第11話 巡礼の変
なんてキレイな。
聖女候補として出席していたシャルロッテは、リリーの舞いを見てそのように思った。
壺の上で剣と共に舞う姿は、幽玄ですらある。本当にここは現実なのか。
水晶宮は帝国のできる以前から、宮廷における権力争いの場である。リリーの剣舞は、場を清めているようでもあった。
息吹じゃ。
息吹の遣い手じゃ。
ラファリアの手勢の幾つかが囁いた。
魔に属する者にとって、息吹とは自らを害するもの。闇と反の存在を倒すために人間が作り出した対抗手段の一つだ。
自然そのものにある力を、人の身体を媒介にして引きずり出す外法である。
『か、ハハハハ。面白い面白い。アメントリルめがあれを遺したか。味な真似をするわ。ラファリア、如何する?』
齊天后マフは喜悦の念を発していた。
死して、いや、肉体を変生させた
憎き敵なれど、時代に流されず伝えられてきた。
『世界の
ラファリアの仲間たち全てに、その念話の声は送られていた。
齊天后の狂喜する様は、魔に属する者たちにとって、息吹への抵抗に繋がった。しかし、この怪物がそれを狙って行っているはずが無い。
◆
壺の上で踊る姫を誰もが食い入るように見つめていた。
あの時の師のように踊れているだろうか。
あの日、人生が変わった。
毎日が、明日が、退屈と無縁になった。
ただ一つの目標があった。
ああなりたいと。
いま、わたしは近づけているのか。
宮廷という所には悪鬼が住む。人の心に巣食う悪鬼だ。
師は、それを斬った。
ラファリアを見ねばならないというのに、忘れていた。今は、ただ、壺の上で舞わねばならない。師の、今はわたしの剣を持って。
◆
ヴィクトールは近衛長官として、護衛騎士を押しのけて皇帝陛下に敵の存在を囁いた。
「ラファリア皇子に叛意あり。邪妖精を忍ばせております」
宮廷魔術師の老爺が目を細めて魔術杖を握る手に力を込めた。
今はもう数えるほどしかいない、本物の魔術師である。
老爺はうなずく。
皇帝陛下は柳眉を潜めて、口元を袖で覆い隠した。その口元が弧に引きつれているのが、魔術師の老爺とヴィクトールには分かった。
リリーの舞いも、皇帝陛下に巣食った悪鬼を祓うには足りなかった。
自身の血をひく紛い物の皇子。しかも、うつけとなってつまらぬと感じていた小者が、魔を使って弓を引く。
「ふ、ふふ、討たれてやってもよいというのに」
皇帝の漏らした言葉は不吉そのもの。
その一方、ディートリンデは上気した顔で、リリーの舞いに見惚れていた。
孫を楽しませる役には立ったか。昏い笑みをこらえきれず、皇帝は嗤う。
近衛騎士に、ラファリア配下の黒騎士ジーンが腕を捻り上げられる。
籠に入っていた邪妖精が甲高い声で鳴いた。息吹に耐えられず、美しい擬態は解けて消える。蛾の羽と虫の目をした邪妖精の姿に戻り、籠の格子に牙を突き立てる。
「ディートリンデを部屋に」
皇帝が言うと、赤毛の護衛騎士がディートリンデが嫌がるにも関わらず抱き上げて退室する。
「ラファリア殿、こちらに」
楽士が音楽をさらに盛り上げる。
リリーは自らの心臓の音と共に速度を増して、舞いを続けていた。
「我が手にある帝位は、兄上より獲ったもの。我が家の倣いかもしれぬな」
皇帝陛下は力強い声で言った。
周囲にいた皇帝の腹心たちから驚きの気配が伝わる。
呆けてしまっていた皇帝陛下は、このように言葉を話すことも最近は少なくなっていたからだ。だが、今はどうだ。その目には法悦の炎が宿る。
若き日の、帝位を巡る毒蛇の争い。
兄を謀殺しながらも、誰も咎めだてできなかった精気を取り戻しているではないか。
「やるようになったではないか。ラファリアよ」
皇帝は自らを殺そうとする息子に対して、賞讃の言葉を賜る。
ラファリアにははっきりと皇帝陛下の声が聞こえた。水晶宮に放ったマフの呪術のためだ。謀は全て露見していると知れた。
「父上、私は、あなたから誉められたかったのですよ。一度失敗して、全てを諦めてから、それが叶いました」
