第31話 聖痕

 短剣では分が悪いな、とリリーは思った。

 体は疲れていて、得物も無い。

 いつものことだが、不利にすぎる。

 昆虫と人を足した異形の存在は、あのシャザムだ。虫ほどにたくさんいるということになるが、細かいことは考えても仕方ない。

 曲刀を振りかぶる甲殻戦鬼の懐に入りこみ、その頭に短剣を突き刺す。目と目の間、だいたいの生物はここを刺されたら死ぬ。

 シャザムもまた、異形ではあるが生物の範疇にいるらしい。よろめいた後に倒れて、動かなくなる。


「空を飛ぶだけか。やれんことはない」


 戦場は混乱している。

 栗鼠の人が操る大鷲にとって、空を飛ぶ人型は相性が悪い。また、巨体の鳥が堕ちた。

 リリーは甲殻戦鬼シャザムの、節くれだった腕の一撃を短剣で受け止める。肉薄したところで、頭突きを複眼に当ててよろめかせると、すぐさまその額に短剣を刺し込む。

 直後、背後から聞こえた羽音に振り向こうとした時、太陽の光を反射するきらめきが割って入った。


「助かる」


 リリーは、自分の言葉がどうにも場違いな気がした。


「俺を負かした女が、蟲なぞに遅れをとるな」


 甲殻戦鬼の分厚い殻を両断せしめた黄金騎士は、兜の奥の相貌に奇妙な色合いの感情をのせて、リリーと相対していた時に使っていた剣を鞘ごと差し出した。


「使え」


「いいのか?」


「お前に死なれたら俺の立つ瀬がないわっ」


 照れ隠しのように語気を荒げた黄金騎士は、ごく自然にリリーの背後に入った。互いに背を預けられるほど、信用はしていない。しかし、こんなところでつまらないことをするような小人しょうじんではないということだけは分かっている。


「グロウ、だったな。どれだけ動ける」


 鞘は捨てず腰につけた。抜けば、死神に奪われたドゥルジ・キィリによく似た意匠であると分かる。重いが、不思議と使えるという確信があった。


「リシェンの秘薬があるが、三刻が限界か」


「それだけ動けるとは、バケモノめ」


「そのバケモノを負かした女が何を言いおる」


 軽口を叩きながらも、黄金騎士は敵を斬り伏せている。魔女の秘薬のなせる業か、先ほどまで死闘を繰り広げたとは思えぬ動きだ。しかし、空にはまだまだ甲殻戦鬼がいる。


「いい剣だな」


 と、リリーは襲い来る甲殻戦鬼の腹を斬り裂いてから言った。ねばついた虫の体液を、この剣は弾く。


「カハハ、魔王より下賜された業物よ」


 神具ではない。ただ、高い技術で造られた剣だ。

 握りには、黒い縄のようなものが巻かれている。どれほど握っても滑らない不思議な皮膜のようなものだった。


「悪くないよ」


 リリーの言葉に、グロウは兜の中、面頬の奥で笑みを作った。

 グロウ・クーリウにとって戦いとは閉じた世界であった。

 体の奥で暴れ回る痒みを忘れさせてくれる自慰のごときものであったのだ。しかし、今は息吹の一撃で全身の痒みが霧散していた。時をおけば、また痒みは戻るだろう。自らの身体のことはよく分かっている。

