3

 嵐は放課後にやって来た。

 帰りのホームルームが終わり、先生が教室を出た途端、芦田あしださんたちは久野くのさんを取り囲んだ。

「邪魔なんだけど」と久野さんは押しのけようとするが、逆に女生徒たちの壁に押し込まれてしまう。

「邪魔なのはあんただよ」という芦田さんの声に続いて、鈍い音が聞こえた。うずくまる久野さんの姿が見える。

 殴ったんだ。偶然ではなく故意によるものなのは、嘲笑が物語っていた。理不尽な怒りが爆発して、彼女たちは暴力に訴えはじめたのだ。

 芦田さんたちは容赦なく、久野さんを蹴る。それはもう、いじめではなくただのリンチだ。そうやって暴行に興じる彼女たちの影が、怪物のように見える。事実、それは人の心を貪る化け物に違いなかった。

 あまりにも突然で凄惨な光景に、放心して眺めていた。それはクラスメイトも同じだった。芦田さんが視線に気づいて、こちらを見回す。

「見てんじゃねえよ」

 鬼のような形相だ。蜘蛛の子を散らすようにクラスメイトたちは、教室を去っていく。その波に扉前まで押し流されたが、外に出るのだけは踏みとどまった。久野さんを助けなきゃいけない。けれども、足がすくんで動けない。怖かった。ここで止めに行けば間違いなく、その矛先が自分にも向けられる。もうきっと、まともに学校生活を送るのは難しくなるだろう。心が、体が、小さくなる。

「別に助けなくたっていいじゃないか」

 誰かが僕の肩を叩いた。それは紛れもなく僕だ。いや、僕の姿をかたどった弱い心の代弁者だ。そいつが僕に「逃げろ」と囁きかける。

「でも、久野さんがつらい目に」

「久野さんも、忘れろって言ってたじゃないか」

「だからって、見ないふりはできないよ」

 代弁者は「なにをいまさら」と大きな声で笑った。

「今までだってそうしてきただろう」

 言葉を失う。

 そうだ。落書きの現場を目撃したとき、なにをしようとしたか。怯えて逃げようとしたじゃないか。僕は、今まで久野さんを助けようなんて、微塵も考えなかった。我が身可愛さに縮こまる、醜く惨めで情けなくて弱いオジギソウだ。

 足が動いた。教室の外へと一歩一歩近づく。

 悔しさが目からあふれて頬を伝う。「ごめん」と謝罪の言葉が口をついて出る。でも、しかたがないはずなんだ。僕じゃ敵うはずがなくて、焼け石に水だ。自分の身だけでも守っていいじゃないか。他の皆だって一目散に逃げたんだ。誰も僕を責められやしない。

 だから、いいんだ。

 扉に手をかける。そのまま立ち去る後ろめたさから、振り返った。

「なんか言えよ」「さっさと泣きな」「ムカつくんだよ」

 芦田さんたちの暴力は止むことなく続いている。久野さんは小さく丸まって耐えている。

「あっ」

 久野さんの体が透けていた。錯覚と思えるほどに、少しだけ薄らいでいた。それがなにを意味するかなんてわかっている。

 その瞬間、頭が真っ白になった。恐怖も、保身も、悲嘆も、一切合切がなくなって、代わりに一度手放した「久野さんを助けたい」という思いが胸中に舞い戻る。心の奥底で小さく燻っていた炎が、大きく燃え上がった。体中を駆け巡る熱が血を滾らせる。心で燃えるこの炎は、体に広がるこの熱は、僕が失っていたはずの強さだ。

 扉から手を離す。

「おい、やめとけよ」と、もうひとりの僕が言った。

「うるさい」

「助ける理由ないだろ」

「あるよ」

「そんなの――」

「久野さんが泣いているんだ」

 歩きだす。後ろでもうひとりの僕がなにかを喚いているけれど、どうでもよかった。そんなのただの戯言だ。ただの言いわけだ。僕はもう逃げない。

 芦田さんたちに近づく。彼女たちは僕に気づいた様子はなく、今もなお久野さんを蹴り続けていた。

「やめなよ!」

 思ったより情けない声に自分でも驚いたが、彼女たちの手を止めることはできた。驚きは、すぐに冷笑へと変わる。

「は? なに?」

 芦田さんがこちらに迫る。体は僕のほうが大きいはずなのに、彼女の存在が巨大に感じる。けれどもう、喉を締めつけられるあの感覚はなかった。息を吸い込んだ。

「やめろって言ってんだよ!!」

 鳩尾に痛みが走り、息が強引に吐き出される。思わず、腹部を抑えて膝をつく。ボロボロになった久野さんと目が合った。

「オジギソウが生意気言ってんじゃねぇよ!」

 芦田さんの怒声を浴びる。けれども、こんな痛みや言葉では、僕の心の炎を消すことも、体の熱を冷ますことも、できやしない。久野さんが戦ってきたものはこんな程度じゃない。だから、音を上げるわけにはいかなかった。

 顔を上げ、睨み返す。芦田さんは窮鼠に噛まれた猫のような表情だ。ざまあみろ。

 頬を蹴りつけられた。すぐに体勢を戻して、芦田さんを見据える。鉄の味が口の中に広がる。追撃が来ても大丈夫なように歯を食いしばった。

 しかし、次の攻撃はなかった。

「あー、シラけた」

 そう言って、芦田さんたちは去っていった。

 教室には僕と久野さんだけが残されていた。体が震えた。それは遅れたやって来た恐怖ではなく、初めて自分の意志を貫けた喜びだ。勝った。負けたけど、勝ったんだ。

「よし」と拳を握りしめた。

「どうして……」

 小さく呻いた久野さんに慌てて駆け寄る。服や髪が乱れ、先程よりも姿が薄くなっていた。

「久野さん、大丈夫?」

 手を差し出す。久野さんも手を伸ばして――

――僕の手を払った。

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