妖精

第38話 終わりの始まり

 腕に走る雷紋は、雷のような痛みを遺した。

 歩くこともままならない状態で、大鹿のミラールも傷ついていた。

 アメントリルの居住地でしばし体を休めねばならない。



 不思議な風景だとリリーは思う。

 伝説の英雄、異界からの稀人まれびとが望郷の念で作り上げた偽りの安息地である。

 影法師はアメントリルの住まいであり墓標であるこの屋敷だけを手入れしているのだと言った。

 偽りの世界は朽ちつつあるというのに、その中心だけが整えられている様は、侘しさと哀愁をより一層際立たせた。


 体を休めるといっても、鍛錬を積むことはできる。

 ごく軽いものだが、リリーはその動きを繰り返す。

 左手で剣を持つ。

 右足、左足、左腕、首、滑らかさを失わないように、ゆっくりと動かしていく。重いものを持ち上げるイメージで、ゆっくりと。剣は手放さない。

 体よりも心が疲れて、全身はじわりと熱くなる。

 頭の先から汗が流れ落ちて、その後は息を整えて水を飲む。

 アメントリルの楽園にある水は、どれも妙な味がする。

 影法師が言うには、それ自体には何の悪影響も無い。ただ、聖女の故郷にある水の味なのだとか。


「お体に障りますよ」


 影法師が気遣いの言葉をくれる。


「問題ない。あとは体を動かすことは無いからね」


 リリーは妙な苦みのある水を頭から被る。

 水を滴らせたまま向かうのは、アメントリルの下だ。

 奇妙な屋敷の庭に積み上げられた金属の鋳塊(インゴット)は、神秘の金属に聖女の肉を混ぜ込んだものなのだそうだ。そして、それ以外の魔人もまた、肉体の消滅を望めばそうなって、この塊に積み上げられていくのだとか。

