第17話 リリー死の淵で鬼女に会うこと

 城塞都市に限らず、街というものの入口には馬子がいる。

 馬子とは馬に限らず騎乗できる生物を取り扱うことを生計たつきとしているものたちだ。


 馬宿ギルドというものを作る彼らは、帝国の流通に深く根を張っている。とはいっても、大きな金が動くというだけで、個々が権力を持ち得ている訳ではない。各大都市のギルト長であっても、中堅どころの商人程度の財力しか持ち得ない。


 ヴェーダで一番の馬子とされる蹄研ひづめとぎのルースは、夕日に照らされて困っていた。


 一度は触ってみたいと思っていたエルフの大鹿を引き渡せと、渡世人が押しかけてきたのだ。


「旦那方、そうは言われても手形を預けた人に来てもらわないと」


「そいつは死んだんだから関係ねえや。早く言うことをききやがれ」


 刃物までちらつかせてきた渡世人たちに、ルースはやれやれと重い腰をあげた。

 生来、ルースはどうにも人間というものが怖くない。

 よく母親からは抜けた子供だと言われていた。大人になってからも、おっとりして愚鈍な性格は変わらない。


「連れてはきますけどね、そっちでなんとかしてくださいよ」


「最初から素直にそういえってんだ」


 心配して言ってやっているというのに、なんという言い草だろう。

 ルースは女を知らない。

 三十近くになって、良い人ができたことも、遊女と遊んだこともない。


 馬の優しい目が好きだ。時に、悪魔のようにもなるが、あれはあれで素敵だ。

 エルフの大鹿ミラールも、とても良い。

 群れがあれば頭領であろう器量を持つ大鹿が、人を乗せているというのは、なんとも奇妙ですらある。

 何やら乗り手の女剣士様だか姫様だかは、今日の決闘で死んだというが、ミラールには主を失った騎獣特有の荒んだ気配は感じられなかった。


 馬子の親方が逃げ馬を追って山から帰ってこなかった時も、馬たちはこんな様子だった。であれば、まだ死んではいないのではないか。親方も四日後にひょっこり帰ってきた。


 ルースはぼんやりとそんなことを考えながら、ミラールの首をなでて厩舎から連れ出した。


「止めないから、好きにおしよ」


 とミラールに囁けば、答えるように大鹿は小さく啼いた。

 ルースは心の中で神に祈りを捧げた。

 神様、どうか憐れみを。

 ミラールを囲む渡世人たちは、想像していたより大きなミラールに感嘆の声を漏らした。

 これだけ大きなエルフの大鹿となれば、好事家はどれだけの金貨を吐きだすことか。


「あとはお好きに」


 と、ルースは言うと、厩舎の壁をよじ上り、屋根に上がっていく。猿のような身のこなしで行う質膳の奇行であった。

 馬子仲間は呆れ、渡世人たちは失笑を漏らした。

 ルースは昼飯の残りのパンを懐から取り出すと、屋根にあぐらをかいて一口。


 そうれ、大変だ。


 と、ルースが胸の内でつぶやくと同時に、ミラールが後ろ足を跳ね上げて、痩せぎすの渡世人の頭を蹴り砕いた。


「ありゃあ死んだなあ」


 ルースのんびりと見たままを言った。


「なんてこった。やい馬子の野郎、なんてことしやがる」


 渡世人が叫ぶが、ルースは平然としたままパンを食べるのをやめない。


「おいらぁ、何もしてませんぜ。それより横ですよ」


 渡世人は何か言おうとしたが、声を発することはできなくなった。

 ミラールのぶちかましが胸にさく裂して、その角が胸板を貫いたからだ。

 血飛沫が跳ねる。

 ミラールは首を振って、渡世人の身体を跳ね飛ばした。


「うひゃあ、汚れちまったやな」


