第3話 死神の抱擁

 大鹿ミラールの疾走は心地よい。

 馬には無い独特の獰猛さは、リリーの心に新しい風を吹き込むようだった。

 街道を行き、帝都まであと二日。最後の宿場町に入った。

 宿を取り、旅の垢を落とす前に食事に出かけた。

 こういった宿の出す食事というのはさして美味くない。芋を蒸かしただけというものも珍しくなく、美味いものを喰いたければ食事屋へ行けと言われるのが常だ。

 幸いなことに路銀は潤沢にある。


 大森林のエルフたちはほとんど金を受け取らなかった。長い旅路でも金はあまり使っていない。


 宿場町の小マシな居酒屋に入れば、ぬるいエールで昼間から盛り上がっている傭兵や冒険者らしき者たちがいた。荒くれだが、身なりはそう悪くない。

 給仕の女を呼び止めて半銀貨で適当な食べ物とエールを頼む。


「うちのはエールじゃなくても腹は壊さないよ」


「なら、水でいい。釣りはいいから、腹にたまるものを」


 エルフの村で食べた料理は淡泊な味付けだった。悪くはないが、今はガツンとパンチの効いたものが食べたい。


「あいよ」


 給仕に銅貨をくれてやれば、小走りに厨房に駆けていく。

 師匠はこれをひどく厭がっていた。

 リリーには理解できなかったが、人は仕事に誇りを持つべきという考え方を師匠は持っていた。それは貴族だけの考え方なのだが、師匠はこういう店で不機嫌になることが多かった。

