プロローグ 2

 

 背後から耳元で囁かれる甘い女性の声。それを聴いた少年は、全身の毛が一瞬にして逆立つ。

 咄嗟に前方に跳びのきながら振り返る。そこに、先程少年が目を付けていた純白のローブを身に纏った女性が立っていた。


「な、なんで……!」

「なんで、背後にいるのか? って顔をしてるね。さぁ、何故だろうねぇ?」


 得意げな表情を見せる女性。それは、少年の反応を楽しんでいる様子が窺える。そこには、追い詰められた獲物のような動揺も、焦りも一切見られなかった。

 一方通行で、隠れる場所などどこにも無かった。にも拘わらず、この女性は少年の背後を取っていた。袋小路に追いつめたはずが、逆に追い込まれてしまった状態。

 しかも、少年の問題はそれだけじゃなかった。



(この女―――とてつもなく危険だ!)



 何故、見抜けなかったのか。

 こうして正面から女性を見ると、少年にはハッキリと分かった。絶対に手を出してはいけない、危険物だという事を。

 今まで少年はありとあらゆる人間達を見てきた。

 ギルドに所属する豪傑や亜人、バージニア王国最強と謳われる『白金騎士プラチラル』等。それらは確かに、噂通りの危険人物と判別出来た。

 だが、目の前に居る女性は、そのいずれも遥かに凌ぐ。この女性に比べれば、ギルドの連中、白金騎士など比べる事自体がおこがましいほどだった。それだけ、女性の全身から尋常ならざる気配を感じていた。

 それは、少年の戦意を刈り取るのには十分すぎる物だった。


「私に、何の用かな少年」

「あ……いや、そこは行き止まりですよ、って注意をしようと思って。」


 適当にそれらしい言葉を繕う少年。

 相手が少しでも油断してくれれば、御の字といった言い訳であったが。


「くだらない嘘はやめておけ。あんなに殺気を振りまいていてはバレバレだぞ」


 全て女性にはお見通しだった。

 少年の頬を嫌な汗が伝う。


(やばいな。何故俺は、こんな奴を襲おうとしたのか)


 出来る事なら時間を遡って、直ぐにでも馬鹿な事をしでかしている自分に伝えてやりたい。そんな心情があった。


「悪かったよ。襲おうとしたのは確かだけど、まだ襲ってないからいいだろ?」


 手を上げ、何もしません、と抵抗の意思が無いことを身振りで見せる。それを見た女性は意外そうに少年を見る。


「どうして襲わない? こんな華奢な女が一人いるだけだぞ? 力づくでいけば勝てると思わないのか?」

「冗談も休み休み言ってくれ。あんたからは「ヤバイ気配」が溢れているんだよ」

「ヤバイ気配?」

「ああ。何となくだけど分かるんだよ、コイツに手を出したら殺されるだろうな、っていう感覚が」


 普通ならば、一笑に付しそうな少年の言葉。しかし、女性は至って冷静だった。

 それどころか、少年の言葉を真実として見ていたのだ。

 ふむ、と顎に手を当て、何か思う事があるのか考えこむ女性。そして、未だに手を上げて抵抗しない意思表示を続ける少年。


「……少年、君の名前を聞いても良いかな?」

「何でそんな事聞くんだよ?」

「少し興味が湧いたからだ。とりあえず私の方から自己紹介をしておこう。私の名前はエルーニャ。エルーニャ・ウィンタリーだ」

「……ウェイン。ウェイン・ルーザーだ」


 少年が自身の名前を告げると、僅かに女性の口元がニンマリと歪む。

 それを見た少年は、一層の不安がのしかかる。

 残念な事に、少年の不安は的中している。何故なら、彼女が自己紹介をしたのは理由わけがあって少年の名前を直接聞かねばならなかったからだ。


 純白のローブの下から取り出すは、羊皮紙で作られた一枚の巻物スクロール

 それを少年に対して、見せるようにして広げる。

 広げられた巻物は、何の記載もない白紙であった。


「――真実を写す神の眼よ、彼の者に備わる全知をここに記し賜れ。その名はウェイン・ルーザー」


 無機質な声色から、言葉が連なる。

 女性が発した言葉は呪文の詠唱であった。それを言い終えると、女性の頭上に突如として炎で描かれた眼球が浮かび上がり、それは少年を見つめる。

 

