第8話 祭りの前
血で、指先が穢れる。
教会は聖女アメントリルの改革から先、政治から距離を置いた。旧教主派は邪教とされ、アメントリルの遺した言葉の解釈の違いから、さらに三つほどの派閥に別れた。
アヤメ・コンゴウという女は、聖女アメントリル光輝派に属する司祭だ。
光が強ければ強いほど闇は深くなる。
僧侶というのは修行の果てに様々な考えを生み出すものだ。
邪悪に対抗するための技術である。
古の教会騎士は聖光丹と呼ばれる魔力薬を飲むことで、闇の生物に対抗した。
ある武芸者は自然と一体になることで、理から外れた存在を滅する技を見つけた。
アヤメ・コンゴウにとって邪悪とは自分自身を示す言葉である。
◆
日の光。
憎き太陽を克服したユリアン・バールは、学院で少しずつ領地を広げていた。
第三皇子がほとんど学院に来ないというイレギュラーはあったが、計画は概ね順調だ。少しずつ、魅了によって操れる人間を増やしている。
銀の髪に碧の瞳。
色白の肌。
男でも見惚れる美形である。
毒の花と分かっていても惹かれるのが人である。
「キミは誰かに恋をしているね」
ユリアンは光の射すサロンで、茶を飲む友人にそう語りかけた。
黒髪に黒い瞳、強い闇の因子を持つアヤメ・コンゴウだ。
「司祭となる身です……。お戯れはおよしになって」
ユリアンの魅了は、想い人に強い執着を持った人間に効果は薄い。強制力のある力も使えるが、それを使うのはもっと追い詰めてからだ。今は、深く静かに根を伸ばさねばならない。
「……第三皇子でしょう」
「なぜ?」
アヤメの顔に表情は無い。
三百年を生きるユリアンにとって、アヤメは扱いやすい小娘だ。
教会の教えで身を律している女は、扱いやすい。アメントリルなどという詐欺師の教えに縋る者は、ただの人間より弱い。その証拠に、『教え』以外に何も無い彼女は、素の顔を晒している。
司祭になるためになにもかもを切り捨てた人形だ。
「最初は、なんだかお人形みたいだと思ってたけど、今はとっても表情豊かだから」
「わたし、顔を作るのはとても苦手なんです」
「知ってるよ。だから、笑顔から嘘の香りがする」
「……そうです。わたしは、ラファリア様のことを」
人払いのされているサロンで、アヤメとユリアンは見つめ合った。
女は愛に狂う。
アヤメの瞳の中で、蛇の炎が燃えていた。
「手伝おうか?」
「あの方は、女性に恋をするという方では」
「人食い姫に夢中だって、聞いてる」
アヤメは顔を背けた。
ユリアンは、小さく笑う。
聖女候補とはいえ、女だ。
だから、もう一人の聖女候補に関してだけは、自分は失敗していないと信じたい。
「ふふふ、もう噂になっているのですね」
「ああ、第三皇子もそろそろ放蕩のツケが回ってきたのではないかってね」
「……お優しい方なのです」
「でも、キミの気持ちは届かない」
「どうすればよいというのですか」
「キミも聖女候補なんだ。いくらでも、なんとでもできる。もっと、自分のために生きては如何かな? 協力するよ」
溺れる者は藁をもつかむものだ。
女などくだらない。
ユリアンにとって、自分の瞳に抗えない女は『薄汚い』ものである。
「協力ですか」
「ああ、政治的なことさ。けど、キミは欲しいものを手に入れられる」
「欲しい、もの」
「ディートリンデ様の誕生祭で、三人の皇子の中、誰かの婚約が発表されるよ」
「……何をしろと」
「キミに塁は及ばないよ。ほんの少しだけ、時計の針を進めるだけさ」
この世に、清くて優しい女はいない。それを確信するだけで、安堵できる。
ユリアンの怪しい瞳の力はますます冴えわたるのだ。
◆◆
シャルロッテという人は、妙に行動力がある。
リリーの叔父であるベルンハルト伯は、皇帝近衛の長である。厳めしい顔の男を相手に見舞いだと言って帝都屋敷への侵入を迫り、三度断られた後に聖女候補の権力を持ち出した。
むこうみずである。
形骸化してしまった聖女選定であるものの、その力の及ぶ所は広い。サリヴァン家になにするものぞ、となったベルンハルト伯は、リリーから「あの娘は少し変わっているのです」と返されて「むう」と唸った。
細作に調べさせて裏は無いと分かり、短い時間ならと了承すれば、手作りの菓子を持ってきた。
ベルンハルト伯とリリーのお茶会で、その菓子が鎮座している。
「あの小娘めが、男でも食える菓子を持ってくるとは」
「庶民の味です、叔父上」
「ほう、そうなのか」
「バザールで売っているものよりも味は上ですがね」
「ハハハ、良い友を持ったな」
なぜか叔父上は上機嫌だ。
「気に入りましたか」
「怒鳴りつけると涙目になって睨み返してきおったわ。あれはまるで」
亡き妻のようだ。という言葉をヴィクトール・ベルンハルト伯は飲み込んだ。