 完全でないが故に、人は人である。

 自身の感情の乱れに対して、師はいつも、どこか楽しげにしていた。

 思い出すと、感傷的になる。

 出てきたのは芋とベーコンの油炒めと、鶏肉の揚げ物だ。

 なかなか美味い。芋粥も嫌いではないが、街にいるとこういうものが食べたくなる。

 エールも頼むべきだったかな、とリリーは酒が欲しくなったが、今更頼むというのはどこか気が引けた。

 一通り食べ終えて、水を舐めながら追加でエールを頼むべきか迷っていると、新たな客が来た。

 ドアを開けたのは、一目で夜鷹か遊女と分かるような出で立ちの女だ。奇妙なことに、背中に立派な騎士剣を背負っている。

 店内の客たちは動きを止めて、じろりと彼女を睨む。


 何やら、奇妙な。


 リリーも、なんとはなしに視線を向けた。

 少女は視線を無視して給仕の女に金を渡した。金を受け取った給仕は、憮然とした表情で厨房から酒の入った壺を取ってくると、押し付けるようにして少女に渡した。

 受け取る少女もまた、憮然とした態度だ。入ってきたときと同じように出ていく。

 昼間から盛り上がっていた男たちは、小さく舌打ちをしてまた喧騒の中へ戻っていった。何か仔細があるのだろうか。

 奇妙なやり取りを見たせいか、リリーは酒を飲む気がなくなって席をたった。


「まいど。これ、お持ち帰りでどうぞ」


 給仕の女は笹の葉に包んだ蒸しパンをリリーに手渡した。良い匂いがしている。


「頼んではいないが」


「さっき、たくさん貰っちまったからね。御贔屓に頼むよ。お兄さん」


 薄汚れた姿のせいか、男と間違われている。

 エルフの集落で貰った服は、大き目で体型を隠す意匠だったが、それでも男に見られたことには少し驚いた。


「有難く」


 できるだけ声を低く男を装った。「あれ、私、何してるの?」と思ったが、こういう時は流されてしまうのが吉だ。



 腹ごなしに宿場をそぞろ歩いていると、リュフ河をまたぐ橋に差し掛かった。

 帝都を開いた最初の皇帝が架けた巨大な石橋である。

 橋のたもと、河原からは煮炊きの煙が上がり、流浪の民や河原者と呼ばれる下層民の賑やかな声が聞こえた。

 ふと、目をやる。

 橋げたで、先ほど居酒屋で見かけた夜鷹の少女と、冒険者らしき者たちが言い争っている。

 夜鷹の少女に食ってかかっている冒険者は若い男女である。少女は背負っていた騎士剣をかき抱いて、今にも抜きかねない様子だ。剣呑な空気があった。


「あんたみたいなのが入ってきたら、わたしたちまで低く見られるのよ」


 冒険者の女は居丈高に言う。が、その内容に間違いはない。

 春をひさぐ女が剣を持つことで、冒険者だと言い張るのは珍しい話ではない。

 女冒険者や女傭兵というのは、いつもそれを揶揄される。


「……すぐ出ていってる」


 夜鷹の少女はそう言うが、声音は弱弱しい。


「あんたにはあっちの河原がお似合いでしょ。夜鷹が大通りを歩かないで」


「そんな法は無いじゃないか」


「言うこときけないってなら、痛い目見せるよ」


 夜鷹の手は屈辱に震え、剣を抜きかねない。


「抜きなさいよ。そうしたら、決闘になる」


 決闘となれば、昼日中に斬り殺したとしても咎めは無い。特に、このような宿場、相手が後ろ盾の無い夜鷹であれば、罪に問われるということはまず無いだろう。


 傍らの男が「よせ」と言ったが、冒険者の女は譲らない。

 遊女が剣を抜こうとした手を、リリーが割って入って止めた。


「それまで。昼日中から、そんなことで血を見る必要はあるまい」


 闖入者に冒険者の女が目を剥いた。


「あんたが代わりにやるってぇ? 半エルフみたいだけど、ソレの客?」


 宿場町でエルフ装飾の服は目立つ。しかし、エルフの行う報復の凄まじさは大森林の近くでは知れ渡っている。喧嘩を売られることが少なかったのはこのためか、とはたと気づいた。


「噛み付く相手はよく見ることだ」


 冒険者の女は、態度には出さないが怯んでいた。

 よく見れば耳は尖っていない。そして同じ女。だが、自分よりも大きな手は、鍛錬の後に出来上がる丸みを帯びた分厚いものだ。


「あんたも女だったら、そいつをよく躾てよ。こんなのがいるから、わたしたちは……」


 冒険者の女は剣から手を放して背を向けた。その後を片割れの男が追いかける。


「余計なことを」


 と、夜鷹はぽつり吐き捨てた。


「そんな態度では、ああいう手合いは減らんぞ。何か仔細がありそうだが」


「関係ないよ」


「左様か」


 夜鷹の昏い目に宿る炎。

 どこか惹かれるものがあった。

 ぐぅ、と夜鷹の腹が鳴った。

 夜鷹の少女が恥ずかしげに視線を逸らす前にちらりと見たのは、さきほど居酒屋で貰った持ち帰りの蒸しパンである。

 リリーは口角を上げて、「どうだ」と差し出すと、彼女は頷いた。

 



 河原者というのは、多岐に渡る。

 生活の術を失った人々の集まりだ。皇帝は河原だけは自分のものでないと認めているため、彼らがそこで暮らすのを咎めてはならないとされている。

 リリーが石を組んで竈を作り、夜鷹の鍋で川の水を煮る。手製の濾過器を通してはいるが、川の水を生で飲むのは危ない。


「それだけでは寂しかろう」


 と、リリーは川に入って魚を何匹か取った。

 川辺に自生する木の枝で串を作り、魚を焼いた。香ばしい匂いがしているが、遊女は手を出さない。リリーが先に食べるのを待っている。


「施しではない。話を聴くための駄賃だよ」


「そう。じゃあ、いただきます」


 竈で温め直したパンと魚。

 夜鷹は美味そうに口に運ぶ。食べる所作には、きちんとマナーを学んだ者の優雅さがあった。




 わたしはね、こんなナリだけど武家の娘なんだよ。

 ザビーネ・アルトゼーっていう名前。うん、下級騎士の家だよ。

 笑わないんだね。ありがたいよ。

 家を継ぐはずの兄が、お上の金に手をつけてね。処刑されちまったんだ。兄は悪い仲間とつきあってて、それの頭目にそそのかされたってことなんだ。


 ん、そいつの名前かい?


