壺の上で踊る
海老
旅の始まり
第1話 師匠
壺の上で女が踊る。
リリー・ミール・サリヴァン侯爵令嬢は口を開けてそれを見ていた。
リリーの齢五つのお祝いに招かれた異国のサーカス。その護衛が大きな壺の上で、剣舞を魅せていた。
粗末な貫頭衣を着た女は、壺の縁で踊る。銀色の刃は確実に、そこにいないはずの敵を斬り伏せている。
戯れに、芸人でもない女に命じたダンス。
領主が悪意で命じたはずのそれは、しんとホールにいる誰もが静まり返るほどの荘厳な盛り上がりをみせていた。
肌の浅黒いサーカス団員とはまた違う、鼻の低い異国の女は、これまた見たことのない細身の剣をゆらりゆらりと、虚空の鬼を斬り伏せるように舞う。
リリーの目には、半透明の鬼が見えていた。
壺の上で女が舞い始めた時にはざわざわした感触だけだったが、今なら分かる。魅入られた人々の口や背中から鬼が這い出して、女に牙を剥いているのだ。
半透明の恐ろしい鬼を、リリーが恐ろしく思ったのは、ほんの少しの間だけだ。
鬼は悲鳴のような声を上げて女に向かい、斬り伏せられる。
あれは、きっと神様だ。
リリーは口を開けたまま、うっとりと女神の剣舞に見惚れていた。
いつしかサーカス団の浅黒い肌の団員たちは、膝をついて祈りの言葉を囁いている。「カリ=ラ」「ハリ・カリ=ラ」と。
カリ=ラの娘
序
凄腕の護衛だという女が侯爵に対して出した条件は大きいが、その場にいた誰もがそれを安い対価だと認識していた。
サーカス団に、信頼のおける傭兵団を護衛としてつけること。
女は腕を鈍らせないためだと言って、屋敷の中庭で剣を振るうことがあった。
騎士のものとは違った独特の鍛錬であった。
邪魔をしてはいけないと言い含められているため、近くで見ることは許されない。侯爵は自室を、中庭を見下ろせる位置に変えて、それを見ることを許された。
異国女に誑かされたと憤る侯爵夫人は、夫に勧められてそれを見ると何も言わなくなり、二人きりで女の鍛錬を見つめるのが日課になった。
侯爵家の姫君であるリリーもまた、両親と共にそれを見たかったが、両親は鍛錬が終わるとリリーを侍女に任せて寝かしつけようとする。もう少し両親と共にいたかったが、そわそわした二人は、いつも侍女のアンナに任せると大人同士のお話をしてしまう。
リリーは少し寂しかったが、両親が仲直りしたという喜びが勝っていたため、駄々をこねようとはしなかった。
女が屋敷に住み着いて半年。
吝嗇家の好色男と名高かったサリヴァン侯爵は、奥方を連れてパーティーに出席することが増えた。そして、仲睦まじい様子で周囲を驚かせた。
傲慢な娘であると知られていたリリーもまた、両親によく懐き、使用人を鞭で打ち据えるようなこともなくなっていた。
識者で有名なローフィット伯爵は、形だけでないと貴族故の審美眼でそれを見抜き、ひどく驚いていた。なにしろ、帝国で第一の権勢を得ていた男から、棘が消えつつあったからだ。
人として見れば、サリヴァン侯爵は良き方向へ進んだはずだ。だが、善良さを弱さと見る者は少なからずいる。だからこそ、その事件は起きた。
リリーがかどわかされた。
脅迫の手紙には、北部地方の街道整備事業から撤退しろ、との文言と、リリーのお気に入りのペンダントが同封されていた。皇帝陛下に事業断念さえ告げれば、リリーを返すと締められている。
侯爵夫妻が激昂するさ中、護衛の女が「任されよ」と言葉を発した。
普段自分から言葉を発さないほど無口な女が、感情を出すことは滅多に無い。故に、怒りを含んだ目に、侯爵の激昂は飲み込まれた。
女はリリーのお気に入りのペンダントを手に取ると、小さく何事か異国の言葉をつぶやいた。後は、馬を借りて屋敷を出た。
怒りに満ちた女は、まるで、伝説にあるこの世の終わりに現れるという地獄の騎士のようであった。
リリーは忘れない。
女の刀が魔法のように男たちを斬り伏せていった日のことを。
血煙の中で舞う神様のことを。