 リリーの背丈ほどに三角形に積み上げられた鋳塊。

 その前で、リリーは座禅を組んだ。

 初めて見た時から、この金属からは何かを感じていた。

 忌まわしいようで、呼ばれているようで、威嚇されているようで、優しく見守られているようで、矛盾だらけの混沌とした何かを訴えかけている。


「アヤメはいつから」


 鋳塊のピラミッドを挟んだ対面では、アヤメが同じく教会式の祈りを捧

げている。


「朝からです」


 偽りの太陽は正確に時を刻む。

 今は、昼二つか。


「何か食わんと倒れるぞ」


「食べましたよ」


「ここの料理は妙な味だよ」


「ふふ、教会にも一部は伝えられた料理ですよ。私も子供のころは苦手でした」


「そうか」


「はい」


 アヤメと気安い言葉を交わすのにも慣れた。だけど、未だに不思議だと思える。

 風が吹いた。

 これもまやかしの風だ。毎日、同じ時間に同じ強さの風が吹く。

 屋敷の縁側を見やれば、黄金騎士と魔女リシェンが寄り添って座っていた。

 魔女リシェンはここに来てから、老婆のように縁側に座ることが多くなった。

 あれは、母と子なのだ。あの二人は奇縁により手のひらから零れ落ちたものを再び見つけ出したのだろう。


 アメントリルよ、お前は何を見つけてこのようなことをしたのか。


 アメントリルの遺した書付をフレキシブル教授が解読しているところだが、まだその結果は出ていない。


「分からんな」


 死人の声は聞けない。


「対面、邪魔をする」


 リリーが言えば、アヤメは片目を開けて答える。


「どうぞお好きに」


 剣を置いて、座禅を組む。

 リリーは座禅の姿勢から、瞑想の世界へ。自らの内部へと沈んでいく。

 息吹は自然と合一する業であると師は言った。

 リリーはそう思わない。

 人は自然を食い潰して生きる。だが、それは悪ではない。ならば不自然とは何か。

 不自然、それこそがリリーの剣。死神、戦乙女、齊天后マフ、そして、師匠。我々こそが自然から外れた者だ。


 勝つための剣であった。

 生きるための剣であった。


 ああ、右腕に住まう雷神の残り香が疼く。

 リリーにとって、痛みは愛おしい隣人である。

 体が強くなるほどに、死線を越える度に、痛みとの距離は近くなる。

 集中の世界へと入る。心を落ち着かせて、深く深く。

 師の瞑想はあまりにも深く沈み込み、野性の動物ですらそれを人と認識できぬほどであった。

 師はどう言っていただろうか。


「アヤメ、祈りを捧げる時はどうやって心を糸にするんだ?」


 糸にするというのは、師が使っていた表現だ。


「糸にする、ですか。面白い。教会では鏡の中に入るというのです」


「鏡か、信徒以外が試すのはダメか?」


「そういう決まりはありませんけれど……。糸にするというのは、真似をしても?」


「なら、お相子だな」


「ふふ、そうですわね」


 互いに光と影であると知る。

 太陽と月は互いを見ない。

 それでも、月の真似をしてみたいと思うこともある。

 アヤメはそんな行を積んでいるのに客観視が苦手なようだ。たまに、とんでもなくズレたことを言う。

 リリーは口元だけで笑う。声を出そうものなら、アヤメは達者な言葉で責めてくるからだ。




 暗い世界に鬼火が揺らめいている。

 幻視の世界は寒々しい。

 鏡をイメージすれば、その中にいたのは鬼女である。

 体を鍛えないというだけで、このわたしが姫になるのか。それは、とても面白いことのように思えた。

 鏡の中から抜け出した手を握れば、たどり着くのは暗黒の世界。


『ここは、地獄とこの世の狭間』


 そんなものがあるのか。


『全てが曖昧で、全てが非在の世界』


 鬼女が指差す鬼火の中に世界が見える。

 そこにあるのは、シャルロッテがなよついた男とくちづけを交わす世界。

 またこれか。

 あったかもしれないものなど、釣り落とした魚と同じではないか。


『たくさんの未来がある。それを選ぶのはお前ではなく運命であった』


 ああ、お前、私ではないな。

 鬼女であったものと見つめ合う。


『お前は何も考えないでここに来たのか』


 考える?

 今まで最善を考えてきたつもりだが。異なことを言う。


『知性ではなく情でここまで来たか』


 情?

