第18話 奇縁の師
奇跡である。
土気色の肌が生気を取り戻す。
人は、死して九つの相を渡る。
膨れ、腐り、骨となり、やがてその骨も朽ちる。それを詳細に描いた図を九相図というが、それは神の信仰と結びつくと共に、現世の無常を表す。
リリーという女もまた、死体となり膨れ、腐りゆくはずだった。
現世の理を覆して、巻き戻る。
肌色に艶が戻りゆく様は、奇跡そのものであった。
リュリュとアヤメは奇跡を目の当たりにして、神に祈った。二人の教えは同じくとも、祈る聖句は違う。
骨の貴婦人である齊天后マフは世の理からは外れた魔だ。
死してなお蘇ることに、不思議はあれど奇跡とは思えなかった。しかし、いま、ただの人であるリリーが蘇った。
世に奇怪なことは数あれど、死を覆すことほど恐ろしいものは無い。
神々しさよりも、そこには空恐ろしさがあった。
地獄から帰ったシャザにとって、それは地獄で見慣れた光景である。しかし、現世で見やれば、それのなんとおぞましいことか。
「神など、こんなものか」
と、一人ごちるシャザの心はいかなるものであろう。
ウドは奇跡を食い入るように見ていた。なんと恐るべき、そして、なんという宿命じみた奇跡か。
手のひらから零れ落ちて、取り戻せない場所に堕ちたはずのものが、戻るとは。
目を開き、体を起こしたリリーは自らの手を見た。
固く握った柔らかな手の感触が残っている。
もう一人の自分の手。そして、鼻先には死の匂い。いや、衣服に染み付いた自らの死臭か。それは、友の匂いを思い出させる。
「戻ったのか……」
ぽつりと言って、ようやく周りの視線に気づく。
頼もしい旅の仲間たち。そして、知らぬ老司祭。
最後に、自分を殺した女。
瞬間、胸にどす黒い炎と、恐怖が渦巻く。
◆
リリーは怪鳥のごとき声を上げて、部屋の隅にまで跳んだ。
尋常な肉体の理を越えた、死に瀕する者特有の異常なまでの跳躍であった。
壁にかけてあった棒を握りしめ、歯を剥きだしてシャザを威嚇している。
「姫様、敵ではございやせん、お気を沈めておくんなさい」
ウドの叫びも、リリーに届かない。今、リリーにあるのは恐怖のみであった。
「そうです、今は棒を捨てなさい」
アヤメも言うが、声が震えていた。
今まで、どんな戦いでもこのように恐慌に陥ることのなかった、むしろ超然としていたリリーが、恐怖から牙を剥いている。
こんな姿は知らない。地獄の旅に同道する仲間ですら、見たことの無い顔をしている。
狭い拷問部屋に、異様な鬼気が満ちる。
「人となりましたか」
シャザは進み出て、戦杖を構えた。
「来るなッ」
「それで良い。人は痛みを恐れねばならぬ。人は愛を求めねばならぬ。全てを捨てるのは哀しみの果てよ」
今のリリーに言葉が届かないだろうことを分かっていながらも、シャザは言葉を続ける。
「過去を葬り今日を流れる者は、人とは呼べぬ。
言い終えると同時にシャザが動いた。それは、戦いとも呼べぬ一瞬の出来事である。
シャザの動きになんの抵抗もできなかったリリーの腹に、戦杖の石突が吸い込まれる。
恐慌に陥っているリリーの意識は、一瞬で刈り取られた。
「どういうことですか」
アヤメは殺気を滲ませて言う。
なんでリリーのために怒らねばならないのか、自らことが分からない。ただ、無性に腹が立った。
素直じゃないリリー。人を小馬鹿にしたように誇り高いリリー。そして、下らないと思えるくらいに単純でお人よしのリリー。
嫌いだ。こんな苦労知らずの女は。
「何を見たかは知りませんが、地獄の瘴気に当てられたのでしょう。さて、今はわたくしに従って頂きます。悪いようにはしません」
「舐めてくれる」
シャザに対して、アヤメは鬼気を発した。
