第30話 つんではくずし
つんではくずし。
つんではくずし。
小さな木の欠片を積み上げる。
積み木というものに触れることから、力の使い方を学んだ。
握りつぶさないように、積み木を積む。
つんではくずし、つんではくずし。
「よくできたわね」
魔女が頭を撫でる。
その柔らかな手の感触だけが、鮮明に残っている。
◆
地を駆る大鹿ミラールは、自らと同じかそれ以上の、同格の生物との闘争に悦びを覚えていた。
自らの背に乗る人間は不可思議なメスだ。
敵の四足は今まで会ったどんな四足よりも大きな気配を持っている。
自らより速いかもしれない。
自らより強いかもしれない。
そんなものを認めてなるものか。
リリーは黄金騎士に向けて短弓を用いようとしたが、ミラールはそれを許してくれない。
猛り狂うようにして轟魔という名の巨馬へ向かって駆ける。
仕方ないか、とリリーは諦めた。
弓では、あの黄金の鎧を貫くほどの技量は無い。ならば、考えるのは辞めだ。
「いざああああ」
木刀を片手に腰を浮かせる。
魔物じみた軍馬の嘶きと、黄金騎士に渦巻く力のうねり。
戦士だけにある幻視であった。
黄金騎士と軍馬には恐るべき力が渦巻いている。
鍛錬の果てにある力だ。神秘など、どこにもない。
四つの瞳が、四つの瞳と交差する。
人馬一体という言葉がある。自在に馬を操る戦士のためにある言葉だ。
黄金騎士の斬馬刀の軌跡は、あまりにも美しい。
なんという腕か。
斬馬刀とは、横を駆け抜ける時に振るだけのものだ。
馬から振り落とされないようにするのが前提であり、力の入れ方と振るタイミング以外に、技らしきものは無い。
重い斬馬刀を軽々と振り回せるだけの膂力のあるこの男の手で、斬馬刀が正しく恐るべき剣として完成している。
戦いの最中だというのに、リリーはその軌跡に魅せられた。
ああ、なんという男だろう。
この男の魔物じみた異相からは想像もできないような、鍛錬の果てに辿り付く境地であった。
「ミラールッッ」
リリーは叫びながら、腰につけていた陶器の瓶を投げていた。
あまりにも美しい軌跡に瓶が吸い込まれるのを見届ける前に、ミラールからリリーは自ら跳ぶ。地に叩きつけられる衝撃を転がることで軽減するが、全身が激しく痛んだ。
己の戦いを恥じるつもりは無い。
リリーは卑劣な剣技を幾つも身に付けている。
黄金騎士にとってみれば、それはあまりにも予想外のことであった。
尋常の決闘で投げつけられたのは、毒であった。
黄金の鎧によりそれは防がれたが、轟魔には降りかかった。
腐った油のような匂いの毒液は、正教会の司祭が使う邪毒の聖油である。
狂ったように跳ねる轟魔から振り下ろされた黄金騎士は、地に叩きつけられて全身に心地よい痛みが走るのに、暫時、恍惚とした快楽を覚えた。
「きいえええええ」
怪鳥のごとき気合と共に放たれたのは、リリーの木刀である。
轟魔の嘶きに気をとられながらも、黄金騎士はそれを飛び退ることでかわしていた。
「卑劣な真似を」
「よもやァっ、汚いとは言うまいなっ」
「この雌犬がっ」
取り落とした斬馬刀は、拾うためには命を捨てねばならぬ五歩の位置にある。
黄金騎士は腰に付けた短剣を抜いた。いや、短剣と呼ぶには大きすぎるだろう。彼の巨躯に応じた大きさの短剣は、並の戦士の用いる剣に等しい。
応じるリリーは抜いた瞬間に足を止めざるをえなかった。黄金騎士に隙が無いのだ。
じりり、とにじり寄る。
「愛馬が気になるか」
リリーが揺さぶりの言葉をかければ、黄金騎士は黙して語らない。
遠く海を隔てた向こうにある魔国は、戦乱の炎は未だ消えずにあるという。帝国のように天下泰平の国の武将とはあり方が違う。
