第4話「海と風の王国」

 そのまま時計塔の下で、二人を観察し続けるわけにもいかなかった。

 いつも通り、時計塔のすぐ側の店に向かうことになる。この店はオープンカフェ――こういう状態を“オープン”と言って良いものかは、わからないけど――があり、そのテーブル席を希望した。

 つまりJR大阪駅のホームを上から眺めることが出来るわけで、こういった席を設置することが出来ただけで、この店は立地上は勝ったも同然だと思う。だが、今日ばかりはそんな絶景を堪能する余裕はない。

 別に喧嘩腰では無いのだろうが、くだんの女性にジッと見つめられているからだ。

 四人がけのテーブル席で、僕が片側に座り、小谷さんとその女性が並んで座っている。

 僕の正面が小谷さんだね。だから女性からは斜めに観られている形になるのか。

 それぞれの前には、それぞれの注文の品が並ぶ。

 僕がアイスコーヒー。小谷さんがアイスティー。で、その女性の前にはアイスティーにプラスしてベイクドチーズケーキ。

 前に彼女が食べていたのが「黒獅子」謹製濃厚豚骨ラーメン。

 ……無理に共通点を探す必要は無いな、うん。

 さて、めいめいが一口ずつ注文した品物に口を付けたタイミングで、本題に入ることとなった。

 つまりはそれぞれの紹介が始まる。

「こちらは僕の姪。名前はいぶき。姓は同じだね。小谷こたにいぶき」

 小谷さんは、随分遠回りして、その女性――いぶきさんを紹介してくれた。

 比べてみれば、見た目は確かにそんな感じの年齢差だ。

 今日も青色系の服。ただしサマーニット。そんな感じの出で立ちだった。

 そして、今度は僕が紹介される番になる。

「いぶき。改めてだけど、こちらが安原やすはらさんだ。安原朋葉ともはさん。会ったことはあるよね?」

(ん……?)

 そんな小谷さんによる僕の紹介を聞いて、僕は思わず眉を潜めてしまった。

 あの「黒獅子」を巡る顛末を、わざわざいぶきさんは小谷さんに報告しているのだろうか?

 いや、それ以前に何故、僕が小谷さんと知り合いである事を知っているのか……

「ああうん。朋葉くんが戸惑うのもわかる。ちょっとややこしいからね。何から説明すればいいのか……まずね、いぶきは『海と風の王国』のファンなんだ。愛読者と言った方が良いのかも知れない」

 そんな小谷さんの説明が耳に届いたとき、僕は自分の呼吸が止まったことを自覚した。

 正確に言うと、その瞬間、呼吸の仕方を忘れたと言っても良い。

 そして、その説明が開始されると同時に、いぶきさんの頬が赤く染まった事にも気付いてしまった。

 どうやらファンである事は間違いないらしい。


 そう。


 間違いないのだが……。

「あ、あんな、途中で終わった……終わらせるしか無かった“アレ”を、ですか?」

 どうも息継ぎが上手く出来ない。

「アレ、なんて言わないで! 貴方が描いてたのに、どうしてそんな言い方するんです!?」

 ……何故知ってるんだ、彼女は。

 その理由を探せば、答えはすぐに見つかる。

 もちろん小谷さんだ。

 思わず小谷さんに目を向ける。

 そうすると小谷さんは両手を挙げて、降伏の意思表示。

 僕の推測は、すぐさま小谷さんの“自白”によって正しさが証明されたわけだが、その時同時に僕は別の記憶を刺激されていた。

「……あ、もしかして、あの時の女の子って……」

「そう。覚えていてくれて嬉しいよ。たしかに、いぶきは先生の仕事場に連れて行ったことがある。その時も――」

「そうだ。小谷さんは、今みたいに両手を挙げて――」

 そして女の子は真っ赤になって、それでも挑みかかるように僕に色紙を差し出してきたんだ。

 ちょうど、今のいぶきさんと同じ表情で。

 僕はテーブルの上のアイスコーヒーをストローで一啜り。

 なるほど。

 この場に着いてから抱いていた、ほとんどの疑問はこれで解けたようなものだ。

 けれど言っておきたいこともある。

「……小谷さん、いくら何でも“公私混同”し過ぎじゃないですか? 昔も、そして今も」

 この僕の言葉に対して、さすがに二人揃って小さくなった。

 さて……どうなるんだ、今日の“再会”は。




 「海と風の王国」

 

 今から六年ほど前に「月刊イカルガ」に掲載されていた漫画だ。確か「大河ロマン」というようなコピーがついていた気がする。

 そのコピーについての主犯は言うまでも無く小谷さんだろう。担当編集だったし。

 描いていたのは「やすはらなおき」――僕の父さんだ。

 メジャーな週刊誌で連載を持っていて、実際今でも印税が入ってくるほどの人気作家だった。

 だけど「海と風の王国」を描いていた頃には、いわゆる一線からは退いていた。

 ……言葉を選ばなければ、そういう評価になるんだろう。

 けれど当の本人は、けっこう余裕があった。


「好きな漫画が描けるぞ」


 なんて台詞を何回聞いたか数え切れないほどだ。

 「海と風の王国」は、まさに父さんが描きたかった漫画だった。

 それに「イカルガ」を出版していた碧心社も、担当の小谷さんも、その……危険というか、無謀というか、そんな会社であったことも大きい。

 しかし今考えてみても「海と風の王国」はかなり地味な漫画だった。


 時は十九世紀中期。地中海にある、さる王国が舞台だ。

 その国と、それを取り巻く周囲の国を巡って繰り広げられる群像劇。

 メインとなるのは、二人の少年だ。

 ファビオとアンドレア。

 ファビオは南米帰りの名将に憧れ、アンドレアは政治家として苦悩する叔父の姿を目にしていた。

 二人の運命は時に交錯し、時にぶつかり合う。

 二つの運命が徹底的に分かたれることとなったのは、名将と政治家の間に修復不可能な亀裂が入ってしまったからだ。

 政治家は、名将の故郷を大国に譲ってしまった。

 それはまさに“政治的判断”というものであったのかも知れない。

 だが名将は、それを粛々と受け入れたりはしない――するはずがない。

 こうして二つの巨星は袂を分かった。あらゆる意味で。

 その影響は、当然のことながら少年達の関係性にも及ぶ。

 名将を慕い転戦を繰り返すファビオ。

 叔父の元で、物質的には恵まれながらも虚々実々の政治の世界を見続けることになるアンドレア。

 そして、ある時ファビオは敵対組織の銃弾に倒れ――


 ……概ねこんな感じの展開で、そしてここでこの漫画は途切れている。

 理由は――父さんが、ここで死んでしまったからだ。

 交通事故、と言っても良いのかわからないけど、車の暴走に巻き込まれる形で父さんは命を落とした。

 そんな状況で「海と風の王国」を続けられるはずが無い。

 作者がいなくなってしまったのだから。


 ところが、だ――

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