「なっ、なんだぁ!」


 見た事も無いそれに、少年は酷く怯える。


「安心しろ、危害を加える物ではない。ちょっとばかり、君の能力を見させてもらっているだけだ」


 エルーニャが何を言っているのか、少年は全く理解できなかった。

 言葉通り、頭上の瞳は何をするわけでも無く、ただ、ウェインを見つめるだけだった。時間が経つと、その瞳は何事も無かったように消え去る。それと引き換えに、開いていた白紙の巻物に、一瞬にして大量の字が刻まれた。

 それを手元に戻し、エルーニャは目を通す。しきりに頷いたりしたと思ったら、何やら驚いている様子も見せる。顔の表情が豊かに変わっていく様子に、ウェインはどうすれば良いのか困っていた。

 やがて、エルーニャは真剣な表情で固定され、しばし黙り込む。


「あの、エルーニャ?」

「黙っていろ。気が散る」


 それを言われてしまうと、ウェインは何もできなかった。言われた通り、口を閉じてエルーニャが終わるのを待つ。

 読み終えたのか、エルーニャは広げた巻物をくるくると巻いて仕舞う。


「ウェイン、と言ったな君は?」

「あ、ああ……そうだけど?」

「素晴らしい!」


 目を輝かせるエルーニャ。両の手を合わせて大きな音を鳴らす。


「まさか、こんな逸材がこの王国に残っていたとは。いやはや、まだまだ捨てたものではない。筋力、体力、敏捷性、知力、器用さ。いずれのパラメーターも君はそこそこで、やや敏捷性に優れている。鍛えればどのパラメーターもかなり優秀な値を叩きだすだろう。だが、そんな事よりも、最も重要で、大切な部分がある。これはまさしく天が君に与えしもの。天武の才とでも言うべきだろうか? いや、天性のスキルとでも言うか? これは私も長い間生きてきて、こんなものを持っている人間はおろか、亜人、ドワーフ、エルフ、全ての種族をひっくるめてもこれを見たのは君が初めてだ。これが興奮せずにいられるかね? いや、私は無理だ。無理だった」


 興奮した様子で、早口でまくし立てるように熱弁を振るうエルーニャ。

 本人だけは理解できているが、ウェインは全く意味不明で、そのエルーニャの勢いに圧倒されていた。


「そ、それは良かったな?」

「そうだとも! 良い事だ! 君は「危機回避」と呼ばれる天性のスキルの持ち主なのだから!」

「危機回避?」

「言うなれば危害が及ぶであろう出来事を前もって察知する事だ。これを使えば回避できるという代物だ」


 その説明に、ウェインは覚えがあった。

 自分が見ている景色は、誰にでも見られるものだと思っていた。しかし、今の説明を受けて、これは自身の特別な力だったのだと、初めて悟った。


「あんまり大したスキルじゃなさそうですね」


 そのウェインの言葉を聞いたエルーニャの顔が変わる。

 白けたエルーニャの表情は、目の前の愚か者に対し、憐憫混じりの視線を向けた。


「何と愚かな。このような極めて貴重で、危険なスキルほど理解の出来ん愚図が持つ。いっそここで命を絶ってやるのも慈悲かと思っている」


 その発言が冗談ではない事を、ウェインは誰よりも実感していた。

 異常なほど濃くなる「嫌な気配」が見えているからだ。


「だが、流石にそれはしない。こんな貴重なサンプルを殺すなど、もってのほか。ああ、欲しい。君が欲しい。君に対して、私の興味が一向に尽きない。きっと君は私の為に生まれてきたのだろう!」