 分からぬことだらけだ。


『それで良い。分からぬとも来れる。それこそが人間である』


 何かの魔の類だろうか。

 それにしては、何も感じない。

 敵は斬ればよい。

 そのはずだった。だけど、今は斬れないものも出来た。

 例えば、アヤメが教会の刺客になったらどうだろう。

 ああ、ダメだな。アイツはそんなことをしないと分かってしまっている。じゃあ、ウドならば、無いな。それも無い。


『斬らぬことを選ぶか』


 斬れないのさ。

 リリーは、斬れないものがあると知った。

 自らの心が、魂が斬ることを許さぬものがある。それを斬るというのなら、自らを斬るのと同じ結果となる。


『斬りたいかね』


 分からん。

 あまりにも分からなさすぎて、それでいいと思っている。

 斬らぬと心が決めるのであれば、その逆もあろう。


『なら、アレは斬れるかい』


 鬼女は姿を変えていた。

 そこにいたのは、リリーとよく似た形をした何かだ。

 それが指差すところには、アメントリルの亡骸を埋め込んだ鋳塊がある。

 鋳塊は蠢いて、瞬く間にどろどろに溶けて人の形を為した。


『届かぬことへの嘆き、悲しみ、憎しみ、羨望、後悔、それらはお前が斬らぬと決めたもの』


 負の感情を持たぬようにしていたつもりである。

 リリーは不意に悲しくなった。

 今まで護られていたことにすら気づかなかった。

 師も、友も、自らを護っていたのだ。

 嘆きを貪らぬように、憎悪に曇らぬように、悲しみに溺れぬように、羨むことで足を止めぬように、後悔に酔わぬように、護られていた。


『呑み込めば、お前は世界の王にも竜にも成れる』


 どうしたらいいのか、いつもそればかり考えている。

 でも、いつだって答えはその瞬間にしか出ない。


「分からんが、お前は気に食わないよ」


 声を出せば、口元が笑みを刻む。

 左手で抜いた剣を振りぬく。手応えはあった。

 リリーが斬ったのは、自らの歪な鏡像である。


『愚かな選択をしたな。お前は資格を失った。二度とここに至ることはあるまい』


 なるほど、命のある存在ではないか。

 ただ、歪な像を断ち切っただけに過ぎず、それの存在は揺らいでもいない。


「余計なお世話だよ」


 リリーは神を信じない。

 ただ、そこにあるものだけで生きる愚か者である。




 目を開けば、さんさんと輝く偽りの太陽と、蝉の声。

 魔人の財宝である神珍鉄の鋳塊は、振りぬいた剣の軌道で断ち切られていた。

 鉄で、より硬い神秘の鉄オリハルコンを斬った。


「なあ、わたしがやったのか?」


 声に出せば、アヤメから返答は無い。

 対面のアヤメは瞑想で深い所にいる。外界の音にすら気づかぬほどの深く、自らの奥底に。

 不意に、気配が表れた。


「理解不能です。あなたの持つアンコモンに属するオブジェクトで斬れるはずが無いというのに。斬ってしまわれた」


 言葉を発したのはアメントリルの影法師である。


「わたしにも、お前の言うことは分からんよ」


 少し、腹が減った。

 何か甘いものを食べたい。

 伝えると、影法師は大きな西瓜スイカを用意してくれた。

 裏の畑で手ずから栽培しているのだとか。

 瞑想中のアヤメの分は残して、作業を中断したみんなで食べる。


「こんな美味いスイカがあるとは」


 あのウドですら、その甘さに驚いて笑みをみせるほどだ。

 真っ赤な果肉に齧りつくと、確かに甘い。

 荒地で出来上がるものとは雲泥の差がある。真っ赤な果肉は、菓子に塗す砂糖よりも甘いと思えるほどだ。

 年老いた奴隷たちは先を争うように貪り、リシェンと黄金騎士も嬉しそうに食べている。


「ここは、いいところだな」


 リリーのつぶやきを聞く者はいなかった。

 閉じられた武陵桃源ぶりょうとうげん。聖女の安息地か。

 こんな場所に、独りで過ごすのは寂しいだろうな。

 何もかもがあるのに、自分しかいない。

 手をつけていない西瓜を一切れ取って、鋳塊の下へ。

 アメントリル、そして、故郷を同じくする魔人の肉体はこの鉄に混ぜ込まれているという。あの石碑とどちらに供えようか迷ったが、斬ってしまった詫びに積み上げられた鋳塊にお供えすることに決めた。


「お前らの苦しみは分からん。それでも、やってみせよう。運命なぞ、クソ喰らえよ」


 作法は知らないので、教会式で祈っておいた。



 リリーとミラールが体を癒すのに二週間をかけた。

 アメントリルの造りだした居住地は、確かに楽園だったのだろう。

 奴隷の老人たちの瞳からは世を恨む凶刃の鋭さが消えてなくなり、魔女と黄金騎士は親子のようで、アヤメとウドもまた兄妹のようで、そして、リリーもまた、ただの少女のように過ごした。

