第三章 ラスト・ベル
第19話 五輪堂へ
どう考えてみても、こんな事態になるわけがない――
それが僕の偽らざる思いだ。
だって、どう考えてみてもいぶきが年末年始僕の家にやって来る展開はあり得ないのだから。
そのスケジュールを確認してみると、さらに無茶苦茶さが際だっている事が判明する。
年末に関しては、なんと二十八日からやって来て、その上、元旦に帰ると言うのだ。
強行軍――ではないのかも知れないが、やはりどう考えても異常事態だ。いや「ここが明確に普通では無いから異常」とは言えないけれど、慣例的にいぶきの行動は異常と言えると思う。
長い付き合いがあったわけでもなく。親戚でもなく。そんな家に年末年始泊まりに来る事が一般的かと言われれば、それは断じて否だろう。
……その異常事態を、あっさりと容認している母さんも変なんだけど。
そこまで考えが及ぶと、いぶきの家ではどういうことになっているのか? という疑問が出てくる。つまり、いぶきの家族。即ち――
(やはり小谷さんか)
という答えが見えてくる。
いぶきの暴走――暴走なのだろう、これは――を放置し、おそらく母さんにも話を通しているのだろう。
これで一応、この異常事態に説明が付く可能性はある。けれど、この場合小谷さんの行動が「異常」となってしまうわけで。
どうにも考えがまとまらないままに時は進み、その間にネームが完成することもなく。そして年末に立て込んでくる、どうしようも無い忙しさにかまけている内に、こんな事になってしまった。
改めて調べてみると「年の瀬」とは、十二月中旬辺りにはすでに突入していたらしい。何となく、クリスマス以降、みたいな感覚だったけど、これは僕が暢気すぎるせいのかも知れない。
そんなこんなで、いぶきがやって来た二十八日。
初対面の挨拶を交わす、母さんといぶきを“すがめ”で見守りながら、僕は余っている和室にいぶきを案内する。
「朋葉さんの部屋は?」
さすがにいぶきも、声を潜める気遣いはしてくれるらしい。
目一杯着ぶくれしていたダッフルコートを母さんに預けて、今のいぶきはネルシャツの上から、随分ゆったりしたベージュのセーター姿だ。髪は結構伸びてる気もする。ただまぁ、三ヶ月ぐらいしか空いていないわけで、その辺りは定かではない。
僕は冬の間、着た切り雀になるパーカーだ。家にまで押しかけてくるいぶきに、必要以上に気を遣うのも馬鹿らしい話だし。
「通ってきた廊下の右手側の扉があっただろ? あそこだ」
そして、いぶきの本音もわかりきっているし、隠してもどうしようも無いので、あっさりと答える。するといぶきは、案の定本音をだだ漏らした。
「つまり原稿は……」
「君は、再び大阪に観光にやって来たんだ。そのためのプランも考えている。それを忘れないでくれ」
そう警告しながら、僕はいぶきのバッグを指示されたまま畳の上に置いた。迎えに行った新大阪からここまで、ずっと持ってきたわけだが……不自然に感じるほど小さいし軽い。
「そうそう、そのプランね。実は内緒にしてたんだけど、今晩から計画はあるんだよね」
「内緒? 今晩?」
一体何の話だ? それに今晩と言われても、もう四時は過ぎている。この時間からそれなりの観光地に行くのは考え物だ。
「あのね『五輪堂』に行くのよ。夕ご飯はそこで。これは決定だから――ね?
