第32話 祈り
セカイジュのたもと、捕虜扱いであるはずの魔国軍は自陣の組み立てに奔走していた。
残りの物資で彼ら用の小屋を造り、保存食で炊き出しを行う。負傷者に対しても、魔国軍は見捨てることなく治療に当たっていた。
黄金騎士は斬馬刀を取り上げられたが、襲いかかってきた恐竜人を組打ちで倒してしまったことから、ある意味では認められてしまっている。
こうなるには理由があった。
時は一日前に戻る。
セカイジュの御前で、黄金騎士を筆頭とした士官たちは縄で両手を縛られて地に座らされていた。
黄金騎士は威風堂々。
魔女リシェンはにやにやと薄笑いを浮かべて。
士官たちもまた将に倣うように、堂々と胸を張る。
森の亜人たちにすれば、憎い侵略者である。しかし、彼ら魔国軍は人と亜人が手を取り合う軍だ。魔封の森の常識では測れない『敵』であった。
殺気だった群衆に囲まれてなお、魔国軍は威風堂々。
戦国の武者共である。死に際と命の使い方は、海を隔てるだけで大きく変わる。
森の民が憎むニンゲンと同じ反応であれば、頭と胴が泣き別れしてセカイジュの一部となっていたであろう。
よく分からない時は、知恵者に委ねる。それが、一般的な亜人種の考え方である。
亜人に政治は分からぬ。
だからこそ、魔国軍は命を繋いでいた。
セカイジュのたもと、臨時の処刑場に銅鑼の音が響き渡る。
亜人に政治は分からぬ。
ぞろぞろと現れたのは、各氏族の代表者とリッドである。
「近くに控えなくてもよろしいのですか、宰相殿?」
と、アヤメは皮肉たっぷりにフレキシブル教授に流し目まで付けて囁いた。
ここは、セカイジュの枝である。全長からすれば低い枝となり、処刑場を見下ろせる位置だ。栗鼠の人たちは下の喧騒とは関係なく戯れている。
「この程度のことはボクがいなくてもやってもらわないとね」
フレキシブル教授は、白い顎髭を撫でて言う。
「何が目的ですか?」
「宰相殿とは呼んでくれないんだね」
小さくかぶりを振って、フレキシブル教授は笑った。
その隣を、追いかけっこをしている栗鼠の人たちが通り過ぎた。子供のように笑い、子供のように生きる。それでも、彼らの種族では立派な大人だ。
「ねえ、アヤメくん、キミは栗鼠の人たちをどう思う」
「亜人ですわね。知恵の足らない、森にしか住めない種です」
純粋、という言葉をアヤメは使わない。
どれほど言葉を取り繕ったとしても、栗鼠の人たちは愚鈍な知恵の足らない種族である。外見が人に近いことがより一層、言葉にできない苛立ちと後ろめたさを残す。
「キミにはそう見えるんだろうね。教会にも残されていない真実を知るボクからすれば、アレらはとてもとても、恐ろしいものだよ」
「問い方を変えましょう。あなたは敵ですか?」
「何に対してかな。それを言ってくれないと答えられない」
「リリーの敵になりますか、フレキシブル教授」
アヤメはいつでも手斧を繰り出す心積もりであった。
チチチ、と鳥が鳴く。
楽しげな栗鼠の人たちの戯れの声。
木漏れ日は優しく、夏の陽射しは森の色彩をいっそう色濃くしていた。
「ボクだけの憎しみで討つ敵はいない。リリーくんが、世に禍根を残す者でないのなら、ボクは何もしないさ」
「あなたがシャザ殿の師であったとしても、このアヤメ・コンゴウは手心を加えない。覚えておいてくださいまし」
「ああ、心配性な優しい
アヤメは呆れ顔で、別の枝へ飛び移った。
どうにも嫌われたな、とフレキシブル教授は思う。
女を追いかけるには歳を食いすぎている。
枝に腰かけて、下がどうなるか顛末を見守ることにした。
◆
リッドは背筋を伸ばして、魔国軍指揮官たちを
縄をかけられてなお、彼らは戦場を捨てていない。