「御託はいい」
先に動いたのは黄金騎士である。
全身鎧をつけているとは思えない速さの踏み込みから、抉るように走る刺突が放たれた。
リリーもまたそれをすんでのところでかわしながら、間合いを詰めていく。
掠っただけで体勢を崩されるだろう。
リリーは呼気を整えて、正眼でにじり寄る。
互いに一撃か。
黄金騎士もまたリリーの木刀を警戒していた。得体のしれぬ力がある。
魔女リシェンが恐れる剣の力。
受ければ、この肉体の痛痒が止まるのではなかろうか。
肉を切り裂く痛みもまた痒みを消すということを知っている黄金騎士グロウ・クーリウにとって、その危うい誘惑には抗い難いものがあった。
戦場を単騎で駆ける男にはそのような昏い欲望があった。
それを知らぬリリーにとって、その誘いはあまりにも恐ろしい。
隙がある。
かつて師は、隙とは相手の隙間と言った。
石工は石の目と呼ばれる隙間に鑿を入れることで、巨石を割る。相対する者の隙とはそういうものだ。そこを突けば割れる。命の器を割れるのだ。
故に、その隙を晒す業も存在する。
黄金騎士がみせる隙は、まるで大きな穴だ。吸い込まれてしまいそうな、昏い穴である。
背後ではミラールと轟魔が悪魔じみた嘶きを上げて争っていると思しき音がする。
振り向けない。
たとえ、どちらかが敗北して加勢に来たとしても、振り向く余裕が無い。
互いが隙を伺いながら技を出して避ける。余人には、二匹の怪物の戦いは模擬戦かと思えるほどに単調でゆっくりしたものに見えただろう。
あと一歩。
あと一歩詰めることができれば、策はある。
息吹の呼吸が乱れそうになるのを抑えた。
鬼女が力を貸すために、その冷たい手を伸ばす。
まだだ。
「つくづく、わたしには才が無い」
仕切り直そうとしているところで、リリーは言葉を発した。
「俺を追い詰める女に才が無いというか」
リリーは口元に薄く笑みを刻む。
「女の身であること、剣の上では才がなかろう。それに、師は二人いるが、その二人ともに女で、わたしよりも深く高い天稟があった」
リリーは小器用である。
師が十を理解し十を使いこなすというのなら、リリーは九を理解し八を使いこなす。得てして、そういう者は早熟だ。リリーもそれに当てはまる。
五までは早く、そこから先は長い。
汚い業、卑屈な業、邪剣と呼ばれるものを数多く会得しているのにも、そういった才の限界を埋めるという理由があった。
凡人には届かぬというのなら、下駄を履けばよい。高い下駄であれば、そこに手が届く。
「お前よりこわい女がいるか」
「男には分からんだろうよ。女は、みんな化物さ」
黄金騎士は誰よりも魔物じみた女を知っている。
魔女リシェンよ、この強い女ならば、お前のくれる痛みよりも強く、己を癒してくれるのではないか。
リリーが一歩踏み出せば、黄金騎士も応えた。
ゆらりと、リリーの剣がぶれた。
息吹に頼らない幻惑の歩法である。傍から見れば非合理な動きだが、相手の剣先に集中する一対一の戦いであれば、相手の呼吸を崩せる。
「小賢しいわッ」
黄金騎士は目くらましに左右されず、短剣を振った。
きたか。
この一瞬を待っていた。
この男の体勢を崩す瞬間を待ち続けていた。黄金の鎧に守られた全身を崩すには、
含み針、口血霧、つま先砕き、様々な手のどれもがあの巨体と黄金の鎧には通じない。
さて、これが無意味ならまず敗北するだろう。しかし、そんなものは今更だ。
集中の世界で、黄金騎士が迫りくるのが、やけにゆっくりと見えた。
リリーは口付けを待つ姫君のように、唇をすぼめてみせた。
◆
斬り伏せるつもりで放った一撃は、弦楽器とも獣の唸りともつかぬ音を聴いた瞬間に