二十数名の山賊に化けていた細作は、全てなます斬りにされた。
手加減ができず汚い殺し方になった、と、毒矢を受けて伏せっている女は言った。
致死毒であると宣告されても、女は何も慌てた素振りはなかった。サウナ風呂を借りて、一度煮立てた水と、幾つかの薬草を手配するよう頼むと、十日ばかり風呂に篭った。
リリーはなんとかしてお礼がしたいと頼み込み、何度が熱い湯の入った薬缶を運ぶ役目についた。
鼻のスースーする奇妙な匂いのするサウナ風呂から、ひどくやつれた女の手が薬缶を受け取る。
何か言おうとして、リリーの口から言葉は出ない。逡巡の後、自身の頭の上に乗せられた手のひらが、遠慮するかのような手つきで動いた。頭を撫でられたのだと分かるのに、少し時間がかかった。
十日の後、ひどくやつれていたが、女は致死毒を克服した。
侯爵家の者は英雄の凱旋に湧いたが、女は「護衛は勤められん」と言った。
毒を乗り越えて命は助かったが、以前のように動けるかは分からないという。侯爵は、せめて療養は当家で訴えた。
「感謝する」
と、女は礼を言った。
女は壺の上で踊れなくなった。その代わりに、ゆったりと地面で弧を描くように風変わりなダンスを踊る。
顔色も戻り、痩せていた肌に張を取り戻してからも、女は壺の上で舞うことはなかった。
力を失ったと女は言うが、それでも護衛としての仕事を続けるのに支障はなかった。だが、それでもここぞという時には冒険者ギルドから自分以外の護衛を呼ぶよう頼むことがあった。
政争において放たれる一流以上の暗殺者と相対して勝てる確証が無い、と女は寂しそうに言った。
侯爵家にとっての恩人である女は、幾度か家を出ようとしたがその度にリリーの泣き落としに根負けしている。
リリーは淑女になると決めていたが、今では「女」のようになりたいとさえ願っていた。だからこそ、必然であったのかも知れない。
◆
「今から、痛いと言ってもやめないよ」
「はい」
頬を張られて、涙目になったけれど、リリーは我慢する。
「いいよ、今から師匠と呼ぶように」
◆
侯爵夫妻が止めるのを聞かず、リリーは女の弟子になった。
最初の練習はただ歩くことだった。
地面に引かれた円にそって歩くだけ。歩き方を叩かれながら覚える。泣いたこともあって、辞めると叫んだこともあって、お父様に言いつけると言ったこともあった。
女はそれでも辞めさせない。
女の作る料理を食べて、女の話を聴く。
冒険の話、心の話、時には女の恋の話もあった。
十歳になったころに、本格的に令嬢の修行をしなさいと言われても、辞めなかった。
「令嬢の修行もしなさい」
女の問いかけに、いやです、と答えれば、女は小さく笑った。
「どうして、こんなことをしても幸せにはなれないよ」
師匠みたいになりたいって思ったの。
ひどく女は驚いた顔をして、泣き笑いのような顔をした。
「そうか、お前が私の運命であったか。令嬢の修行をして、その後で教えよう。時間がある時は歩法をやりなさい。それから、これをあげよう」
女は一振りの木刀を渡した。
それは、女が鍛錬の時に使っている木刀である。
「ああ、それから、今日からは『息吹』を教える」
弟子として認められたと、リリーは喜んだ。
◆
十四歳になったリリーと女はとある山にいた。
深山幽谷と呼んで差し支えないだろう。
リリーは奇妙な自身の吐息に、ひどく不思議な気持ちになった。師匠に出会わなければ、このような山奥の空気も、たき火の暖かさも知らずに過ごしていたはずだ。
沢に降りて、魚をとっている最中にそのようなことを考えて集中が乱れた。足元にいた魚が逃げていく。
いけない、と思ってもう一度『息吹』を戻して、深山の気配に同化していく。
しばし待つと、足元に魚が寄ってきた。
手に持っていた串を投げて、よく育ったフィーラという魚を四匹捕った。寸分違わずという具合にはいかず、何匹かはまだ跳ねていたが、無事に今日の食事を狩ることができた。
壺の上で少しずつ踊れるようになれている。