帝国騎士にも人物はたくさんいるが、兵卒の質では魔国軍とは比べようにならない。亜人たちであるからこそ、魔国を止めることができた。
リリー、そして、彼女の連れてきた災厄。それが無かったとしたら、この場の立場はどうなっていただろうか。考えても詮無きことだ。
「俺はリッド、成り行きでここの代表ってことになった」
知恵を出せと言えば、氏族の長達は皆が拒否した。
亜人は政治を理解しない。
「グロウ・クーリウ、それに魔国軍。命はとらねえからこっちの言い分を呑んでもらう」
「ほお、何をさせる」
黄金騎士は縛られていても立場が変わったとは思っていない。
自らは、まだ暴れられる。
リリーが動けないというのなら、続きをやってもいい。
「お前らの船が治るまで、俺らが港を造るのを手伝ってもらうぜ。それから、俺とお前は今日から兄弟分だ」
前半はまだ分かる。しかし、後半はなんだ。
「はははは、お前如き
「お前の目的、セカイジュになんかするんだろ。アメントリル絡みなのは分かってる」
ぎらりと、黄金騎士の瞳が輝いた。
「……
「異国の益荒男よ、あれは神具だ。木の形をしているが、そんなものじゃない。焼けるってんなら焼いていい」
グロウ・クーリウはしばし黙りこくった。
何か考えているのだろう。
「蟲共をお前たちと協力して退けた。それで友諠を結んだとでもするか」
「そっちの話は適当にやりゃあいいさ。魔国との貿易、やろうじゃないか」
リッドは笑みをみせた。
「港を奪取されるとは思わんのか」
「爺さんが言うにゃあ、あまりにもそいつは美味しくないって話らしいぜ。それに、こっちで金儲けできりゃあ、あんただって損はしない」
黄金騎士は武人である。
帝国と魔国の大きな違いに、価値観と精神性がある。
武人といえば清貧を苦にせず武のことだけを考えるように思われがちだが、それは変わり者の類だ。
「よかろう。どうせ負けた身か。長耳の若僧、寝首を掻かせてくれるなよ」
言外に、下らぬ男なら牙を剥くと言う。
リリーの顔を立てることを、黄金騎士は選んだ。
亜人のほとんどが、彼らの言葉の意味を理解していない。一部のゴブリンとエルフは、人間らしい算盤勘定だと思っているが、その数は十に満たない。
リッドに重くのしかかるのは、これからである。
最悪の場合、自治権と引き換えに魔国に恭順することも視野に入れねばならない。
厄介だな、と今更ながらにリッドは思う。
「みんな、聞け。この戦は俺たちの勝ちだ。それで、魔国の連中は今から俺たちの仲間だ。いいか、今からこいつらを恨むなっ、仲間だ」
怒りの叫びが轟々と上がる。
リッドは黄金騎士の縄を解いて立ち上がらせる。
「おい、素手はいけるか?」
と、小声で囁けば、黄金騎士の兜と面頬で隠された相貌に喜色が広がった。
「殺さずに、か」
「弾みは仕方ねえ。だけど、極力殺すな」
黄金騎士は一歩、前に出た。
「カハハハ、文句があるというのならば、俺の前に出てみせい」
恐竜人の戦士が一人、立ち上がる。その手には大きな戦斧がある。
誰かが銅鑼を鳴らせば、黄金騎士にだけ不利な決闘が始まった。
黄金騎士にとって、痛みは快楽である。
結果として、魔国軍は森の民に下った。
捕虜という扱いだが、彼らの自由を遮る者はいない。
強い者に従うという不変の理がそこにあった。
港を造るという大事業は、ここから始まる。
◆
リリーは天幕の寝台で魔女リシェンに軟膏を塗りつけられている。
服を脱いで、さらしだけの姿になるのも一苦労だ。
こうしていると、サリヴァン家の侍女たちが恋しくなる。きっと、彼女たちなら痛む身体を気遣ってくれただろう。
そうなったらなったで、侍女たちはこれを見て泣くだろうなと苦笑いが浮いた。
右手に走る樹の枝のような傷痕は、雷神が走り抜けた足跡であるそうだ。そうリシェンに教えられた。
