サンカヨウが透明になるとき
柊八尋
1
最悪だ。
忘れ物に気づいたときもそう思った。けれども、今目の前に広がる光景のほうがよっぽど最悪だ。
「これ良くね?」「あたし、天才だわ」「ウケる」
姦しい下卑た笑い声が教室に響いている。とある机に群がる女生徒たちのものだ。転がる油性ペンの箱、鼻をつくシンナーの匂い、彼女らがやっていることは明白だった。机への落書き、つまりはいじめ、その対象がいないところで行われる陰湿な行為だ。
見なかったことにしよう。一步後ずさったときだ。
「あ~、オジギソウじゃん」
蔑称が呼ばれる。気づかれた。体が縮こまって釘付けになる。侮蔑を含んだ嘲笑が僕に突き刺さった。嫌な汗が吹き出し、心臓が激しく警鐘を鳴らす。
「あはっ、ほんとにちっさくなってる~」
不快な哄笑が耳をつんざく。「あはは」と乾いた笑いを浮かべて応じた。
女生徒の群れを率いる女王、
「なにしにきたの? 邪魔しにきたわけ?」
喉をきつく締め上げられるような感覚に陥り、ひゅっと息が漏れた。残った空気で声を絞り出す。
「い、いやっ、忘れ物を取りに……」
「さっさと取ればいいじゃん」
「だからっ、そのぉ」
僕には忘れ物が取れない事情がある。芦田さんはそれに気づいたようで、「あー」と納得し、大声で笑った。
「ごめん、ごめん! あたしが座ってるのオジギソウのだったね」
「お、お気になさらず」
「いいよ、ちょうど終わったところだし」
そう言って、彼女は僕の机から腰をおろし、他の子を引き連れて教室を出ていく。ほっと一息をつく寸前に、「あ、そうそう」と芦田さんが立ち止まったせいで、また体が硬直する。
「オジギソウもさっさと帰んなよ。幽霊が出るらしいしさ」
そうして、大笑いをしながら教室を出ていった。笑い声と足音が遠ざかったのを確認してから、大きく息を吐いた。死ぬかと思った。社会的に。
クラスという名の社会は、幼稚な価値観でできている。容姿をはじめとするステータスの高い生徒がクラスの実権を握り、気に入らないものは徹底的に淘汰される。立場の弱い僕のような生徒は、いつその対象になるかと怯えて日々を過ごさなければならず、どれだけバカにされようと小さく丸まって嵐が過ぎ去るのを待つ。悔しいけれど耐えるほうがマシだ。たとえ、
その思いは机の落書きを見て、よりいっそう強まる。
それは悪意の塊だった。非難、罵倒、侮蔑、ののしり、雑言、あらゆる誹謗中傷をバケツでぶちまけたような落書きは、呪詛めいた禍々しさを漂わせていた。
これはひどい。机の持ち主に同情の念を禁じえない。それでも、どこかで自分じゃなくてよかったと安堵する僕がいて、それがどうしようもなく惨めに感じた。後ろめたさから、ちらかったままの油性ペンを集めてしまう。こんなことしたって、喜ぶのは芦田さんたちのほうなのに、少しでも言い訳をしたがる自分に心底嫌気がさす。
けれどもきっと、僕のやましい憐憫も芦田さんたちの凄惨な落書きも、
変わったのは春の終わりだった。当時は序列二位に甘んじていた芦田さんの想い人が、久野さんに気があったようで、ちょっとした口論になった。といっても、芦田さんが一方的に身勝手な主張を並び立てるだけで、久野さんは「あんな男、みじんも興味ない」と一言。
これが引き金となった。自分の好きなものを貶すことは自分を貶すことと同義らしく、怒りに燃えた芦田さんは周囲の女子を味方につけた。元々、人心の掌握では芦田さんに利するところがあったようで、カースト上位の女性陣による一斉蜂起で芦田政権が誕生。久野さんは最下層へと転落し、いじめの対象になった。
しかし、久野さんの強さは伊達ではなかった。教科書を隠されようと、些細なことで野次られようと、露骨にハブられようと、彼女は眉一つ動かさずに何食わぬ顔で応じた。それが火に油を注ぎ、机の落書きへと転じたわけである。
罪滅ぼしの片付けを終え、忘れ物の回収も済ませ、さて帰ろうとしたとき、それは聞こえた。
少女のすすり泣く声。
辺りを見渡しても誰もいない。先程の芦田さんの言葉を思い出す。最近噂になっていた放課後の幽霊なんて、バカげた話だと思っていた。でも、今こうして声が聞こえる。
逃げ出そう。そこで気づく。これは芦田さんたちのイタズラではないだろうか。慌てる僕を見て笑いものにするため仕掛けたに違いない。だったら怖がることはない。むしろ仕掛けを暴いて鼻を明かしてやろうという気概が湧いてくる。
声の聞こえるほうへ近づく。音の発生源は教卓の下らしい。回り込んで見るが、仕掛けらしいものはない。ぱっと見じゃわからないように、裏に貼り付けているのだろうか。見た目は派手な癖に、中身は陰険な芦田さんならやりかねない。
手を伸ばした。
柔らかくて温かいものに触れる。
「この変態!」
瞬間、なにかに頬を打たれて、尻もちをついた。幽霊にビンタされたのか。幽霊は物理的に干渉するものなのか。唖然としていたら、目の前の空間がゆらぎ始める。いや、なにかが浮かび上がってきた。不透明度を徐々に上げるようにして、はっきりとした形を成す。
それは久野沙耶だった。
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