でも、まだ足りない。
師匠のように、女のようには踊れない。
山奥での修業は今日で一年が過ぎようとしていた。誘拐、もしくは家出のような形で師匠と二人で屋敷を出奔した。
名も知らぬ山での生活は苦しくもあったが、今では楽しいと思えるほどになっていた。
魔物や動物を倒して、肉を取るということ。野に生える草を食べるということ。虫と蛇も食べた。
山というものと一体化する『息吹』の業。
「修行を始めて十年、お前がずっと積み重ねてきたからこそ、できるのだ」
女は、そう言った。
命の尊さとは何か、生と死の関係。女はまだ何も理解できていないと言う。だが、この山にいるとそれを少しだけ分かった気になれるとも言う。
◆
「よくぞ、この十年に渡り着いてきた」
真っ青な月の下、異形の剣と木刀が交差する。
女は真剣を持ち、リリーは木刀である。
ルールは一つだけ、一太刀でも浴びせよ。
できなければ、リリーは死なねばならぬ。
なんでっ、こんなことっ。
「無駄口はよせ。呼吸を乱すな。今の私であれば、お前にも斬れる」
毒を受けてから弱くなった、と女は言う。
いやだいやだいやだ。怖い。
「それでも、我が弟子かっ」
初めて聴くいらだった声。
女の息吹が乱れる。
咳き込むと、真っ黒な血が漏れていた。
「時間が無いのだ」
ああ、やらねばならない。
月に照らされて、小さく笑みを浮かべた師に、リリーはそう感じた。
息吹の乱れている今が好機。だが、それはきっと罠だ。
剣とはどれほど卑怯でも良い。と師は何度も言った。
足に力を入れて、息吹を整える。
師は、女は何事もなかったかのように、苦しげな芝居をやめて剣を下段に構えた。
「よくぞ、見た」
はい。
あの日、血煙の中にいた女。
どれほど美しかったか。そして、どれほど恐ろしかったか。
自然に体が動いた。
倒れたのは、女であった。
「私は、お前に会うために産まれたのだ」
師匠、師匠、師匠。
死なないで下さい。
「お前の前には様々な運命が悪意と共にやって来るだろう。だが、その全てを倒せるだけのことを教えたつもりだ」
ああ、なんでこんな体で。
こんな体でどうして。
「私は死して故郷に帰れる。リリー、お前に会えてよかった」
もっと、もっとたくさん一緒にいたかった。
「運命を憎んでいたよ。寄る辺ない世界で、ただ一人……」
お願いです。
かみさまっ、わたしのかみさま。
「リリー、幸せにおなり。そのために私の命はあったのだ」
女は満足げに笑った。
最後に、何か異国の言葉をつぶやいて、微笑んで逝った。
◆
リリー・ミール・サリヴァンが侯爵家に戻ったのは、出奔より二年後のことである。
自らの足で屋敷に戻った時、両親は様々な感情を忘れて、リリーに見惚れた。
流した髪を括っただけの姿も、母親似の顔立ちも、薄汚れていたが娘のもので、だけど、その相貌に宿る一種独特の『何か』はあの女のものと似ていた。
傭兵が着るような服を着て、腰には虎の毛皮を巻いていた。額には鉢金(はちがね)をつけて、背には木刀を背負っている。
「父上、母上、ただ今戻りました。お叱りは如何様にも」
母は言葉を失くしていたが、父は違った。
「立派になった。だが、長女としては迎えられぬ。大病を患ったとして、家督は譲れぬ。……だが、よくそこまで、我をもってして言葉が無い」
それは賞賛であった。
侯爵家は宮廷だけで過ごすものではない。
広大な領地を纏めるには軍家、武家の側面を持つ。故に、あの『女』の後継と成ったことが侯爵には分かった。
「父上と、まだ呼ばせて頂けますか」
「ふ、ふふ、我が家の紋章には鷹がある。鷹が龍を生んだか。リリー、わたしの可愛いリリーよ。たとえ、お前が龍と成ってもわが娘であることは変わらぬ」
おいおい、と親子は声を上げて哭いた。
リリー・ミール・サリヴァンが学院に通うのはしばらく先のことだ。
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