第7話 巡る因果の糸車
長い長い地獄を旅した。
皇帝になるがために、どれほどの悪業を重ねたか。
第一王子と聖女に全ての罪を暴かれ、武力でも負けた。自刃して果てた後に落ちたのは、餓鬼道である。
大きな大きな川のたもとで、ひどく喉が渇いていた。
すぐそこに流れる川の水を飲むことができない。
川を渡る亡者がいて、彼らの足から垂れた水だけを飲むことができる。
同じ境遇の餓鬼を押しのけて、川を渡りきった亡者の足から流れた僅かな水滴を舐めるのだ。
僅かな水を求めて、ずっと川の傍にいる。
川を渡りきった亡者の後をついていくと、水の気配すらなくなる。ふと、このまま水にしがみつくことを辞めてみようと思った。
亡者の列に加わり、歩く。
気が付けば、人の形を取り戻して、戦場のさ中にいた。
人々が殺し合っていた。喉が渇いていたために、襲いかかる者を倒して、その血を舐める。甘露のようであった。
ふと見れば、周りの亡者たちは殺し合いながら、相手の腹を裂いて金銀を奪っていたり、内臓を喰らったりしていた。
金はどうでもよかった。
喉が渇いてしょぅがない。血を舐める。
そこで殺し合う内に見知った顔を見つけた。
玉座に飾られた何代か前の皇帝や、政争に敗れ散っていった者たちだ。
何度も何度も殺し合う。死ぬこともあったが、腐り、蛆にたかられ骨と成り果てた後に、また肉体は蘇る。
何度繰り返しただろうか。
百か、千か、万か。
人の内臓を喰らう浅ましさで心が痛む。だが、渇きを癒す血の甘露には勝てない。
殺されそうになれば命乞いをして、ためらう隙を突いて襲いかかる。勝つことも負けることもあった。
ある時、命乞いをする男がいた。どうせ向かってくるだろうと思って許すふりをしたら、男は涙を流して感謝の言葉を述べて、別の亡者に刺殺された。
横入りした者に異様に腹が立って、剣を振り上げた。
何度も何度も繰り返した。そして、ふと、もうやめようと思った。
こんな所にいて何になるのだろうと思い、逃げた。
走って走って、殺されて、走って。
何度も何度も繰り返していると、気が付くとひどく暗い場所にいた。
叫んでも誰もいない。そこは、音すらないほどの静寂の世界だった。
さっきまでが修羅道であるとすれば、ここは無間地獄か。
寂しさに震えながら、歩いた。歩くのをやめて、母を呼び、その場で泣き崩れたこともあった。
幾度も繰り返していく内に、何かを考えて、何かを忘れて、ただ歩くだけを繰り返した。何も考えないというのが空虚で、産まれた時からのことを思い返した。
いつから、こんなことになってしまったのか。
周りが悪いとも言えたが、それを理由に乱を起こしたのは自分自身だ。
長い飢えと殺し殺されを続けて、ひどく、虚しい生き方をしたのだなと気づけた。何もかもが、今までの地獄と何も変わらない気持ちでいた。自ら望んで地獄の釜に落ちたのだ。
いくらでもあった。別の道は。
ふと気が付けば、真っ赤な湖が目の前にあった。
広い湖の水面は真っ赤で、触れるとぬるりとした血であるのが分かる。
血の池に蓮の華が咲いていた。その上に虹色の光が。
虹色の光に照らされた蓮の花の上で、赤子が泣いている。
湖の水面が突如として盛り上がり、そこから竜ほどの大きさの大蛇が姿を現した。
今、やるべきことが分かった。
大蛇におどりかかる。
ここは地獄だ。善行を積むことに意味など無い。それでも、戦うしかないではないか。惨めさは充分に知っている。
妾腹の皇子。黒髪の不義の子。不吉の子。
最後は反逆者だ。
一度くらいは英雄になろう。
皇帝になりたかった理由を思い出した。
大蛇には幾度食われただろうか。
どれほどの間、この戦いを繰り返したのだろうか。
全ては数えきれない。
どうせ、やることなど無い。
ああ、赤子が泣いている。
大蛇に勝利したことはうっすらと覚えている。
赤子を乗せた蓮の花は輝いて、そこに何かがいた。なんと恐ろしい、神々しいお姿なのか。
それは人など遥かに超越した何かだ。
赤子の笑い声が聞こえた。
神の光に包まれながら、赤子の瞳の色で分かった。
幸せになれよ。
お前は、俺なのだから。
◆◆◆
第三皇子であるラファリアの評判はよろしくない。
つい二年ほど前までは、不義の子と囁かれていながらも文武に優れてた人格者というものだった。だが、今となっては大うつけである。
宮廷内で起きた事故で、一度生死の境を彷徨ってからは、放蕩の限りを尽くしている。
黒髪に加えて灰色の瞳は、歴代の一族にない色合いで不吉の子と呼ばれていた。
かつては、文武に優れる様と、切れ長の瞳はどこか空恐ろしいとまで言われていたものだ。凛とした美形である顔付きは女子から好まれていたが、今となってはその面影も無い。
