第39話 手紙

 晴天の下、風が強く吹いている。

 ざあざあと吹き付ける風は草木を揺らし、サリヴァン侯爵家の旗を空に張る。

 冬の始まりを告げる冷たい風である。

 虎剣山の麓は山を背にした自然の要塞だが、そこからしばらく進めば草原が続いている。

 リリー率いる一行はこの草原に天幕を設置して、齊天后の使者を待っていた。


虎剣颪こけんおろしを背に受けて、か」


 リリーが口ずさんだのは、この地域に伝わる歌だ。

 戯曲などで有名になったが、元々は革のなめしや蹈鞴製鉄たたらせいてつの折に調子を合わせるための歌である。

 右手の痛みは未だ完全に取れてはいない。力を入れると腕の芯が小さな痛みと痺れを伴う。それでも動かせないという訳ではないが、死神ほどの格を持つ刺客が来たら負けるだろう。

 あの男とも決着をつけねばならない。


「ふふ」


 リリーの口元から、小さな笑みが漏れた。


「どうした、リリー」


 声をかけたのはラファリア第三皇子、いや、皇帝陛下だ。


「陛下、天幕から出られては」



「そのような口を利くな、リリー。頼むよ」


 風に髪がたなびく。


「わたしの前に現れる男はみな、ろくなものではないと思ったのさ」


「俺もか?」


「貴方もだよ」


「……それを言われると立つ瀬が無いな」


 ラファリア皇帝は言って、虎剣山を見上げた。

 勇壮な山である。


「帝国は、広いものだ。俺は知らなかったよ」


「わたしもだよ」


 巡礼の旅は、修行の旅よりもずっと広く長い道を歩んだように思う。

 リリーは風で乱れた髪を左手で整えた。


「シャルロッテは、悪女だったか?」


 ラファリア皇帝は首を横に振った。


「まさか、ただの町娘だったよ。だからだろうな、父上の瞳を開いたのも、齊天后殿に愛されたのも。水晶宮では手に入らぬひとだったからだろう」


「まさに、運命の主人公か」


 言ったリリーは、左手で抜けるよう逆に据えた剣の柄をさする。

 斬れないだろうな、と思う。


「リリー、勝算はあるのか?」


 ラファリアはあえて、リリーの名を呼んだ。どこか、以前とは違って見えたからだ。


「フレキシブル教授の話を聞いただろう。あれが言うのなら、きっとあるんじゃないか?」


「彼を信用してない口ぶりだ」


「あんな胡散臭い男はおらんよ。だが、友の友で、死線を越えた仲間だ」


 ラファリア陛下は真面目くさって言うリリーに破顔した。


「ははは、リリーらしいな。お前はいい女だ」


「貴方が夫になっていたら、どうしていただろうと思うよ」


 アヤメと友達になることもなかっただろう。


「夫であったら、どうしていた?」


「貴方の死にたがり癖を治してやったさ。ここに来る必要は無かったというのに、死にに来たな」


 この天幕は齊天后の使者を迎えるためのものだ。

 サリヴァン侯爵や有力な諸侯は本陣に待機したままである。当然ながら、齊天后が刺客を放つことを恐れたためだ。


「俺は飾りにすぎんよ。ここで斬られれば、それはそれで大義名分は立つ」


 リリーは何も言わなかった。

 ラファリアもまた無言で虎剣山を見つめる。


「陛下、わたしも知っております。地獄は暗く冷たい、心地よい逃げ場所だと」


 ラファリアは突如として噴出した地獄の瘴気を纏うリリーに振り返った。

 一度死した皇帝陛下には見える。

 リリーの背後に、鬼女がいる。かつての前世とでも言うべき記憶の中にいたリリーがいる。


「そ、それは」


「貴方の言う前世のような場所の、わたしだよ。ゆえあって、共にいる。地獄に堕ちたのは他ならぬ己のことさ」


「そ、そのようなことが」


「ある。貴方がここにいるように、ある。だから言おう。罪滅ぼしというのなら、貴方にも戦うことは出来る」


 地獄より帰還した皇帝陛下には地獄の力が付き纏う。吐息には瘴気が混じり、その瞳は地獄の気配を読み取る。


「俺のような罪人に、何が」


 リリーは続きを聞く前に、皇帝陛下の腹に左拳を突き入れた。

 小さく呻いたラファリア皇帝陛下は、膝から崩れ折ると嘔吐した。


「腹がガラ空きだ」


 皇帝陛下が相手だ。リリーも多少は遠慮して加減したが、痛くするようにしている。


「な、なぜ」


「ラファリア皇帝陛下、前を見られよ。貴方をお助けする臣がいます。貴方の剣であるわたしがいます。貴方を好いている女がいます」


 ちらりとリリーが見るのは、天幕の陰に隠れるアヤメの姿だ。


「だが、俺の手は何も、何もつかめん」


「知ったことか。そこに、目の前に、手があり足があり目と耳と鼻と口がある。アヤメはお前を本心から好いているぞ。お前だけが希望の光であると、命を賭した。立てよ、皇帝陛下」