ラファリアの言葉は感傷と諦念から発せられたものだ。
『弱気になったのう。この妾がなんとかしてやろうではないか』
齊天后マフがラファリアの耳元でそう囁く。
「俺から、死に場所を奪うか」
『くふふ、地獄に戻りたいとは奇妙なことを言う。いや、あれは煉獄であったか。現世から行くこともできるが、コウ・リベレタイの道を通らねばならぬ難所であったなぁ』
ここで斬られるならそれもよい。しかし、この化物がどのように動くか。
「齊天后よ。五百年も前の王朝を滅ぼした女よ。俺を死なせてくれんか?」
『それは叶わぬ。妾を解き放ったからには、それは許されん』
ぞわりと、齊天后マフより濃い瘴気が放たれた。
◆
最初に気づいたのは宮廷魔術師の老爺であった。細作を遥かに超える速さで皇帝陛下の前に立ち、魔杖を振る。恐るべきマギ・カーンの術により、マフより放たれた闇の刃を反射させた。
『皇帝陛下、お初にお目にかかる。妾はこの地に最初にあった王朝を滅ぼした齊天后マフである。国譲りは白紙に戻させてもらおうかの』
反射した闇の刃が赤い貴婦人の仮面を割った。
出てきたのは、されこうべである。目と口から青い炎が漏れている。
対する皇帝陛下は、口元に歪な嗤いを張り付けてそれに相対した。
過去に生きる皇帝、地獄から還った皇子、死してなお動く魔后。この場を握る者たちは全て、死の穢れを背負っていた。
「お覚悟」
リリーは壺の上から、ラファリアに向けて跳躍した。着地ざまに斬り捨てる姿勢であった。
「よくぞ」
ラファリアはリリーに見惚れた。彼女こそが、欲しいものを運んできてくれる運命の女だと思った。
迫る刃は、あの日、料亭で語ってくれた師より譲り受けた『ドゥルジ・キィリ』だろう。いかなる魔人であれど、この速さで迫る刃を受け止められる者はいまい。
首を落としてくれる気遣いに、泣きたくなった。
錯乱した姫が皇子の首を斬る。本当はその筋書きだったのだろう。だが、今となってはこれでいい。神輿がなくなれば、この怪物や野心を持つ者たちはただの怪物と成り果てる。怪物の末路は、退治されると決まっている。
「させんぜ」
神速で割って入った男に、リリーの瞳が見開かれる。
その剣は、ドゥルジ・キィリと似ていた。そして、呼吸は息吹のものだ。
「この場合は姪弟子になるのかね? その剣があるってことは、アイツ、本当に死んだのかよ」
それは、赤毛の護衛騎士であった。皇帝陛下の隣にいて、ディートリンデを保護していたはずの男である。今の今まで、誰もがその存在を当然のものと受け止めていた。
気配隠し。マフより賜った神代のアミュレットがもたらした奇跡の効果である。
歳のころならば、師と同じか少し下くらいか。
どこか少年の面影を残した男である。
息吹の呼吸でリリーの剣を軽々と受け止めた赤毛の男は、飄々とした笑みを浮かべて、攻め込むことなくリリーを弾いた。
「同門のお方、ですか」
「ははは、あいつのことだ。俺のことなど言ってないと思っていたが、本当に知らさないとはな。頭の硬さは変わらなかったか。お初にお目にかかる。ジャンだ。死神のジャンとでも名乗ろうか」
リリーは無言で構えた。
死神を名乗るこの男、できる。
剣を構えるでもなく無造作に持っているだけに見えるが、どこに打ち込もうと斬られるイメージしか湧かない。毒蛇のように、あの剣は跳ねる。
「キエエェェイ」
気合の声と共に、ジャンに斬りかかったのはヤン・コンラートである。
細身の古都剣がジャンの首を狙う。が、ジャンはそれを危なげなく受けた。
「決闘ではないでおじゃ。相手に呑まれる未熟者めが」
ヤンの白刃と声は、いやに大きく響いた。
呪縛にかかっていた人々に混乱が広がる。
後に、巡礼の変と呼ばれる動乱の始まりであった。
◆
シャザムという男は、自らを小心者と自負している。
冒険者になったのは、飯を食うためだった。
足りない腕力、小賢しい程度の知性、小心と臆病さ、それらは野伏として生きるのに適していた。