今まで、感情だけで戦おうと思ったことは無い。どこかに計算があった。だからこそ、リリーと死合うことはなかった。
「ひよっ子を舐めるのが親鳥というもの」
「シャアァァ」
毒蛇の呼吸でアヤメは手刀を繰り出した。しかし、首に絡みつくものに気付かなかった。
「今はおやめなせえ」
ウドの絞殺紐である。無論、息の根を止めるような真似はしない。
「放せっ」
「お眠り下さいよっ、と」
首に食い込む革紐は、呼吸を止める。
完全に極まったそれは、アヤメから意識を奪う。そのまま冷たい石の床に倒れ伏した。
「蛇蝎のウドよ。この小娘共は、いくら出来ておっても小娘ですよ。細作ではなく仲間というなら、あなたも大人として導いてやりなさい」
「細作の生き方しか知りやしません。何を言えというんですか」
シャザが口を開く前に、リュリュが割って入った。
リュリュは首飾りとしている教会の聖印を取ると、聖句を吟じた。
「蛇蝎のウドと言いましたね。帝都司祭長のリュリュが、あなたの罪を焼きましょう。浄火の誓いを受けますか?」
「し、しかし、俺は」
「あなたには説法が必要です。……、後で時間を作りましょう」
男に自ら説法を行うなど、どうかしている。リュリュは小さく寂しげな笑みを作った。
ウドはどうしてか、それが見知らぬ、触れたことのないものに似ているように思えた。
リュリュもまた、自分の胸にあった何かが変わる音を聴いていた。人は変われないのではない。何かが必要なのだ。リュリュの女が終わった時と同じように。
この後、半吸血鬼の伊達男と合流して、一行は姿をくらませることとなる。
◆
城塞都市ヴェーダは、帝国成立以前はリグ・ヴェーダと呼ばれていた。
リグ・ヴェーダは魔の巣である。正教会と始祖皇帝が魔を調伏し、そこに出来上がったのが交易と城塞の都市である。
帝都よりも高い城塞は、外からの侵攻を防ぐものではない。
地下に封じた魔を出さないための檻である。
商業都市として栄え、悪徳の満ちる街は、地下深くに眠る魔への餌として機能していた。
リリーが目覚めて最初に見たのは、実家にあるものに勝るとも劣らないシャンデリアだ。
窓が無い石造りの部屋にいる。
何があったか思い出そうとすると、ひどい吐き気がして考えがまとまらない。
寝かされていた豪奢な寝台から降りて、文机にあった水差しから水を飲んだ。
心は落ち着いてきたが、手が震えている。
「目が覚めたのね」
声に振り向けば、少女がいる。
見た目は十歳かそこらだろう。しかし、そこに異様な気配があった。人の形をした、別の何かに特有の気配である。
「何者だ」
リリーの鋭い声。自らが意識したものより棘がある。弱気が外側に出ると、吠えるだけの犬となる。
「うふふ、聞いてたのと大分違うのね。まあいいか、御婆様が呼んでるから一緒にきて」
「……ここはどこだ」
「痛い目にあいたい?」
足が竦む。
激昂するほどの怒りと恐怖がない交ぜになっていた。
この定まらない心が、体を鉛のように重くさせている。自らの影が泥濘になったかのような、まとわりつくような鈍さだ。
「分かった」
今は従うしかない。
部屋の外に出ると、地下特有の湿った臭いがした。
石造りの回廊には古代の壁画が彫りこまれていた。未だ帝国式の油絵が定着する以前の、エルフの作る道祖神にも似た構図である。
「ここはなんだ」
「リグ・ヴェーダとか、あんだぁわあるど、とか呼ばれてるところよ。一番分かりやすい言い方だと吸血鬼の巣かな」
少女はなんでもないことのように言う。
「貴様、吸血鬼か」
「丸腰でビビってるくせに、大声出すのやめなよ」
少女は侮蔑の視線でリリーを見やる。
「余裕ないなあ」
「くっ、このようなことを」