なんだ、何が起きている。
膝に力を入れようとしたが、体が意に反して傾く。
「なんだ、これは」
この異常を引き起こしたのは、先ほど聞いた音に相違ない。
リリーは、喉を引き絞るようにして『音』を発していた。
かつて、修行時代に出会った闇狩りから教わった、ダ・ツタンに伝わる口蓋の邪術である。
音が止む。
「きいえええええ」
瞬時の呼吸と共に裂帛の気合から放たれる、息吹秘剣の振り下ろし。
「うおおおお」
叫び、黄金騎士は拳を握りこむ。光り輝く純金の籠手で造られた右の拳を、真っ向から木刀に合わせたのだ。
それは、リリーが相対した死に瀕した者のどれもがやらなかった反撃である。
鈍い、砕ける音がした。
黄金騎士は、拳より伝わる骨を砕く痛みに異様な快楽を感じた。
骨から全身に届いた息吹の力は、体の奥にある筋肉が内臓と骨を締め上げる痛みとも痒みともつかぬ不快を、消し飛ばしていたのだ。
リリーの振るった木刀は、黄金騎士の拳によって、へし折れ砕けた。
長く手にあった分身ともいえる木刀の欠片が宙を舞う。
愛着、いや、言葉にできぬ諸々の詰まったそれを捨てたリリーは、短剣を抜いた。帝都でシャルロッテと出会った時に手にした短剣である。
「
膝をついている黄金騎士の背後に回り込み、その首めがけて短剣を振り下ろそうとした時、大気を鳴動させんばかりの音が響き渡った。
黄金騎士の愛馬、轟魔という名の巨馬であった。
巨馬が迫りくる。だが、この男を殺す好機は今しかない。齊天后の時のように、機会を逃すのはまっぴらだ。
「ミラールッ」
同じく傷だらけのミラールが、巨馬に角の一撃を与えてその勢いを殺す。
短剣を振り下ろそうとした時、死の匂いがした。そして、冷たい鬼女の気配がリリーにそれを気づかせた。
「横入りかっ」
「グロウを殺させはせん」
虚空から女が現れていた。どこにもいなかったというのに、空間を飛び越えたような出現であった。
浅黒い肌に入れ墨を入れた魔女リシェンである。
魔術師の杖がリリーの目の前に突き出された瞬間、それは来た。
死神が放ったのと同じ類いの異様な力だ。それが炎か電撃か、それとも光の矢か確認する前に、リリーは地獄の力でそれを斬る。
「それは前に見た」
自然と体が動いていた。
魔人の使う術を斬れる。カグツチが、死神が、脳男が、彼らが使う術を見て味わった。きっと、齊天后マフの術も斬れる。
「なっ、
リシェンの敗因は距離が近すぎたことである。確実に倒すために至近距離を選んだが故に、リリーの放つ刃が届く。
「リシェンっ」
リリーの短剣がリシェンの喉を切り裂こうとする瞬間、リシェンは後ろに突き飛ばされていた。魔女の名を呼んだ黄金騎士が、突き飛ばしていたのである。
「アレを殺すなっ」
どうしてか、リリーの手が止まる。何か懐かしい、苦い何かが胸の奥でちくりと心の薄暗いところを刺す。
「いやじゃ、殺させてなるものか」
黄金騎士と魔女は互いの身を呈そうとしている。
不意に、リリーはその手を止めた。
鬼女の怒りが魂に伝わる。しかし、その怒りが、逆に冷静さをもたらした。
「お前の負けだ。軍を引け」
殺しておかねばならない男であると、先ほどまではそう思っていた。
胸に冷たい風が吹き付けるようだ。
戦いの狂熱が一気に冷えて、リリーの心を刺す刃となった。
「命を賭ける決闘だぞ」
「母親に守られる分際がっ、男の口を利くな」
初めて命を奪った日。
野盗の少年は、木刀で打ち据えられながら、弱弱しく言葉を紡いでいた。今までずっと、忘れて、思い出さないようにしてきたことだ。
木刀に打たれて頭を西瓜のごとく叩き潰される前に、あの子供は「おかあさん」と言っていたのではなかっただろうか。