地下迷宮のガイドで飯を食うという発想に至ったのは、彼の人生で最も冴えた発想だった。
仲間は作らず、流れるように生きる。金は装備に。たまに博打と女にも。大切なものは作らない。
なんの因果か、妖精に呪われた。
彼の小心は、皇帝陛下に近づける場所でも、如何なく発揮された。人間に戻るため、胸に咲く呪いの花を消すために、他の何もかもを犠牲にして切り捨てる。
「クリオ・ファトム、頼む」
『カリ=ラの娘を邪魔しちゃうの?』
「関係ないだろう。お貴族様のことは」
『そうだね。マフをやっつけないと』
妖精がシャザムの胸元に空いた穴に潜りこんで、呪言を奏でた。
妖精の呪い歌は、人間には及びもつかない異界の力を引き寄せる。
シャザムの服が内側から破れた。
肉体が膨れ上がる。
視界が360度に広がり、肉体が、軽く。そして、重くなる。
蜥蜴山脈と呼ばれる秘境には、人よりも大きな蟲の怪物が住むという。その怪物は、時には飛龍すら餌食とする。
肉体は甲殻に変ずる。人の形をした青い甲虫へと姿を変えるのだ。
『甲殻戦鬼シャザム、発進だよ』
「心臓で叫ぶな」
胸の中で妖精が笑う。
欲しかった力だ。
英雄になりたいと思ったこともある。現実を知ってからは、凄腕の冒険者になりたいとも思った。だが、才能と強さ。そのどちらもがシャザムにはなかった。
妖精の妖術により変化した肉体。肩口にとりつけられた剣を抜いて、虫の羽を持った戦鬼はマフに斬りかかる。
「やらせんっ」
聞き覚えのある声。そして、自分と同じ肉体。相手は黒い、クワガタをモチーフにした甲殻戦鬼だ。
「ジーンかっ」
「あの時の冒険者か。妖精の奴隷と成り果てたとはな」
「お前も似たようなもんだろうがっ」
騎士に拘束されていた黒騎士ジーンは、自らもシャザムと似た蟲の怪物に変身して拘束を振り払い、割って入ったのである。
『シャザム、浄化を優先してっ』
「分かってる」
人を遥かに超えた力で妖精の剣を振る。しかし、相手は邪妖精と共に変身した騎士だ。地力が違う。
互いに怪物だが、ジーンは理に適った剣を遣う。シャザムといえば、剣に振り回されている有様。
「ふん、甲殻戦鬼の力に振り回されているだけか。くだらんヤツ」
「だまれっ、木端騎士が」
「チンピラめが」
マフへ近づけば、妖精クリオ・ファトムがなんとかすると言っているが、ジーンはそれをさせない。ジーンはわざとシャザム足止めするように動いている。
膠着とすら呼べない詰みの状況が出来上がろうとしていた。
◆
護衛騎士に化けたジャンの手により、生誕祭の主役であったディートリンデ姫はユリアンとアヤメに引き渡されていた。
姫などユリアンの瞳術でいくらでも操れるが、ラファリアの許可が出るまで勝手はするなと言い含められている。
誰にとっても、リリーは予想外のことをしてくれた。
アヤメはため息をついた。
ラファリア様の望むものを捧げたい。ただそれだけだ。
あの方の幸せが、わたしの幸せ。
恩と奉公と慕情がごちゃまぜになった、聖女には程遠い欲に満ちる汚れた心。
「これで、勝ったも同然だね」
ユリアンは、女子ならば見惚れるであろう美形に、満足げな笑みを浮かべていた。
吸血鬼は数百年を生きる。しかし、それは人間よりも成熟するのが遅いということに過ぎない。
人間という種は、この大地において最も秀でた種である。
力、魔力、それらは亜人より弱い。しかし、繁殖力と生命のあり方そのものが優れている。亜人よりも死にやすく、エルフや吸血鬼よりも短命だ。
すぐに死ぬ人間は、技術を発展させる。いつしかエルフも吸血鬼も生息域を人間に狭められた。
自分たちを特別だと、優れていると信じるエルフや吸血鬼が思いもよらぬ技術を人間は作りだす。
種族の特性からなる吸血鬼の魅惑と惑乱の瞳術は、確かに強力だ。しかし、人は、それすら凌駕する。
「あら、まだ決まっていませんわ」
にっこりと、アヤメは似合わない無邪気な笑みを浮かべた。そして、ユリアンの瞳を見つめる。
「裏切るか、アヤメ・コンゴウ」