「骨の芯が痛むよ」
と、リリーは笑って言う。
腕を動かそうとすると、痛みを伴う痺れがある。
雷神が走る足を止めて体の中に残っていれば、命はなかったという。
リシェンが手ずから造りだした時戻しの軟膏は、本来なら瞬時に傷痕すら残さずに再生させる神具のはずだ。なのに、リリーにはよく効く軟膏という程度の効果しかない。
「我の軟膏が効かぬ。システムの呪縛から抜け出る存在がいようとは」
魔女リシェンにとって、この少女はあまりにも驚異的だ。そして、待ち望んでいた存在でもある。
リリーのための天幕には、他にアヤメとウドがいた。
リシェンの監視だというが、ただ単にリリーが心配なだけだ。二人とも、どうしてか素直にそう言えなかった。照れ臭いのだ。
アヤメは治療を見守る隣で、亜人から献上されたトゥ・カという果実の皮を剥いていた。柔らかい桃色の皮の中に、白い果肉の詰まる果実である。驚くほどに甘く美味だ。
「リシェンといったな、教えてほしいことがある」
「内容によるのう」
「お前たち魔人の眷属が言うしすてむとは、どういうものだ。お前らは、それを嫌っているんだろう?」
マフ、カグツチ、死神、そして、リシェン。
誰もが、その力に複雑な想いを抱いている。人の機微に疎いリリーにもそれは分かるほどに、彼らは力というものに苦しんでいるように思えてならない。
リシェンは暫時、口を閉ざしていたが、リリーと見つめ合ってから言葉を絞り出す。
「ある日、我らは気づいたらこの地におった。この姿も力も、いつの間にか持っておったとしか言いようがない」
遠く、過去を見る。
リシェンの瞳に感情の色は無い。遠い過去に見たくもないものばかりを映してきた瞳である。どこまでも冷たく平坦なそれは、ひも解くことにも痛みが必要だった。
「最初の数か月で我らの半数以上が死んだ。この地に生きる者たちに殺された者もいれば、仲間同士で喰らい合った者も、絶望して自死を選んだ者もおる。我は……、ここを全て夢と思うことにしたのう。我はリシェン、夜闇の魔女リシェン。邪悪と
飽きるほどに長い夢だ。
明けない朝は無いというのに、醒めない悪夢はここにある。
「我らには、お前たちの力が数字として見える。我らはシステムに応じた奇跡がある。我らには、天変地異を引き起こす力があるというのに、帰り道は分からん。
リリーは、虚ろな瞳で言葉を紡ぐリシェンを見た。
見た目は妙齢の美女だが、中身は疲れ切った老人と知れた。
帰る場所を失い、死ぬこともできずに生きる老婆の姿がそこにあった。
「天のエルフか」
千年とも二千年とも生きるという伝説のエルフ。肉を食わず、樹精のみで生きるという真に穢れ無き森の王。
「ああ、そうじゃった、我は堕ちたる天人の魔女リシェン。その設定(ロールプレイ)にはもう飽きた。我にすら見えぬ人よ、教えておくれ。どうやったら、家に帰れる。魔王ですらも分からぬ道を、教えておくれ」
リリーの胸に去来するのは、
魔女リシェンを見て、薄らとマフが何をしたいか分かってきた。
その理由、内容までは分からなくとも、仇敵である魔人もまた哀しみを背負う者であることだけが、分かる。
リリーはさらしを巻いただけの姿で立ち上がった。
「もう少し休んでいたかったが、そうもいってられんな。アヤメ、ウド、リッドたちを呼んでくれ。アメントリルの墓所へ行く。リシェン、何も分からんかもしれんが、そこに何かあるかもしれない。行こう」
差し出された左手は、悠久の時を生きてなお柔らかなリシェンのものとは違う。もう顔も思い出せない父の大きな手と、母親の手を思い出させる力強い手だった。
その手は、思ったよりも温かな手だった。
恐るべき地獄の力が宿る、リリーの手だった。