「太陽のような、暖かい人です」
「……武にしか興味がないと思っておったが」
「そんなことはありません」
干した果実を入れたクッキーを手に取って、ベルンハルト伯は茶と一緒に食べた。リリーもそれに倣う。
「で、皇子はどうだった」
「変わり者ですが、あの方なら問題ないかと」
「……皇子としてか、それとも嫁ぐことにか?」
「どちらにもです」
これもまた拍子抜けだった。
シャルロッテがむこうみずなら、リリーは無鉄砲だ。嫌がるくらいはすると思っていたが、受け入れるつもりらしい。
「家を出るとでも言うと思っていたぞ」
「それも考えましたが、あの方であれば私を閉じ込めるような真似はしません」
「それはそれで、頭痛の種が増えるな」
「どういう意味ですか」
「お前がしてきたことだ」
男子であれば、どれほどの傑物になったか。惜しいが、その力は乱にならねば振るうことはできない。そういう力を持つ者は、力を振るうために乱を起こすことがある。そして、そんな時に限って世間や世界は味方するのだ。
帝国はそんな歴史の積み重ねで出来ている。
「……子を成せば、家にいましょう」
「義姉上の教育には感謝せねばな。あの男との決闘はどうだった?」
口元に粗野な笑みが浮いたベルンハルト伯は、貴族から男の顔になった。
自身の勝負について語るのは、勝者の義務だ。
◆
シャルロッテはご機嫌ナナメだ。
リリーがまたして学院をサボっていることにもあるが、同じ教室のユリアンがまた悪い顔をしているからだ。
言葉巧みにハウスメイドを言いなりにしていたのを目にして、反射的に怒鳴りつけていた。ああいうスケコマシは、最初はちょっとしたことから味をしめてロクデナシになるものだ。
問い詰めると言い訳をしたものだから、つい尻を叩いてしまった。あれから距離を取られてしまっている。
アヤメさんと歩いているのを見かけると、今日もごっつい悪い顔をしていた。
イライラする。
シャルロッテは理不尽が嫌いだ。
どうしてこうなのかは分からない。いつだって、理不尽に誰かが踏みにじられていて、自分も知らず誰かを踏みつけていることがある。
そんな時、そこにあるものをぶち壊したくなる。理不尽をぶち壊すには、自分が理不尽になるしかない。
「ユリアンくーん、なにしてるの?」
あからさまにユリアンはシャルロッテに嫌な顔を見せた。
それは、学院に潜入して以来、シャルロッテにしか見せたことのない顔だ。仲が良い訳でも悪い訳でもないが、距離は近い。不思議なことに、ユリアンはシャルロッテは邪魔だが嫌いではない。
シャルロッテにはそういう相手が何人かいる。
何事もお役所仕事で済まそうとする若い学院長とも口論をしたことがあって、第一皇子の口の利き方に真っ向から噛み付いたこともある。
「……キミか。別に、アヤメさんと世間話をしていただけだよ」
「ユリアンくん、また悪さしてるんじゃないの? 悪い顔してるよ」
「キミには関係ない」
「悪事はユリアンくんのためにならない。だって、それ、楽しくないのにやってるでしょ」
「お前」
人を傷つけるのが楽しくて仕方ないという人がいる。後悔も何も無い。ただ楽しいから人を踏みつけるという人が、世の中にはいる。そういう人は、仕方ない。
そういう形に出来ている。
そういう人は、きっと、死んでも地獄に落ちたりしない。ただ、幸せに自分の役目を全うするのだ。だから、そうやって生きていけばいい。だけど、本当はしたくないのに人を傷つける人は、幸せを自分で手放そうとしている。
それは、きっと理不尽なことだ。
「悪いことしても苦しいだけだよ」
「へ、変なことを言うな」
踵を返してユリアンは逃げ出す。
憎しみに焼かれる時、自分自身が苦しい理由はどこにあるのだろうか。
◆
リリーは叔父上と話し込んでいて、学院に出るのは昼からになった。
正直なところ、学院の成績は別に問題ではない。特待生だなんだという肩書があれば成績も必要だが、侯爵家ほどの家格となれば、卒業したというだけでいい。
成績など後からいくらでも好きな点数をつけられる。
昼からの授業は舞踏であった。
この授業は選択制である。主に、芸術に強い生徒や舞踏会で名を上げたい生徒が集う。が、肝心の家格の高い生徒たちは踊った踊らないで家同士の対立になることも考えて、ほぼ参加しない。
参加しているとなると、それは純粋に舞踏が下手な生徒ということになる。
フーゴ・フレンデルもまた、舞踏の下手な生徒である。
「フーゴも舞踏を取っていたか」
と、顔を会わせてリリーは言った。
「おお、リリー殿。どうにも舞踏は苦手で。ではなく、我が師との戦い聞きましたぞ」
「秘密らしいから後で話す」
やれやれ、後でまた自慢話を語らねばならない。