「でも、この時間じゃまだ早いわよ」
映里、というのは母さんの名前だ。安原映里が名前になる――いやそんな事はどうでもよくて。
いつの間に、こんなに親しくなってるんだ、母さんといぶきは。
……いや、それぐらいは“あり”だ。家主であるところの母さんに挨拶するのは当然で、そのための連絡方法も小谷さんを通せば容易い話だ。
始まり方が無茶苦茶なのに、ここで常識的な振る舞いをされると……何だか臭いものに蓋をしている、という印象は否めない。
でも「五輪堂」で夕食というのは――やっぱりおかしくないだろうか? 具体的におかしな部分は、相変わらず指摘できないんだけど。
――「五輪堂」
すでに名店としての評価は確立していると考えても良いだろう。
まず特徴的なのは、他では味わうことが出来ない差別化が徹底的になされているラーメン自体の味わいだろう。
前にも言ったけど、実はこの店、家からはさほど遠くない。と言うか近い。
そんなわけで何年か前の開店間もない頃に、味わったわけだが――その時の印象は「よくわからない」だった。ただ、動物由来のスープがほとんどである時代に、やたらに野菜を感じさせるスープだったことは覚えている。
その“覚えている”が重要で、ふとしたときに思い出してしまうのだ。「五輪堂」の味を。
旨いとか、そういう具体的な評価を考える前に求めてしまっているのだ。そしてそれは、他店では決して味わえないわけで。今は何処かに二号店があるらしいけれど、状況は変わらない。
その後、いかにも職人、という感じの店長のインタビュー記事を読むと、フレンチ出身である事がわかった。となると、このスープの秘密は「ブイヨン・ド・レギューム」なのではないかという用語だけは増えてくるのだが、とにかく旨いことに変わりはない。
開店から一年もしない内に名店となったのは必然と言うべきかも知れない。
さて、評価が上向いても、家から近いという物理的な条件は当たり前に変化は見られないわけで、一時期は週一で通っていたりもしていた。
もちろん全メニュー制覇してるわけで――この辺りが問題なんだが、母さんが面倒みるみたいだから、まかせようと思う。
そんなわけで、家を出たのが何となくで八時になってしまった。原因は関西ローカルのバラエティ番組。
「こ、こんな乱暴な番組……」
いぶきは衝撃を受けていたが、僕と母さんにとっては別にどうと言うことはない。というか、母さんがこの番組のファンなんだよね。関東のゲストの反応が面白いらしくて――となると、いぶきの反応で一番喜んでいたのは母さんなのかも。
年末と言うことで、総集編みたいな内容だったけど、内容は関西での常識クイズ。それを満足に答えられない関西出身のMCが、視聴者から軒並み「裏切り者」扱いされるという。
……乱暴なのかもなぁ。初めて気付いたが。
しかし、そんな時間になっても余裕で向かえてしまう「五輪堂」の近さは、やはり恵まれているのだろう。
いぶきは例のダッフルコートを着込んだが、僕と母さんは適当な上着をひっかけただけ。
本当に十分かからないので、正直気合いを入れる必要も無いわけだ。
「本当に近い! あれ隣も何だか混雑している……?」
「あっちは蕎麦屋だ」
何かテンションがおかしいままのいぶきが、お上りさんそのままに、白い息を左右に振りまきながら尋ねてくる。だけど、このあたりは観光地でも何でもない。多少拓けて見えるのは、そこに中学があるだけの話で、どちらかというと閑散よりだ。
「へぇ、美味しいんですか?」
「名店ということになっている」
夜の闇に浮かぶ「五輪堂」の大きな看板。その前で、他業種とは言え他店の評論をするのは何か違う気がする。その間に、母さんはさっさとテーブル席を希望して、少しだけ店の前で待つ事になったから、丁度良いと言えば確かにそうなんだけど。
「なっている? 朋葉さんはそれほどでも無い?」
「そう。普通の蕎麦屋。やたら蕎麦が細切れで……この辺りは巡り合わせなんだろうけど」
僕が食べたざる蕎麦は、単純に喰いにくかった。そんなわけで僕の評価は、いまいちの店、で固定されている。それから入ったことはない。それがまたオープン直後の話で、それから半年――いや三ヶ月後には行列が出来ていたわけで。
「五輪堂」とこことで、行列店がこの静かな場所に二店並んでいるというのは――正確には並んではいないのだけど――中々の確率じゃないかとは思っている。
「……行きたいのか? ただ確か、もうまもなくラストオーダーだった気もするし」
年末だし、もうチャンスは無いのかもなぁ、と心の中で付け足していると、
「ううん。まぁ、それはいいや。今日は完全に『五輪堂』の日だし」
「入るわよ~」
いぶきの声に被せるようにして、母さんの声が聞こえてきた。
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