◆
魔エルフのディネルースが案内したのは、魔封の森の軍勢が陣を張っていたセカイジュのたもとである。
着いてきたのはアヤメ、ウド、リシェン、黄金騎士にリッド、そして、フレキシブル教授だ。
森の氏族たちはアメントリルの墓所を恐れている。
「リリー様、今から道を開きます。しかし、資格なき者には通れぬ道。皆様も、お覚悟はよろしいか」
ディネルースはリリーに様をつける。
妖精を打ち破った彼女は、新たな星である。今まで変化というもののなかった魔封の森に現れた新しい明星であった。
「わたしは戦えんが、仲間がいる。問題ない」
聖痕の走る右腕の痛みは未だ取れていない。本来なら、横になって体を休めるべきだ。しかし、今は急ぎたかった。
ふと、痩せたかな、と思う。
過酷な旅の中で、維持できていた筋肉が些か衰えている。それは、研ぎ澄まされた身体への変質である。
「オーブ・シ・エウクト、オーブ・ウン」
ディネルースは過去に森の優しき魔女アメントリルより賜ったという宝杖を掲げ、力ある言葉を放った。
「クァ・キンのオフ・シ・エントだったのね」
小さくリシェンが言葉を漏らした。その意味は人の言葉では分からない。
セカイジュがざわめき、めきめきと音を立ててその形を変える。
大樹の幹は形を変えて、その奥へと続く昏い裂け目を造っていた。
いまや、セカイジュは樹であることをやめて、その枝を奇怪な触手のようにしならせていた。
「優しき魔女の墓所を護るスプリガンよ、客人が参られました」
リシェン以外の誰もが、武器を抜こうとする体を抑えるのに必死であった。事前に敵意をみせるなと言われなければ、怪物と相対するために武器を抜いていただろう。
セカイジュの枝が奇怪に蠢くが、こちらを襲うことはない。
栗鼠の人たちが集っていた。
彼らは表情をなくして、一行を見ている。どこか、昆虫めいた目であるように見えた。
栗鼠の人はセカイジュと共に生きる民。
「やはり、彼らはこのためのえぬぴいしいか」
フレキシブル教授の呟いた言葉もまた、リリーには分からない何かだ。
人を喰った男であるフレキシブル教授は、額に滴る汗をそのままに手を必死で懐に入れないようにしている。銃を出せばどうなるか。無言の殺気に威圧されないように、息を吸い込んだ。
セカイジュの枝に緑色の輝きが灯る。
「お許しが出ました。リリー様、先にお進みください」
ディネルースはその場に膝をついて平伏した。
妖精は救いではなかった。セカイジュが認めたのがリリーであるというのならば、今の魔エルフは、リリーの味方だ。
リリーは剣を杖に歩いた。
魔国の剣は、手に馴染む。腰につけた虎の毛皮が、腹を温めてくれる。
人と物には縁があると言ったのは、帝都のドワーフだったか。
全てが仕組まれていたとするならば、見えざるその手を食い破ろう。
木の裂け目を通り過ぎるとき、光が皆の目を覆った。
この感触は知っている。
脳男の島から魔封の森へ跳んだ時と同じものだ。
目を開けると同時に鼻をくすぐったのは、春の匂いである。
新鮮な草いきれと、甘い華の香り。そして、体を包むような温もり。夏の暑さとは違う、春の気配だ。
「なんと、ここは」
そこは村であろうか。いや、廃村か遺跡なのかもしれない。
あまりにも美しかった。
見たことの無い様式の立派な屋敷が立ち並んでいた。しかし、それは全て苔むしている。
水を張った畑のようなものには、規則的に小さな麦に似た草が植えられていた。畑だけは手入れをされているのか、異常なまでに整っている。
荒れ果てた道には、塔ほどの高さを持った丸い石の柱が等間隔で立ち並び、その天辺で黒いロープのようなものが柱同士を繋いでいる。
見たことのないものばかりだ。
「アヤメ、幻ではないか」
