#7・・・魔法少女は逃げていた
強烈な光の中で彼は露出した。椅子にしばりつけられた姿は、血まみれのワイシャツにパンツ姿。その真下にはバケツが用意されていて、股間からシミになって垂れる生臭い小便がぼた、ぼた、と垂れていく。
ケネスは震えながら前をゆっくりと見た。猿ぐつわを噛まされているから呼吸はくぐもっていたし、後ろ手を縛られていた。だから逃げようとしてもますます拘束がきつくなるだけだった。更に、その太腿には帯状の赤い爛れが何箇所にも焼き付けられていた。
闇から、人影が近づいてきた。彼は気付いて、震えた。
「つまり君は、こちらの命令を無視してでも、名声を得ようとしたわけだ。しかしその結果がこれだ。部下の撤退、得られた成果はクソどうでもいい一般人の犠牲だけ。張り切ってみたはいいものの、彼女に対しては何にも出来ていない。そう、何にも」
カレルレンは穏やかな口調で語りかける。恐怖の顔がそこにあった。ゆっくりと微笑んで、取り出したもの――ドライヤー。電源を入れる。そして、出力を最大にして彼の太腿に押し付ける。
「んんんんんんん、むぐううううううう、むうううううううううう!!」
絶叫。暴れ狂うが逃げられない。焦げ臭いにおい。太腿が焼かれていく。小便が際限なく垂れる――様々な据えた臭が混合されて放射される。カレルレンは眉をひそめて言う。
「私は無添加の食品というものが嫌いでね、すぐに腐ってしまうからだ」
彼はドライヤーを離して床に置く。赤黒い刻印が新たに太腿に刻まれる。男は震えながら、荒く呼吸する。それを無視して、しゃがみこんで視線を合わせたまま続ける。
「だから多少の害は覚悟の上で、添加物が入った食品を絶対に摂るようにしている。しかし時折、その『多少』を超えた量の添加物を食ってしまうことがある。その時の胸糞悪さといえば筆舌に尽くしがたい。なぜか分かるか?」
後方に控えていた部下にサイン。猿ぐつわを外す。途端に、えづくような呼吸。顔中が汗と鼻水と涙でどろどろになっている。その状態で、答えさせる。
「は、腹を……壊しちまう、から……?」
腫れた唇の隣で、ピアッシングが揺れる。カレルレンは乾いた笑いを浮かべて続ける。
「ははは、そうとも、そうとも。無駄なもので、自分の腹具合がおかしくなっちまうのが我慢ならないからだ……今日の貴様の、やったことのようになっ!」
カレルレンは、豹変した――激昂して、そのみぞおちを殴りつけた。
くぐもった叫びが漏れて、吐瀉物が撒き散らされる。咳き込み、痙攣するケネス。それを見ながら、彼は長く、長く息を吐いて自らを強引に整える。ポケットから手袋を取り出して嵌める。後方で、赤髪の女が泣き叫び、暴れている。部下が必死に抑える――自我を破壊された彼女としては、自分の主人が残酷な目に遭っているように見えるのだ。
無視する、そして、手袋をつけた状態で、その腹を殴る。何度も、何度も。堤防が決壊したかのように。容赦なく、拳を叩き込む――衝動に身を任せながら。
「ふざけやがって、ふざけやがってっ! てめぇのやったことで、彼女のマナは必要以上に消費された! 今後の行動に大きな影響が出るわけだくそったれ、『メジェド』を殺して彼女に警告するだけで良かった、そうすれば彼女は自分からこっちに来るだろうからな……だが、そいつも更に遠くなった……このアホが、ボケがっ!」
合間に懇願するような声が漏れたが、彼は殴り続けた。そのたびに血が、吐瀉物が飛び散るが、無視をし続ける。言葉が単なる罵倒に変化し、徐々に息が切れて、その端に血が混じってきても彼はやめなかったが、そこに声がかかった。後ろの闇から。
「あー、お取り込み中悪いんですけど」
フルゴラだった。
カレルレンはうっそりと振り返り、また長く息を吐いた。そして、何事もなかったかのような笑顔を作ってみせた。周囲は唾を飲んだが、彼女は動じなかった。
「何かな」
「そこでおもらししてる奴が無駄にどんぱちしたことの意味、多少はあったかも」
何の感慨もなく指をさす。ケネスは身体を震わせて失禁を続けていた。
「ほう」
「そいつの部下がトンズラこいたあと、試したいことがあって、魔法を追加で撃ったんです。そしたら」
そこでフルゴラは説明した。
咄嗟に『ヴァルプルギス』が発動した防御魔法。一般人を守ったそれから得られた気づき。この状況に、重大なものをもたらす結果。
……説明を聞いたカレルレンの表情が、ゆっくりと喜色に染まっていった。同時に、先程まで湛えられていた怒りが、何事もなかったかのように洗い流されていた。
「その話、詳しく聞く必要があるな。奥で話そう」
部下に目配せして、身を翻す。
しかし、何かに気付いたように、急に振り返った。
それから、ケネスに言った。
「時に、君は子供が好きか?」