 リリーは助け起こそうともせず、左手を伸ばした。


「もう一度、俺にやらせるのか」


「お前の前世など、どうでもいい。お前がやるべきことをやれ」


 見えぬものに縛られるのにはうんざりだ。

 カグツチよ、お前はどうやって生きた。魔人の哀しみをどうやって飲み干した。生きるのはこれほどに辛いというのに、どうして笑って逝けた。


「やるべきことを、いつも、俺は間違う」


「今は正しい。多分だけど」


 伸ばされたままの左手に、ラファリアの冷たい手が重ねられた。

 引き起こせば、存外に重い。男の重さだ。


「昼二つには齊天后殿の使者も来る。陛下、何があってもお守り致します」


「頼む」


 リリーは虎剣山に目をやってから、どこにいくともなく歩き始めた。

 天幕から遠くへ行く気はないが、しばらく歩いてみる。

 背後の気配からするに、アヤメがラファリアと何か話しているようだ。

 妙なことをしてしまったと、反省する。

 そろそろ婚儀のことを真剣に考える年齢だというのに、未だに恋というものをしていない。

 子を作ることがどういうことなのか知っているし、性欲も当たり前にある。自分を慰めることもあるが、その時に考えるのはいつも顔の無い相手だ。

 草原を歩きながら、自嘲の息を吐き出す。


「参ったな」


 本当は年頃の友達に相談することなのだろう。

 貴種としてどうすれば良いのか分かっていても、人としての営みに対して無知であった。

 ラファリア、ウド、叔父上、リッド、フレキシブル教授、黄金騎士、周りの男たちは皆、その相手の範囲外だ。

 生きて帰れぬかもしれないというのに、何を考えているのか。

 リリーは独り、笑った。


「やあ、散歩かね」


 声をかけてきたのはフレキシブル教授である。

 鍛冶屋が作業時に着る革の前掛けに分厚い革手袋、それにねじり鉢巻きという姿だ。

 黒眼鏡を外してそんな格好をしているというのに、紳士然としているのは流石の一言。資格も無いというのに教授を自ら名乗るだけはある。


「なんだ、その格好は?」


「ああ、少し作業をしていてね。……迷ったが、保険をかけたい」


「どういう意味だ?」


 フレキシブル教授は、懐から銃を取り出した。

 殺気は無く、銃身を持っていることからも撃つ気ではない。

 困ったような笑みと共に、彼はそれを差し出した。


「お前の得物だろう。わたしに渡してどうする?」


「拒否するのは分かっていたよ。後々の保険だが、これは切り札になるかもしれない。使い方を教えるから、受けとってくれ」


 強い風が吹いている。


「お前の銃はどうする?」


「ああ、これは予備だ。僕の分はちゃんとあるよ」


 見つめ合えば、フレキシブル教授の瞳に何かがあるのが分かった。それは、とても複雑な色だ。


「いらん。頼るのは一つだけでいいさ」


「参ったな。キミがそう言うなら、渡せないね」


 短い言葉だけで、互いの気持ちは伝わった。

 使い方を知っても、銃は好きになれそうにないとリリーは思った。





 昼二つ、時間に遅れることなく齊天后マフの使者はやって来た。

 戦士の一団が来ると思っていたが、豪奢な馬車とその護衛たちは行軍というには華やかに過ぎる。

 それは、有力貴族の姫が嫁入りに向かう祭りのものに似通っていた。

 解放軍側は油断なく彼らを迎えた。

 ラファリア皇帝が天幕の中に待機しているのは、権威を見せつけるためである。今となっては有名無実だが、皇帝が自ら出向くなどあってはならない。

 リリーもまた姫の装いでそこにいた。

 剣をその手に持ってドレスを着ているのは奇妙なことだ。こんな時、いつでも正装でいられるアヤメの司祭服が羨ましくなる。

 近づいてくる先導の馬を見て驚いた。

 鎧姿の偉丈夫である。

 その顔かたちは、ほんの少しだけリリーに似ている。一族の証であろう。ヴィクトール叔父であった。


「サリヴァン侯爵軍よ、我が名はヴィクトール・ベルンハルト近衛大将である。齊天后殿の使者として参った」


 惚れ惚れとする大声だ。

 大声には才能と技術が必要である。

 声は高すぎても低すぎてもいけない。兵の士気を高め、舌戦においては威圧感と説得力を持たせる。大声とは戦いの業である。


「正統なる皇帝陛下への拝謁を許そう、ベルンハルト伯、そして齊天后殿の名代よ」


 リリーもまた大声で応じた。


「名乗り無き女が陛下の臣であるか」


 ヴィクトールは挑発の言葉を発したが、その瞳には暖かなものがある。

 互いが互いを害する間柄となっても、叔父と姪であることには変わらない。


「リリー・ミール・サリヴァン、人喰い姫である」


「『ミール』の名で人喰いであるか」


 リリーのいみなである『ミール』とは食を意味する。穀倉地帯を支配するサリヴァン侯爵家が女子に付ける伝統的な名だ。祖先には幾人も『ミール』がいたが、人喰いへと転じたのはリリーだけだ。