問われたアヤメが何か言おうと口を開いた瞬間に、悲鳴のごとき声が響き渡った。
その場に膝をついて、幼子のように咽び泣く魔女リシェンであった。
黄金騎士が寄り添えば、言葉にならない声で大丈夫であることを告げようとして、また咽び泣く。
「幻ではなさそうですわね」
アヤメの声は涙にかき消される。
物悲しい嗚咽であった。
何か取り返しのつかない、そんなことを感じさせる悲しみに満ちた声である。
リシェンが泣きやむのを待って歩き始めた。
明らかにセカイジュよりも広い空間がここにはある。
空間を飛び越えたのか、それとも伝説にある異界のようなものなのか。
長閑な風景を進む一行に言葉は無い。
見たことも無いものがたくさん置いてある。
「ポスト、ジテンシャ、ジドウハンバイキ、ああ」
嗚咽混じりにリシェンの囁く声が聞こえた。
寄り添う黄金騎士は、その瞳に感情をのせないようにしているようだが、老いた母を案じているのが分かる。
しばらく歩けば、今までのどの屋敷よりも大きな屋敷に辿り付いた。
『ようこそ、アメントリルの居住地へ』
声が響いて、現れたのは女だった。
肩口で切り揃えられた黒髪、黒い瞳、教会の法皇が着るような豪奢な法衣。そして、一目で神具と分かる大きな宝杖。
肖像画に残るアメントリルそのままの人物であった。
「あ、あなた様は」
アヤメが呆然とそう言った。
『現地住民との混血種、私はアメントリルではありません。マスターの外見に似せて造られた影法師です。着いてきて下さい』
アメントリルの影法師は屋敷に造られた庭園を先導する。
着いた先にあったのは、巡礼の碑と同じ淡い光を放つ石碑である。黒い御影石のような材質でではており、大人程の大きさであった。
「あ、あああ」
リシェンの声。
石碑には文字が刻まれている。
リシェンは石碑へ駆け寄ると、その文字を読んで泣き崩れた。
フレキシブル教授もまた、同じく石碑の前に立ちつくしている。そして、黒眼鏡を外すと大きな声で笑った。その笑い声もまた、どこか物悲しい響きがある。
『皆様、似た反応をされます。あの碑はマスターの遺した来訪者へのメッセージです。
影法師はリリーを見る。
リリーは影法師を見た。
「アメントリルの墓所とは、こんなものか」
『マスターは死後に自らの
「リリー・ミール・サリヴァンである」
姫とは思えぬ堂々とした名乗りだ。
『アメントリルの遺した特定人物に含まれます。マスターの願いは叶いました。あなたの存在をアメントリルは祝福するでしょう。マスターはきっとお喜びになります』
「何を言っている」
『マスターは、特定の人物が訪れた際に渡す報酬を約束しております。こちらをご覧ください』
影法師が宝杖で指し示した先には、積み上げられた金属の鋳塊(インゴット)があった。
「見たことの無い鉄だね」
鈍い輝きを放つ奇妙な鉄であった。いや、あれはなんなのだろうか。何
か伝説に謳われる金属なのだろうか。
『あれはアメントリルです』
「どういう意味だ」
『アメントリルは自らの亡骸を
リリーも、アヤメも、それ以外の誰もが言葉を発せられない。
リッドや黄金騎士は狐につままれたようなものだ。
リリーたちからすれば、巡礼の最後に待ち構えていたものである。
「聖女なんだろう、アメントリルはっ。一体何がしたいっ」
『予定された未来の改変を望まれたのです。リリー・ミール・サリヴァン、定められた未来でのあなたは悪役令嬢でした。あなたという人物は、主人公であるシャルロッテのための噛ませ犬です。しかし、今のあなたはそのようなものではありません』
「そんな昔から、わたしのことが分かっていたというのか」
影法師は肖像画に残るアメントリルと同じ、柔らかな笑みを崩さない。