 雷神のゾルガンっていう不名誉騎士だよ。金に手をかけたって知れたらすぐさまとんずらさ。


 わたしは、叔父の所に引き取られたんだけど、アルトゼーの家は絶やしちゃいけないって話になってさ、汚名を灌ぐために仇討ちをすることになったんだ。


 家は叔父が管理してくれてるからさ、たまに手紙を出してる。帝都を追い出されて七年さ。でも、ようやくゾルガンがどこにいるか分かったんだ。

 え、剣はもちろんそのためだよ。

 うん、ははは、そりゃあね。怖いよ。だけど、わたしだって修行したんだ。この手でさ、兄の仇も取らないと。


 そのための秘策もあるんだよ。

 いまは練習中。お酒でね。教えてくれてるおっちゃんがいるんだ。

 傭兵を雇う金がありゃよかったんだけど、もうそういうのもなくってさ。うん、なんとかしてみせるよ。家に帰ったらさ、仇討ちの実績で女騎士だって夢じゃないしね。


 魚、美味しいね。いいのかい、貰っちまって。ああ、話の代金だったね。

 うん、もうすぐ秘策の完成だからさ、大丈夫だよ。

 えへへ、あんたいい人だね。

 剣を見せろって、ダメだよ。こいつは、私のあっ、だめだって。



 リリーの予想通り、剣は錆びついていた。

 饒舌に語っていた夜鷹、ザビーネは今にも涙をこぼしそうな顔だ。どれほど裏切られてきたのか、剣を悪し様に言われると思ったのだろうか。


「剣は……返して。お兄ちゃんの、だから」


「うむ。少し貸してくれれば返すさ」


 リリーは背嚢から研ぎの道具を取り出した。

 手持ちの砥石と道具では、今より見てくれがマシになる程度にしかできない。


「ザビーネ、少し待っておけ」


 本来は鍛冶屋へ持っていくべきだ。

 リリーの腕では、剣の錆を落とすのもやっとである。所々に錆は浮いているが、芯にまで錆は至っていない。


 剣そのものはしっかりとした造りだった。

 砥いでいると、根本に彫りこまれた小さな紋章が薄らと姿を見せる。剣に絡む茨だ。下級騎士の家によくある意匠で、その精緻さからしても帝都の鍛冶屋が作った騎士剣であろう。


 研ぎを終えるまで、ザビーネは無言であった。

 空が夕暮れに染まるころ、研ぎ終えた剣を鞘に戻してザビーネに振り向くと、河原に平伏していた。

 目上の者に礼を捧げる宮廷での作法だ。決して卑しいものではない。


「ご厚意、忘れませぬ」


 リリーがよせと言っても、ザビーネはその感謝をやめない。


「顔を上げてくれ。……その、なんだ。私は友達が少なくてな、こういう恩で釣るような方法だが、私と友達になってくれはしまいか」


「わたしでいいの?」


「いいさ」


「ありがとう」

 