「いえ、違います」


 やんわりと否定するウェイン。

 最初に比べて、幾分かエルーニャの発言が危ないものになっていることにウェインは焦る。


「そ、こ、で、だ。君に対して、私からささやかな贈り物をしようと思う」


 爽やかな笑みをエルーニャは見せる。だが、その発言を耳にしたウェインの全神経、全細胞がウェインに伝達する。


 ――――逃げろ、と。


 頭で考えるよりも、行動が早かった。

 エルーニャの脇を強引に突破する。そして、わき目も振らずに大通りへ出ようと駆けだす。多少なりとも彼は逃げ足には自信があったが、今回は相手が悪すぎた。

 背後から無数の鎖が伸びてきて、ウェインに絡みつく。足首、腕、胴体。それらの部位に、半透明の鎖が巻き付きウェインを拘束する。必死に振りほどこうとするが、切れる様子はなく、ほどく事すらできない。


「魔法で作り上げた鎖だ。素手でどうこうできるシロモノではないぞ?」


 背中越しに聞こえてくる声には、全く動じた様子もない。ウェインの行動を彼女は見透かしていた為だ。

 ゆっくりと背後から迫る足音。それはウェインを通り過ぎて、目の前に現れる。


「何でこんな事するんだよ!」

「興味が湧いたからだ。そして、それは先程一層高まった」

「……お前、何する気だ」

「察しが良い。助かるよ、聞き分けの良い子は大好きだ」


 右手の人差し指を、ピン、と伸ばすエルーニャ。そして、聞くのもおぞましい発音を口にする。

 すると、人差し指に光が宿る。ただし、それは黒い禍々しい光を放ち、明らかに怪しいものだった。


「何だよ、それ……」

「ちょっとしただ。今後の為に、ね」


 大丈夫、と可愛く微笑むエルーニャ。ウェインにはその笑みが明らかに偽りで作られた笑みであるとしか見えなかった。だから、すごく嫌な予感しかしなかった。

 エルーニャの人差し指が、ウェインの首筋に触れる。

 瞬間、異常な熱さと痛みが首筋に走る。


 「ぎゃああああああ!」


 絶叫するウェイン。今にも振り払いたいのに、鎖で腕が固定されてそれすらも許されない。

 首筋に当てられた指がスッ、と離れると同時に、自身を拘束していた鎖が消える。その場でウェインは七転八倒しながら患部に手を当てる。すると、何かが首に刻まれていた。涙目ながらに、エルーニャの方をキッ、と睨みつける。


「てめぇ! まじないじゃなかったのかよ!」

「ああ、一つ言い忘れた事があった」

「何だよ?」

「魔法使いの間でまじないとは、のろいと言うんだ」

「呪い……だと!」


 並々ならぬ怒りを滲ませるウェイン。だが、それと同じぐらいエルーニャに対して恐怖を抱いていた。何しろ、初対面の相手に笑いながら呪いをかけるような相手だ、血も涙もあったものではない。