 右腕の痛みは万全に癒えることはなかった。

 リシェンの見立てではあと一月はかかるとのことだ。


 出立の日、リリーは虎の毛皮を纏って旅装束に着替えていた。

 他の皆は準備を済ませている。

 無数のクア・キンの神具もあったが、リリーはどれにも惹かれなかった。

 アヤメとウドは幾つかの神具を持ち帰ることにしていて、リリーも勧められたがどれもしっくりこない。

 瓜を斬るように人を斬る剣など、剣では無い。そんなものを扱う業は知らないのだ。


「あなたは不思議な人です」


 影法師はリリーの傍らにいる。

 彼女は主の傍に控えるものだという。


「そうか?」


「あなたは、アメントリルの望んだ人物なのでしょう。アメントリルはあなたのように矛盾していました」


 影法師は目の前のリリーを見ていない。優しき狂人アメントリルのことに思いを馳せているのだろうか。


「わたしを神仙か剣のことだけ考えている女だと思っているんだろう? わたしはだいたいそこまで考えてないんだ。ただ、目の前のことで手一杯のただの小娘だよ」


 小娘の旅も、半分を終えた。

 思えば遠くまで来たものだ。

 帝都まで、三月はかかる旅になる。


「影法師殿、何か名前を考えようか」


「……神具であるこの身は影法師で十分です。それは、きっとアメントリルの望まれたことです」


「そうか」


 主に忠義立てする神具がいる。

 いいじゃないか。嫌いじゃない。


「ははは、どうにも、わたしは、お前みたいなヤツが好きなようだ」


 リリーが笑うと、影法師は小さく「理解できません」とつぶやく。

 みんな不器用だ。

 アヤメも、ウドも、奴隷たちも、ミラールも。そして、目の前の影法師も。

 アメントリルの居住地の出入りには影法師が結界を解除する必要があった。

 来た時とは逆に、影法師の術により空間を歪めた出口が形作られる。

 死の陰の付きまとう旅路となろう。

 外に出れば、亜人たちの集うセカイジュの景色が目に飛び込んでくる。

 蒸し暑さはなりを潜めて、穏やかな風が吹いていた。


「そうか、もう秋が始まるのだな」


 一行が姿を現すと、リッドやディネルースが駆け寄ってくる。そして、影法師に気付くとエルフたちは平伏した。


「私はアメントリルの影法師。あなた方の言う優しき森の魔女はとうの昔に死んでいます。礼は不要と知りなさい」


 リリーはその様子に小さく息をついた。

 教会はこれで味方になる。

 傍らのアヤメもまた影法師に対してなんともいえない顔をしているのだ。彼女ですら、影法師をどう扱えばいいのか分からないのだろう。


「アヤメよ、帝都へ帰ろう」


 アヤメはリリーの言葉に呆れたように笑う。


「巡礼を達成した証拠として、影法師殿はこれ以上無いものになりますし、問題ないでしょうけど、どうします?」


「まずは妖精を斬り、次は齊天后殿を斬ろう」


 リリーの口から飛び出した言葉は、あまりにも自然である。なんでもないことのように物騒なことを言った。


「……大逆人となりますよ」


「わたしは、人食い姫だぞ」


 この時になって、リリーはアヤメが痩せたことに気付いた。

 自らと同じように、巡礼の旅で研ぎ澄まされたのだ。数か月の旅路は、まるで十年にも匹敵するものであったように感じる。


「お供しましょう」


「いいのか?」


「いまさら、何を言うのですか。わたしは、生涯手に入らぬはずのものを手に入れたのですよ」


「それは」


「友達と仲間」


「気恥ずかしいな、アヤメ」


「言わないでよ、リリー」


 互いに笑みを浮かべて顔を見た。

 太陽と月、昼と夜、それほどに違う二人だった。

 アヤメが左手で握り拳を作る。リリーも左手を握りこみ、拳を軽くぶつけ合った。





 今更になって魔封の森がどこにあるか判明した。

 帝都から西へ延々と進み辿り着くチェ・クン自由都市連合の先である。

 ここから帝都まで、急げば二か月程度で、意外に近いところにあったと知り驚く。

 出発を前にして、フレキシブル教授とリッド、ディネルース、魔女に黄金騎士を含めた一同は天幕に集まっていた。

 場を仕切るのはフレキシブル教授である。


「さて、色々と話すことはあるけど、いいかな?」


「余計な脱線さえなければ、なんの問題もないよ」


 リリーが言えば、誰からともなく苦笑が漏れた。

 諧謔(かいぎゃく)に富んでいるとはいえ、フレキシブル教授の言葉は遊びが多すぎるきらいがある。


「ふふ、言うじゃないか。まずはアメントリルの遺した日記にあったことを語ろう。彼女の目的は、この世界の運命というか、未来の予言のようなものを覆すことだよ」


「それがあの蟲共とどう関係するというのだ」


 黄金騎士が言う。

 妖精には辛酸を舐めさせられている。


「アメントリルは強大な力を持つ妖精と友になり、利用している。予言には無い未来を妖精に実現させるよう仕向けているんだ」


「……その未来というのは?」


 アヤメが問うた。

 アメントリルが聖女らしくないことについては、どうでもいい。

 フレキシブル教授は珍しく苦い表情を作った。


「この時代に起こる本来の、そうだな、今は物語という言葉を使おう。本来の物語は、平民の娘が聖女候補に選ばれて王族と結ばれるというものなんだ」