 高揚している。心が、躍動している。

 初めて甘味を舌で感じた時か、それ以上か。恐るべき息吹の一撃による痛みが全身を襲う今この瞬間は、世界に色がついたような、爽やかな快楽があった。


「ミラールっ」


 リリーが叫べば、甲殻戦鬼を角の一突きにした大鹿が駆けてくる。


「クーリウ、わたしはあの妖精を仕留める」


「行けるか?」


「やってみるさ」


 轟魔もまた、主のもとへ寄り添っていた。そして、リシェンは小さな杖を取り出して、傍らにいる。

 さっきまで命の取り合いをしていたというのに、妙なことになった。

 リリーは、妖精のいる先を、目を閉じて感じてみた。

 鬼女の冷たい怒りの炎が向かう先と、戦場に渦巻く憎悪の中心にあれはいる。




 魔エルフの戦士たちは、戸惑いながらも戦っていた。

 命がかかれば、目の前の敵と戦うしかない。それが、先だっては魔エルフの救いの神となると言った存在であってもだ。


「なぜですか、クリオ・ファトムっ。あなたは、あなた様は我らエルフの『輝ける道標クリオファトム』ではなかったのですか」


 ディネルースの言葉は届かない。

 かつて、エルフは一つの種であった。

 妖精たちの加護を受けて大地に根付き、大いなる繁栄を遂げた長命種だった。

 大いなる繁栄は倦怠をうみ、いつしか部族に別れて争うようになり、都市を造るエルフや森に潜む部族などに分岐して、今がある。

 かつてあった妖精の加護は失われ、数を減らしながら緩慢に滅びを迎えつつある亜人にまで堕ちた。


『どうしてアメントリルは墓所を教えてくれなかったっ。どうしてっ、どうしてっ、わたしたちは友達だったのに』


 クリオ・ファトムはセカイジュの前で泣き叫ぶ。


「森の優しき魔女は、資格ある者でなくば通さぬと、我らはその言葉を護り続けたのです」


 ディネルースの言葉も届いてはいない。

 狂乱のさ中にいる妖精の周囲には、その小さな身体を中心に異常なまでの力が渦巻いている。

 ディネルースたち魔エルフは、決闘が終わればどちらが勝ってもその勝者を妖精と共に始末する心積もりでいた。

 妖精の持ちかけた取引は至極単純で、リリーを差し出せば願いを叶えるというものだった。しかし、決闘を見ていた妖精は、半狂乱になって暴れている。


「ディネルースっ、蟲共を片付けろ」


 斬りこんだのはリッドである。

 リッドは弓矢で甲殻戦鬼の目を射抜く。

 凄まじい腕だ。しかし、数が多い。


「妖精は森の王、なのにどうして」


「王様でも神様でも、敵だろうがっ」


 リッドの言葉は魔エルフたちにどう届いただろうか。

 それは、彼らが見ないようにしていた事実だ。

 命を脅かすものはどうあっても敵である。


「……妖精とは人を惑わす妖しき精。命の形が違う、上位の生命であると母は教えてくれたものだけどね。リッド、ある意味ではキミのために用意された運命かもしれんよ、これは」


 フレキシブル教授は、頭を低くして妖精の巻き起こす暴風を見やった。


「爺さん、どういうことだ」


「古い因習を断ち切るのさ。キミの道はそういうものなんじゃないかね。それに、これは僕の両親の悲願でもある。だから、力を貸そう」

 