 剣を受け取ったザビーネの吐息は、ぷんと鼻につく異臭があった。それは、死病の匂いである。

 互いにどうしていいか分からないような形で微笑みあった。そして、暮れ六つの鐘が鳴る。


「ごめんなさい。ちょっと、行かなくちゃいけないから、明日また会える?」


「あ、ああ、大丈夫だ」


 すぐに帝都に経つ予定だったが、遅刻は今更だ。一日増えた所で変わらない。


「ザビーネ、時間だ」


 と、リリーの背後から声がかかった。

 背中を丸めた小男がいる。

 気配に気づかなかった。


「リリー、また明日」


「ん、ああ。またな」


 背を向けて一歩。小男とすれ違う。


「余計な口出しは御無用にて」


 恐るべき使い手か。

 リリーは背骨に氷魔法を詰め込まれたような寒気を感じた。小男の総身に満ちた鬼気は、尋常ならざるものであったからだ。

 じっとりと手に汗をかいていた。

 ひどく、その日は寝苦しかった。



 リリーは胸騒ぎを感じてひどく早い時間に起きた。

 宿にミラールを残して、まだ暗い外に出た。

 井戸水で顔を洗い、呼気を息吹で整えてから河原に向かう。

 ザビーネの居場所は橋げた近くであると聞いていた。そこに近づくにつれて、ザビーネの息遣いを感じた。

 ドア代わりにボロ布のかかったボロ小屋である。中を覗けば、ザビーネが寝ている。

 裸身に汚れた毛布を巻きつけた彼女の身体には、男女の交合の痕が生々しく残っていた。


「余計なことは無用に」


 背後の気配に対して、木刀を振った。

 あの小男だ。ピョンと飛んでそれをかわす。


「その軽業、どこかの細作かんじゃ崩れか」


 細作とは、密偵や汚れ仕事を行うしのびとも呼ばれる者である。


「あちらで話しやしょう」


「よかろう」


 細作の戦い方とは、このように声をかけるようなものではない。やるならば、リリーが眠っている間にやっただろう。

 小男の後に続き暫時、空が白み始めたころ、小さな祠の前についた。小男は悪びれもせず供え物の饅頭を手に取った。ぱくりと食べる。


「ザビーネには手出し無用にて」


「貴様が何をしているかによるな」


「……戦い方を教えてやったまでで」


「死病に侵された女を弄ぶことが、か」


 息吹にて、心に燃え上がる炎を沈める。


「剣士殿、アレを可哀想な女とお思いでしょう」


「……」


「人は、生きるとあったら単純なものじゃあございません。悪徳にも手を染めましょうや。アレにとって、武家娘であるのは最後の拠り所。何も出せないなら体で払う、それがアレなりの矜持なのです」


「それを受け取っているということか」


「ええ。御代に見合ったものは教えました。剣士殿はどうあっても口出しをされるということで、こいつも天の思し召しということでしょう。あと三日、何も言わず目を瞑っていてはおられませんか」


「ザビーネのために、か」


「はい。あれの友と言うならば」


「よかろう」


 天の思し召し、という言葉をこの細作崩れが使う意味は、後になってリリーを悩ませることになる。





 宿に戻り、三日分の宿代を支払う。

 ミラールは繋がれているのに飽きたのか、リリーを見かけると外せと意思表示してきた。

 気性が荒く、周りの馬を脅えさせている。鼻先を撫でてから、遠乗りへ出かけることにした。


 近くの平原を走り、エルフの集落で貰い受けた弓で鳥と兎を仕留める。

 空は快晴だが、心中にはどんよりと分厚い雲がかかっていた。


 夕暮れに河原へ向かえば、ザビーネが待っていた。

 血抜きを済ませた鳥と兎を焼いて食べる。

 ザビーネの身体には、交合の痕と鍛錬の生傷があった。そして、ひどく厭な薬品の匂いがした。

 あの小男も、間違いなく細作だ。どんな外道の技を教えているのか。

 