「魔后の威を借る蚊人間風情が、いっぱしの口を利く。ラファリア様は、このようなことは望んではおられまい。詰めが甘いんだよ」
「吸血鬼を舐めるなよ」
アヤメは拳を握りしめて、ユリアンの腹に正拳突きを見舞う。
「そんなもの」
蚊に刺されたほどにも、と続けようとして言葉が詰まった。腹の中が冷たい。
よく見やれば、アヤメの拳にはどす黒い瘴気が纏わりついていた。
「阿呆が、我ら教会がいつまでも貴様ら程度の術に怯えているとでも思ったか」
司祭の使う光の秘術は、吸血鬼や悪魔といったものには効果が薄い。闇そのものに対して、人間が神より借りる光はあまりにも小さい。
「どうして、司祭が魔の力を」
「我々教会は邪悪を駆逐する。悪を滅するには、それを上回る邪悪をもって制する。分かりやすいでしょう? アメントリル様に代わり、わたくしは悪と戦う宿命」
聖女アメントリルは闇の存在を認め、それらと戦い続けることが人の宿命であると説いている。
終わりの無い戦いを、アメントリルの支持者たちは受け入れた。五百年が経ち、教会の
アヤメ・コンゴウはその完成形である。
教会が育て上げた対邪悪用の聖女だ。
「お、おのれ、人間め」
「お前らは鬼なんて高尚なものじゃあない。害虫よ」
ユリアンは瞳術を発したが、アヤメはそれを受けて平然としていた。
悪魔の凝視にも、彼女は耐えうる。
同じ闇に属する生き物同士が目を合わせた所で、何も起こらない。その理屈で、彼女には邪術、闇や魔に属する術は意味を為さない。
ユリアンは何か言おうとしたが、その前にアヤメの鋭い拳と蹴りの連撃で昏倒した。
ディートリンデ姫を抱き上げたアヤメは、密かに伝えていた司祭に彼女を預けると、ドレスを脱いだ。
教会密使の使う戦装束に、罪人の血で穢した銀の籠手。
「アメントリル様、ご加護を」
アヤメもまた、走る。
◆
皇帝陛下に一歩、また一歩と近づく齊天后マフ。
リリーは死神のジャンと相対して、焦っていた。
強い。明らかに、自らより上手だ。
膠着ではない。防戦になり始めた時、ヤンが加勢に来た。
「……そちの『息吹』であの化生をやれい。この男は麻呂が相手をして進ぜる」
リリーは死神のジャンに、すでに呑まれていた。
これが決闘であれば負けていただろう。しかし、今は乱戦である。目の前の敵ではなく、齊天后マフを止めねばならない。
「先生、頼みます」
追おうとしたジャンを、ヤン・コンラートの剣が止めた。
「爺さん、なかなかやるね」
くるりと、ジャンは剣を回した。
弄ぶような所作だ。
ヤンは待ちの姿勢で死神のジャンを見据える。リリーを追わせないためだが、相対すれば
「あの娘っ子じゃあ、あの化物は止められんよ。まあ、あんたも美味そうだから俺はかまわんがね」
ジャンはにやりと笑う。戦いを、自らが勝つだけの戦いを楽しむ外道であると、ヤンには知れた。
「気色の悪い男でおじゃる」
ヤンは細身の古都剣を上段に構えた。
ヤンから見ても、死神のジャンという男は底が知れない。一合打ち合っただけで、久方ぶりの強敵と理解できた。
もう少し早く体を鍛え直しておくべきであった。と、奇妙な後悔がある。
悪い癖だ。
目的よりも今の勝負に心が向く。
「あんたも俺と同じだなぁ」
「外道が、ぬかしよる」
ヤンは一度大きく距離を取ると見せかけても、一拍も置かず逆に飛び込んだ。
古都剣の秘技、縮地である。
「おっとぉっ」
眼前に迫る剣を避けたジャンは、すかさず足元を狙う。ヤンもまたそれを予想していたかのように、それを跳びのいてかわした。
「外道にしては、なかなかの腕前でおじゃる」
「分かるか」
「楽しみで斬り続けておるな。息吹の理術、堕としたか」
「いや、剣なんぞ、人を殺すための棒キレだ。だから、あんたも斬る」
ヤンはそれには答えなかった。
今まで、剣の道で死合ったことは幾度もある。しかし、本物の死神と相対するのは初めてのことだった。
リリーは息を整えて、齊天后マフに斬りかかった。
『ほう、息吹か。耐性貫通であったな、珍しいものを使う』