 フレキシブル教授は、懐に手を入れてそれを取り出した。

 リッドにも、ディネルースにもその光景は意味の分からないものである。

 鉄の筒を組合わせたものが、フレキシブル教授の手にある。


「死の火杖、それが洗練された後に行き着くのが、この形なんだそうだ。当たるかどうかは、腕と運次第だけどね」


 拳に収まる銃である。

 引き金を引けば、轟音と共に弾が射出される。

 フレキシブル教授と妖精の目が合う。

 驚きに見開かれた妖精の瞳、そして、それはすぐさま憎悪へと変わった。

 刹那の瞬間を、弾丸は切り裂いて進む。


「ふむ、今ではないということか」


 偶然だった。

 誰かの放った矢をかわそうとした甲殻戦鬼が、偶然にも射線に入り込んだ。弾丸は蟲の甲殻を引き裂いて地に墜とす。


『お前たちは、どうしてそんなものを造るっ』


 妖精は叫びと共に、その両手に強大な魔力を宿した。

 空気が震えるほどの、渦を巻く魔力だ。

 妖精を護るようにして配置されていた甲殻戦鬼は、魔力の奔流に巻き込まれて身体を引き裂かれ、体液を撒き散らして落ちていく。


「爺さん、ヤバくねえか」


「うむ、あれはよくないね」


 狙いをつけてもう一度引き金を引いたが、弾丸は魔力に阻まれたのか明後日の方向へと捻じ曲げられた。


「クリオ・ファトム、どうして、あなたはあの人間の女さえ渡したら、魔封の森に繁栄をもたらすと言ったのに」


『出来損ないめっ。エルフはもっと素敵な種族じゃなきゃいけなかったのにっ』


 ディネルースは妖精の言葉に、膝をついた。

 奇跡だと思っていた。

 かつて、エルフを導いたとされる妖精の加護を与えられるのは、自らに相応しい奇跡だと思っていた。


『シャルロッテまではうまくいっていたのに、お前たちのせいでっ、マフもお前たちも許さない』


 妖精の言葉の意味は分からない。


「ディネルースと魔エルフ、それに爺さんも、こうなりゃ命続く限りやるぞ」


 リッドの叫びは、最後の蛮勇である。

 神のごとき怪物に一矢報いて死ぬ、そんなつまらない男の意地である。

 愚かな行いであるが故に、それは伝播する。

 ディネルースの顔色を窺うことをやめた魔エルフの戦士たちは剣を抜いた。一人抜けば、また一人、死ぬ前に戦おうという気概がある。


「悪くは無いね」


 フレキシブル教授は拳銃に弾薬を仕込みながら、唇を吊り上げて笑ってみせた。


「ディネルース、お前もだ。やろうぜ」


 ディネルースは、笑って手を差し出すリッドを見た。

 ああ、そうか。

 戦士の誰もがリッドを受け入れるはずだ。

 いま、死ぬのなら乗ろうと思った。これが前を走ってくれるなら、その背中を追うだけでいい。それだけで、この益荒男の見ている先に辿り付ける。


「うん」


 ディネルースは鼻をすすって、喉を整えると杖を取った。遥か昔、優しき森の魔女から贈られたという杖を手に、妖精を見やる。

 びりびりと大気を鳴動させて、その小さな身体に雷を纏わせるクリオ・ファトム。

 よく見れば、その小さな身体の先端、指先とつま先はぼろぼろと崩れつつある。





 アヤメとウドは戦っていた。

 甲殻戦鬼は相手としてはやりやすい部類だ。

 その力強さや耐久力は驚異的だが、強さは並の戦士二人分といったところだ。さらに、戦士の持つ知恵を彼らは持たない。だというのに剣を振る。

 与しやすいといわずなんと言おう。

 これが丘の巨人ほどの巨大さであれば手がつけられないが、亜人の戦士と一騎当千の武者が率いる銃士隊であれば充分に相手ができる。


「アヤメ殿、ヤツらなんぞでかいことをするつもりだぜ」


 リッドたちの進んだ先にいる妖精を中心に渦巻く力。

 今まで相対してきた者の中で、あれほど大きな力を放ったものはいない。その片鱗すら見せていなかったが、近いのが始祖の吸血鬼か。


「……邪術と呼ぶには些か大きすぎる力ですわね。あれは、リリーか」


 ミラールと共に駆けるリリー、そして、行く手を阻む蟲を斬り伏せる黄金騎士。混乱する戦場を一直線に切り開いている。

 アヤメの口から笑いが漏れた。

 叙事詩に語られそうなことをまたしている。

 さしずめ、アヤメは助力する邪悪な魔女の立ち位置であろうか。先に司祭という発想が出ないのが、闇狩りの卑屈さだ。


「闇狩りの術、どこまで通じるか分かりませんが、行きましょう」


「お供しやしょう」


 死が恐ろしいというのに、体は死地へと向かう。





 一度に五体の甲殻戦鬼がぶつかり、黄金騎士は足止めを余儀なくされた。