 パンを急いで口に入れたルースは、洗ってやらねえといけねえな、と思った。

 馬子は忙しくて飯を食べる暇もない。

 ミラールを囲む渡世人たちは、鹿の形をした魔物と相対しているとようやく気付いたようだ。一人が悲鳴を上げて逃げだす。


「そいつはダメだよぅ」


 背を見せれば、ミラールの角の餌食となる。

 この日、ミラールを囲んだ渡世人は八人あまり。全て、足と角の餌食となった。

 ルースは死体が八つになるのを見届けてから、ぴょんと厩舎から飛び降りる。

 じろりと見据えてくるミラールの目を見たまま、薄ら笑いを浮かべて近づいた。


「キレイキレイしようか」


 ミラールはルースに引かれて水場へといく。

 渡世人たちの亡骸はそのままに、ルースはミラールについた返り血を洗い落していく。

 蹄の血を丹念に落として、よく使いこまれた布で水気を拭きとっていった。

 蹄研ぎのルースとは、かつて、十人以上を蹴り殺した暴れ馬の世話を平然と行ってからついた二つ名である。

 馬に蹴られたことが一度も無い。

 ルースは役人がやって来て事情を問いただされるまで、鼻歌混じりにミラールの毛づくろいを行っていたという。




 友と共に駆ける悪魔のごとき鹿が、頭のネジが何本か抜けた馬子に体を清めて貰っている時、青錆組の屋敷は壊滅的な打撃を受けていた。


 二十人という荒事に慣れきった男たちと、その用心棒を務める剣士たち。

 彼らは、小さな騎士隊にもひけを取らない者たちである。むしろ、常にその場にあるものだけで暴れるという意味では、騎士以上に厄介な面すらあった。


 シャザは七人の渡世人の手足をへし折った。


 オークの戦杖、人間からは「鉄の棒切れ」や「廃材」と蔑まれる武具一つで、全員を圧倒していた。

 オークの社会では非力な女子供や、肉盾の奴隷階級が使うことから、戦杖は卑しい武具と見做みなされる。


「ほれ、もっと動いてみせい。剣筋が乱れておるぞ」


 最後の用心棒は騎士崩れの男であった。

 シャザの戦杖による連撃をなんとか受けるだけで精いっぱいという様子である。

 屋内という長物の利点がそっくり消える場で、騎士は手も足も出せないでいた。


「く、なぶるような真似を。殺したくば殺せ」


 合羽で隠された体の動きは変幻自在。戦いではなく、美姫の風雅な舞のようにすら見えた。


匹夫ひっぷが一丁前の口を利くな。無職渡世に使われる分際にまで堕ちた剣、わたくしが研ぎ直して進ぜる」


 用心棒の騎士が、数分間の戦いでシャザに殺された回数は七度。ピタリと、致命に至る一撃は当たる寸前で止まる。

 なまじ腕があるだけに、その恐怖と疲労、そして悔しさは筆舌にし難いものがあった。


 己が未熟を、命の危機という本能によって知らされるのを繰り返している。


「くおおお」


 シャザの誘いのための一撃を、騎士は前に進んで左肩であえて受ける。へし折れたが、右手の剣を強引に前に出した。


「もらったぞ」

 

 肉を切らせて骨を断つ。


 騎士が放ったのは、体の真ん中に打ち込む剣だ。

 格上の相手を倒してしまうことこそが、道場の外、真の戦いである。

 必殺を確信した一撃が貫いたのは、シャザの合羽、それも左手から垂れさがる袖だけである。


 読まれていたか、と騎士が気づいた瞬間、シャザの左手が円を描く。合羽によって剣が絡み取られ、体制を立て直すはずが、逆にバランスを崩される。

 剣を放さねばと、頭で分かっていても得物を放すということはなかなかできるものではない。それは、騎士が修練で身に着けてしまった癖である。騎士が剣を放すなど、名折れの他になにがあるか。