骨の手が刀を止めた。
しかし、刀を握る手からはじりじりと髪を焼くような匂いの煙が上がっている。
もう片方の手が伸びると思いきや、そちちらには皇帝の隣に控える宮廷魔術師が光の矢の術を放った。マフは片手でそれをはじく。
「ふふ、妾を狩るにはあと何百回も当てねばならぬなあ」
リリーは答えない。
師は、岩を斬った。
斬れぬと考えるから切れない。
師以外には誰にも理解されなかった理だ。
「斬れるさ」
一瞬の脱力の後に、斬る。
ただそれだけ。それだけで、骨の手を真っ二つに切り裂いた。
『ぬ、厄介なエヌピィシィめ』
マフが苛立った声を上げる。
リリーには一つの確信があった。勝てる。
あの死神よりも、このマフという女は弱い。ただ、硬くて強いだけだ。斬れる。ただの化物だ。
「カァッ」
呼吸が燃えるように熱い。
肉体に循環する息吹の理が、今までになく燃えている。
斬り上げた刀が、マフの頭蓋骨を切り裂いた。青白い炎が漏れ出る。
『よくも妾のコサージュをっ。貴様、どれほどの価値があるか分かっておるのか』
「命より装飾の心配か。女の腐ったような化物め」
『人形がさえずるなっ』
マフの骨の手が一瞬で再生した。しかし、リリーはその一瞬でまたしても斬る。
何度か同じことが続くが、これでは千日手だ。
リリーの左肩に鈍い痛みが走った。完治していない手で剣を振り過ぎたか。
聖句が聞こえる。
教会の聖句を朗々と叫びながら、黒い影がマフの脚を蹴り砕く。
「人食い姫、合わせなさい」
瘴気の影は、アヤメである。いつもの司祭服ではない。神官戦士のような装束で、化け物に徒手空拳で挑んでいる。
「分かった」
アヤメの邪悪な理術。リリーとアヤメはこんな時でも「こんなヤツに」という気持ちをお互いが持っていた。だが、息はぴたりと合う。
気に入らない。
相手の動きに合わせて死角を補うように動いてしまう、そんな技術を持つ二人は、息を合わせながらもそう思った。
『相性攻撃とは、エヌピィシィ風情が小賢しいわっ。もうよい、皆殺しじゃ』
齊天后マフの苛立ちの声。
骨の両手に強大な力が生じる。あれは不味い。だが、いくら斬ろうとマフは術に集中している。頭を斬ろうが何を足を砕こうが、瞬時に再生して詠唱らしきものを止めない。
マフの合掌した手に青白い光が集まっていた。
「人食い姫、こちらの術に息吹を合わせなさい」
「偉そうに命令するな。どうしたらいい」
「ありったけの息吹を剣にのせなさい。私がそこに術をのせます。あなたは余計なことを考えなくていいから、言う通りになさい」
「しくじるなよっ」
いちいち癪な物言いをする。
いちいち生意気に言い返してくれる。
互いにそう思った。
左肩が痛むが、リリーは呼気を整えて八双に構えた。
一太刀でマフという化生を倒す。
呼吸とはイメージだ。額から息を吸い込み、腹へ流す。そして、下腹の丹田に息を循環させて、背骨を通して再度息を吸い込む。
マフの手に集まる力は、放たれるのを待つかのように大きくなっている。しかし、焦ってはいけない。どうせ、命は一度きり。
ここで死ぬと決めたのなら、生きる道を捜すより相手を倒すことを選ぶ。
リリーはアヤメを見やった。
アヤメもまた邪悪な理術のため精神を統一させていた。
「任せますわよ。死んでもやり遂げなさい」
「口の利き方、司祭風情が不敬だぞ」
「そんなことを言うのなら、令嬢らしくなさいな」
気に入らないヤツだ。
息吹を通したドゥルジ・キィリに冷たいものが乗った。寒々しい、まるでラファリアの吐く瘴気混じりの息のように冷たい力だ。どうして、こんな邪悪なものと息吹が混ざり合うのか。
分からないが、これなら斬れることだけは分かった。
踏み込み。そして、骨の貴婦人を斬った。
『馬鹿な、これほどの力をエヌピィシィが』
マフの吐く言葉を聴く気は一切無かった。
迫る刃に対して、マフはその手の中のエネルギーを盾にした。しかし、それをリリーとアヤメの刃は切り裂く。
マフの持っていた術ごと、その体を横一文字に両断した。