「美味しいね」


「ああ、美味いな」


「わたしね、帝都に帰ったら最初にしたいことがあるの」


「なんだ?」


「昔食べた、教会の近くのタンド婆さんのお饅頭を買いに行くの。赤と白いのがあって、どっちも同じ味なんだけど、とっても美味しいの」


「帝都にはもう少ししたら行くから、その時に食べてみるか」


「一緒に、食べようね。いつか、きっと」


「ああ」


 泣くな。

 話せば話すほどに、ザビーネはただの少女だ。侯爵家の侍女にいくらでもいそうな、一門の騎士の娘だ。それが、なぜ、こうまで、落とされねばならぬ。




 二日目、ミラールは心配そうに啼いた。

 リリーは息吹で呼吸を整えて、野を駆ける。

 そうでもしないと、手を出してしまいそうだった。

 ザビーネの代わりに、いや、介添え人としてでもいい。先に雷神のゾルガンとやらを討ってしまうか。

 いや、それをしたら、それこそザビーネを殺すのと何も変わらない。

 如何すればいい。


 山の甘い果実を採り、弓で鳥を狩った。

 八つ当たりのような狩りは、リッドがいたらどれほど叱られるだろうか。

 居酒屋で白パンを買う。ザビーネのことが噂になっているのか、三倍近い金を取られた。


「剣士さん、ちょっといい?」


 河原へ向かおうとしたら、先日ザビーネに絡んでいた女冒険者に呼び止められた。


「あの夜鷹にあげるんでしょ、それ。そういうの気に喰わないんだけど」


「お前には関係ない」


「どんなのか知らないけどさ、その上から施してやってるってのがイヤなのよ。あんたさ、あいつの面倒見てやれんの?」


「……」


「別にさ、どうでもいいのよ。だけど、何もかも失ったのはあの子だけじゃない」


 彼女自身、何を言いたいかなど分からないのだろう。

 世の無常のようなものが、言葉の中にはあった。どうにもできないこと、どうしても見たくないもの。たくさんある。


「こんな風にさ、あんなのに夢を見させるようなことしないでよっ」


「面倒を見る、か」


 年若い女冒険者は涙目で「バカッ、死ねッ」と叫んで走り去った。隣にいた男の冒険者は額を抑えて「やっちまった」という顔だ。


「すみません。格上のあなたにあんな言い方で。けど、あいつ、俺もそうなんですけど、夜鷹の子供なんですよ。今じゃ冒険者ですけど、あそこ戻りたくないって考えてましたから。とにかく、本当、すいません」


「いや、いいよ。気にするな、明日か明後日にはここを発つ。すまなかった」


 男は頭を下げて女を追いかけた。

 面倒を見る。それは、できないことではない。

 昔は我儘な姫だったのだ。





 侍女として召し抱えよう。

 何かあったとして、貴族の出であれば問題ない。違ったとしても、どこかに養子縁組をさせるなど侯爵家の威光を用いればたやすい。仇とやらも、なんとでもなる。

 お父様にお願いすればいい。

 答えが出れば、ラクになった。

 ザビーネの元へ行くと、料理を用意して待っていた。


「昨日は御馳走してもらったし、今日は、食べよう」


 さしたる料理ではない。しかし、彼女がありったけの蓄えを吐きだして用意したものだ。


「うむ、ご相伴に預かろう」


 他愛もない話をしながら、食べた。

 ザビーネはよく笑った。

 リリーはいつ切り出そうかと迷った。きっと喜んでくれるだろう。


「あのね、明日。さ、ゾルガンを討ちにいくんだ」


「な、そ、そうか。実は」


「言う前からお見通しかぁ。秘策を教えてくれたおっちゃんがさ、リリーに見届け人を頼めって言ってたから、お願いします」


 何か言おうとして言葉にならない。

 強張った笑顔を浮かべるしかできない。


「……分かってる。だけどさ、やらなくちゃいけんだ。私は、武家の娘だから」


「その役目、受けるよ。帝都に帰る時は、侍女の、いや、女騎士としての士官のクチも紹介できるぞ」


「うん、ありがとうね」


 先に涙を零したのはリリーだった。


「もう、なんで泣くのよ。わたしまで、う、うぅわあぁぁ」

 

 二人で、わんわんと泣いた。

 こんなに泣いたのはいつ以来か。


 ザビーネの小屋に泊まることになった。

 小屋の中はあらかた整理されている。


「リリー、ありがとう。わたしね、いま、とっても幸せ」


「そうか」


 眠りに着くという時、ザビーネはリリーの頬に口づけた。


「あなたが男だったらよかったのに」


「よく、言われるよ」


 泣きはらした目で、二人は笑う。

 死病の匂いが染み付いた毛布で眠った。




 ザビーネはミラールを見て驚いていた。

 エルフしか乗らない大鹿に乗る女など、ついぞ見たことが無い。

 大鹿ミラールは、ザビーネをその背に乗せることをためらわなかった。


 ゾルガンは宿場町からすぐ近くの山に一人で住んでいる。ザビーネの言うところの「おっちゃん」が見つけてくれたそうだ。


 あの細作崩れの小男は、ザビーネのことを好いているのだと、リリーは気づいた。粗末ではあるが、騎士装束に革鎧など、ザビーネに用意できるものではない。金はあっても、商家は遊女や夜鷹にこんなものを売るということをしないからだ。

