#5・・・魔法少女が懺悔した

 照明は牡蠣の身の色をしていた。

 ジュークボックスも何もなく、ドリンクの棚とレジスターを取り囲むカウンターと、その周辺に散らばる古びた座席のみ。

 ハイドは窓際の席に座って、コーヒーの一口目を啜ったところだった。

 無愛想な年かさの中年女が、伝票を座席に置いて去っていく。カウンターの奥では店主が煙草を吸っている。おそらく夫婦だろうが、そこに会話はなかった。

 車と風の音がほんの少しだけ聴こえる。店内には他に、口を開けて居眠りしている老人と、むっつりした顔でペーパーバックを読んでいる労務者風の男。ふたりとも常連客だろう。時折業務用のエアコンが不具合を風と共に訴える以外は、実に静かなものだった。

 自分以外の何にも関心がない空間――しかし、『だからこそ』ここが選ばれた。ハイドのよく知っている店だった。


 しばらく薄いコーヒーを啜っていると、席の向かいで観葉植物の葉がちらりと揺れたのが見えた。それを見て彼女は小さくため息をつき、言った。


「いつまで隠れてるつもり。ここでの臆病は私を苛立たせるだけ」


 すると、席の向かい側に――その姿が見えた。霞んでいた視界が像を結ぶかのように。


「いやぁ、ハイドちゃんにはかなわないデスね」


 眼鏡を掛けた小柄な少女が、そこにふと現れた。

 店の奥で中年女が一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにやめた。何も言わず入ってきた客としか思わなかったのだろう。

 しかしその認識自体が……既に、彼女の魔法によるものなのだ。


「ひさしぶりね、カレク。魔法少女『メジェド』」


 対面の少女は、目周りの紫のアイラインを光らせながら、微笑んだ。

 旧知の人間に会った時の、柔らかな笑みだった。



「……」


 彼女の魔法は強力だったが――そのぶん、燃費が馬鹿にならない。

 ハイドはそれを、今思い出していた。


「はぐっ、もぐっ、がっ、もふっ、あつっ、この、噛み切れなっ……げほっ、がふ」


 ……ステーキのかけらと肉汁が飛んできた。避けられなかった。

 不平を言おうにも、彼女――カレクは気付かないだろう。

 対面には、注文した大量の肉料理。副菜とライス、ドリンクも忘れない。薄い肉とマッシュポテトの盛り合わせだ――決して上等とは言えない。しかし、量があれば質を上回るのか、それとも彼女にとってはご馳走なのか。おそらく後者だろう。髪を振り乱し、頬をハムスターのように膨らませながら、彼女はひたすらに食らっていた。 周囲にデミグラスソースが飛び散り、モザイク模様を作っていく。時折咳き込み、そのたびにソーダ水を啜る。そしてまた肉に食らいつき、スープを飲む。店の奥で店主らしき男がこちらに殺気立った目を向けているのは、きっと気の所為ではないだろう。個人営業でなければ、超過勤務手当を欲しがっているはずだった。


 ハイドは、その食いっぷりを見続けていた。

 実に見苦しいものだったが、目を離すことはしなかった。そんな気になれなかった。


 カレク。魔法少女としての名は『メジェド』。

 透明化や認識改変を駆使して戦場を駆け巡った存在。現役時代のハイドも、その恩恵に預かったことがある。彼女は実に優秀なサポート役だった。彼女が居なければ勝利できなかった戦いも数多くあった。そして皆、彼女のことが好きだった。

 彼女は、優しかったからだ。決しておごらず、力に溺れることもなく。淡々と自分を見つめているような、透明な存在だったからだ。そう、逃亡して、姿を消すまでは。


 彼女は『グランド・マザー』が人類に宣戦布告をしてすぐに、戦場から姿を消した。多くの仲間達が手のひらを返し、彼女を罵った。裏切り者、臆病者、と。彼女は所詮、安全な場所で己の力を振るえればそれでよかったのだ――など。

 『魔法少女狩り』が開始されるようになっても彼女は姿を見せなかった。ゆえに、彼女へのバッシングは高まるばかりだった。メジェドとはいつしか裏切りの代名詞になっていた。魔法少女の中で、最も忌み嫌われる姿なき存在となっていた。