市井に繰り出して酒を浴びるように飲み、侍女ですらない使用人のメイドに手を出し、艶本を読みふけ、あろうことか執筆まで行う。
引き締まっていた口元は、へらへらと締まりの無い笑みを浮かべている有様だ。
元より、皇帝のお手付きの使用人の妾腹。卑しい血が出た恥さらしと呼ばれるまでになった。
「待て待て、金は返すぜ」
と、ラファリア第三皇子は酔虎のアメリーに、にやついた顔でそう言った。
寝台に寝そべり、煙管で煙草をやっている。
悪徳通りと呼ばれる帝都第七区画にある娼館でのことだ。
「皇子様、ツケは利きませんよ」
酔虎のアメリーは、右目に眼帯をつけた老婆だ。帝都の渡世人の中でも知られた女侠客である。若き日には人食い虎と呼ばれていた。
「だからさ、金は持ってこさせるって。納得いかねえなら、こいつでどうだ」
皇子が差し出したのは、指輪だ。
皇帝の血に連なる者しか持てない七色に輝く貴石の嵌まるものである。
「そのようなものを頂くと、不敬罪でしょっぴかれちまいますよ」
「担保で持っといてくれよ。俺にゃあ重い」
「立場が危うくなるとは?」
「今以上にかよ」
アメリーは呆れたように笑った。
ラファリアの寝そべる寝台からは、帝都の眺めが見える。バザールの喧騒が響いてきた。
「最初は太い金ヅルと思ったんだけどね。死にたがりかい? この店にだって細作がやって来てるんだよ」
「そらまあ、そうだろうな。俺は謀反なんてもう起こさないと決めてんだけどなぁ」
「ほお、昔は考えていたと」
「ん、いいトコまで行ったけど失敗した。もうやらねえ」
「変なことを言うガキだよ」
「なあ、婆さん。俺を神輿にしようってヤツはそりゃあいるよ。三人も皇子がいて、まだ誰が継ぐか決まってないしな。兄上たちは、どうにも頼りない」
「……渡世人のあたしに言うのかい?」
「愚痴さ。でもな、兄上たちの周りにゃ人がいる。どっちが継いだってどうにかなるだろうよ。でもな、俺の周りは実績のあるヤツがいない。ここ二年でそういうのは全部兄上についたしな」
「
「んー、ほっといても俺は廃嫡さ。どっかの身内と婚姻を結ぶか、それか坊主にでもさせられる。それが一番だ」
「老人みたいなことを言う」
「一度、地獄を見た」
「はっ、ガキが」
何か続けようとしてアメリーは言葉を止めた。
娼館の主人であるアメリーは様々な人間を見ている。ラファリアの目は、じっとりとした死人のような瞳だ。
「冷たい風のイヤな所だったよ。金は後で持ってくる。だからな、あの女は医者に診せてやれ」
「……金は明後日までに持ってきな」
「そうするさ」
外では何やら祭りのような歓声が聞こえてくる。
「今日はなんかあったか?」
「ああ、なんでも噂の人食い姫だとか」
おや、知らない言葉だ。
前の時は、そんな風に言われる者はいなかった。
「なんの見世物だよ」
「サリヴァン家といったら、ああ性悪リリーか。アイツが人食い?」
以前の時間軸では、あの子は変な娘だった。聖女に張り合って惨めなことばかりしていた。
「どういう情報か知らないけどね。業病に侵されて人の肝を喰らうって話だよ」
「へえ」
遠く、戦仕度の騎士たちが歩いているのが見えた。
「ちょいと、見物にでも行くか」
「そうだね、それがいいよ。女も抱かずに、弱い酒ばっかり飲まれたら商売あがったりさ」
「坊主になるための修行さ」
裸の女を横にして、手を出すことを由とせず。
病気の女と褥を共にする。
ラファリアは煙を吐きだして、煙管から火種を叩き落とした。
◆◆
いたく面白い娘だった。
顔つきはラファリアの知るリリーだったが、その生き方と立ち姿は別人だ。
特に、生首に騎士の叙勲をしたというのは面白い。
教会の知り合いに無理を言って、その喧騒を見物させてもらった。
「なんと、死神を護鬼とするか」
地獄から帰ってきたからこそ、分かるものもある。
学院へ通うと聞き、決闘の顛末も見た。
面白い。
あの息吹という術も、その生き方も、あの子にはあるはずのないものだ。
隠れて見ていると、教会騎士の放った礫を腹に喰らった。
地獄の瘴気を持つラファリアにとって致命的な一撃だ。勝負の見届けをアヤメに頼んだが、何やらアイツは不機嫌になって帰ってきた。
アヤメを取り立てたのはラファリアだ。実力がありながら、陰の役目を与えられて冷や飯を食わされていたアヤメを、拾い上げた。
なんにしろ、リリーはあの恐るべき男を倒すほどらしい。
どうしても、会って話しをしたかった。
もしや、自分と同じく帰ってきたのか。それとも、全く別の何かがあったのか。知りたくてたまらない。
◆