何事もなかったかのような、安穏とした口調。
男は戦慄をおぼえながらも、なんと答えるべきか考えた――しかし、もとより答えはどうでもよかったらしい。
カレルレンはしゃがみこみ、再び視線を合わせてきた。
「私は今、凄く冴えてる。アイデアが沸いたんだ。君の頑張りを無駄にしないためのアイデアがね」
そして彼は、一枚の写真を取り出し、見せた。
子供の写真。まだ小学校に通う年齢にも達していないだろう。
その傍らには、守るように、ヴァルプルギスが居る。
「この子を利用するんだ。そうして奴をおびき寄せる。もちろん、それだけじゃない。生えてしまった雑草は引き抜かなければならない、そうだろう? つまり。言いたいことは分かるね」
そうして彼は、ケネスの目の前で写真を引き裂いた。
ヴァルプルギスと――娘が、分かたれる。
当然、分かっている。彼が何をもくろんだのか。
彼が、何をするよう命じたのか。
このあどけない少女、その内側に眠る力に対して。
そうとも。雑草は必要ない。そして何よりも危険、危険だ。
思考が攪拌され、混ざり合いながら、一つの暗黒へと堕ちていく感覚。もう戻れない、やるしかない。
彼はうなずいた。何度も何度も。
カレルレンはその所作を見て納得し、手袋を床に捨てて身を翻した。そして、フルゴラとともに闇に消えていった。
床には、引き裂かれた写真が落ちている――ヴァルプルギスと、彼女の娘。
魔法少女は、死ななければならない。
たとえそれが、年端もいかぬ少女であっても。
◇
――お母さん、どこへ行くの。
――ここではない、どこか。もっといい、どこかよ。
――そこへは、いつ着くの。
――分からない。分からないのよ。
一階は既に何者かに蹂躙されていた。考えてみれば分かることだ。二階の寝床には侵入のしようが無いのだから、噂を嗅ぎつけた連中が最初に荒らすのはそこしかない。店内の棚は残らず引き倒され、ずたずたに破壊されている。そのうえで、壁面に赤字でスプレー落書き。もう見飽きた文字列。だが、ルッカに見せないように目を覆うのに苦労した。
――魔法少女死すべし。その悪魔の子もろともに。
娘の小さな手を握りながら、歩いていく。ここ一週間はずっと雨になると、ニュースで言っていた。足元で水たまりが跳ねる。すべての音がひとつになり、世界は青色になる。
どこかのラジオから音楽が流れている。陰鬱な低い声を持つフォークシンガーが、人生を悔いている。
――今日、私は自らに傷をつけた
――感覚があるかを確かめるために
――私は痛みを、見つめ続ける
――そう、これだけが、唯一の真実
歩いていく、逃げていく。セントラルという箱の中を。逃げ場がなくなるまで。
街中に張り紙、そして到るところでスピーカーが、張り紙が、電光掲示板が流し続けているメッセージ。
殺せ、殺せ。魔法少女を殺せ。そいつはここだ、この街に居る。今まで隠れ続けていた、正真正銘の卑怯者だ……。
雨が降り続いている。地面を叩きつける水の音以外、何も聞こえない――轟音の静寂。
ハイドは、保育園の扉の前で若い保育士と会話した。そして数分後、頭を下げ、踵を返した。ルッカが一瞬、扉の前に立つ彼女の方向をちらりと見た。
暗い職員室の中では、年老いた保育士が、懺悔するように頭を抱えている……。
顔を隠しながら、そのちいさなからだに体温を分け与えながら、歩き続けた。何度も、何度もルッカにわびた。
しかし彼女は、少しも不満を言わなかった。幼い娘は、どうしようもなく優しかった。自分と、夫が、かつてそうであってほしいと願ったとおりに。
「ごめんね」
そっと彼女を抱きしめて、言った。
「お母さんが、あなたを守らなきゃいけないのに」
ルッカは、母親を決して責めなかった。
そのかわり、雨に打たれ続ける街路を指さして、脈絡なく言った。
「おかあさん」
指差す方向を向いて、ルッカは言った。
「くるま……しょうとつする」
次の瞬間。
目の前で、行き交う二台の車が追突した。
轟音とともに衝撃が走り、通りはパニックに襲われる。人々が駆け寄っていく。こちら二人には気付いていない。情景に取り残されながら、ハイドはそれを見た。へしゃげたバンパー、砕けた窓ガラス。車体から、呻く運転手が引きずり出され、頬を叩かれる。誰かが救急車を呼んでいる。
世界は、安全にならない。人は簡単に傷つき、砕け散る。
その時、ハイドは、温め続けていた小さな決意が、鼓動を孕みながら膨れ上がっていくのを感じた。
ルッカを、ぎゅっと抱きしめる。戸惑いがちに、小さな腕が抱き返してくる。
生きている。この子は、生きている――私が居る限り。
その実感が、力を生んだ。
ハイドは、ひとつの決断を実行に移すことにした。