「母親の前で、子供を、……子供の前でっ、母親をっ、斬らせるな」
斬れないの間違いだ。
必要なことをしない。それができるほどに、リリーは弱くなくなった。
気づいているだろうか、それは師ですらもできなかった行いであるということに。
太陽を背に、敵の前で刃を納めたリリーは、ふんと鼻を鳴らして、恥を隠すように、どこか後ろめたい様を隠すように、背を向けてミラールに歩み寄る。
なんという気高い人か。
フレキシブル教授は黒眼鏡を外して、両の目からあふれ出る涙を、両の手で覆い隠して慟哭した。
リッドはその様子に戸惑っている。
年若く、英雄へと至るであろう益荒男には分かるまい。
命をかけながら、人にしか取れぬ道を歩むことの難しさは。
ウドとアヤメには分かる。
あれをどれだけやりたかったか。いつだってやれた。暗く冷たい記憶の中で、あれをやる瞬間はあった。しかし、そんなことはいつだってできなかった。
そうか、これがリリーに求めたものか。
これを見るために、この地獄の旅があったか。
非合理である。
人の心に合理は無い。
それを見る虫の心に憎しみが宿る。
それを理解したいと願い続けたのだ、と。
大切な友との約束のために、それを理解しようとし続けたのだ。
だから、妖精は天を貫くほどの慟哭を上げた。
虚空を引き裂いて、虫の得た憎しみは大地を焼かんと猛り狂う。
そこにいた軍勢、亜人と魔国の総数は三百ほどである。
リシェン以外の誰もがそれに反応できなかった。
五百年を生きる禿鷹の魔人であるからこそ、遠い昔に大地から去ったはずの気配に気付けた。
幾度も命を失いかねない危険を与えてくれた存在だからこそ、その懐かしい恐怖に体が先に反応したのである。
リシェンは自らの手首を噛み千切り、大量の、人には出せるはずの無い血液を風に乗せて撒いた。
血飛沫は一つに集まり紅い輝きとなり、巨大な真紅の槍となる。
空から、太陽の光を遮って現れた蟲の怪物は、血の槍を受けて地に堕ちた。
それは人の形をした昆虫である。
リリーはそれを知っていた。今となっては、遠い昔のようなのに、まだ数か月しか経っていない。あの日、水晶宮で見た、仲間であるはずの男のなれの果てである。
『リリー、リリー、りりりりりりりりりー、お前はいらないっ。もういらないっ』
甲高い声で叫ぶのは、空を舞う妖精であった。
「クリオ・ファトムか。久しいな」
短剣を抜いて構えるリリーは、怒りに燃える妖精を見やる。
『お前はお前はお前は、お前なんか脇役のくせにっ、お前なんかが、わたしとアメントリルの邪魔をしてっ、お前なんかいらないっ。造り変えてやる』
「よく分からんが、最初からお前は胡散臭かったよ」
虫の羽音が聞こえる。
始祖の吸血鬼のものよりも小さいが、風を切り裂くような甲虫の羽音。たき火に飛び込む黄金虫の羽音が、何十倍にも大きくなった不吉な音が響き渡る。
『甲殻戦鬼シャザム、いっぱい集まれっ。こんな森のヤツらはみんな殺しちゃえっ』
リリーは短剣を抜いて、虚空より現れ出でる無数の甲殻戦鬼を見た。
「黄金騎士に魔女よ、力を貸せっ。命の貸し、返してもらうぞ」
敵の敵は友というが、やはり敵であろう。しかし、今は人同士で争っている時ではない。
魔女の秘薬で力を取り戻した黄金騎士と轟魔は、羽音を掻き消さんばかりの雄叫びを上げた。
魔国の軍勢が銅鑼を鳴らす。
空からやってくる怪物に、亜人たちもまた戦うことを選ぶ。
アヤメとウド、そして、老いた奴隷たちもまた怪物に立ち向かう。
雅とは無縁の、人と魔の戦いが始まった。
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