 死するとしても、この剣は放せない。死ぬ時は騎士として、だ。他に何が残っているというのか。


「死なばもろともよ」


 用心棒は渾身の力で剣を振り上げた。

 瞬間、目の前に戦杖の切っ先がある。ただ、先端を尖らせただけ鉄の棒かと思っていたが、近くでみれば、突き刺すということにも特化した形状であることに気付く。

 なるほど、これが急所に刺されば、それだけで戦えなくなる。オークの力があれば、必殺の武器たりえる。

 死を目前にして浮かんだのは、そんな理だった。

 そうか、俺は剣がこんなにも好きだったのだな、と騎士は思った。

 自らの才を信じ、伸び悩み、ここが限界と無頼に生き方を変えたが、好きなものから目を逸らすための言い訳だったか。


「無頼とはいえ、手を潰すのは惜しい剣筋でした。もう一度、正道を往きなさい」


 ぴたりと、眉間を貫くはずの切っ先は止まっている。

 騎士は剣を握ったまま、シャザの言葉を聞いた。そして、口を開く。


「なぜ、殺さん」


「八度、殺したつもりです。魔物は七つの命を持つといいますから、これであなたの中で育った魔は死にました。では、これにて御免」


 無防備にも隣を通り過ぎるシャザに、騎士は斬りかかろうかと考えて、唇を噛んだ。そんな情けないことができるものか。


「弟子に、弟子にして下さい」


 代わりに出た言葉は、自分でも意外なものだった。


「それは、あなたを鍛えた剣の師に言う言葉でしょう」


 騎士は、剣を鞘に納め、シャザの後ろ姿に深々と礼をした。




 司祭長リュリュは息を切らしてアヤメを責めていた。

 尼の拷問は凄惨を極めるが、見える体の表に傷をつけないものである。


 折檻は、修道女の世界では日常的に行われる。


 リュリュが尼となったのは12歳のことである。

 高貴な貴種の令嬢であったが、家督争いの中で、リュリュの預かり知らぬところで教会に預けられることとなった。


 俗世間との交わりを断ったというのに、そこには別の理が支配するだけで何も変わらない縦社会があった。

 神の愛を得るために、教会で己が思想を実現するために、貴族社会と変わらぬ政争がある。

 家柄だけでも、リュリュは何もせずとも司祭にはなれた。司祭といっても、その格は様々。何もしなくても、田舎の司祭にはなれる。


 それが生きていることの証になるか?

 女の幸せや俗世間の愉しみを捨ててまで欲しいものか?


 信仰に全てを捧げ、ようやくここまで来た。

 忌々しいアメントリル派を抑え込む好機が巡ってきたのである。伝説から蘇った齊天后マフを利用すれば、教皇の立場すら奪えるかもしれない。


 御年60を超えて、残された時間は長くとも十年程度しかない。

 アヤメなど殺し屋か賞金稼ぎに任せてよかったが、アメントリルの血を引く禿鷹の血は、許せない。


 拷問部屋は、防音に造られている。

 扉が軋む音に振り向けば、人食い姫を倒したという物狂いの美姫がいる。


 リュリュは自らの死を悟った。


 ここに来た時点で、護衛の教会騎士は敗れ去ったということだ。


「……私を殺す者が女であることに、感謝を捧げます」


 リュリュは正教会の聖句を小さく唱えた。


「そのお姿、高位の司祭殿とお見受けします。なぜ、渡世人共の屋敷で女を責めるのですか」


 問答無用かと思っていたリュリュは、女の言葉を聞いて小さく笑う。

 口元の笑い皺は、リュリュが長年被り続けた仮面だ。


「私にとっては不倶戴天の敵なのですよ。敵は害するものではありません。屈服させるものです。腹を見せるまで責め抜くことこそが、僧の争いというもの。私を殺す者よ、名を教えて頂けませんか」