「シャルロッテのことか」


 鬼女のいた世界と、瞑想の中で出会った何者かの見せた光景は、まさしくそれだ。


「そのとおりだよ。誰からも愛される少女が、時代に残る恋を成就させる。それが物語なんだ。そして、そこにはリリー、キミの物語もある」


「知っているさ。わたしは悪役なんだろう? 首を斬られるか鬼になるか、そのどちらかだ」


「それを知って平然とするんだね」


 リリーはにやりと笑う。

 虎を連想させられる笑みである。腹がスースーするという理由で虎の毛皮を巻くような女だ。


「それで、アメントリル様はどのような未来を御創りになろうとしていらっしゃるの?」


 アヤメが問う。


「……言って怒らないかな」


「内容によります」


「ちょっとそれは怖いな」


「早く言いなさい」


 フレキシブル教授は黒眼鏡を外してアヤメを見た。その顔は、アヤメの好みで、少し見惚れてしまった。


「誰からも愛される少女は、学院の教師に始まり三人の皇子、そして、幼馴染の双子、彼らを全て籠絡して、全てを恋人とするそうだよ」


 アヤメの顔が引き攣る。

 聖女アメントリルは父親が娘を犯すことを禁じ、奴隷制度を廃した聖女だ。


「解読が誤っているのでは? 殺しますよ」


 と、アヤメが物騒なことを言う。


「穏やかじゃないね。残念ながら事実だ。どうにも、物語には無かった内容らしいんだけれど、アメントリルは謎の言葉で表現してるね。夢の物語とか、虹がどうとかコウシキに対してざまあみろとか」


 笑い声が響く。

 その発生源は、魔女リシェンだ。


「ははは、ははははははは、そうか、ははははは、それはいい。未来の破壊、はははははは。その物語は、あり得ない物語。魔人だけが知る、あり得ない未来」


 リシェンはひとしきり笑ったあと、目を伏せた。


「アメントリル、お前が生きている間に会いたかったよ……。リリーよ、我もそなたの旅に連れていっておくれ」


 魔人にしか分からぬ何かがそこにあるのだろう。


「リシェン、これは帝国の問題だよ」


 リリーの言葉は断るための口実だ。

 黄金騎士グロウ・クーリウとリシェンを引き離したくないだけだ。彼らは、ようやく母と子になれたのだから。

 そこで口を開いたのは黄金騎士グロウ・クーリウである。


「リリーよ、俺の母を頼む。俺も行きたいが、魔国の将である俺は行けん」


「馬鹿を言うなっ」


「俺を子供扱いするなよ、リリー。リシェン、いや、母上。全て終われば、共に魔国へ帰りましょう」


 グロウ・クーリウは初めて想いを言葉にした。


「グロウ……。ああ、全て終われば、帰ろう。魔国に、家に、帰ろう」


 リシェンは今になって気づいた。

 同じ魔人である魔王の治める魔国は、魔人のための国なのだ。だからこそ、亜人、流民、誰でも受け入れているのだろう。偉大なる魔王ユウ・アギラは帰る場所を失くした者たちの家を作った。

 我が同朋にして偉大なる魔王よ。

 そこに至ったか。お前は故郷を作ってくれたのか。寄る辺なき魔人の帰る場所を。


「死ぬかもしれんぞ。お前らは親子だろうが。クーリウ、どうして母親を危険にさらす」


「母が望むからだ」


「ぐっ、貴様、そこは止めるべきだろう」


「リリー、お前が我らを大切に思ってくれているというのなら、俺と母も同じことだ」


 黄金騎士の言葉は真っ直ぐである。

 憎悪に充ち満ちているこの親子は、その度合いと同じくして真実を求めている。彼らの真実とは形のあるものでは無い。己が生命に意味を求めるものだ。


「我ら魔人は、お前に会うために生きたのかもしれんな」


 リシェンの眼差しは孫を見つめる老婆のそれだ。


「言うても無駄か。分かったよ。だけどな、敵はとんでもないバケモノだぞ」


 リリーの言葉に一同は言葉を失った。

 今更、この娘は何を言っているのか。

 これまでもずっと、驚天動地の怪物と渡り合ってきたではないか。


「妖精の居場所は私が知っております。憐れなクリオ・ファトム。あれに、皆様だけでは太刀打ちできません」


 穏やかで魂の篭らぬ声は影法師のものである。


「これだけの勇士が揃っていて、かね?」


 フレキシブル教授が言えば、影法師は「はい」と素っ気なく答えた。


「リリー様のよく分からない力は予測不可能ですが、あれを止めるには少なくともリシェン様と同等のマジックキャスターが三人おらねばなりません。私がその一人に加わったとしても、足りません」


 魔人の協力者を捜すというのは現実的ではない。

 探せば見つかるかもしれないが、敵対する可能性もある。そして、捜索には年単位での時間が必要だ。


「敵の敵は味方という言葉があるな」


 リリーが言うと、アヤメは眉を顰めた。

 なんとなくだが、何をするか分かった。付き合いは長くなくとも、互いに死線を越えたからだろうか。





 リリー一行の出立にリッドはついて行こうとしたが、ディネルースや森の民のために止まらざるを得なかった。

 代わりにフレキシブル教授が同道することになった。教授曰く、見届ける責があるという。その理由については、言う必要は無くこの先にも何の影響もない無意味なことであるから語る必要は無いとのことだ。