「げほっ、げほっ」

「食べ方汚いわ。見てられない。口の周り、汁ついてる」

「ごめんデス、こんなにたくさん食べるの、久しぶりで……げほっ」


 そんな彼女が、長い年月が経過した今、ハイドにコンタクトを取ってきた。他の誰でもない、なかばドロップアウトした魔法少女に。

 ハイドは、その意味を考える必要があった。だから、会うことを決めたのだった。


「っぷはぁ~~~~、食った食った! やっぱ魔法少女も身体が資本デスねぇ」


 口の周りについている食べ滓の件は、もう言わないことにした。

 目の前で満面の笑みになって、幸せそうに腹をさすられては、そんな気も起きない。

 すっかり空になった皿がうず高く積み上げられている。カレクはそれをかき分けて、水の入ったグラスを手前に寄せた。それから、ジャケットの内側ポケットから小さな袋を取り出した――錠剤。つまんで、水と一緒に口の中に入れて、一気に喉奥に流し込む。

 上を向いて、何度か喉を鳴らす。それから。


「はー……お後がよろしいようで……げほ」


 彼女は口を拭った。心なしか、その表情が夢を見ているかのように緩んでいる。


「その薬、何なの」

「これ? フラッシュバックとか、錯乱を抑える薬。こうしてカクテルして飲むと、夢心地になれるんデス」


 何でもないことのように、彼女はそう言った。

 それから、自分を見ているハイドの表情に気付いたのか、気恥ずかしそうに俯いた。

 声が、小さくなる。静寂が訪れる。


「おかしいデスよね。身勝手デスよね。怖くなって、何も分からなくなって、魔法少女としての責務から逃げて。その罪悪感で死にそうになりながら生きてる癖に。魔法を手放すのは怖い。それをやれば自分が自分でなくなる気がして。私は卑怯で最低デス。ついこの間だって、『セイレーン』が殺されたのに」


 そこまで、一息で言った。

 反応を待っているわけではなかった。それは懺悔だった。しかし、聞き入れてくれる神はここにはいない。誰も何も答えない――無関心の空間。

 だが、口を開いたのはハイドだった。


「私は――あなたを責めない」


 彼女は、顔を上げた。信じられない、というような顔だった。頬に涙の跡があった。


「私には、あなたの選択を責めることが出来ない。私があなたでも、同じことをしただろうから」


 励ますつもりも、取り繕うつもりもなかった。ただそれが、ハイドの思ったことだった。


「そうか、あなたには、お子さんが……」


 カレクはそう呟いて、しばらく下を向いて目を瞑った。自分の中で、自分の感情と戦っている様子だった。手が、ギュッと握られている……。

 ――やがて、彼女は顔を上げた。もう、泣いていなかった。意を決した表情。

 口を開いて、決然とした口調で言った。


「私はここ数年間、ファフニールの動向を自分なりに探っていたんデス。罪滅ぼしじゃない、と言えば嘘になりますが、とにかく、彼らが魔法少女狩りを統制するようになってからの動きを。そしたら、ある事実が分かったんデス。よく聞いて、ハイドちゃん」


 息を吸い込んで――彼女は、熱のこもった口調で問いかけを始めた。


「あなたは……『アンチ=バベル』、知ってますか」


 ……ハイドは、黙って頷く。虚を突いたような質問だったが、答える。真剣な目。

 誰もが知っている、あるいは知らないフリをしている。街の中心部にそびえ立つ、見えざる塔。その存在が、セントラルに逆らう全てを威圧する。

 すると、カレクは『真実』を口にした。

 一瞬、彼女は何を言われたのか分からなかった。


「アンチ=バベルの燃料は……魔法少女の『マナ』なんデス」


 心臓が跳ねる。

 そんなバカな話が、と言おうとした。だがよく考えれば、それを否定する根拠など何もないことに気付く。それに、もしそうなら、様々なことに合点がいく。いってしまう。

 ハイドは二の句が継げなかった。

 空間が、自分とカレクの二人だけになったような感覚を覚えた。

 その中で、向き合った彼女は続けた。


「そして、燃料とするためのマナは……『イグゾースト・マナ』。本来あってはならないはずの、負のマナなんデス」


 マナ。大自然の中に眠る力。

 魔法少女はそれを行使することで、魔法を発動する。

 その後マナは時間を掛けて、緩慢に自然へ還元されていく。

 そして再び、魔法少女にマナとして吸収される――神秘性を担保にした、自然と彼女たちの共生関係ともいえる法則だった。


 だが、その法則から外れる『マナ』が存在していた。

 還るべき自然に拒否された運命を持つマナ――『イグゾースト・マナ』である。


 魔法は、行使者の精神によりその作用を大きく変える。イグゾースト・マナとは、行使者の『負の感情』により生み出されたもの。『怒り』や『憎しみ』は、すぐさま『破壊』の二文字と結びつく。それは、自然とは相いれぬもの。ゆえにイグゾースト・マナは自然に還ることもなく、大地の表層に、亡霊のごとく吹き溜まっていく。