このわたくしになんという口の利き方を、下郎が。
そのように、リリーは口走りそうになった。こんなことを言いそうになるのは初めてのことだ。
「着いてきてね。迷子になると大変だからさ」
従う他に無い。
奥へ奥へと入り組んだ回廊を進む内に、壁は石造りから荒く掘られただけの石壁に変わっていった。
足が竦む。
アヤメが垂れ流す瘴気にも似た、異様な気配がある。
邪術使いと関わった数はそう多くない。
アヤメは邪術使いとして一流だが、彼女は吐き気を催す術は使っても悪はなさない。
瘴気を放つ邪術とは、悪と断じて間違いない。幾度か、それを行う者を見た。そして、「信用するな。殺せ」という師の教えに従って斬って捨てている。
瘴気を放つ存在というのは、生きているもの全ての敵で間違いないと教わっている。
少女の後ろ姿に続いて歩き続けていると、開けた場所に出た。
鍾乳洞に似ていたが、そこかしこに薄く緑色に輝く苔や茸のようなものが生えていた。
天井は、恐ろしく高い。
いつのまに、こんなに深くまで下りたのだろうか。
ブブブという奇妙な音が、先に続く闇の中から響いてくる。
虫の羽音をそのまま大きくしたような、ひどく、怖気を走らせる音だ。
「ああ、そうだ。言い忘れてたけど、御婆様は化物だから、見て驚いてもいいけど失神とかしないでね。おしっこ漏らされたりしたら、下の世話とか大変だし。したくないから」
「お前も化物だろうが」
「ふん、人は心で人になるものよ。愛を知らない化物はあなたじゃない」
言い返そうとしてやめた。口ではこのませたガキに勝てそうにない。
意外に、言われてしまうと胸にくるものがある。
しばし歩くと、吸血鬼の少女は壁に取り付けられたレバーに手を伸ばして、引いた。
ガコンという音と共に、壁に取り付けられた絡繰りが動き始めた。
どうなっているかリリーには理解できなかったが、幾千の歯車が軋みを上げて動き出し、壁に取り付けられた燭台に自動で炎が灯されていく。
「これは」
「ずっと昔、五百年も前に禿鷹の悪魔が作ったカラクリらしいよ。魔界じゃあ玩具みたいなものだって話だけど。あ、御婆様がくるから、風が。きゃっ」
上から巨大なものが降ってくる。
凄まじい風圧に吸血鬼の少女は転び、リリーは腰を落として近くの石につかまった。
「な、な」
驚きの声すら、リリーはまともに発することができなかった。
ブブブ、蠅が羽を高速で動かす音。あまりにも大きいそれが響いている。
『それがリリーか。ヒヒヒヒ、こんな穴倉にまでようきたのう』
それのなんと巨大なことか。
リリーの知るものの何万倍だろうか。あまりの大きさに言葉が出せない。
それは、巨大な蚊であった。
藪にいる縞模様の蚊が、城塞のごとき大きさで目の前にいた。
「な、なんだ、これは」
『ヒヒヒ、始祖皇帝とアメントリルめとの約定により、ヴェーダの地下に追いやられた始祖の吸血鬼とは、この婆のことよ』
巨大な蚊は芝居がかった声音で言う。
恐るべき声だ。脳の奥に直接響いてくるような、いや、これは本当に声であるのか。耳には、巨大な羽音しか響いていない。
言葉は頭の中に直接届いている。
師はかつて、吸血鬼を侮蔑的に蚊人間と呼んでいた。これが吸血鬼の始祖というのならば、それは正しいに違いない。
木刀すらなく、目の前には圧倒的な魔がいる。
息吹の業、これほどの怪物に通じるか。いや、通じはしまい。リリーは今、完全に相手との差を理解している。こんなものに立ち向かうというのは、崖から飛び降りて死なないか試すようなものだ。
『そう硬くなるでないぞ、リリーよ。吸血鬼は今よりお前の味方じゃ。マフの目もここまでは届くこともないしの』
「あれの仲間ではないのか」