 地獄めいた巡礼の旅は終わり、戦場へ帰る。

 敵は恐るべき妖精に禿鷹の魔人。

 同道するのは、魔物じみた大鹿、闇狩り司祭、凄腕の細作、堕ちたる天のエルフ、そして、聖女の影法師。

 付き従うのは老いた奴隷たちである。


 一行は亜人と魔国の民たちに見送られ、街道に出た。


「魔封の森からは、あの山が見えるか」


 遠くに見える山々の稜線。その中でも一際高く切り立っているように見えるのが虎剣山こけんさんである。

 帝国の端に位置する霊峰である虎剣山は、かつて帝国が危機に瀕した時代に群雄割拠した英傑が剣の腕を競ったとされる場所だ。

 一度は行ってみたいと思っていた場所だ。

 見えるまで近い所にあるのに、行く時間は無い。

 巡礼の旅が無ければ、どのように生きただろうか。

 リリーの胸に風が吹く。

 知らないということは罪であった。そして、知ることは痛みを伴う。


「影法師殿、妖精は大森林にいるのだな」


「人の立ち入らぬ領域にあれの住処はございます。あれの本体はあまりにも強大で、死という概念があるかどうかも分かりません。私がいれば、懐柔もできましょう」


 きっと、それは頭のいいやり方なのだろう。

 妖精の望む物語の役に徹すれば、生き永らえることも、帝国から齊天后の影を取り払うこともできよう。


「やらんよ」


 理由があるとしたら、気に食わないからだ。

 言葉にはできない。ただ、折れてはいけない何かがある。それに理由をつけることは簡単だ。人の尊厳がどうたらと理屈をつけて言えばいい。しかし、それでは違ってくる。

 何か分からぬものがその道を許さない。そして、リリーはその判断が誤りではないと知っている。

 アヤメが口を挟んだ。


「アメントリル、いえ、影法師様。あなたは、やはり人では無い。神具なのですね。その言葉で分かりました」


「どういう意味でしょうか?」


「リリー・ミール・サリヴァンという女は、ただ知っているのですよ。わたくしたちには、それがあまりに眩しい時がある。きっと、アメントリル様はそれを知るお方だったのでしょう。だから、あなたを遺された」


 墓守として影法師を遺したのではない。きっと、アメントリルは信じたのだろう。影法師が神具ではなくなるということを。


「……私は管理者として遺されました」


「いいえ、信じておられたのですよ。いつか、意志あるものが人となることを」


 アメントリル派の僧たちは、心を自由にするなどというお題目を掲げている。しかし、それらはいつも言い訳に使われていた。

 自由を守るための隠し剣だとか、闇の牙だとか、自らの宿業を飾りたてる言葉をアヤメは信じて生きてきた。そして、今はその教えが違うのだと知る。


「わたくしは元より自由でありました。生きていけばしがらみから自由はなくなる。それでも、言葉にならぬ正しさはあるのですよ。きっと、影法師殿にもいつか分かります。理ではないのです。我々は野卑で愚かであるからこそ」