こんなに怒られたのは産まれて初めてだ。
ヴィクトール・ベルンハルト伯の怒りは凄まじく、言い訳をしようにもウドはいつの間にか姿を消していて、言葉の上手くないリリーは「申し訳ございません」としか言えなくなってしまった。
怒られて涙目になったのは、子供のころの修行時代以来である。
ウドの応急処置は嫌味なくらい完全であった。
左手はしばらく使い物にならないが、安静にしていれば治りそうだという。
しばらくは安静ということで、学院の寮に戻ろうとしたら、叔父上にしばらくは帝都屋敷から通えと強制された。
軟禁である。
あの大男はどうなったか尋ねれば、ウドの応急処置がここでも役立っていた。痛むであろう体を押して、どこかへ消えたそうだ。
短い時間であったそうだが、ベルンハルト伯との問答で意気投合して路銀まで与えたとか。この差は一体なんなのだろう。
体を休めるのに
三日ほどは安静にしつつ、室内でできる歩法の修行程度は行っていた。
四日目の夕食時、叔父上にドレスを着せられて大貴族専用の料亭へ行くこととなった。美味しいものを食べられると喜んでいたリリーだが、案内されたのは予想外の席だ。
「言い忘れていたが、今日はお前の見合いだ」
「叔父上、言い忘れるものではないでしょう」
「言って素直に来たか」
「……」
馬車の中で知らされた驚愕の事実である。
走る馬車から飛び降りるのはできないでもないが、護衛の馬車には腕利きが最低でも四人。陰から見守る細作は幾人だろうか。
「ぬう」
「リリー、その唸り方はやめろ」
「はい」
本当に分かっているのか、この馬鹿姪が。と、ベルンハルト伯はため息をついた。
「まあよい。お相手は、ラファリア第三皇子だ。粗相の無いようにな」
「……私が皇子と婚姻をするというのは、力を持ちすぎるのでは?」
「第三皇子は庶子よ。つり合いが取れる上、陛下の懸念も晴れる」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
左手は固めているために食事は無様になりそうだが、それでも良いのかと尋ねれば「良い」とのことだ。
「皇子がお前に会いたがっておる。うつけか大器か儂にも分からぬ男よ」
「……叔父上、叛意ある者とすればいかがします」
「婚姻を結んだ後で斬れい」
「全ては天下泰平のためですか」
「そういうことよ。サリヴァン家は陛下の槍でよい」
政治はよく分からないが、どうすればいいか分かっていることが一つだけある。
天下太平を脅かしてはならない。故に、武家は槍そのものでよいのだ。決して、槍が独り歩きしてはならない。
「かしこまりました」
◆
ラファリア皇子は、いまかいまかと人食い姫の到着を待ちわびていた。
ベルンハルト伯には、二人きりで会いたいと申しつけてある。
料亭の個室に現れた女を見て、皇子は小さく「おお」とつぶやいた。
「お初にお目にかかります、ラファリア様」
「あ、ああ。リリー・ミール・サリヴァン嬢、よく招待を受けてくれた」
「もったいなきお言葉……」
獅子のような瞳だった。
「皇子殿、その身に宿る瘴気はいかなるものですか」
息吹の理術。
リリーは呼吸と共に、右手に力を入れていた。螺旋に結った髪に挿していた簪に手を掛ける。
「一度死に、再びこちらに戻った、と言えばどうする」
「
「信じるか」
「いえ、体に問いましょう。反の存在でないというのなら」
淑女から男の手を握るというふしだらな行いだった。
地獄から舞い戻った自身にとって、息吹は恐るべき術である。だが、ラファリア皇子は甘んじて受けた。
手に焼けるような痛みが走る。しかし、それは地獄で得た痛みに比べて、なんと心地よい生命の痛みであるか。
「ああ、なるほど。これが息吹か」
「ご無礼は平にご容赦を」
「いいさ。リリー、キミがどうやって生きたか教えておくれ」
「はい」
二人は、食事と共に長く話し合った。
ラファリアは、自分自身が乱を起こさないことで全てが上手くいくと思っていた。しかし、それは違う。
出会うはずの無い者が出会っているからだ。
◆
アヤメ・コンゴウは異常なる魔術で、二人の食事を見ている。
その顔から表情が抜け落ちていた。
「ラファリア様ラファリア様ラファリア様ラファリア様ラファリア様ラファリア様」
教会の聖句よりも、尊い。
ラファリアが生き生きとして語る『人食い姫』が憎い。
私に無い全てを持つリリー。
それだけなら許せた。しかし、ラファリアを奪われるのだけは嫌だ。
涙を流して聖句を吟じるアヤメは、幽鬼じみていた。
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