巡礼
第12話 おんな二人
夏の陽射しが帝都を照らす。
新しい朝だ。
顔を隠した蛮人の戦士たちが、騎士と共に帝都をそぞろ歩く。
新たな皇帝、
齊天后の放った人面鳥が、ぎらつく太陽の下を飛び廻る。
帝都を出る際についた条件は一つだけ。
身一つで巡礼に挑めとのことだ。
旅支度を整えるのにさして時間はかからなかった。
もしも、学院を途中で辞めていたとしたら、晴れ晴れとした気持ちで出立していただろう。しかし、今は敗北感があった。
鋭い眼差しで城を見やれば、空を舞う人面鳥がけたたましく啼いた。
帝都屋敷は亜人の兵士たちに取り囲まれていて、使用人たちがおそるおそるといった体でリリーに労いの言葉をかけた。
年老いた家令がひざまづく。
「お嬢様、この度のこと、まことに……」
言葉にならず、老いた家令は咽び泣いた。
子供のころから知る、叔父の隣に控えていた家令である。いつも柔和な笑みを浮かべていた家令の眉間には、深い皺が刻まれていた。
手を取って立ち上がらせると、意外に力強い手で、リリーを抱きすくめた。
「姫様、西の街道には虎王将軍の率いる騎士が、東の大河にはケンレンの手練れが集っています。北の道をお行きなされ」
小声で早口に言うと、一層大げさにあわれっぽく涙を零した。
「おいたわしや、姫様」
「すまん」
「建国以来の忠臣であるサリヴァン家にこの仕打ち。おーいおいおい」
慟哭はおろろぉんという大きなものに変わって、その場に家令は崩れ折れた。大げさな芝居だ。
もらい泣きの侍女たちが加わって、涙の合唱が始まる。
横目で兵士たちを盗み見れば、彼らは全く気付いていないようだ。
負けてばかりはいられんなと、リリーの心に風が吹いた。
師より受け継いだ愛剣ドゥルジ・キィリは取り上げられた。代わりに、腰にあるのは長年連れ添った木刀だ。
木刀を振り上げ、城に向ける。
「きぃぃえぇぃ」
一刀のもとに切り裂くように、木刀を振り下ろした。
巡礼を終えれば、皇帝陛下へ謁見が許される。
その時には、ラファリア皇帝を斬る。
夫になったかも知れない男を救う一手は、それしか残っていない。
◆
アヤメ・コンゴウは司祭の資格を剥奪された。
教会騎士たちに囲まれて身動きができないまま、上半身の服を破られる。
荘厳な帝都中央教会で、この蛮行は三百年ぶりに行われる祭りだった。
アメントリル派の聖女が堕ちるともなれば、様々な派閥の者たちが集う。一般の信徒は閉めだしていたが、
「アヤメ・コンゴウ、あなたは教会の聖女でありながら我欲にかられて力を振るいましたね」
司祭長リュリュは、老婆とは思えぬ鋭い眼光でアヤメを睨みつける。
「お言葉ながら、齊天后はアメントリル様の仰せになられた魔に相違ありません。魔の調伏こそ、コンゴウの家に課せられた務めかと」
アヤメは裸身を晒しても堂々とした振る舞いでそう答えた。
「申し開きは、それで終わりですか」
火が焚かれていた。
聖火に投じられている焼き
「堕落星の焼印は、アメントリル様の廃された野蛮な振る舞いのはずでは? 齊天后はきっと、この行いで教会を責めるでしょう」
「あなたのために?」
「いえ、力を持ちすぎた
司祭長リュリュの柳眉が顰められた。
コンゴウの家は、アメントリルの意志を代行するため、特殊な教育を施している。それは、教会でも秘中の秘。しかし、その実態はアヤメのような信心深い無神論者を作り出すことである。
アヤメは、信仰というものが「心の拠り所」でしかないと知っている。
人は産まれ落ちて一人、死して虚無。
救いの手とは人の差し出すもの。
宗教というものの考えからはほど遠いが、それがアメントリルの遺した言葉だ。
コンゴウ家はアメントリルの意志を代行して、それらの真理を揺るがす魔を討つ。
死は絶対の無であり、反の存在を許していけない。魔を討つための魔、それがコンゴウの家だ。
「コンゴウ家の行いは目にあまります。神は、アメントリル様の奇跡の笠を着るあなたを許しません」
「神は心の中にだけ。アメントリル様の聖句です」