「人が呼び、天が呼んだあざなである。天に等しいお后、齊天后せいてんごう殿と並び立つ二つ名であろう」


 齊天后とは、天に等しい后という意味だ。

 ヴィクトールは嬉しくなった。

 姪は逞しく、そして、強くなった。この時代を左右するほどに、強くなったのだろう。


「不足なし」


 叔父上は何も変わられていない。

 敗北の後に辛酸を舐めたであろう。しかし、貴種であり帝国に尽くす騎士の鑑のままであった。

 リリーは嬉しくなった。


「左様か。参られよ」


 国を割る戦であっても、どちらかに血が残ればサリヴァンの命脈は保たれる。ずっと昔から貴種がやってきたことだ。

 それを分かる者はどれほどいるだろうか。

 天幕に付き添った年嵩の騎士の中には、顔を変えぬために奥歯を噛み締めている者がいた。

 敵味方に別れた肉親のやり取りがどれほどに優しく残酷なものかを理解すれば、涙も落ちる。

 ヴィクトールは馬から降りると、馬車に向かい片膝をついて扉が開かれるのを待った。


「ぐっ、く、うぅぅ」


 リリーは砕けんばかりに奥歯を噛み締めて、声を殺す。

 ヴィクトール叔父に手を借りて馬車より現れた女から目を離せない。

 神具であると一目で知れる白銀の輝きを放つドレスに身を包み、鮮やかな金糸銀糸で飾られたベールから見える相貌は間違えようもない。

 きらりきらりと、その身を飾り、守護する神具の装飾品が太陽の光を反射していた。


「ヴィクトール様、ありがとう」


「姫様、足元にお気をつけ下さい」


 無骨な騎士と姫のやり取りに、リリーはより強く歯を食いしばる。


「エスコートして頂けますか、人食い姫様」


 姫は鈴を転がすような声で言った。


「……よろこんで」


 騎士のように手を取れば、その手は柔らかくて小さい。そして、ざらついて傷のある町娘の手だ。


「シャルロッテ・ヴィレアムと申します。この度の使者として、齊天后様の名代みょうだいとして参りました」


「リリー・ミール・サリヴァン、人喰い姫と呼ばれております」


 手を取って見つめ合えば、ベールの奥の瞳に涙が溜まっていることが分かる。

 だめだ。

 泣くな、わたし。

 ラファリアに聞いた顛末から予想していたことの一つである。

 帝都で出来た友達は齊天后殿に報いるのだろう。だから、こうして敵になったことを知らせに来てくれた。

 天幕まで案内する時間もまた、優しさに満ちた残酷なものであった。


 堂々として、たおやかな姫ぶり。

 シャルロッテは貴人として振る舞い、共同戦線受諾を告げた。

 作戦は単純だ。

 逃げ場を塞いで奇襲する。


 帝国は大森林に結界を張り妖精を閉じ込める。そして、妖精の巣穴を守護する結界を、齊天后マフ、宵闇の魔女リシェン、そして、影法師の三魔人が破壊する。

 妖精の巣穴には各陣営の精鋭がそれぞれに人を送り、巣穴の奥にいる妖精の本体を叩く。この間は決して互いに争わないことを約束した。

 調印には、帝国公用語と魔人のみの知る魔界語を用いた書状が使用された。

 リシェンがそれを確かめ、リリーが名を記した。

 休戦協定はあっさりと結ばれ、心は千々に乱れる。

 互いに役割以上の言葉は交わせない。


 使者の帰りを見送る段になって、リリーとシャルロッテは形式に沿って握手をした。

 互いの手は温かい。

 冷たい風にさらされる中のことだ。手の温もり、そして、互いの手の質感に感じる。

 リリーのそれは、運命という訳の分からぬものに姫とされた彼女の変わらぬ手である。

 シャルロッテのそれは、奇妙な友達の戦う強い手である。


「ごきげんよう、リリーさん」


 昔の呼び方をする。


「シャルロッテ、また会おう」


 昔のように呼び捨てにする。

 互いの口元には穏やかな笑みがあった。


 語り合うには遅すぎた。


 帰りの馬車で解放軍の陣営より離れた後は、奇跡の神具で一行は瞬時に帝都に戻る手筈である。

 シャルロッテが馬車に乗る時間は、長くとも二時間というところだ。


「渡せなかったな」


 独り言が漏れる。

 ずっと手元にあり続けた手紙を渡すことはできなかった。

 次に会う時は、敵同士だろうか。

 アメリを、いや、齊天后マフと共にあると決めた。あのひとを一人にはできない。どうしてそんなことをしてしまうのか、それは自分自身にも分からないことだ。

 異なる時間、異なる未来で、シャルロッテは相手こそ違えど、同じ選択をする。

 時代が求めたのかもしれない。

 栄光はただ一人に。

 少女の愛を得る者が、勝者となる。


「みんな、仲良く出来たらいいのに」


 その言葉はあまりにも空虚で、シャルロッテの瞳から予期せぬ雫が流れ落ちた。

 妖精の討伐が始まる。

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