 カレクは、説明した。

 ファフニールが目をつけたのはそこだったのだ、と。


 イグゾースト・マナの持つ膨大な『持ち腐れ』の力に、カレルレンは着目した。

 その力を、アンチ=バベルの動力源とすることに決めたのだ。


 それが分かれば、筋の通ったシナリオであることが理解できる。

 魔法少女狩りが行われ、追い詰められた魔法少女から負の感情――イグゾースト・マナを回収するのは容易なことだった。

 総ては順調。ファフニールは装置に感情を貯め続けた。


「そんな……」

「『アンチ=バベル』が『兵器』などというのは建前デス。実際は、魔法少女から力を吸い上げて作り出した、人工の魔法炉。あれは、最強の疑似魔法なんデスよ」


 ハイドは、胸が悪くなる感覚をおぼえた。

 それは足元から這い登り、股座から体内に侵入し、柔らかい部分を蹂躙するかのような気持ちの悪さ。自分たちの作り上げてきたものが、得体の知れないものに塗り替えられる感覚。

 テーブルの下で、拳を握りしめる。

 魔法少女が、殺され続けている。肉体、精神だけではない。その、権利までも。


「許せない」


 自分でも気付かぬうちに、ハイドは呟いていた。

 自らが『逃げた』魔法少女であることもいっとき忘れて、彼女の脳裏には死んでいった仲間たちの姿が浮かんでいた。そして彼女たちの肖像に、何かが撒き散らされ、穢されていく。


「『自主返納』なんて都合のいい言葉につられて、心の折れた魔法少女が、拷問の末、マナを『イグゾースト』に変化させられて、殺された。そんな話も、たくさん聞いてきました。このままだと……あたし達の全てが、奴らに奪われる」


 カレクは、息を吸い込んだ。そして、一瞬ためらいの表情を見せて、言った。


「そして、次に連中が狙っているのは、ハイドちゃん、あなたデス」


「……私」

「抵抗も恭順もしない、連中からすれば最も手の届きにくいところに居る貴女が、それでいて凄まじい力を秘めている筈の貴女が、狙われている。貴女から、イグゾースト・マナを引き出すために。今日あたしがここに来たのは、それを伝えるためだったんデス」

「そんな……」


 ――過去が。

 背中から、自分を追いかけてきた。その影が、自分の現在に覆いかぶさってくる。

 汗が染み渡り、インナーに垂れていくのを感じる。

 平穏なイメージが、頭の中に浮かんだ。いくつもの現在。幸福。

 たった今、それらすべてが……影に、覆われようとしているのだ。

 それは怒りではない。怒りでは何も解決しない。ではどうすればいいのか。

 焦燥がハイドを襲う。今すぐ引き返して、娘を抱きしめたい衝動をこらえた。


「貴女はどうなの、『メジェド』」


 問いかけに、彼女は目を丸くした。

 それからすぐに、遠慮がちな笑みに変わった。


「あたしは弱いし、出がらしだから……連中からすれば、いつだって捕らえられマス。それにあたしの性格上、怒るのも憎むのも無理ってことは分かってマスからね。それよりも、貴女のイグゾースト・マナを狙ったほうが、あたしのマナ数人分を一気にまかなえるってわけデス……要するにあたしは、買い取り手の居ない貴腐葡萄ってわけデス」


 そんな言い方をして、彼女は諦観の滲んだ笑みを零す。

 そのさまが、我慢ならなかった。

 ハイドは、カレクの手をにぎる。


「ハイドちゃん!?」

「貴女は、危険を犯して私に話をしてくれた。貴女は勇気がある。誰よりも強い魔法少女。だから、自分のことを責めないで」


 彼女の瞳が、ゆらぐ。


「もうここまででいい。後は私の問題だと思うから。だから、貴女は逃げていい。そして、生きて。くだらないしがらみが届かない遠くへ。マザーだって、それを否定はしないはず」


