第2話 大森林

 奇矯な旅であった。


 大病を患ったはずの侯爵家の姫が、学院へ入学する。

 侯爵領より帝都までは二週間の道程である。

 学院への入学は、侯爵家の姫が社交界に正式に出るという意味合いもあり、本来であれば一門の家臣若衆による行列で幾つかの領を陸路で抜けるものだ。実際に、姫の弟に当たる侯爵家の嫡子が入学に赴く時など、街道は祭りのようであった。

 宿場の娘たちは、一目で恋に落ちて側室に、などという夢を見て着飾って行列の見物に並び、子供たちは勇壮な騎士に憧れの篭った熱い瞳を向ける。

 若い騎士と恋に落ちる宿場の娘というのは珍しいことでもなく、貴族の次男坊以下であれば、平民の娘と結婚するというのもよくある話だった。


 大病を患い二目と見られなくなったサリヴァン侯爵家の姫。


 この話は民草にまで広く流布した噂話だ。

 侯爵領のどこかに幽閉された姫は、奇怪な病によって人食いの怪物になっているとか、生きながら腐る病で侯爵家の罪を贖っているとか。好き放題な言われようである。


 この噂は当のサリヴァン侯爵家が流布したものであった。


 政敵に娘の不在を知られるのを由としないため、あえて口に出すのも憚られる噂を流した。

 侯爵に対して、ことの真偽をそのまま確かめるとなれば「理由」が必要であった。なぜなら、このような噂話を耳に入れるだけで不敬とされる。不興を買うだけに止まらず、侯爵家に対する侮辱であると話が大きくなれば、それこそ戦になってもおかしくない。

 あえてそれを狙ってのものである。


 人の口に戸は立てられぬ。

 病魔によって醜女に成り果てた人食いの姫。

 帝都へ行くため街に近づいている。などという噂が流れていた。



 聖女の林道を抜ければ、三日ほどで帝都へたどり着く。

 エルフが実効支配している非公式自治領である大森林は、東西に抜けるだけで四日はかかる広大な森林である。

 この巨大な森には、エルフを始めとした多くの亜人と魔獣が潜んでいる。


 数百年前、聖女アメントリルがエルフと講和を成立させ、大森林を抜ける林道を整備した。

 東西南北に大森林を抜ける林道が整備されており、林道を通りさえすれば亜人や獣の害はほぼ存在しない。

 聖女の加護により、林道には悪しき魔獣は侵入できないからだ。 

 さらに、森林警備のエルフたちが、定期的に森の見回りをしている。


 林道には宿場が点在しており、どれも小さなものばかりだが行き倒れることもない。

 安全な道ではあるのだが、馬車一台分がやっとの道幅と交易路から外れているため商用輸送には向かない。

 火急の用がなければ行商人も通らないといった場所である。それでも、学院へ向かう下級貴族の子息であれば路銀節約のために通るということもあった。

 そのようなことから、侯爵家の姫が通るはずもない道であった。


 リリー・ミール・サリヴァンは馬に跨って林道を進んでいた。


 大森林のむせ返るような草いきれは、春を目前に控えた大地の生命力に満ちている。

 『息吹』と呼ばれる呼吸法により、その生命力を体に取り込む。


 宿場を発って、夕暮れまでには大森林を抜けられるというところで、茂みから殺気を感じて馬から飛び降りた。


 転がって着地し、すぐさま立ち上がれば乗っていた馬は巨大な虎に首を引き裂かれているではないか。


「面妖な……」


 あまりに巨大な虎であった。

 虎は強い生き物である。しかし、馬を好んで襲うことはない。それに、牛ほどの大きさに育つこともない。

 