 あの小男が全てを整えたのだろう。


「キレイだな」


「うん、あはは、照れるね。女騎士みたいでしょ」

 

 騎士とは何か。

 高潔な生き方であるとも言うし、皇帝陛下への忠誠だともいう。人は形に縛られる。


 師は、全てのしがらみから解放されることも、しがらみと共に生きることも、どちらも素晴らしい人間ならではのものであると言った。


 では、何が悪なのか。

 人でありながら獣に堕ちた者である。

 魔物よりも邪悪であるのが人なのだ。




 雷神のゾルガンは、その山で七年間を過ごしていた。この地で、齢にして四五歳を迎える。

 朝から、予感はあった。

 川で釣り糸を垂らしても、とんと引かない。このようなことは珍しい。

 大鹿に乗った二人の女を見て、彼は悟った。



「雷神のゾルガン殿とお見受けする」


 震える声だ。

 片方の剣士は哀しみがあり、もう片方の騎士服を着た女からは決意が。見覚えのある顔だった。


「いかにも。それがしがゾルガンである。キュレイン殿もしつこいお方よ。七年も経つというのに刺客を送ってくるとは」


「貴公の甘言により兄を失った、ザビーネ・アルトゼーである。尋常の決闘を申し込む」


「……左様か。悲しきことよな、ついて参れ」


 ゾルガンは背を向けて歩いた。

 たどり着いた先は、ゾルガンのものらしき庵の前である。


「決闘の見届け人をさせて頂く、リリー・ミール・サリヴァンである。ゾルガン殿、よろしいか」


「うむ。介添え人ではないか」


「お相手するのはそこのザビーネ独り、私は見届け人だ」

 

 介添え人とは、助っ人のことだ。決闘とは一対一でやるものではない。

 介添え人の人数とは、騎士の人徳により増えるもの。多ければ多い方がいいとされている。

 見届け人は、戦いには手を出さず、勝負を見届けるだけの役割だ。


 ゾルガンは騎士剣を庵から取り出して、鞘から抜いた。


「アルトゼー家の女よ。我が罪を記した書状がある。勝った暁には開かれよ」


 と、ゾルガンは丸められた書状を庵の入り口に置いた。


 剣を構える男女の様は、凄惨であった。

 憎しみの籠る顔である。

 ザビーネは重い騎士剣を扱い切れていない。手は震え、正眼に構えたのはいいが、重さに耐えかねて今にも取り落としそうだ。


「キエエェィ」


 ゾルガンは『貴婦人の型』と呼ばれる騎士剣を肩に担ぐ型より、剣を振る。

 その瞬間、ザビーネは動いた。剣を捨てて、抱き着くようにしてゾルガンに組み付いたのだ。

 ゾルガンが振り下ろした剣は、根本の辺りでザビーネの左肩口に深く埋まった。両断されなかったのは、革鎧と根本で受けたおかげであろう。

 鮮血が舞う。

 ゾルガンは、死神の手にあると悟った。

 死を受け入れたザビーネの顔は、死神そのものであった。

 笑みを浮かべて、右手に握りこんでいた小さな小さな竹串を、首元に突き刺そうとしている。毒か、と首を捻ったゾルカンは、重心を崩した。故に、ザビーネの動きを許してしまった。