 司祭らしい説法をした。

 アヤメは不意に可笑しくなった。真に司祭であったことなど無いというのに、不名誉司祭に堕ちた後にこそ、説法は迷いながら説くものだと分かる。

 生きるのは迷うこと。迷い続けて出口など無い。伝説の聖女がそれを教えてくれた。


「あなた方の言葉も、アメントリルの言葉も難解です」


 影法師殿は聖女と同じ顔を、困惑の表情に変えてそう言った。

 歩を進める一行はそんな話をしながら歩む。


 二日ほど進んだ後、物見を任せていた奴隷の老人が素っ頓狂な声を上げた。


「おかしらっ、傭兵らしき馬に乗ったが来やすっ」


「おかしらはよせっ。アヤメ、出るぞ」


「お任せあれ」


 リリーの追手であるという可能性は低い。転移という普通では予測もできない移動を為したのだ。

 金貨一万枚の賞金首に引き寄せられた傭兵でないのなら、齊天后の放った殺し屋であろう。

 リリーは馬上での戦いに備えてミラールに跨り、アヤメは徒歩のまま鎖分銅を取り出していた。


「おい、アヤメ。あれは」


「……意外に早い再会でしたわね」


 白馬に跨り、白装束で身を包む女であった。

 近づいてくると奴隷たちからため息が漏れた。


「あれはシャザくんか。また綺麗になった」


 フレキシブル教授までもがそのように言う。リシェンはじっと目をこらして、正体を知ろうとするように見据えている。


「シャザ殿、ご健勝でしたか」


「リリーこそ、……言葉にできないほどの旅であったようですね」


 シャザには一目で知れた。

 自らの弟子である少女は、また変わった。力とは全く別の何かを得ている。その存在が、濃くなっている。


「はい。地獄とも言えましたし、冒険と言っていいのかも知れません。ですが、巡礼で得たのは仲間です」


 リリーの視線が仲間たちに向いた。最初に向いたのは最も付き合いの長い二人である。

 言ったリリーよりも、それを聞いていたアヤメとウドが顔色を変える言葉だった。

 アヤメはわざとらしく眉間に皺を寄せて腕を組み、ウドは俯いている。二人とも、口元が嬉しさに歪むのを隠している。


「あなたらしいと言うべきなのか……。積もる話は道中で聞きましょう。今は火急の報せがあります」


「火急ですか」


 穏やかではない。


「リリー、あなたの父君であるサリヴァン侯爵が、齊天后討伐の解放軍を率いています。あなたを迎えに行くよう依頼されたのですよ」


「なんと、父上が。皇帝陛下に弓を引くとは……」


「その説明もしますが、今は道を急ぎましょう」


 一同は道を急いだ。

 目指すは虎剣山の麓である。

 かつて英傑が集結した地に、解放軍は集っていた。





 虎剣山が見下ろす草原に、戦仕度をした軍が陣を引いていた。

 リリーの目にも分かる弱兵である。

 一騎当千の強者も中にはいよう。しかし、その大部分は太平の世に慣れきった弱兵だ。

 齊天后と黒騎士ジーン・バニアスの揃えた亜人と鬼の軍勢は、血に飢えた強兵である。質では勝てぬと知れた。


「父上はあそこか」


 サリヴァン家の家紋は、短剣を咥えた鷹である。その旗が風に揺られていた。


「リリー、何か妙なことを考えていない?」


 アヤメが問えば、リリーは頷いた。


「父上が乱心しているならば、斬る」


 アヤメは小さく息を吐き出した。


「道中に聞いたでしょう。齊天后殿の世直しとやらこそが、乱心でしょう?」


「あれはその程度の狂い方をしておらんよ」


「確かに、そうですわね」


 さしものアヤメも帝国の経済は分からぬ。

 リリーは大鹿ミラールの腹を蹴って走らせる。


「先に行く」


 遅れて聞こえてきた声にアヤメは天を仰いだ。あれでは敵に斬り込む一騎掛けだ。


「ええい、こちらは普通の馬だというのに」


 アヤメが馬を走らせれば、ウドも細作の走り方でそれに続いた。

 取り残された一同に動揺は無い。

 フレキシブル教授が追うなと指示を下している。そして、リシェンや奴隷たちはリリーというおかしらを知っている。


「お急ぎなのでしょうか」


 影法師だけが、それを分からない。


「リリーも、難儀な者を仲間にしたものよ」


 苦笑と共にシャザは言って、後を追った。


 陣を引いた軍はリリーの一騎掛けに対抗できなかった。

 幾人かの勇士が立ちはだかろうとしたが、それも動揺する兵たちに邪魔をされてままならない。


「サリヴァン家が姫、リリー・ミール・サリヴァンであるっ。道を開けよっ」


 淑女から出るとは思えぬ大声に、弓を引こうとしていた兵の手が止まる。

 兵を飛びこし辿りついたのは、自らの家紋により飾られた天幕であった。

 この騒ぎに天幕から飛び出した父君は、剣を抜こうとする手を止めた。


「父上、お久しゅうございます。リリー、戻りました」