 リリーは虎と相対して、剣を正眼に構えた。

 ざわざわと、森が鳴く。木立より鳥が飛び立つのと同時に、馬の血をすするのをやめて虎はリリーに振り返った。


「グォ・イ・ルークゥ」


 虎は言葉を発した。その意味は分からぬが、鳴き声ではない。呪いを叩きつけられかのような、怖気のする奇怪な声であった。


「きえええぃっ」


 リリーの気合の声が、豪と響いた。大声は全身に襲い来る不快な念を霧散させ、闘志を漲らせた。

 リリーの殺意に対して、虎は口角を上げて嗤う。


「虎ではないな」


「ジャ・トゥー・レ・シヴォー」


 虎は人間の女をいたぶることを想起して嗤っていた。今まで食らってきた長耳も、雌の方が柔らかく美味かった。

 リリーは剣を鞘に納め、背負っていた木刀を代わりに手に取った。

 師のように、鉄の剣に息吹を自在に乗せられる腕前には至っていない。


「グァ・クゥ・シャ」


「悪意ある言葉であるのは分かるよ」


 師より譲り受けた木刀には、リリーと師と、それ以前の使い手の『息吹』が宿る。


 魔物の類か。


 師と共に倒したことのある魔物と姿形は違えど、その存在の形は似ていた。自然の理から逸脱したモノ、それは魔物である。故に、リリーの剣もまた、魔剣である。

 虎がおどりかかる瞬間、リリーの口から奇怪な音が漏れた。遊牧の民が独自に発展させたホーミーと呼ばれる歌によく似た音である。


 虎の爪と牙は、空を斬った。外しようがない間合いで、自分の身体がいうこときかずに、見当違いの方向に動いたのだ。そして、何も見えなくなった。


 リリーの木刀が、虎の頭蓋を砕く。


 木刀に乗った息吹が、虎の頭を砕くと同時に、全身の肉体に伝播する。息吹呼吸は一撃で肉体を内側から破壊する。

 ぐらりと、虎はその場に倒れ伏した。


 呼吸を整えて、リリーは油断なく虎を見据えた。魔物であれば、ここからさらに立ち上がってもおかしくない。

 背後の気配に対して、リリーは何もしなかった。

 残身のままであるリリーの頬を掠めたのは、背後から品たれた弓矢だ。通り過ぎた矢は、虎の額を射抜く。びくん、と虎の身体が痙攣して、全身からひどい匂いの煙を上げ始めた。


「見させてもらったが、凄まじい腕だな」


 背後の気配は、声もかけずに射ったことについては謝罪する気はないらしい。


「貴公こそ、気取けどらせずに射るとは」


 振り向けば、リリーより少し背の高い男が、林道の木から飛び降りている所だった。


「エルフ、であるか」


 リリーは楽しげに笑った。

 初めて見るものが珍しい。故に笑みが浮かぶ。子供じみた笑みだ。


「長耳を見るのは初めてか、益荒男ますらおよ」


 エルフの男は、頭巾とマスクで頭部を隠しているためその瞳しか見えない。虎のような黄色い瞳だった。


「男ではない」


「分かっているが、そう呼ぶべきだろう」


「貴公ほどの射手に言われるとむず痒いね。これは、魔物か?」


「ああ、少し前に、裂け目から現れた悪魔に憑依された。手こずると思っていたが、キコウのお蔭で助かった」


 キコウ、とどこか皮肉げにエルフは言う。


「エルフ様にはどのように話したらいいのか。わたくしには測りかねます」


「ハハハ、似合わんよ。貴公なんて言われると、ケツが痒くなっちまって、な。茶化すつもりはなかった。俺はル・ファン氏族のリッドだ。名を交換してくれるか、見目麗しい益荒男よ」