「行けいっ、リリーっ」


 その激励も、ミラールの疾走の速さに最後まで聞き取れることはなかった。

 ミラールは魔獣のように地を駆ける。

 もう少しで妖精に剣が届く。

 体当たりを仕掛けてきた甲殻戦鬼は、どこからか放たれた矢に射られて落ちる。

 リッドだろうか、それとも森の戦士だろうか。

 死の火杖の放つ轟音、そして悲鳴。

 鬼女の冷たい手の感触。

 幻視があった。

 幼い時からあった幻視だ。

 かつて、それを師はヴィジョンと言った。

 それらは全て、自分の世界が造りだす幻であり、万物の流転の一部である。

 巡礼の旅でそれを見ることは幾度かあったが、長ずるにつれてそれを見る頻度は減っていた。

 超然と生きるのを辞めたからだろうか。

 不意に、ザビーネを思い出した。

 どうしてあの時、彼女の死を受け入れたのか。後悔がある。ただ生きていれば、それだけで何もかもが違ったのではないか。

 わたしの世界は狭すぎたではなかろうか。

 クリオ・ファトム。

 あの妖精を宿命であると感じたことこが、間違いではなかったか。

 何もかもが仕組まれていたとして、あの時、どうしてシャザムの言葉を容易く信じてしまったのか。

 全ての答えはきっと出ない。

 ただ、この剣は行く手を斬り開くのみ。

 頭の上をぶうんと唸りを上げて何かが掠めていった。

 背後で何かが砕ける音。


「リリーっ」


 目の橋には鎖分銅を振ったと思しきアヤメの姿。


「クリオっ、ファトムっ、覚悟ぉっ」


 まるで、人間のような憎悪に染まる瞳の妖精と、目が合う。


『リリイィィィ』


 雷神を纏う妖精が、その小さくたおやかな手を伸ばす。

 我が罪深き半身よ、力を。

 鬼女の冷たい地獄の力が剣に乗る。

 一閃。

 妖精の首が、宙を舞う。



 それを見ていた者の、誰もが息を呑んだ。

 馬上、いや鹿上より振るわれた剣は、妖しき雷光ごと妖精を斬り伏せていた。

 切り払った形のままリリーとミラールは疾走し、その歩を無理やりに止めようとして、ミラールは倒れた。

 落馬したリリーにすぐさま駆け寄ったのはウドである。


「おお、なんと」


 剣をきつく握り締めたリリーの右手には、奇怪な傷が刻まれていた。

 雷の走った跡であろうか、剣には大樹とその枝のような紋様が刻まれていた。そして、それに続くようにして右の掌から、同じ傷がリリーの肩口にまで走っている。


「わたしは、生きて、いるか」


 心の臓が早鐘を打つ。

 息を吸い込むのが、つらい。


「はい、生きておりますとも」


 ウドの声を聞けば、ここが現世であると分かる。

 右手の感覚が無い。

 リリーは、右手の痛みに口角を吊り上げた。痛い時に笑うのは癖だ。

 勢いだけで、ついぞよくないことをしてしまう。

 いつもいつも、後になって逃げるという選択があったことを思い出す。


『リリいぃぃぃ、お前が、お前が悪役だったら、約束をはたせるのに』


 首だけになった妖精が、言葉を紡ぐ。


「この、程度では、斬れないか」


 斬るは斬った。しかし、命を奪った手応えは感じられなかった。


『許さない、すぐに次の身体を造って、潰してやる』


 これがまだ来るとなると、どうしたらよいものか。


「何度でも、来い」


 リリーの見る空は、穏やかに青い。

 夏の青空の色は、いつも鮮烈だ。

 冬の白みがかった空が恋しくなる。

 呪いの言葉を吐こうとした妖精の頭を踏みつぶしたのは、アヤメの靴底である。


「司祭がひどい真似をする」


「いつもいつもあなたには、感心させられる」


 あ、こいつ、涙ぐんでるじゃないか。

 暖かい言葉を口にしながらも、肩を貸そうとはしない。

 その手を差し出してくる。

 だから、無事な左手でその手をとれば、存外に強い力で無理やり引き起こされた。


「もう少し、労われ」


「司祭が労わるのは、念仏を唱える時ですわ」


 クリオ・ファトムの肉体は煙を上げて、肉色の泥へと変じている。

 無事な左手を掲げれば、亜人と魔軍の両方から歓声が上がった。

 この日、魔封の森は大きな転換を迎える。

 後に編纂された叙事詩では、『セカイジュに宿る大いなる精霊の加護により妖精を打ち倒した人食い姫は、その剣と腕に樹霊の聖痕を得る』と語られた。

 地獄めいた長い巡礼の旅にも、終わりが近づいていた。

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