 斬るがいい。

 神に愛されなかった女を。


「人からは贖罪のシャザと呼ばれています。しかし、真の名というならばユリアンと申す者」


「左様ですか。では、神の下に参ります」


 シャザは手に持つ戦杖の切っ先を、床に突き刺した。床を討つ音に、リュリュは怪訝な顔をした。

 シャザはすう、と息を吸い込み、そして、口を開いた。


「そもさん」


 教会の問答修行でもなかなか聞けるものではない。それほどによく通る声であった。


「せ、説破せっぱ


 その声に乗せられたものか、僧のたしなみ故か、反射的にリュリュは問答に応じていた。

 僧は問答のために「そもさん」と呼びかけ「せっぱ」と応じる行を積む。問答修行により、人を救う言葉の道筋を得る。


「司祭殿の行いは神の示した道であるか。なれば、罪とは何ぞ」


 シャザの瞳がリュリュを見据える。

 ああ、まるで異教の神のような瞳だ。

 綺麗事など言えば、この美しい女を失望させるだろう。死ぬ前にそれは嫌だな、とリュリュは思った。


「罪とは、自らを裏切ること。尼となった12歳の夜、付け届けを渡した司祭に純潔を散らされ、子は産めぬようになった。ほほほほ、修道院に放り込まれる女なぞ、全て訳あり。命だけは助ける代わりに、女の幸せは失ったわ。しかし、それも神の思し召し」


 家督争いで、リュリュの芽を摘むための行いだった。あの日、男はリュリュの敵となった。


「力無き少女がかような目にあうことがか」


「神は見ていらっしゃる。手を差し伸べられないだけなのですよ。武人と僧は同じようなものなのです。刃が、言葉と権力に代わるだけ。強くありさえすれば全てが許される」


「……その物言い、自らと同じ哀しみを消すつもりであったか」


 リュリュは笑った。

 それは、信仰に捧げた50余年の間、叶うことの無かった穢れ無き想いである。


「他に、他に何があるというのですか。教会はアメントリルの影響を受け、俗世間と近くなったことで腐敗が始まったのです。私は修道士に嬲られて子をなせなくなるまでの日々を、忘れたことは無い」


 修道士は修行と称してリュリュを責め抜いた。

 大人になってから知ったことだが、子をなせなくさせるための術理である。男というものがどれほど恐ろしいか、嫌というほど教え込まれた。


「アメントリルが教会に入りこむ前までは、男の修道士は陽根を切除し、女は女陰を焼いたといいます。私が教皇になりさえすれば、アメントリル派を根絶やしにしましょう。そして、ありとあらゆる権益をこの手に握り、教会を信仰の家へと戻すのです」