「皇子に横恋慕したこと、聖女の言葉で誤魔化しますか?」
リュリュは言って得意げに口元を釣り上げた。そして、アヤメの挑発に乗せられたと、はたと気づいて厳かな顔を作り直す。
アメントリル派は正教会において唯一の聖域だった。
法王にしか止める権利はなく、帝都の司祭長程度では今まで口を挟むことすらできなかった。しかし、齊天后の戻った今なら出来る。
「正教会は正しい形に戻ります。まずは、あなたの罪を聖火により清めましょう」
「存分になさいませ。信仰は殺せませぬ」
リュリュはしわがれた手で、焼き鏝を取った。
火と罪の星で、罪人を清めるのだ。
アヤメの胸元に、焼き鏝を押し付ける。
アヤメの身体は、まるで死体のようだった。微動だにしない。
肉を焼く音と匂い。
アヤメは歯を食いしばりながら、口元を引き攣らせて笑ってみせた。
「ああ、ラファリア様」
口元には笑みがある。
痛みは生きる糧。痛みはわが友。痛みだけが、生と性と愛を感じさせてくれる。
五芒星の焼印が刻まれて、罪人に着せられる黄色い布を渡された。
アヤメは布を羽織ると、仁王立ちでリュリュと睨みあった。
「……、罪は清められました。アヤメさん、これからは神の教えに背かぬよう」
「信仰は死にませぬ」
くるりと背を向けると、布が翻った。
その様はまるで、戦いの果てに巡礼を為したアメントリルの絵画の一枚のようで、リュリュの瞳に憎悪の炎が燃える。
「アヤメ・コンゴウを破門とします。あなたに教会の庇護はありません。巡礼の成功を祈ります」
周囲の聖職者たちの祈りの言葉や罵りの声を聴きながら、アヤメは真っ直ぐに歩いた。
教会の暗部はすぐにでも動くだろう。
この体でどこまで抗えるか。
焼印の傷から毒が入れば、まともに動くこともできなくなる。
教会から追い出されて最初に聞いたのは、人面鳥の哭く声だ。
城を見つめて、囁く。
「ラファリア様、お救いいたします。私の手で」
堕落の星を胸に刻んだ女は、愛と信仰により歩く。
◆
南の道は巡礼の道ではない。
東の道には、金で雇われる最高の殺し屋ケンレンの鬼人傭兵団が網を張る。
西の道には、帝国の
大鹿のミラールは戦いの気配を感じとっているのか、いつになく頼もしい目をしていた。微塵も負けると考えていない。
そんな目は、人も獣も変わらないものだ。
旅装束に身を包んだリリーは下腹をさする。
腹にはエルフの集落でなめした魔虎の毛皮を巻いた。
寒さが腹に来る体質は修行でも変わらなかった。腹が
帝都の大通りから、職人街に入って岩人の鍛冶屋に寄った。
シャルロッテと出会ったあの日となんら変わらず、店主はむっつりとした顔で剣を磨いていた。
「久しいな」
「おお、姫様。噂は聞きやしたが、これから
「ああ。この短剣は役立った。礼を言おうと思ってな」
決闘の日、窮地を救ったのはここで買った短剣だった。
「魔剣はいかがしました?」
「負けてしまってな、私の手を離れた」
「そいつは惜しいことを」
「取り返すつもりだ」
店主は
市井にも、魔皇ラファリアの話は流布されている。
叔父上やヤン・コンラートを見る限り、ラファリア一派と齊天后は
愚かな王が時折やらかす、戦いを愉しむための戦い。それをやろうとしている。
「……穢れの鳥が飛び廻っちゃあ、ここもおしまいと思いましてね。店を畳もうかと」
「そうか」
店主は歯を剥きだしてニヤリと笑う。
「ですが、ギリギリまでは待ちやしょう。あっしの勘は当たるんですよ。こいつをお持ち下さい」
店主は奥の棚から小さな銅貨のメダリオンを持ってきた。首飾りに加工されている。
かなり古い時代の異国の銅貨だ。細やかな絵柄が彫刻されていた。
「これは?」
「岩人のお守りみたいなもんです。それを知る者がいたら、ドゥエン・ローから預かったと仰って下さい。悪いようにはなりやせん」
「そうか。ありがたく頂こう」
「研ぎであれだけの金額を支払って頂ける上客。逃す手は無いですな」
リリーが笑みを浮かべる。
岩人の店主は面映いのを隠すためか、長い髭をしごいた。
「また、来る」