骨の化生がいかにして死ぬか。
「手応えあった」
リリーの手には、命を奪った時の感触がありありと残る。
息を吐くと、左肩に激痛が走り、剣を取り落としそうになった。休みたいが、そうもいかない。
「ラファリア様」
リリーの呼びかけに、ラファリアは満足げな笑みで応えた。
「よくやってくれた。介錯を頼めるか?」
「はい。わたしも、後を追うことになるでしょう」
反逆者とはいえ、女子が皇子を斬るというのはそういうことだ。
「もう少し、早く出会いたかったものだ。俺はまだ、キミのことを何も知らない」
「わたしもです」
互いに笑みが浮いた。
時間は無い。
あと一太刀なら、手も動かせるだろう。
アヤメがそれを止めるため動こうとした時、喉元に刃が添えられた。
「邪魔はしちゃいけやせんぜ」
いつの間にか忍び寄っていた蛇蝎のウドである。
気配を一切気取らせない細作の動き、アヤメにも対応できなかった。
「サリヴァン家の手の者か。姫が死ぬぞ」
喉元の刃を走らせるのを、この男はためらわない。
「主君の意志を叶えるのがあっしの仕事でしてね」
振り払おうとしたアヤメは、ウドに足の経絡を突かれ膝をつく。
◆
リリーの剣が解き放たれる瞬間、両断されたマフの遺骸に虹色の輝きが発された。
『おのれ、アーティファクトを消費してしまったではないか』
齊天后マフが蘇っていた。
誰もが、目を疑った。
ラファリアの目に輝きが灯った。目で語る、ということがある。それは、リリーに対する懇願だった。早く殺せ、と。
リリーは駆けた。
首を落とす余裕はない。腹に剣を突き刺すしかない。
「天下万民のため、お隠れ頂く」
「させねえよっ」
横からの鋭い衝撃。
死神のジャンが、リリーを蹴り飛ばしていた。
それを見ているしかないのは、肩を抑えて膝をつくヤン・コンラート。
この死神を名乗る男は、マフとリリーたちの戦いを見物していた。いつでも割って入れたというのに、そうしなかった。
リリーは立ち上がろうとしたが、目の前には剣の切っ先が鈍く輝いている。
死神のジャンが薄笑いを浮かべて剣を向けていた。
辺りでは、近衛騎士とラファリア配下の亜人の兵の小競り合いが始まっている。戦鬼と化したシャザムは、黒騎士ジーン・バニアス、邪妖精の戦鬼にいいように手玉に取られていた。
逆転の目は失われた。
詰んだか。
リリーにできるのは、死神とマフを睨みつけることだけだ。
「面白い見世物が始まるぜ。まあ見てなよ」
死神が見ているのはシャザムだ。
シャザムはジーンに蹴りつけられて、壁にぶつかり、立ち上がれそうにもない。
「皇帝陛下、そしてディートリンデ様、我が主ラファリア皇子より献上させて頂きます」
黒い甲殻戦鬼、ジーンが残響のある声で叫ぶ。
亜人の兵士たちがローブをまとった男を連れてきた。
ジーンは乱暴にフードを外して、皇帝の前に男を突き飛ばす。
小さく、周りから悲鳴が上がった。
「おお」
玉座から動かなかった皇帝陛下が立ちあがっていた。
「おお、このようなことが」
はらはらと涙をこぼして、一歩、また一歩、男に近づく。
土気色の肌をした男は、口元に微かな笑みを浮かべた。
皇帝陛下によく似た顔立ちをしている。
年経た臣下たちは彼を知っていた。かつて、皇帝陛下が愛を注いだ正室の皇子。病魔により死したはずの、真なる皇子その人であった。
「死んでいたはずが、戻ってまいりました。父上」
皇帝は膝をついて、皇子を抱きしめて咽び泣いた。
真の皇子、黄泉帰る。
「ラファリアよ、帝位はお前のものじゃ。朕は、もう何もいらぬ」
皇帝陛下は、それが動乱の弓を引くということを分かりながら、そう叫んだ。妻と子に先立たれて以来、彼にとって天下万民と国の太平は意味をなしていなかった。だが、今はこの手にそれがある。
ラファリアは天を仰いだ。
「ジーン、やってくれたよ。お前は」
『カハハハ、死人戻しを使うてやったが、このためであったか。目端の利く男じゃ』