 野望であった。

 大きすぎる野望であったのだ。

 司祭長になってできたのは、帝都近隣の寺院から力を奪い、厳しく監視することだけだ。

 リュリュの手足とも呼べる仲間のほぼ全てが女性である。それも、同じような目にあった者たちだ。

 リュリュはアヤメと瞳を合わせた。それは、鞭を持つ時とはうってかわって、穏やかなものに変じていた。


「アヤメさん、あなたが憎いのですよ。アメントリルの持つ黒髪と黒目、神の代行者を名乗り奇跡を使う邪術師の魔女。あなたのような人たちが、教会から信仰を奪ったのです」


 そこで言葉を止めたリュリュはシャザに向き直る。


「ふふふ、芝居の悪役のように吐露しました。シャザといいましたね、あなたと話せてよかった。もう少しで、理想を捨てるところでした」


 リュリュは、アヤメに使おうとしていた針つきの張形を部屋の隅に投げ捨てた。


「さあ、やりなさい。死して、神の下へ参ります」


「司祭殿、御名を伺いたい」


「リュリュと申します。姓は、尼になった時に捨てました」


 シャザは戦杖を引き抜く。そして、右手に持って、背中に回し片膝をつく。武具を背に隠して膝をつくのは、辺境の部族が高貴な者に行う礼である。


「リュリュ殿は真の僧侶にございますれば、試すような真似をした非礼を詫びまする」


「……、女色を嗜み、憎しみから権力を一手に握ろうとする私を、僧というのですか」


「苦しみを無くすために手を穢すのは人の常。武威ぶいに頼らず理想を貫くリュリュ殿のお覚悟、見事の一言」


 目に溢れる熱いものをリュリュは止められなかった。

 誰が、己が心を分かるというのか。そして、誰が己を認めるというのか。

 リュリュはアヤメの枷を解いた。


「巡礼の成功を祈ります。シャザ殿が斬らぬというのなら、あなたの手でやりなさい」


 アヤメは言葉を出せなかった。老醜の権化としか見てなかった女が、涙を流す様が、尊いものに見えていた。


「お待ち下さい。一つ、お力を御貸し頂きたいことがあります」


「シャザ殿、あなたの言葉はどのような説法よりも効きました。私にできることなら、叶えましょう」


黄泉路よみじより、人食い姫を呼び戻します」


 シャザの言葉に、尼僧たちは言葉を失った。




 リリーは見ている。

 死した後は、師と会えると考えていたが違うようだ。

 

 わたしは、もう一人のわたしを見ている。

 言葉は出せない。

 ただ、幼い日からの出来事を見ている。

 齢五つのお祝いに師と会うことがなかった。それだけで道が違(たが)えたリリーを。


 昔のことは曖昧だ。あの時の幼いリリーはどんな子供だったか。

 師と出会う前は、ごく普通に絵本のお姫様に憧れるような女の子だった。


 八歳の時に第一皇子と出会って、一目ぼれをする。

 自分のことながら、思い込みが激しい性格は子供のころから変わらない。

 宴の席での微笑みが、自分にだけ向けられたものだと勘違いした。

 師と出会わないだけで、なにもかもが違う。父上と母上は、ぎくしゃくとしていて、叔父上と仲良くなることもない。むしろ、叔父上は母に似ているリリーが苦手なようだ。


 不思議なものだ。

 剣を握らないだけで、師と出会わないだけで何もかもが違う。


 時は過ぎる。

 多少我儘に育ったが、このリリーはとても美しい。

 シャザを見てしまった後では、うっとりと鏡を一刻も見つめられはしない程度のものだが、美しいという範疇にはあった。


 ただの令嬢というのも大変なものだな、と感心する。


 女同士の戦いなどというものは、剣以外ではとんと縁のなかったリリーである。

 このリリーが巧みに取り巻きを作って勢力を作る姿には、感心するほどだ。

 女同士のいざこざというのも、あまり面白いものではない。力は大きければ大きいほど苛烈さを増す。


 第一皇子はそんなリリーを好まない。

 大したことの無い男だな、とリリーは思う。これを機にサリヴァン侯爵家を取り込み、その力を削ぐくらいのことをやってこそ、貴族の男だと思うが、どうにもやわい。


 学院に入学するころには立派な令嬢となっていて、虎の毛皮を腹に巻くこともない。だが、腹は弱いようである。こういう所はやはり同じなのだな、と面白く感じる。


 知らない自分の知らない人生。

 不思議なことに、特になんとも思わない。やはり、もう死んでいるのだろうか。心が平坦で、目の前のリリーのことも、ただ見ているだけになっていく。


 エルフの里に逗留していたため、参加することのなかった入学式。

 もう一人のリリーをこうして見ていれば、退屈だ。ミラールもいない。寄り道をしてよかった。


 第一皇子は相変わらずつまらない男だ。

 入学を祝う舞踏会で、いやいやリリーと踊る第一皇子。

 思い込みの強さは、剣をやる者には必要だと師には教えられていたが、目の前の男の嫌そうな顔に気付かない自分というのは、なんとも情けないものだなと、少し面白い。


「私とも一曲、よろしいですか」


「ラファリア様」


 第三皇子ラファリアの誘い。

 リリーの知るラファリアとは違う。野心に燃えた美丈夫だ。

 なるほど、地獄に堕ちる前のラファリアか。彼から話に聞いた通りの邪悪な男だ。


 そうか、これはラファリアの言うところの前世か。


 リリーは皇子を二人も虜にしたと大喜びだ。

 このラファリアは女を見ても愛することなど無い男だというのに。しかし、それでも女とはこうあるべきかもしれない。


 ラファリアの手を大きく感じる。いや、このリリーよりもラファリアの手は大きい。けれど、剣を握るリリーの手は、彼よりも大きくて、修行のせいで手の角がとれて、丸く大きくなっている。柔らかくも無い。