「お待ちしております」
店を出て、あの日、シャルロッテと共に休んだ甘酒売りの屋台を捜したが、人面鳥がいるだけで屋台は出ていなかった。
長いようで短い帝都の滞在だった。
さて、行くならば実家だろう。
サリヴァン侯爵領は新たな皇帝を認めはしまい。たとえ、ヴィクトール叔父が
帝都を出るまでにたくさんの視線を感じた。
門を潜る時、見知った大きな体を見つけた。
「フーゴ殿、お久しゅう」
ミラールから降りると、真面目くさった顔のフーゴ・フレンデルが近づいてきた。
「行かれるか」
と、女子に言うとは思えない聞き方をする。
「ああ」
リリーも男のように答えた。
「あの時、何もできなかったよ。男だというのに」
フーゴが恥じることではない。しかし、友達を助けられなかったことが悔しい。
「仕方あるまい。フーゴ殿も領地へ戻られるか?」
「休学届けを出してからだ。親父殿は帝都が落ち着くまでと言っていたが」
フーゴは視線を外した。その先には、人面鳥がいる。
あれは、齊天后マフの『目』であるらしい。どこまで本当か分からないが、そのようなことができてもおかしくない化物だ。
殺したはずなのに、瞬時に黄泉帰る。そんな相手であるからに、できないと考えることの方が不自然ですらあった。
「フーゴ、私と話していると立場がまずくなるぞ」
あえて、リリーは呼び捨てにした。
フーゴは視線を落とした。
あの時、得物がなかったというのは言い訳にしかならない。あそこにいた戦う者たちと力量差がありすぎた。助成すれば、足手まといになっていただろう。
「リリー殿、次は力になろう」
「……ありがとう。シャルロッテはどうしている?」
「城に軟禁されているよ。他の聖女候補もそうだ。あの化物が関係しているらしい」
「フーゴ、口は災いの元だ」
そのとおりだ。
だからこそ、力が欲しい。
それさえあったら、救うことも奪うことも、なんだって出来る。
「お気をつけて。ご武運を」
「いつか、戻るさ」
リリーは独り言のように言う。
今生の別離となるやも知れない。
遠ざかっていくリリーの後ろ姿を見つめて、フーゴ・フレンデルは立ち尽くした。
◆
北の道を行けば、大森林へと向かうことになる。
そこだけを開けているということは、リリーにとって大恩ある森エルフたちを巻き込むということだ。
聖女の通った道を進むには、帝都からだと東から大森林を迂回して北の大地へ向かう。そして、西へ西へと向かい霊峰フジュザを踏破して亜人の住まう辺境へ向かう必要がある。
「ミラール、行こう」
西の道へゆったりと進む。
エッシドの大河を渡る橋、きっとそこで虎の将は待ち受けているだろう。
路傍にある大石で、休憩をしている老人がいた。
リリーは小さく笑う。
「どうした、そんな格好で」
「おや、これもバレましたか。お嬢様、あちらには虎の将がおりまするぞ」
変装していたウドは、煙管から煙を吐きだして言う。
裕福な旅姿の老人といった装いである。リリーとセットなら、旅の御隠居にその護衛といった風に見られるかもしれない。
「巡礼の道は西からだ。他に、何があるよ」
「流石ですな。しかし、お命は一つ。むざむざ捨てに行かれるな」
「ウド、それは聞けん」
「その理由はいかに」
「性分だよ」
ぐ、とウドが言葉に詰まる。
この性分を貫くことこそが、リリーの強みだろう。
虎の将はヴィクトールと反目していたとされる騎士である。帝都に隣接するバルドル伯爵領の領主、その弟だ。
茶屋でくつろいでいるところ、突如として襲い掛かってきた虎を素手で倒したことから、虎の将と呼ばれるようになった。
どこまで盛った話かは分からない。
高名な騎士が女のリリーを討つというのなら、ラファリア、ひいては国そのものへの忠誠であると信じたかった。
栄達のために女を斬ろうという下衆であれば、それはそれで斬ることにためらいは無い。
「いかんな」
リリーはぽつりとつぶやいた。
今から命のやり取りをするというのに、余計なことを考えている。
「しかしながら、騎士が固めておりますぞ。数は二十。全て軍馬でございやす」
