだろう。
「社長が欠席ではダメなんだ。いや、根本的な話しをするぞ。このコンペにもっと愛情を持って欲しいんだよ」
会長は、社長の目を見て語りかけている。社長も先程のどこか他人事のような雰囲気は完全に消えている。
「このゴルフコンペはあくまでも任意参加の同好会だ。男性社員には半ば強制的に参加させていることに、批判的な意見があることも承知している。会長の趣味に付き合わされているとも聞く。もし、私の趣味が釣りだったら釣り同好会、野球だったら野球同好会になっていただろう。いや、要は何だっていいんだ。会社がひとつにまとまるために、若い社員と幹部が親しく接するために。社長も忙しいのはよく分かる。この会社をより良く、大きくするために頑張ってくれている。でも、どんなに大きな会社になっても、社員とは家族のようでありたい。社員からは親父や爺さんのように接して欲しいんだ。私の信念だ。だから、社長もこのゴルフコンペを、いや社員をもっと愛して欲しいんだ」
会長の話しは、創業当時の出来事や社長の幼い頃の思い出話しにまで及び、10分近くも話し続けた。
「父さん・・失礼、会長・・」
社長の目が潤んでいる。初めて社長の人間的な一面を見た気がする。
三浦常務は、嗚咽を堪えて泣いている。
「会長、よく分かりました。ありがとうございます」
「では、24日の土曜日で良いね」
「いえ、家族は全員揃わないといけません。31日の予定を変更します。三浦常務、吉村くん。申し訳ないが、31日で進めてくれないか」
「どんな予定か分からないが、31日の相手に不義理にはならないのかい?」
「学生時代の友人です。説明すれば、調整は可能です。先に決まっていたという理由だけで、31日は都合が悪いと三浦常務と吉村くんに返事してしまったのです。私の優先順位が間違っていました」
7月23日の金曜日、午後3時。
お昼過ぎから曇り始め、先程から大粒の雨が降り出した。空は真っ暗だ。今日の午後から明日の午前中にかけて、発達した低気圧が通過する見込みで、先程、大雨洪水警報が発令された。
今朝、社長が総務課に来て、午前中に仕事の目処をつけ、午後は可能な者から順次帰宅するよう課長に指示を出した。そしてぼくには気さくに話し掛けて来る。
「吉村くん、コンペが明日でなくて良かったよ。これでは確実に中止だったからね」
以前のようなクールな丁寧語ではなくなった。
先日の一件以来、社長が変わったと社員の間で話題になっている。それまでほとんどなかったことだが、工場や倉庫にも度々足を運び、誰彼となく声を掛けたり、飲みにも誘っているようだ。
社長の指示を受け、課長が全社員宛にメールを発信した。午後から1人2人と帰宅を始め、残るは総務課の男性社員3名だけである。
「われわれもそろそろ帰ろう」
7月30日の金曜日、午後5時。
「吉村くん!こっち、応接室に来てくれるかい」
「はい!」
7月31日の土曜日、午前8時30分。
「皆さん、おはようございます!只今より朝礼を行います。まず始めに、守友社長より開会のご挨拶をいただきます!」
雲ひとつない青空に、ぼくの声と蝉の鳴き声が響き渡っている。
幹事引き継いで @qoot
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