 手の違いに気づいたら、心に、世界に色が戻る。

 これはなんなのだろうか。

 死後とは不思議なものだ。


 ウドやザビーネ、リッドと出会うこともない。ミラールもいない。アヤメはどこにいるのだろうか、見当たらない。そして、フーゴは芸術家のぽっちゃりした少年だった。連接棍など握ったこともないだろう。

 それからようやく、見知った顔を見つけた。

 双子とシャルロッテだ。第一皇子と共に踊るシャルロッテ。

 リリーは爪を噛んで、それを見ている。


 見たくもないものを見せられる。

 リリーという少女は、少し我儘で我が強い。それが、恋というもので鬼女となる。


 その様は憐れですらあった。


 届くことが無い想いから目を背けるために、手を汚す。汚せば穢すほどに、惨めさで心が悲鳴を上げる。

 シャルロッテを陥れる企みの成功しかけた時、その顔に浮かぶ笑みは般若の如きもの。

 企みが破綻し、最後の手段に出る。自らを魔に堕とし、力を得る邪法。子供の生き胆を喰らうことで人鬼となる邪術だ。


 好いた男に倒されるのが、唯一の情けと救いだったのかもしれない。

 首を落とされてなお、第一皇子の名を呼ぶ鬼女。


『もう、よせ』


 見つめるしかできなかったリリーの口から、言葉が漏れた。




 気が付けば、暗い場所にいる。

 上も下も、立っているのか座っているのかすら分からない、真の暗闇の中だ。

 真っ暗な中で、すすり泣く声。

 どこだ。どこにいる。

 わたしはどこにいる。


「誰か、助けて、ここから出して」


 暗闇の中で、青白く輝く少女がいる。

 声をかけようとして、止める。

 少女の言葉が変わる。


「憎い憎い憎い。私を愛してくれない世界が憎い。あの女さえいなければ、シャルロッテめ、あの女さえあの女さえ」


 その手は血に塗れていた。

 見やれば、鬼女は死体を喰らっていた。子供たちの死体を手でちぎり、口に運ぶ。


『もう、よせ』


「だれ、どこにいるの」


『お前は、わたしだ』


 リリーの手が、リリーに触れる。


「あああ、どうして、なんで私にはこんな運命しかないというの」


『もういい。辛かっただろう』


「わたしは進む道が違っていても、人食いと呼ばれねばならないの?」


 鬼女が子供のように問いかける。

 こんな時、どうしたらいいのだろうか。剣士のリリーには分からない。


『汚名は、生きていれば晴らせる』


「でも、あなたは、私は、死んでいるじゃない」


 今まで幾多の命を奪った。彼らもここにいるのだろうか。


『そうだな。ここが地獄というのなら、きっと死んだのだと思う』


「私は人食い姫」


『わたしもだ』


 鬼女は泣き笑いの顔をした。

 二人のリリー。

 どちらの手も血で汚れている。そして、罪を背負う。


「私はひとりぼっち」


『人は生まれ落ちた時から一人さ。寄る辺ないこの世界で一人きり』


 師の言葉だ。


「あなたには友がいる」


『お前にいないというのなら、わたしが友になろう』


「一人遊びになるのかしら」


『さあ、どうだろうな』


「私は本物の人食い姫。今も、こうして、罪の無い子供を喰らっているわ」


『それでも、あったかもしれないわたしだ。お前はひどい女だが、ここで一人きりだ』


「それがお似合いなのよ」


『そうだな』


「うん」


『しかし、他ならぬ自分なのだ。泣いているところを置き去りにはしないよ』


 おずおずと、鬼女は手を伸ばす。

 リリーは、その手を取った。


「暖かいのね、人の手は」


『そうだな』


「ずっと、忘れていたわ」


『思い出したなら、いいだろう』


 人の手は暖かい。

 暖かさに驚くこともある。

 その時、闇の中から一条の光が、虹色の光が射した。