世に名を遺した英雄たちが、吟遊詩人が詠うに任せた理由はこれだろう。いちいち死闘を自慢話として聞かせるなんて、一度だけでも疲れるのに、二度三度など御免こうむりたい。
「小童ども、授業は始まっておるぞ。そら、そこに並べい」
と、古都鈍りの言葉が聞こえた。
リリーは初めて見る顔の教師に戸惑った。帝都貴族が一番やりにくさを感じてしまう相手がそこにいる。
「ほれ、きびきび動くでおじゃる」
古式ゆかしい公家装束に身を纏った男である。
始祖皇帝に帝位を譲った権威の塊。古都の公家である。今では名誉職のような形で祭祀に関わる家だけが貴族に含まれるが、彼らの持つ権威や文化人としての価値は計り知れない。
「ほお、そこにいるのはサリヴァンの人食い姫でおじゃるな。麻呂はヤン・コンラート、踊りの講師として教鞭をとっておる」
「お、お初にお目にかかります」
「ホホホ、公家といっても家格では貴公が上。そこまで畏まる必要はないでおじゃる。さて、基本のステップの練習から始めるでおじゃる」
ヤン・コンラートはきつい古都訛りで言うと、ステップを踏む。
リリーの目からしても、見事の一言である。
息吹の修行は、歩法を重視したものだ。
手本を見せるヤンの腰は、完全に据わっている。公家装束で体を隠しているが、相当に鍛えている足運びだ。するりするりと、舞い踊るヤン・コンラートに見惚れてしまった。
「ほれ、できん者は言えよ。麻呂がじきじきに教えて進ぜるでな」
指導も丁寧だ。
フーゴは特にできないらしく、ヤンの扇子で何度も腰や太ももを叩かれていた。リリーが目ざとく見つけたのは、ヤンの手にあるタコだ。剣を持つ者に特有の位置に、何年もの積み重ねでできたタコがある。
「フレンデルよ、益荒男らしゅう動いてみせい。軽い鉄靴を想起するのじゃ」
公家言葉で半ばからかうように言うが、理に適っている。
師の戦いたくない相手というものに、踊り手が含まれていた。体の動かし方というもので、彼らは一流の暗殺者に勝るとも劣らない。
大道芸で諸国を渡り歩く細作が多いのもそのためだ。
リリーは女生徒に練習の相手を頼まれて、舞う。男役のステップには詳しくないが、難しくないものであれば体で反応できた。
絵を見ているよりは体を動かす方がいいと選んだ授業だが、これなら絵を見ていることにして寝ていた方がよかったかな、と思う。
「ホホホ、見事なステップでおじゃる」
「先生には及びません」
「この道で生計(たつき)を立てておる。学生には、まだ負けられんのう」
「……剣、ですか?」
ヤンはにやりと笑う。
「武家のものとはまた違うがの。貴公もまた、騎士の剣ではあるまい」
ああ、見てみたいな。
互いにそう思っているが、立場が重い。
「はい」
「ディートリンデ様の誕生祭には、皇子と踊られると聞いておる。準備は万端でおじゃるか?」
「……初耳ですが」
「一手、指南して進ぜる」
なるほど、そういうことか。
「お願いします」
音楽はいらない、ステップが始まる。
互いに剣を持っていないが、見える。
ヤンの剣は舞踏と見紛うほどの速い剣だ。傍からは踊りに見えるのだろうか。
至近での急所の狙い合い。互いにイメージしての動きだ。抵抗するも喉を貫かれ、腹に刺しこまれ、背中から斬られる。
鍔迫り合いを避けるヤンに強引に迫り、足を潰す。力技で横凪ぎに斬る。
十数回の内、リリーが取れたのは二本きり。
ダンスを終えるころには、リリーの息が上がっていた。幾度もの死のイメージで、疲労を強く感じた。対照的にヤンは、小さく息をついただけだ。
「その歳でなかなかの腕前でおじゃる。精進せい」
「はい、ありがとうございます」
まだ見ぬ達人がいる。
リリーは、どうしてか嬉しくなった。もしも、実際に剣があれば違う結果もある。そして、それはひどく楽しい想像だ。
生徒たちが教室から出ていった後、ヤン・コンラートは壁にもたれかかって大きく息を吐いた。用意してある水の入った瓶を取ると、杯にも入れずそのまま水を飲む。
「ええい、なんという小娘。さすがはカリ=ラの弟子でおじゃる」
まともに当たっても勝てる道はある。が、命を賭けねばならない。
そのように考えるが、敵ではない。
「鍛え直さねばのう」
リリーと踊るとなると、今の体力では追いつかれてしまうかもしれない。女子に負けられぬ。見栄と意地を捨てて何が公家か。何が男か。
授業を終えた後、リリーはふと気づく。
ディートリンデ様の誕生日には皇帝陛下もいらっしゃる。その時に第三皇子のパートナーになるということは、婚約は決まったようなものだ。
「うーむ」
どんなドレスを着ていくべきか。
少し迷う。
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