ラファリアは目を閉じて思う。こいつらの好きにはさせられん、と。
「帝位継承はなされた。双方、武器を置けい」
ラファリアは威厳ある声で、そう叫んだ。
帝位はラファリアにある。
宮廷魔術師の老爺とヴィクトールが剣を置いて平伏したことにより、他の騎士たちも戦いの手を止めた。
「各国の使者殿、このようなことに巻き込み申し訳なく思う。貴公らは国に帰り、我が帝位継承を伝えよ。そしてここにおわす、帝国を支える貴種の各々方、異を唱えたいものもいよう。しかし、帝国は常に力ある皇帝により総べられてきた。私はその力を示したにすぎん。弓引くならば、引けい。齊天后を後見として、私はここに皇帝として即位する」
朗々と叫ぶラファリアは、支配者の顔をしていた。
配下の魔を支配せねば、こいつらは国どころか世界を焼きかねない。
内戦から始まる外国の介入を、齊天后マフと黒騎士ジーンは心待ちにしている。
戦争は世界を加速させると、齊天后マフは言う。
今、ラファリアに出来るのは、配下の暴走を抑えるために覇を唱えることだけだ。
◆◆
ヴィクトール・ベルンハルト伯、監視をつけた上での
リリー・ミール・サリヴァン、アヤメ・コンゴウは城に軟禁。
ヤン・コンラートもまた同じく軟禁されている。
彼らの日々は、おおむね穏やかだ。
外部の情報は知らされず、部屋を出ることは叶わない。
リリーは部屋で徒手の訓練を続けた。
アヤメは聖句を唱えて神に祈る。
ヴィクトールとヤン・コンラートは何も語らず、沙汰を待つ。
シャザムの行方は分からない。
そのような日々が十日を過ぎた。
◆◆
玉座に座るラファリアの目に、平伏する彼らへの
年若い皇帝ながら、地獄を知る冷たい支配者の瞳は人を飲み込むような虚無だけがあった。
ヴィクトールは近衛長官の任を解かれ、ヤン・コンラートは公家の家を廃嫡。ただそれだけの軽い処罰である。
「貴公らの働きは、帝国の臣下として当然のこと。何も咎めるものはない。しかし、リリー・ミール・サリヴァン、そしてアヤメ・コンゴウの両名は帝国の婦女子としてあるまじき破廉恥な行い、目に余る」
玉座の隣には、正体を隠そうともしない骨の貴婦人と、邪妖精を肩に乗せた騎士がいる。木端騎士であったジーンが今や近衛長官である。
「女子を裁くのも業腹。そなたらは、聖女アメントリルに倣い巡礼を行うがよい。無論、そのほうらの家と教会からの助力は禁ずる。聖女の道をたどり、淑女のなんたるかを学ばれよ。それを罰とする」
体の良い国外追放である。
聖女アメントリルの巡礼とは、おとぎ話でしかないからだ。
マフの骨の口元がカタカタと鳴る。笑っているのだろう。
聖女の巡礼は、幾つもの国を渡る長い旅路だ。そして、最後は天のエルフが住まうとされる、伝説にしか語られない存在すらあやふやな地に向かわねばならない。
「申し上げたき儀がございますれば」
リリーは平伏したまま声を絞り出した。
「許す」
「はは、ありがたき幸せ。お約束します。巡礼を済ませた後、淑女として、再びお目にかかりましょう」
「
リリーは顔を上げて、ラファリア皇帝と目を合わせた。
見つめ合うその瞳は、あの日、首を落とすために対峙した時と変わらない。
「楽しみにしておるぞ」
ラファリアの声音とは裏腹に、その瞳に希望と勇気の炎が宿る。
『皇帝陛下のお優しさに感謝いたせよ』
マフは嗤う。
国外に出た途端に追手を差し向ける手筈だ。
自身を一度は滅ぼした存在を、生かしておく訳にはいかない。そして、アメントリルと同じ、骨の貴婦人にとっての裏切り者にも罰を与えねばならない。
聖女候補として城に軟禁されているシャルロッテも、その様子を涙目で見つめる一人だった。
「なにも、なにもできなかった」
友達が戦っている時に、何もできなかった。
退出していくリリーと目が合った。
「リリーさん」
ほんの少しだけ、リリーが笑っているように見えたのは気のせいだろうか。
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