 信じられない力で、ザビーネは首に組み付いて、ゾルガンに口づけたのだ。死神の接吻は、口吸いで舌を噛み切るものかと思ったが、違う。

 ゾルガンの開いた口に、ザビーネは腹からせり上がった血を吐きつけたのだ。だが、それが最後だった。

 突き飛ばされたザビーネは、血を流し過ぎていて、倒れ伏すのみ。


「見事である」


 ゾルガンは瞑目した。

 先に逝く女騎士に敬意を表した。


 リリーが駆け寄ると、ザビーネは虫の息だった。

 いや、出会ったころから、死人が歩いているようなものだった。その身には無数の悪鬼が絡み付きながら、それでいて、悪鬼に支配はされていなかった女。


「ザビーネやったな」


「ふふ、これしかなかった、から。ごめんね……」


「何を謝る、やったではないか、女騎士だぞ」


「わたしは、夜鷹じゃない……、武家、の、むす、め」


 ザビーネは友の腕の中で逝った。

 安らかな死に顔であった。

 ゾルガンは、ザビーネの死を見届けてから、膝をついた。


「内臓を腐らせ、その血で敵を討つか。恐ろしき業よ」


「貴公ほどの男がなぜ」


「仔細は、その書状にある。憐れと思うなら、それを帝都の詰所に、頼む。すまぬが、介錯を」


「任されよ」


 リリーは師から受け継いだ剣を抜き、ゾルガンの首を落とした。




◆◆



 道中で魔術師と出会えたのは幸運だった。

 ミラールは主の意志を汲んで風のように駆ける。

 三日かかるところを一日半で駆け抜ける。


 帝都のサリヴァン侯爵屋敷にたどり着き、待っていた家令の小言を無視して向かったのは、帝都屋敷を預かる叔父の元だ。

 ヴィクトール・ベルンハルト伯は、リリーの叔父であり、帝都の近衛長官を務める傑物だ。斧槍の名手である。

 三か月以上遅れてきた小娘に説教をしようという考えは、リリーの様を見て諦めた。


「リリーよ、久しいな」


「叔父上、お叱りは後ほど。先に、見て頂きたいものがございます」


 ゾルガンの遺した書状であった。



◆◆


 帝都に一つの噂が駆け廻った。

 サリヴァン侯爵家の人喰い姫が帝都にやって来た。噂の化物は、社交界に出るために、まずはお披露目の帝都行脚をするという。

 実際に、叔父に当たるベルンハルト伯爵が帝都での行列の許可を取っていた。

 噂の日は瞬く間に訪れ、屋敷の近くには見物人が溢れるほどだった。


 サリヴァン家の屋敷からは、騎士たちが整列して出てくる。

 祭礼用の華やかなものではなく、全身鎧を着た戦仕度の騎士であった。槍や斧槍を手に、彼らは馬に乗る。随伴の歩兵もまた戦仕度であった。

 その後に続くのが、喪服に身を包み、大きな鹿に乗る貴婦人であった。

 見物人から「人食い姫だ」と囁く声が漏れた。



 よくある話であった。


 公金横領の濡れ衣を着せられた男たちが、帝都から逃げた。途中、年若い騎士は討ち取られ、無事に逃げ延びたのは頭目格のゾルガンだけであった。

 アルトゼーは下級騎士ではあるが、長く帝都の警護についている家柄である。

 公金の横領自体は珍しいことではない。そして、切り捨てられる者も同じくして珍しくはなかった。

 ゾルガンらも横領には関わっていたが、お目こぼしで得るような、誰も問題にしない程度の微々たる額である。

 それが、いつの間にやら金貨一千枚の濡れ衣。

 上役の役人に嵌められていた。



 リリーの向かった先は、アルトゼー家である。

 平騎士でしかないアルトゼー家は上級貴族の来訪に戸惑った。

 小さな屋敷に入り、現アルトゼー家を継いだ男の元へ向かう。


「……アルトゼー準子爵、そこもとの義理の娘であるザビーネの件で参らせてもらった」


 喪服姿のリリーは、ひどく美しかった。

 顔に傷のある令嬢である。露出している大きな手や、目の下にある刀傷を隠してもいない。ただ、凄絶な美しさはそこにあった。


「は、あの子は、もう死んでいますが」


 当主の座を横から奪われるというのも貴族のお家の常だ。


「教会の記録では、死んだ、となっているが、親戚筋の貴公が帝都より放逐したのは分かっている」


「……何をおっしゃいますか」


「それはよい。生きていたということにしておけば良い。サリヴァン家のちからで如何様にもしよう。ザビーネ殿は当家で女騎士に取り立てる。故に、そこもとの姓を名乗らせて頂く」