「エルフというのは、もっと神秘的なものだと思っていたよ。リリー・ミール・サリヴァン。侯爵家の人食い姫と噂されている」


 エルフは顔を綻ばせたようだ。目だけしか晒していなくても、それと分かる。


「嘘ではないか。人の姫君というのは、こんなに強いものなのか?」


「私は変わり者だよ」


「だろうな。人食い姫よ、こいつの皮はどうする?」


「虎の皮は、腰につけると落ち着く。前にも持っていたが家族には評判が悪くて、取り上げられてしまってな。代わりがあれば助かる。残りはリッドが使うといい」


「……俺はトドメを刺しただけだ。貰いすぎだろう」


「肉は食えそうにない。皮のなめしをリッドの氏族に頼めるか。あっちにいるだろう」


「気づいていたか。あれは未熟でな、下がらせていた。重ねての非礼を詫びる」


「お前ほどの男が卑劣な行いはしないだろう」


 リッドは頭巾とマスクを外した。

 灰色の髪の偉丈夫である。どこか、気さくな雰囲気があった。


「さしたるものはないが、村に招待しよう。益荒男よ、今日の宿は決まっていないだろう?」


 こんな所に宿など無い。宿場もかなり先だ。もったいぶったことを言う男である。


「ありがたく受け取ろう。益荒男はよして、淑女と呼んでくれないか」


「姫様、エスコートさせていただきましょうか?」


 諧謔かいぎゃくを好むエルフの案内で、村に三か月ほど逗留することになった。

 入学式には間に合わないが、仕方あるまい。



 リリーは知らぬことだが、エルフの村に招待された人間は聖女以来である。



 エルフの村について、入学が遅れる旨の手紙を侯爵家と学院の両方に送ることになった。

 一人旅に対して母上が最後まで反対していたこともあり、捜索隊が出る騒ぎにはしたくなかったからだ。


 村は牧歌的で、エルフたちは総じて弓が上手い。

 リッドほどの射手は大森林でも数人ということだが、子供から大人まで弓が上手かった。故に、手ほどきを受けることにしたのだ。


 師匠から弓の引き方は教えられていたが、概要を知る程度である。子供たちに混じり、老練のエルフから弓を習う。

 リッドは「教えるのは年寄りの仕事だ」と、リリーを狩りに誘うことはあったが手ほどきをすることはなかった。それも当然であろう。

 武人なのだ。高めあうのは戦いの中で行いたい。種族は違えども、リリーとリッドは血気溢れる若い年頃であった。



 死合しあうことはなかったが、リッドとは何度も魔物を狩りに出た。

 そのさなか、エルフたちが「裂け目」と呼ぶものを見ることができた。

 林道で死した者たちの無念が集まり、異界の道を開く。それは、真っ青な光の渦である。そこから這い出すのは、半透明の悪鬼だ。

 剣と弓。

 互いに背中を合わせて、裂け目より這い出る悪鬼を討つ。

 獣や人に取り憑いたものを倒すこともあった。

 得物(えもの)は違えど、同等の技量。高めあうことに、リリーとリッドは知らず笑みを浮かべのであった。



 リッドはある時、リリーに壺を貸してくれと頼まれた。

 古くなった水瓶を軒に放置していたので、それを渡したところひどく喜ばれた。


「そんなもので何をする」


「鍛錬だよ」


「見ていいか?」


「……そうだな。気が散ると危ないから、少し離れた所か木の上からなら」


「面白そうだ」


 リリーは自分の背丈ほどもある水瓶の前で、靴を脱いだ。そして、ぴょんと飛んで水瓶の縁に乗る。

 木刀を用いた剣舞が始まる。

 壺の上で踊る姫。

 『息吹』にて森と一体となる。

 まるで、エルフのお伽噺にある精霊の女神のようだと、リッドは思った。



 老練のエルフは、『息吹』を使う人間に会ったのは三百年ぶりだと言った。

 森と共に生きるエルフは、自然そのものに溶け込む『息吹』に対して、敬意は払うが自らが行うべきでないと考えている。


 一般に肉は食べないとされるエルフだが、普通に肉も食べた。それは森のエルフではなく、天のエルフという伝説の存在のことだけらしい。


「ふむ、見事。その腕前ならば、弓を扱えると言ってよかろう」


「ご師事させて頂いたこと、忘れません」


「なに、堕ちたるスーリヤを大地に還した礼よ。かしこまる必要は無い。もしも、人の世に飽きたらまた来られるが良い」


 老練のエルフは真剣そのものの顔で言った。スーリヤ、エルフの古い言葉で虎の王を示す。


「旅することがあれば立ち寄ります」


「……うむ、歓迎しよう」


 老練のエルフはそう言って、最後の修練を締めくくった。


 人に産まれたのが惜しいほどの才である。だが、剣ほどの才は無い。いや、彼女にとって剣は特別なのだろう。だからこそ、弓にどれだけの才があっても身命を賭すに当たらない。