 目を丸くした父君は、その堂々とした威風に感じ入る。貴族家の姫としては論外であるが、またしても娘は逞しくなったと分かる。

 いつかのリリーは竜であると思った。今は違う。この姿は、まさしく武士である。


「戻ったか、無事で戻ってくれたか」


 リリーはミラールより飛び降りて、父の広げた腕に飛びこんだ。


「父上、お会いしとうございました」


「リリー、よくぞ、よくぞ帰った」


 抱きしめる手にある娘の身体は、あまりにも硬い。娘らしさの無い引き締まった肉体だ。いつぞやよりも、痩せている。

 親子の再会は暖かなものだが、時間を多く割くことはできない。


「皆の者、我が娘リリーに相違ない。齊天后に弓引いた人喰い姫リリーである」


 周りを取り囲む貴族たちから歓声が上がる。

 旗印にされたことに、多少の不快感がある。しかし、これは政だ。


「父上、この挙兵について問いたきことがございます」


「ならば、中で話そう」


 この後、リリー一行は解放軍に迎えられた。

 侯爵との謁見は、リリー、アヤメ、ウド、フレキシブル教授で行われた。

 アヤメとフレキシブル教授は齊天后のやろうとしたこと、帝国の経済に原因があること、そして、帝都の惨状を知った。

 リリーもまた、巡礼の旅を語る。

 父の戦いは帝国ではなく自らの領地を守るため、そして貴族家を守るためのものであった。


「父上、妖精を退けて齊天后を打ち倒す役目を、このわたしに預けて頂きたい」


 全ての事情を知り、リリーの発した言葉である。


「もはや、それのできる時ではない」


 親子、いや貴人の対話に口を挟むのはフレキシブル教授である。


「侯爵閣下、必要なものは大義名分でしょう。皇帝陛下を救いだし、旗印とできれば時間を稼げましょう」


「それができるなら、とうにしておるわ」


「いやはや、ここには一流の細作と一流の戦士、それにこの私、フレキシブル教授がいます。ラファリア皇帝陛下をお救い致しますよ。必ずね」


「リリー、この無礼な男は何者か」


「世界一の智慧者らしいです。間違ってはいないでしょう」


 リリーは目で「やれるな」と問う。そうすれば、教授は口元の笑みで応えた。


「皇帝陛下をお救いすると同時に、一つ作戦があります」


「言ってみせい」


 侯爵は胡散臭い男に疑いの目を向ける。


「なあに、敵の敵は味方というやつですよ」


 フレキシブル教授のそれは、常軌を逸した内容であった。

 狂気じみた計画でありながら、リリーの求める内容そのものである。






 皇帝陛下が帝都を脱した後のことである。

 水晶宮の玉座におわす齊天后マフは、その書状を黒騎士ジーン・バニアスに読み上げさせていた。

 新たな帝国幹部たちの反応は様々である。

 怒る者、笑う者、希望を見出す者。


『くふ、か、ははははははは。あの小娘めが、舐めた真似をしおるわ』


 齊天后の怒りの声に、びくりと皆が震えた。


「如何なさいます?」


 ジーンは努めて無表情に言う。


『帝都に集めた魔力で焼き払うのみよ。空より星を落とす。妖精はその後でよい』


 叙事詩にかつて語られた星落としの魔法を行使すると骨の貴婦人は言う。この場にいる者は、それが嘘でないことを知っていた。


「主殿、いえ、我がきみ。それは悪手にございます」


 静まり返った広間に女の声が響いた。


『土くれが妾に逆らうかえ』


 マフの怒気に真っ向から立ち向かうのは、カリラである。


「我が君、王であるならば呑みなされませ。世に覇を唱える強者であるならば、星を落とすなど弱き考えにございます」


『妾の力を見せつけるに相応しいではないか』


「それこそはなはだの間違いでしょう。我が君、全てを手に入れ月までを手にするというのであれば、あれの挑戦から逃げは打てませぬ」


 逃げという言葉が、重く響いた。

 静寂が支配する中、玉座におわす骨の女王は立ち上がる。


『カリラや、逃げというか。妾の力を逃避であると』


「寵姫様を手に入れられた時のことをお忘れか? 弱きは全てを失いますぞ」


 寵姫とはシャルロッテを示す。齊天后に仕える年若い侍女は、いまや姫と同じくして扱われている。

 マフは天を仰いだ。

 シャルロッテを助けた時に恐れたのは何だったか。


『カリラよ、そなたの忠義を嬉しく思う。よかろう、まずは大森林の妖精を打ち倒すため、リリー・ミール・サリヴァンと手を結ぼうぞ』


 和睦ではない。

 一時的な休戦を結び、共通の敵である妖精を打ち倒す。

 書状にはその後のことも記されていたが、それもまた常軌を逸していた。


「それでこそ、我が君にございます」


 カリラは平伏する。

 その口元には笑みが刻まれているのを、誰が知ろうか。

 妖精との戦は神話の如きと後世に語られる。


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