『面白いことを言うのう。アメントリルに力を貸したことはあったがの。仲間になった覚えは無いわい。ヒヒヒ、齊天后マフであったか、まさかアメントリルの仲間がまだ生きておったとはのう』
どういうことだ。
吸血鬼は教会にとって敵のはずだ。
「わ、わたしに、なにをする気だ」
『なに、お前に助力してやろうというだけよ。リリーよ、巡礼の最終地、アメントリルの墓所に向かうのじゃ』
「待て、何をさせたい」
『お前に分かる言葉で説明してやるのは難しいが。そうさな、お前たちの文明があと五百年進んでも、理には辿りつけまいな』
始祖の吸血鬼が言う言葉の意味は分からない。
『一度死に、もう一つの魂を持ち帰ったのならば、運命にも負けることはあるまい。お前の旅はまだ終わらん。吸血鬼の回廊を進み、脳男に会いに行け、旅の道しるべとなろう』
「魂とは、あれは夢ではないのか。あのわたしはなんなんだ。教えてくれ」
『あるべき道筋のリリー、お前じゃ。そして、あるべき道筋は最早無くなった。結果だけが残っておる。地獄から帰り、運命の
来た時と同じように、始祖の吸血鬼は透き通る羽で強い風圧を作り出した。
空気そのものが吸い上げられるような強烈な風と共に、上方へと舞いあがっていく。
「まってくれ、何を、どうしたらいい」
『リリー、鬼を見よ、死を見よ、そして、世界を知れ』
風と共に、始祖の吸血鬼は消えた。
その場に膝から崩れ折れたリリーは、ひどい敗北感に包まれていた。
自分で信じた道を進んでいたはずだ。なのに、今は、何かにその道筋を進まされていたようにしか思えない。
鬼女に成り地獄に堕ちるか、それとも自らよりも強い者に倒され地獄に堕ちるか、結果が同じなら、どうすればよいというのか。
歯を食いしばり、零れ落ちる涙を止めようとしたが、それは止まらなかった。
「ご領主様と会ったのですね」
厭な声が聞こえた。自らを殺した女の忘れられない声。
「何をしに来た。また、わたしを、殺しにきたのか」
リリーの前に立つ影は、シャザであった。
「一度死ぬことで、自分で進む道も決められない小娘だと、気づきましたか」
顔を上げられないリリーに、シャザが何かを差し出す。
それは、師より受け継いだ、息吹の木刀である。どれぼと昔から引き継がれてきたものか、どれほどの血を吸ったのかも分からぬ木刀である。
「お前は、どうして、どうしてこんなことするんだよっ」
「あなたの師はきっと優れた人だったのでしょう。ですが、最後まで修行をつけられなかった様子。わたくしが、鍛え直して進ぜる」
リリーは、木刀を取った。
こんなに、この木刀は重いものだったろうか。
「お前に何が分かる」
すぐさま、木刀を振った。力任せの不意打ちは、シャザにとっては児戯でしかない。簡単にかわされる。
「剣の理は教えても人の理は教えなかったようですね。さあ、打って参れ」
憎しみが、燃える。
息吹は自然と一体となる法だ。憎しみに燃える今、木刀に上手く乗せられない。
「く」
打ち込む隙が無い。
いや、怖くて打ち込めない。あの痛みが来ると思うだけで、足が、体が竦む。
「あなたの師は、その程度ではあるまい。それとも、息吹の業とはその程度か」
「おのれぇっ」
木刀を無理矢理に振る。
力んで放った一撃を、シャザはオーク戦杖で受け止めた。
体が重い。
何合打ちあったか、全て受け止められ、頭からも汗が噴き出ていた。
息が荒い。
ああ、あの日、初めて命を奪ったあの時も、体から滴る汗を止められなかった。
浚った幼子の腹に刃を当てた時も、このように恐ろしかった。柔らかな肌に刃を突き立てる恐怖。怯える瞳の幼子に、どれだけの苦しさがあったか。毎夜毎夜、あれからうなされて、眠れた日は無い。