「カレルレン。聞こえているでしょう。そうよ、応じるわ……『取り引き』に。もとよりそれが、あなた達の望みだったはず」
◇
「あんた……」
雨の中、目の前に現れた女に対して男は戸惑った。
咄嗟に腹を守る姿勢をとったが、その必要がないことにも戸惑った。
あの時張り詰めていた殺気のようなものはなく、そこに居たのは一人の憔悴した女に過ぎなかった。
雨音で言葉は聞こえなかったが、その口が何を言ったのかは分かった。驚くほど謙虚な言葉だった。故に彼は、彼女にかつて受けた仕打ちも忘れて、階段下にいざなった。女が子供を連れていることに気づいたのは、通した後だった。
男の仲間たちもみな、アジトに現れた彼女に対して同じ反応を寄越した。
頭を下げている。ただひたすらに。そして沈黙している。傍らの少女は周囲を見ながら困惑しているようだった。
「そんなこと、急に言われてもな……」
仲間の一人が対応する。
「お願い、この子を預かって」
彼女は、懇願を続けた。黒い乱れた髪が前に垂れて、表情は見えなかった。しかしその声は、あの時とはっきり違った。弱々しく、余裕のない声。
「そりゃあ、」
「他に場所はない」
娘は彼女の手を離れて、アジトの中をうろつき始めた。そして、興味本位に色んなものを触ろうとしている。仲間がその対応に追われているが、持て余している。
「お願い、お願いよ」
彼女は、頭を下げる。何度も、何度も。
「そんな勝手があるかよ」
大男が前に出た。彼女をここに連れた男であり、かつて彼女に腹を殴られた男だった。
「あんたは俺達の協力を拒んだじゃねえか。それなのに追い回されてる今になって……」
女は言葉を聞いているのかいないのか、分からなかった。
震えながら、静かにその膝を地につける。土下座の姿勢になった。
バツが悪そうに頭をかきながら、なおも彼は続ける。
「それにだ、もし仮にここが危険にさらされたら、そりゃあんたの」
「マルコ。あんたそんなだから簡単にやられたの。すっこんでな」
遮って前に出たのは、ルシィだった。
マルコはなにか言いたげだったが、後ろに下がった。
「顔、上げてちょうだいよ。ヴァルプルギス……いや、『ハイド』」
その言葉を受けて、ハイドは顔を上げた。
無の表情……疲弊しきり、青ざめていた。思考の袋小路に追い詰められた顔だった。
それを見て、ルシィは瞳を揺るがせる。しばらく見つめ……その後、続けた。
「私。あなたにどういう感情を向けて良いのか分からない。はじめは憧れで、その次は苛立ちで……それで今は、戸惑いになってる。ひょっとすると、哀れみもある、かも」
彼女は返事をしなかったが、聞いていた。
「だから、一つだけ確かめさせて。あなた、何かやりに行く気でしょう」
頷きが返ってくる。嘘はついていない。ルシィには分かった。
「死にに行くんじゃ、ないよね?」
「……ルッカには。私しかいない」
それが、答えだった。
ルシィは納得したような顔になって、立ち上がる。
「やっぱ、そうじゃなくっちゃね。『ヴァルプルギス』」
「あれ? ジェスの野郎どこ行った?」
「トイレだとよ。あいつ期限切れのチリ食って腹壊したんだ」
ハイドもまた、立ち上がる。その目が訴えていた――『本当に、良いのか』。
「その子は、うちで預かる。約束する」
ルシィは母親の視線に気づいて、再び傍に寄った。
「……ありがとう、本当に」
「それ以上は頭下げないでよ。また混乱しちゃうじゃない」
ルシィは、眉を曲げて、困ったような笑顔を作って言った。
「だからさ、なにかするなら、とっとと行ってきてよ。私がついていったって、何の役にも立てそうにないから」
ハイドは、頷いた。
それから、しゃがみこんで、娘に視線を合わせて言った。
「ルッカ」
「おかあさん」
「ちょっと、出かけてくる。でも、必ず帰ってくる。だから、不安かもしれないけど。ここに居て。できる?」
小さな手を握る。
ルッカは、握り返してきた。
「じゃあ、おかあさん。やくそくして」
「……なぁに」
「かえってきたら。いっしょに、おうちにかえろうね」
ハイドは、虚を突かれたような表情になる。
憔悴の堤防が決壊して、涙が目をうるませた。
その体を抱きしめる。ぎゅっと、存在を、染み込ませるように。
「約束する。約束するわ。必ず、必ず……」
周囲の者たちは、呆れたような表情を浮かべていたが、どこか安堵していた。もうルシィの決定に対して、抵抗はなかった。
間もなく、ハイド――魔法少女『ヴァルプルギス』は身を翻し、『神聖同盟』のアジトを後にした。
ドアには自宅と同じように、防御魔法を掛けた。娘が守られるように。残酷な世界に、晒されずに済むように。
そして、雨の中に、飛び出した。
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