2
わけがわからなかった。
幽霊の正体が
「いきなり頰を打ったこと、謝るわ。ごめんなさい」
「あ、い、いえ、別になんとも」
気迫に圧されてこちらが頭を下げてしまう。客観的に見たら謝罪しているのは僕のほうだろう。
「だから、オジギソウなんて言われるのよ」と、耳の痛い一言。
「そんなことより話って……」
久野さんは咳払いをしてから言った。
「今見たことは忘れて」
「透明になってたこと、だよね?」
「そうよ」
一番わけがわからないのがこれだった。超能力と言おうか、超常現象と言おうか、常識の範疇をはるかに超えている。そんなはずはないと思ったが、これに彼女は首肯した。
「正確には呪いかしら」
「呪い?」
「私は透明になる呪いがかけられてるの」
「それって、久野さんが泣いてたの関係ある?」
「私は泣いてない」
「え、でも、目が赤く--」
「夕日のせいよ」
食い気味の否定が入った。たしかに夕暮れ時だけど、それを除いても彼女の目が赤くなっているのは明白だ。
「うっすら涙の跡が--」
「雨が降ってるからよ」
それは無理がある。
「無理があったわ」
自覚があったようだ。
観念したように、久野さんはため息をついた。そして、毅然とした態度でこちらを見る。
「サンカヨウ」
「へ?」なにかの呪文か。
「花の名前。水に濡れると透明になるの」
「どう関係が」話が見えてこない。
「私はサンカヨウの呪いがかけられている」
「つまり、涙で濡れると透明になるってこと?」
「そういうことよ」
腑に落ちないけれど、理解はした。実際、目の当たりにした以上、信じざるを得ない。久野さんは泣いたとき透明になる。意外なことに、あの
いや違う。
気づいた。自分がどれだけ無神経かに、彼女がどうしていじめに平然だったかに、彼女がどんな状況でいたかに、気づいてしまった。彼女が今までされてきた仕打ちに平気そうだったのは、ただ平気なふりをしているだけだったのだろう。耐えて耐えて心の内に悲しみを溜め込んで、そうして誰もいなくなった教室でひっそりと泣いて、吐き出していたのだろう。そして、きっと、さっきまでの、あの凄惨ないじめを目撃していたに違いない。泣いて当然じゃないか。
「これで説明は終わり」と久野さんは席を立つ。まるで僕が悟ったことの追求を恐れているようだった。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「言ったでしょ。忘れてって」
睨まれて動けなくなる。扉をぴしゃりと閉める音が教室に響いた。
「忘れられるわけ、ないだろ……」
僕の言葉は受け取り手を失って、どこかへ消えた。
翌朝の教室は騒がしかった。
いつもは遅刻寸前の
久野さんが入ってきた瞬間、教室は静まり返る。いじめに加担しているものも、そうでないものも、クラスに居た全員が息を潜めて様子を伺うようなかたちで、久野さんに好奇の眼差しを向けていた。こっそり芦田グループを見やると、ニタニタとしたいやらしい笑みを浮かべて、そのときを今か今かと待ち受けていた。
しかし、久野さんはその期待を裏切るように、平然と席についた。
芦田さんの舌打ちが聞こえる。水面に落ちる水滴のように、音の波紋は徐々に広がり、教室がざわめく。
「平気とかヤバ」誰かが言った。別の誰かは「人の心あんのかよ」と言った。また別の誰かは「ロボットじゃん」と言った。きっと以前の僕なら同じことを思っただろう。でも、僕は知っている。今こうして、心ない声を一身に受けながらも動じない久野さんが、隠れて泣いていることを知ってしまっている。
だから、胸がこんなに締めつけられるんだ。痛くて痛くて張り裂けそうになる。傍から見ている僕ですらこんなにつらいのに、久野さんにとってはいったいどれだけのものなのか、想像がつかないし想像したくもなかった。そして、そう思ってもなお、怖がってなにもできずにただ見ているだけの自分が情けなかった。
その後の教室は、打って変わって落ち着いており、不気味とさえいってよかった。芦田さんたちが久野さんへの攻撃を一切しなかったためだ。けれども、クラスの全員が、張り詰めた空気を肌で感じていた。これは嵐の前の静けさに違いなかった。
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