 光の彼方から、呼び声が聞こえる。




 伊達男がリリーの亡骸を見つけていた。

 魔術師によって冷気の陣が敷かれた一室である。宝物と共に棺にあった。金に代わるからか、丁重な扱いだ。

 アヤメとリュリュ、そしてウドは、リリーの亡骸を前に、どうしたものかとシャザを見やった。

 土気色の肌は死人そのものだ。ここから蘇るなどあろうはずもない。


 シャザは懐から輝く宝珠を取り出した。

 その輝きに、皆の目が吸い寄せられた。

 大きな真珠のようであって違う。最高品質の真珠は虹色の輝きに見えるという。しかし、この真珠は虹色に渦巻く光を、周囲を照らすほどに放っている。


「なんと、これはクァ・キンの神具ですか」


 リュリュまでもが、その輝きに魅入られて感嘆の声を発した。

 五百年も前の帝国建国における戦争で、悪魔や英雄たちの使ったとされる、死を覆す奇跡の道具である。


「地下のご領主様より、人食い姫様を見定めるようにと頂いた宝珠です。死から一日の間なら、黄泉路から魂を呼び戻し、いかなる肉体の損傷も治すことができるとか」


「ほ、本物にお目にかかったのは初めてです」


 と、アヤメも目を見張って言う。そして、その輝きに見覚えがあることに気付いた。

 水晶宮の戦いで、確かに倒したはずの齊天后マフが蘇った時の光、あれもこのような虹色の輝きではなかっただろうか。


「ご領主様のお話では、僧侶や近しい者の呼びかけがあれば、呼び戻しの成功率が高まるとのことです。旅の仲間に。命を奪ったわたくし、司祭殿もいらっしゃれば充分でしょう」


 シャザは、ウドに宝珠を渡した。


「お、俺が姫様にこの宝珠を」


「付き合いが長いのはあなたでしょう」


 ウドは頷いて、横たわるリリーの胸元に宝珠を乗せた。


「姫様、これに失敗すれば、この蛇蝎のウド、腹を斬りやす。ザビーネよ、姫様を呼び戻してくれい」


 アヤメとリュリュが聖句を唱える。それに意味があるのかは分からない。だが、信仰というものが力と変わるのなら、きっと響き応えるはずだ。

 人に救いの手を差し伸べぬ神であれど、願いくらいは聞くはずである。

 ウドは祈る。

 宝珠が輝き、虹色の名状し難い奇怪な光が部屋を覆い尽くす。

 同じ時、毛づくろいをしていたミラールもまた、空を見据えて大きくいなないていた。




「あなたは呼ばれているのね。さあ、行って」


 鬼女のリリーは光を見て言った。

 暗闇に差し込む虹色の光。

 照らし出された剣士と鬼女は、互いの姿を見つめた。同じ顔の二人は、あまりにも違う。


「この光を浴びていると、また心に憎しみが戻ってくるの。あなたをくびり殺して現世に行こうとしてしまう前に、行って」


 人食いの姫を、同じ人食いと呼ばれたリリーは如何するか。


『同じ自分に遠慮するな。汚名は晴らし、罪はつぐなうものだ。こんな所にいても、償えん』


「そんなことをして、二人とも取り残されたら」


『その時は、一人ではなくなる。自分の片割れを捨てられるものか』


 光に向かって走る。

 だが、分かる。この光は一人分だ。そして、鬼女のリリーを光は受け入れようとしない。


『神がいるというのなら、哀れで罪深い女の一人くらい救ってみせろ』


 二人のリリーの硬く結ばれた手。

 鬼女は背後から、闇から伸びる力にその体を絡め取られている。

 光まで、もう少し。


 リリーの鼻に懐かしい匂いが飛び込んだ。

 決して心地よいとは言えぬ、死の匂い。

 生きながら死神となった、友の匂いだ。


『ザビーネっ』


 光に向かう背中を押したのは、死神の手であった。

 二人のリリーは、光に飲み込まれる。

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