「それは、ちと厳しいな」
「北の道を往かれては?」
リリーは、じっと街道の先を見つめた。
薄らと、暑さから汗が滲む。
「推し通る。次の宿場で会おう」
「お嬢様っ。ええい、この分からず屋め。コンゴウの女と同じことを言う」
ウドが声を荒げるのを初めて聞いた。似合わないことこの上ない。
「待て、コンゴウとはアヤメ殿のことか」
「ええ、止めたってのに、信仰は曲げんとおっしゃる」
「急ぐぞ、付いてこい」
「へい」
ミラールの手綱を握り、駆ける。
ウドは旅装束のまま駆けた。
◆
無謀であったのは確かだ。
アヤメは罪人を示す黄色の衣のまま、橋を渡ろうとした。
橋に陣取っている騎士たちの一人に手形を求められて、素直に見せる。
「アヤメ・コンゴウ。あの化生が言っておった女か」
目の前にいるのは大柄な偉丈夫ある。
重装鎧を着て斬馬刀を背負っていた。兜はつけていない。
鎧に騎士装束が為されていなければ、無頼の輩、その頭領と見たかもしれない。
短く刈り込まれた金髪は、髪をつかまれないためのものか。
頬に走る獣の爪傷、組打ち稽古で潰れた耳。歴戦の将であるらしく、配下の騎士は目配せだけで意を汲んだ。
瞬く間に陣形を整えてアヤメを囲む。
「女ひとりにかような真似、大げさですわ」
アヤメが上目遣いに見上げれば、虎の将バルドルの瞳には燃えるような戦いの気配。微塵の隙も無い。
「見た目はよいが、その瞳術は無駄だぞ」
「ほほほ、気づいていらっしゃいましたか」
アヤメは言いながら、一歩近づく。
「中身は毒蛇であるとは聞いていたが、面白い女だ」
あと二歩。
「寸鉄は帯びておりませぬ」
黄色い布を脱ぎ捨てて裸身を晒す。
「ほお」
一歩、進む。
周囲の騎士たちは動かない。
「この焼き印は罪の印です。もう頼る者もいない憐れな女です。バルドル様、お情けを」
「ふ、ははははは」
笑う。
バルドルは笑う。
子供のような無邪気な笑みだった。
「俺はな、お前のようなどす黒い女は嫌いではない。だがな、惚れさせてなんぼではないか」
「お生憎様、愛する人がおりまする」
色仕掛けが効かないと知るや、アヤメは毒蛇の笑みを浮かべて言う。
「振られてしまったか」
虎の将には余裕があった。
半歩踏み出す。
「通していただけませんか」
先の尖った簪を黒髪から抜き放ち、瞬く間にバルドルの喉へ突き付ける。
「ふむ、死ぬつもりか」
「ほほほ、この距離でジキタリスの毒を受けますか。七日七晩苦しみぬいて死に至りますぞ。それに、罪の印を持つ女を斬るなど剣の穢れでしょう」
「毒の匂いはせん」
「ですから、こうするのです」
アヤメは、はしたなく口を開いた。
女の口に興奮する男は少なくない。ふと、その様に気を取られた時、アヤメの口から針が放たれた。バルドルの喉元に突き刺さる。
「ジキタリスではないな」
「蟲天の毒。ひと月で虫が体内を蝕みますぞ」
「信じると思うか?」
「あのマフとかいう化生が恐れた女の言葉です」
配下の騎士たちが剣を抜いた。
「ここを通して頂ければ、虫下しの術に必要なものを教えてさしあげます」
「困ったな。俺は、そういう取引をしないんだ」
「命あらばの話でしょう?」
「いや、女は殴りたくないのさ」
何か続けようとして、アヤメの腹にバルドルの打撃が決まった。胃液を吐いて、アヤメはうずくまる。
「そいつは縛っとけ。あと一人、ヴィクトール自慢の人食い姫に期待するか」
胸の焼印に目が行く。
虎の将は男らしさこそが騎士の信条と自負している。故に、細作のような戦い方は嫌いだ。
面倒だなと思う。そして、今、アヤメを始末しようかと考えた時、蹄の音が聞こえた。
「来たか」
バルドルが振り向くと同時に、足元に矢が突き刺さった。
人間の敵であったころのエルフが行ったという馬上射である。いや、彼らの場合は鹿上射か。しかも、わざと外した。
見やれば、弓の届くギリギリのところから小者を連れた女が弓を構えている。
「おーい、人食い姫。地べたでやろうや」
バルドルが大声で言えば、配下の騎士が下がった。