「別に大した呪いじゃない。数日後に死ぬとか、そういう類ではないから安心しろ」

「どういう呪いだよ?」

「服従の呪いだ。この呪いをかけられた者は、かけたものに対して服従する……まぁ、端的に言えば相手を奴隷にさせる呪いだな」

「それの何処が大したことないんだよ! ふざけるな!」

「お前の意思と、体の自由に制限をかけてないだけマシだ。他の呪いならば否応なく操り人形となっている所だ。いやー、私も随分と優しくなったな」


 しみじみ感傷に浸るエルーニャ。


 ――狂ってる。


 それが、ウェインのエルーニャに対しての評価だった。

 何ら罪悪感を感じていない態度に、この女は悪魔だと悟る。


「それでも人間かよ! アンタ」

「人間? いや、私は人間では無いぞ?」

「…………は?」

「そもそも、エルーニャの名前を聞いておいて、心当たりは無いのか?」


 その発言からして、エルーニャが名の知れた人物なのか? とウェインは疑い、記憶の隅から隅まで引っ張り出してみたが、やはり思い当たる名前は無かった。

 首を横に振る。それを見たエルーニャはガッカリした様子。


「近頃の若い奴らは、私の偉大さを知らないときたか。良いだろう、ならばとくと刻み込め」


 胸に手を当て、誇らしげに胸を張った。


「私の名はエルーニャ・ウィンタリー。かの有名な魔王討伐隊の一人にして『碧き宝石の魔法使いブルーガーネット』と呼ばれたハーフエルフの魔法使いだ」


 背後で壮大な効果音でも鳴りそうなほど、自信に満ち溢れた自己紹介。

 改めて名前を聞いたウェインだが、やはり聞き覚えが無い。


「誰だよ? そんなの居たの?」

「知らないのか! この、英雄エルーニャ様を!」

「英雄はゼファーだろ?」

「ああ、あの坊ちゃんか。あんな奴が何故英雄として祀られているのか不思議でしょうがない。私の方が何倍も活躍したというのに」

「あれって、たしか二百年前の筈。あんた幾つだよ」

「三百ぐらいかな?」



 その年齢を聞いてウェインは信じられなかった。目の前に居るエルーニャは、どう見ても二十代にしか見えない。もし、それが事実だとすれば、彼女の周囲だけ時間が止まっているとしか思えない容貌だった。


「そういえば……あんたさっき、ハーフエルフって言ってたな」


 数ある種族の中でも長寿の種族が存在する。

 その中でも一番の長寿といわれるのが「エルフ」なのだ。

 エルフは森にすむ妖精とも言われる種族で、その年齢は外見では到底計り知る事ができない。何故なら、エルフは個体差はあれど、肉体の絶頂期が訪れればそれ以降死が訪れるまで老化することがないのだから。

 そんなエルフと多種族が交わって出来た子供がハーフエルフ。


「そうだ。私にはエルフの母と人間の父の血が流れている亜人だ」


 エルフと言えば尖った耳と、聡明な顔立ちが特徴的な種族。

 しかし、目の前にいるエルーニャはどう見ても人間にしか見えない外見。それはエルーニャの半分持つ人間の血が作用しての事だった。


「外見だけなら人間にしか見えないぞ」

「良く言われるよ。こんな私だが、先程言った通り、二百年前に行われた魔王討伐の一員で、数少ない生き証人という事になる」

「そんな魔王を討伐した英雄がどうしてこんな事をする」

「言っただろ? 君に興味がある。つまり、好奇心だ。私は興味が湧くと首を突っ込まずにいられないさがでね。君の折角の宝も、このままでは持ち腐れになってしまう。ならば、私が有効活用してあげようと思ってね」

「有効活用だって?」

「私と一緒に暮らすんだ。毎日みっちり君を鍛えて、そのスキルをきちんと使えるように指導してやる。どうだ? 嬉しいだろ?」


 その誘いはウェインにとって、何ら嬉しいはずもなかった。むしろ、こんな狂人と一緒に暮らせと強制させられることは、耐え難い苦痛であり、死刑宣告に匹敵するようなものだった。


「拒否することはできるのか?」

「ああ、構わない。その時は残念だが、実力行使に出ることになる」

「拒否しても結果は変わらないって事かよ」

「利口だな。私も力ずくは胸が痛む」

「どの口が言うか。連れていかれても、俺が逃げたらどうするんだよ」

「この期に及んでまだ逃げられると思っているのか? 面白い事を言う奴だな君は」


 声は絶対の自信に満ち溢れていた。

 逆らわずにはいられないウェインではあるが、そのささやかな抵抗も全てエルーニャの掌で踊らされているような感覚があった。

 むしろ、足掻けば足掻くほど、この女は喜びそうな感じすらある。

 選べる道はただ一つ。それはとてつもなく、険しい一本道だった。


「分かった。あんたの奴隷になるよ」

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