「さ、左様ですか」


「一言、挨拶があるそうだ」


 リリーに、おつきの騎士が桐箱を渡した。

 何事かとアルトゼーを名乗る男は思っただろう。

 リリーが箱の紐を解き、取り出したのはザビーネの首であった。


「見事、本懐を遂げたぞ、ザビーネは。貴公、この家を乗っ取るために、アルトゼー家を嵌めるのに協力したな」


「ひ、な、何を言っているッ。あの時のことは、全て法務官の立会いでこの家を継いだのだ。何もやましいことはない」


「それをザビーネの前で言うか」


 ザビーネの生首を突きつけると、アルトゼーは一歩一歩と後ろに下がり、ついには壁にまで追い詰められた。


はかりごとには何も言うまい。だが、貴様がザビーネに仇討ちなどという甘言を弄さねば、別の生き方があった。我が友を嵌めた貴様は、今よりサリヴァン家の敵である」


 騎士の一人が、剣をリリーに勧めた。

 一刀のもとに斬り伏せるつもりで剣の柄を握った時、それはいかなる作用か、ザビーネの閉じられた瞳より、涙が一筋伝ったのである。

 もういいよ。と、リリーを気遣うように言う、ザビーネの声が聞こえた。ように思えた。

 斬る価値もない。


「よい。貴様は、流浪の辛さを知れ。よいか、帝都から姿を消せば、仕置きはしない。消え失せい」


 アルトゼーの名を騙る男は悲鳴を上げて、うずくまった。



 その後は、ザビーネと共に帝都を一周し、好きだったという饅頭を買った。

 教会へ赴き、腰を抜かす坊主に読経を命じて、葬儀を執り行った。

 同時に、騎士の叙勲をも行わせて、サリヴァン家一門にザビーネ・アルトゼーの名が刻まれた。

 生首を騎士にしたという噂はすぐに広まるだろう。

 まるで、乱心して魔道に堕ちた姫ではないか。

 言わせたい者には言わせておけば良い。


 一門の騎士を駆り出すこの騒ぎに対して、叔父であるヴィクトール・ベルンハルト伯は、幾つかの条件を出した。


「リリーよ、我儘を利いてやったのだ。約束は守れよ」


「はい」


 約束はシンプルなものだ。

 学院へきちんと通うこと。


「分かっていような。兄上が悲しまれるのは見たくない」


「分かっておりますとも」


「結婚相手を在学中に決めるのだ。引き伸ばしはならんぞ」


「分かっておりますとも」


 リリーの言葉に、全く約束を守る気がないと分かっていながらも、ヴィクトールはどこか満足げな気持ちになった。

 この奇矯な姪を間近で見れるというのは、どこか面白いのではないか、と思うからだ。




 リリーの寝室に、夜半訪れるものがあった。

 侯爵家の細作の全ての目から逃れてやって来たのは、あの小男である。


「来ると思っていた」


 小男は黒装束を着ていた。古い時代の、師より聞いた忍そのままの姿だ。


「……姫様、ご無礼は平にご容赦を」


「許す」


「本懐を遂げたのですな……」


「貴公の教えた『死神の抱擁』のおかげだよ。あれほどの絶技に、よく耐えたものよ」


「左様ですか。何もかも忘れて、俺の女房になってさえいれば」


「そう、か」


「いえ、忘れて下さい。あの子の墓に、これを」


 小男が取り出したのは、指輪であった。婚姻の際に、贈るものである。


「自分で渡せ」


「受け取らんでしょうから、姫様からお願いしますよ。あっしが、キレイな銭で買ったものです」


「意気地なしめが。で、これからどうする」


「やり残した仕事があります。姫様には大きな借りができました。入用の時は声をかけて下さい。仕事を終えたら、かけつけますよ」


「怖いヤツだ。名は?」


「……蛇蝎のウドと申します。では、これにて」


 音もなく、ウドは闇に消えた。



 かの汚職に関わっていたとされる者たちが、謎の死を遂げるのは三日後のことであった。

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