 だとしても、彼女が一つを極めるための一助となるのならば、秘伝を教えるのも悪くない。誇り高い老練のエルフはそう思った。




 出立の日、「残れ」とエルフの皆が強く言った。

 村に居ついて欲しい、とエルフの誰しもが思っていた。

 リッドはそうしないことが分かっているのか、別れの時だというのに姿を見せなかった。照れ屋な彼らしいとリリーは思った。


 村を出る時、蹄の音が鳴った。


 駆けてきたのは、人が乗れるほどの大きな鹿である。鹿の上には、リッドが跨っていた。


「リリー、餞別だ。受け取れ」

 

 リッドは嫌がる鹿から振り落とされる寸前に自分から飛び降りて言った。

 周りのエルフから「スーガ・ハラ」「マーリロイ」とエルフ古語で驚きの声が漏れる。

 紫色の体毛にオレンジのラインが入った馬より大きい鹿であった。立派な角が横に伸びている。


「ふむ、立派な鹿だが、いいのか?」


「ああ、お前のために捕まえた。名前は俺が付けたんだが、よかったか」


「いいさ。なんという名前だい?」


「ミラールだ。受け取ってくれ」


 リリーがミラールの頭を一撫で。るぶう、と啼いた。気性は荒いようだが、リリーの言うことを利くのはやぶさかではないようだ。


 リッドが撫でようとすると、ミラールは彼を蹴り上げようとした。が、リッドは猫のような身のこなしでそれをかわす。ミラールの鼻息が荒くなった。


「じゃじゃ馬。いや、じゃじゃ鹿だね」


「ははは、リリーほどじゃないさ」


 リリーが跨る時には、ミラールは暴れる素振りすら見せない。

 馬より乗りにくいのは確実だが、力強さと毛の柔らかさは気に入った。なんとはなしに、運命的なものすら感じる。


「リッド、ありがとう。とても良い鹿だよ」


「なあに、あんたの笑顔が見たかったのさ。また、来てくれ」


「ああ、では、各々方おのおのがた、お達者で」


 大鹿ミラールに跨って馬の要領で駆けだすと、エルフたちから歓声が上がった。別れの日だというのに、祭りのような明るさであった。


 大きな虎の毛皮を腰に巻いた姫が、大鹿に乗って旅立つ。

 姫君には奇矯な旅路である。が、人食い姫と呼ばれるなら、このくらいの諧謔が望ましい。

 リリーはリッドの諧謔クセが伝染したかな、と口元に笑みを刻んだ。





 老練のエルフは、手に持っていた弓で、ぴしゃりとリッドの尻を叩いた。


「この小僧めが。スーガ・ハラとマーリロイの儀をなんと心得る」


「親父、俺は本気だ。言葉は足りなかったが、諒解りょうかいは貰ったぜ」


 マーリロイ、とはエルフの古語で『婚儀』を意味する。

 スーガ・ハラと呼ばれる騎乗鹿は、違う氏族の女性に結婚を申し込む際に必要な貢物だ。

 

 スーガ・ハラを送るのは、命をかける試練でもあった。

 あれほどの大鹿を手懐けるなど、エルフの歴史でも偉業として語り継がれようというものである。

 婚姻を認める聖獣とされるスーガ・ハラが、どちらかを、あるいはどちらもを乗せない場合は、婚儀は精霊に認められないとして執り行われない。


「なれば、今から追いかけて嫁にせよ」


「いや、そいつは無理だ。姫様を頂くには、人間のやり方で偉くならなきゃいけない。冒険者になって、名前を売るさ。森を出るよ、親父」


「……馬鹿息子めが。いつまで儂を現役でいさせるつもりだ」


「なに、もう少しの間さ」


 この後、リッドは英雄として大成する。

 後の世で、森を出る切っ掛けは大いに誇張されて語られる。そんな、伝説の幕開けの日であった。

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