一目で分かる。人食い姫は強い。
バルドルにとって、予想以上の獲物だった。
リリーもまた、弓を下ろす。
「一騎討ちを御所望か?」
大鹿の上から、バルドルに負けぬ大声で返答した。そして、答えを聴くまでもなく近寄ってくる。
「斬馬刀と木刀じゃあ、馬でやるのはつまらん」
「……その大言、後悔なされるな」
リリーはミラールから降りて、木刀を抜いた。
バルドルは背負っていた斬馬刀を大地に突き刺した。
「人食い姫、あんたも虎を狩ったか」
腰に巻いた虎の毛皮は見事なものだ。粗野な造りだが、大物であるのが分かる。 自室に飾る剥製も負けてはいないと思うが、これも味があるとバルドルは思った。
「……」
リリーは答えない。
「ははは、なるほど、娘の形をしていても虎か」
毒蛇の次は虎。
マフという怪物から、皇帝への忠誠を示すために女を斬れと言われた時には憤慨したが、相手は女の形をしただけの益荒男だ。自身と同じ世界に生きている。
「……」
「安心しろ。俺を斬っても、部下はあんたに手出しせんよ」
「……」
「さあ、始めるか。合図は互いに抜いてからだ」」
「もう始まっている」
リリーはバルドルが斬馬刀に手をかける前に駆けた。
怪鳥のような気合と共に、その顔面に蹴りを仕掛ける。
バルドルは左手の籠手で蹴りを受けた。いやに手応えが軽い。
手を振り払うと同時に、斬馬刀を抜く。
いつの間に抜いたのか、リリーは木刀を振りかぶっていて、バルドルの顔面めがけて突きを放っていた。
「卑怯な」
バルドルは木刀の一撃を、これまた左手の籠手で弾き返す。
「戦いに卑怯もクソもあるものか」
「ははは、面白いぞ」
リリーは一度距離を取る。
虎の将バルドル。勝負に酔っている馬鹿者かとリリーは思っていたが、思いの
リリーは正眼に木刀を構えて、斬馬刀を片手で振り上げるバルドルを見た。これほどの使い手なら虎を狩れるだろう。しかし、怖くは無い。
斬馬刀の横凪ぎの一撃が顔を掠めた。ぱらりと髪が切れて耳元が薄く切り裂かれる。
リリーは木刀を下段に構え直した。
どうすれば死なぬものを斬れるか。一日考えて、無理と結論が出た。そして、二日の間、軟禁された部屋で剣を持ったつもりで鍛錬に没頭した。
寝ずの鍛錬での休養に一日を使う。飽きるまで泥のように眠り、夢も見ない。そして、起きている間はずっと頭の中で斬ることを考えた。
もっと早ければいいのか。もっと腕力があればいいのか。
それに応えてくれた師匠はもういない。師ならば、アレを、齊天后マフを斬れるだろうか。
不思議なものだ。死闘を越えても、別に強くはならない。
ただ、分かるだけだ。
リリーがわざと隙をみせれば、好機を逃さず斬馬刀が振り下ろされた。
バルドルの斬馬刀は片刃である。
わずかに体を逸らして避けたリリーは、一歩前に。
バルドルは距離を詰められるのを嫌い、力任せに斬馬刀を横凪ぎに振るった。しかし、それはリリーが予見していた通りの軌道である。
リリーは剣を掻い潜ってバルドルに肉薄した。
虎の将の顔に焦りが浮かぶ。
生まれ持った体力と筋力。そして、斬馬刀という圧倒的な間合い。剣の修行にしても、
だからこそ、バルドルは知らなかった。
自らの命の火が揺らぐことの恐怖を。そして、死神が目と鼻の先にあるという現実のもたらす焦りも、知らなかったのだ。
「ま、ま」
参った、という言葉を飲み込む。一騎打ちで命乞いなど、そんな情けない真似ができるものか。
本能を男の意地が凌駕したバルドルは、戦うことを選んだ。
「おおおおおお」
叫びは勇気を奮い起こすためのもの。
人食い姫の一撃は必ず頭部にくる。木刀とはいえ、あの腕前で叩き込まれれば死は免れない。目を瞑りそうになるのを我慢して、無茶苦茶に斬馬刀を振り回した。
次の瞬間、右手に激痛。
「~~~ッッ」
木刀は、顔面ではなく斬馬刀を握るバルドルの右手に叩き込まれた。一撃では止まらず、二度の打撃がバルドルの右手を粉砕する。
たまらず、得物を取り落とした。