『あなたたちに分かるように言うのなら、それは運命でした。あなたは皇子に横恋慕して人鬼となるか、処刑されるかどちらかの運命にありました。しかし、運命は打ち破られました。マスターは世界に勝利しました。おめでとうございます、マスター』
影法師は確かな敬意をもって、鋳塊に祝いの言葉を贈る。
そうか、もう一人のわたしよ。お前の存在が本来のわたしであるか。
辿るべき道筋は最早無くなった。そして、結果だけが残っている。
『リリー・ミール・サリヴァン、あなたは自由です。運命にあなたは勝利しました。おめでどうございます。これで、わたしも機能を停止できます』
「おい、待て。帝国にアメントリルと同じバケモノがいるぞ。あれをどうにかできんのか」
『ここにはあなたたちの言う神具があります。好きなものをお持ちなさい』
リリーは天を仰いだ。
不自然なほどに青い空。どこにも生命力を感じない空だ。
いつの間にか、勘違いをしていた。
巡礼に運命があると。ここに来ればなんとかなると思っていた。
「ままならんよな、アヤメもそう思うか」
「ええ、そうですわね」
互いに同じ想いがあると分かる。
ここまで、自らの足でやって来た。だから、帰るのも自らの足で帰らねばならない。
帰れば齊天后がいる。そして、帝国は無意味な戦を行おうとしている。
最初から、やるべきことは分かっていた。
随分と遠回りをしたが、答えはたった一つだ。
「魔人殺しの英雄譚になるな。人食い姫とはもう呼ばせんよ」
「それ、無理じゃないかしら」
齊天后マフを倒し、ラファリア皇帝陛下を正道に立ち戻す。ただ、それだけだ。
歴史をひも解けば、どこにでもある。ありふれた、平凡な英雄譚であろう。
「神具はどれでもいいのか、影法師殿」
『はい、好きなものを好きなだけお持ち帰り下さい』
「ならば、お前を持ち帰る」
『……』
影法師は押し黙る。
中空を見つめて暫時。
『よいでしょう。わたしに残されたものはもうありません』
影法師はアメントリルの亡骸である鋳塊に恭しく
『わたしは影法師、あなたの運命を打破するための武具となりましょう』
「運命か、そんなものクソ喰らえだ」
どんな道も、歩くのは自分の足だ。
やりたいようにやる。
何にも遠慮することはない。
伝説の聖女ですら、ただ自らのためにだけ生きたのだから。
◆
魔女リシェンとフレキシブル教授は、石碑の裏に名前を彫った。
ここを訪れた魔人たちは皆、そこに名前を彫っていずこかへ消えたという。
オークの現人鬼も、機人の孤独な男も、竜使いの銃士も、狩人の男も、皆が魔人にだけ分かる言葉で名を彫った。
死に際にここを訪れた魔人もいる。
影法師はその度に、ただ墓を造るかアメントリルと同じように鋳塊になるかの選択を与えてきた。
セカイジュは巨大な魔人たちの墓標なのだ。
命は循環する。
天の道から地の道へ。
魂は、無垢に生まれ変わる。
ちくしょう畜生、度畜生。
こんな世界ぶっ壊れろ。
わたしたちは帰れない。
妖精王も吸血鬼のでっけえ蚊も、銀巨人も邪神も帰り方が分からないって。
あとは神様しかいないけど、そんなもんどこ捜してもいやしないし。
わたしは地球人で日本人だ。
こんな世界のやり方なんてぶっこわしてやった。
でっかい宗教もつくったし、国だってつくった。農奴とか奴隷みたいなクソみたいな風習も全部禁止してやった。
ここに来てこれを読んだヤツ、みんなこんな世界を認めるな。
こんな世界のやり方なんかに負けるな。
みんなでこの世界をぶっ壊して、未来を変えろ。これがわたしたちの復讐だっ。
それから、わたし以外のヤツみんな不幸になれ。
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