どれほど憎しみで心を燃やしても、罪と恐怖は消えない。
「くうぁぁぁあ」
肉体に知らぬ力がある。
生きながら鬼となった魂の発する邪悪な力だ。息吹のように、それは木刀に宿る。
「自然との合一とはよく言うたものよ。息吹とは、自らを捨てて振るう業か。春の陽射しのように放ち、冬の嵐のように命を奪う殺し業か」
「息吹の業は、師から命と共に引き継いだッ。お前などに何が分かる」
シャザはすっと息を吸い込んだ。
「分かるッ」
「ぐっ」
その力強い断言。
「恐るべき使い手であったのでしょう。その力故に、一ところに留まれぬ嵐のような人であったのでしょう。リリー、あなたは未だ嵐ではない。つむじ風か鎌鼬が良きところ」
「だからどうしたぁっ」
打ち合えば、自らの手が痛む。
「超然と生きるなど、百年早い。師があなたに教えたのは、人並みの幸せを自ら勝ち取るための業であろう」
あの時、師は言った。
『幸せにおなり』
生きることにどれだけの幸せがあろうか。
優位に立ち続けることが幸せであるのか。他者に愛されることが幸せなのか。栄光に充ちることが幸せなのか。裕福であるのが幸せなのか。家族のために生きるのが幸せなのか。我が道を真っ直ぐ進むことが幸せなのか。罪を償うことが幸せなのか。主君を支えることが幸せなのか。
「力の使い方を誤ったというのか」
リリーは木刀を八双に構える。
防御など捨てて、相手の肉体を両断する気合で放つ型、ひれが八双だ。
今までどれほどの命をこの型で奪ったか。
負けられはしない。師のように、師の名を汚さぬために。理想の生き方をするために。
「誤ってはいません。しかし、死んでもいいと思って生きるなど幸せとはほど遠い。あなたの過ちはそこにある」
「なら、どうすればよかったというんだ。天下万民のため、帝国のために命を賭すのが貴族だ。ラファリア様は斬らねばならなかった」
「仕損じて今がある。さらに険しい道となり、そこにわたくしのような者が立ちはだかる」
「だから、お前のようなものを殺さねばならん。活人剣など捨ててやるとも」
息吹の呼吸と共に、憎しみによる魂の共振が木刀に乗る。
「あなたの師もまた、それに惑う人であったのでしょう。噂に聞くカリ=ラの化身は、歩む道筋に血の池を作り、人を救っていました。殺人剣とは哀しき道。悪を刈り取る道に他ならぬ。どれほどの高みに辿り付いても、ただ一人、血の池に立つのみ」
土地から土地をさ迷い、悪を討つことで路銀を得る。
師が命を奪わなかった者たち、中にはあの古の教会騎士のような男がいる。しかし、あの男ですら戦いの狂熱を捨てていない。
「そうでもせねば、正しき剣とは」
「だからこそ、あなたは師にとって救いだったのでしょう。正しいからこそ、剣だけしか持ち得なかった。あなたこそが、あなたの幸せこそが、あなたの大切な人が最後に手にした幸せだったのです」
リリーは木刀で地面を打った。
「もっと、もっと一緒にいたかった……。あんなふうになんて、したくなかった」
あれから、リリーは師の生きた続きを生きねばならなかった。
太平の世が続き、何事もなければそれでもよかっただろう。リリーはいつか恋をして、歳を重ねて、子をなして、気づいたはずだ。ただ、一つの師が願っていたことに。
木刀が手を、離れる。
「わたしは、こんなにも弱い」
「これも奇縁。この贖罪のシャザ、天下無双を名乗るに不足は無いと自負しております。弟子は取らぬつもりでしたが、教えましょう」
シャザの差し出す手を、リリーは取る。どこか懐かしさを覚える力強い手だ。
リリー、剣に生きて二人目の師であった。
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