目の前で、自らの鼻先に剣を突きつける人食い姫の顔には、勝利の喜色は無い。ただ、憮然とした顔だ。
「命まではいらん。代わりに、その足手まといをもらう」
ちっ、と下品な舌打ちを響かせたリリーは、バルドルの返答を待たずに縛られてぐったりとしているアヤメを背負いあげると、荷物のようにミラールに乗せた。
「ぐ、く、人食い姫、勝ったなら殺せ」
「笑って逝けんヤツは、生まれ変われんぞ。それから、斬馬刀は馬上で使え。同じ長さなら短槍の方がいい」
それを聞いたバルドルは、膝をついた。
配下の騎士たちが動こうとするのを手で制した。これ以上の恥の上塗りは、死よりも辛い。
アヤメを乗せたミラールと共に、ゆっくりと橋を渡る。
「余計なことを」
そっぽを向いて、アヤメは言った。
「助けられたら、ありがとう、だろう?」
アヤメはふんっと鼻で笑う。そして、口を大きく開けた。うげぇぇと二日酔いのオッサンがするようにえづくと、喉の奥から水晶の香水瓶が出てくる。
「うわっ、気持ち悪いな」
「それを、バルドル様に。虫下しだと言えば分かります」
「この、お前の汁がついたばっちいのを触れというのか」
「毒殺したと噂されるのはあなたですよ」
「こ、このアバズレが」
リリーは言うと、香水瓶を手に取ってからバルドルに駆け寄り、伝言を伝えて瓶を渡した。
なんとも締まらないことになってしまった。
しばらく歩いてから、追いついたウドと合流した。
窮地に陥れば出てくるつもりでウドは隠れていたのだろう。勝ったと分かり、追手がいないのを確認して、野営に適した水場を探してくれた。
アヤメを縛る縄を外してやると、マントの下は裸だ。それに、旅の荷物も無い。
「お前、無計画すぎるだろう」
「適当に、どこかで荷物は盗むつもりでした」
「悪いヤツだな、お前」
アヤメの胸に刻まれた焼印の傷が、熱を持っていた。
「お前、こんなので動いたら死ぬところだぞ」
「死ぬつもりなどありません」
教会の司祭長が手を回したのか、薬を手配することすらできなかった。それどころか、服を取りにいくこともできずに帝都の門から外に追い出された。
まごまごしていれば、教会からの刺客に追いつかれる。
騎士を誘惑して窮地を切り抜けるつもりが、よりにもよって、嫌いな女に助けられた。
「アヤメ殿、さっきからずっと思っていたが、礼の一言くらいは言え」
「余計なお世話に、ですか?」
「
「この程度で死ぬものですか」
不毛な言い争いに発展していくのを、見かねたウドが割って入った。
「お嬢様、水を汲んできては頂けませんか」
「分かった。野営の準備を頼む」
「へい、ようがす」
リリーは唇を尖らせて水を汲みにいく。
「言葉さえ慎んでくれたら、お嬢様もあんなにムキにはなりやせんぜ。コンゴウ様、もちっと、柔らかく」
ウドは水筒の水でアヤメの焼印の傷を洗うと、軟膏を塗りつけた。
「ありがとうございます」
「それをお嬢様にしてもらえやしませんかね」
「……」
アヤメは目を伏せた。
ウドは小さく笑ってみせてから、アヤメの身体に包帯を巻いていく。
「随分と、修行を積みましたな」
「分かり、ますか」
「あっしも細作稼業で生きておりやした。
その後、アヤメに薬を飲ませて、体を毛布で包んでから寝かせた。
帝都を出て、すぐさま足止めだ。
「物見遊山ではないというのに」
リリーがため息交じりに独り言を漏らした。
巡礼は、まだ始まってもいない。
ミラールに愚痴るが、ミラールは我関せずと草を食む。
朝になり、顔色の悪いアヤメが目を覚ました。
ウドの用意した貴族用の服を着て、いやに丁寧に謝辞を述べる。恐縮したウドが照れてしまうほどだった。
「で、わたしに礼はないのか? 司祭殿よ」
「助かりました。感謝しています。でも、あなたは嫌い」
「わたしもだよ」
ふん、とお互いにそっぽを向いた。
共に行くことに、なんとはなしにそういうことになった。
互いに、やり方は違えど目的は同じ。
巡礼の旅が始まる。
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