 そこまで言って。

 ふいに、彼女の双眸が、涙で濡れた。

 首を横に振って、しゃくりあげるように泣き始める。


「カレク……?」

「ああ、なんてこと、結局あたしは、逃げてばかりで、肝心なことを……」

「カレク、落ち着いて。どうしたの」

「違う、違うんデスよ、ハイドちゃんっ、全部、全部嘘っぱちだったんデス……だって」


 おそらく。

 それが、その次に伝えたいことだったのだろう。

 だが、言うのを躊躇ったのも理解できる。

 だって、それはあまりにも――。


……」



「何を」

「今までずっと、騙されていた。彼女は死んでなんかいなかった。死んで聖者にでもなったように、見せかけていただけなんス……全部、全部嘘だったんス……」

「どういうこと。落ち着いて私の目を見て。ちゃんと話して」

「だって、何故なら、……」


 ――窓ガラスが割れる音と、閃光が迸るのは、ほぼ同時だった。

 針のように見える光線が、目の前で彼女の心臓を貫いた。

 焦げ臭い匂いが周囲に漂って――手を伸ばす間もなく、カレクは座席に倒れた。



「先輩につまんねーこと吹き込んでるなよ、クソメガネ。お後がよろしいようで」


 『フルゴラ』は吐き捨てるように言って、魔法陣をかき消した。

 彼女の超遠距離狙撃は、対象を確実に射抜くのだ。今回もそれをやった。


「裏切り者の末路なんて、こんなものよね。さ、帰ってネイルやろっと」


 サイドテールの金髪をかき上げながら、彼女は高層ビルの窓辺から身を翻した。

 だが、控えているのは彼女だけではなかった。



 倒れ込む瞬間の彼女が、スローに見えた。

 抱き起こして、その身体を支える。流血すらなく、左胸の中心部にどす黒い大きな穴が空き、そこから肉の焼けるにおいが流れていた。一撃で致命傷を与えられたらしい。呼吸も聞こえない。それでも自然と、口に耳を近づけていた。言葉が来るという確信があった。


「にげて、ハイドちゃん、運命が、追ってこない、とおくへ、とおくへ……」


 どろりと濁った目で、取り憑かれたように同じ言葉を繰り返す。


「もういい、喋らないで! カレク……」

「逃げて、逃げて。ああ、おそろしい、おそろしい……ここから、にげて!」


 次の瞬間、絶叫がかき消えた。

 彼女の身体に火線が殺到し、その体が何度もその場でバウンドした。咄嗟に飛び退いたのはハイドだった。その判断は正しかった――既にカレクは死んでいた。

 それから遅れてすぐ、さらに複数の銃撃音が聞こえてきた。はっきりと。

 ハイドは咄嗟に、テーブルを思い切り上へ蹴り上げ、その影へと身を隠す。


 ガラスが割れて、幾つもの銃撃が店内に流れ込んできた。

 轟音とともに静寂は破られる。甲高い悲鳴を上げたのはウェイターの女だった。わめきながら物陰に隠れようとのたうつ。テーブルが、座席が、調度品が砕け散りながら牡蠣色の空間に舞う。客の老人は眠ったまま上体を貫かれて死んだ。

 皿が割れ、照明がひび割れて落ちた。形の違う複数の音が火線と遊び、ダイナーの中を蹂躙していく。それは時間にして数分だが、その間にあまりにも多くのものが奪われた。



 ケネスはすきっ歯に煙草を差し込んで、煙を吸った。窓辺からは、彼の命令によって展開されたものが見えている。それは気分のいい光景だった。彼の目は歪み……快楽によって更に歪んだ。ピアッシングされた顔の半分がひきつり、わなないた。

 股下では、あの赤毛の魔法少女――元――というべきか――が、後頭部を掴まれながら男の陰部を強引に咥えこまされていた。ごぼ、ごぼ、という苦しげな声が聞こえる。その様子を、前部座席に座っている部下二人は無関心に見ていた。

 ケネスが呻いて、律動を女の口内に解き放とうとした瞬間、携帯に着信があった。舌打ちをする……くそが、モノが萎えちまった。


「なんだ。お前の仕事は終わったんじゃねえのか?」

『ちょっとあなた達、一体どういうつもり。今夜は私がメジェドを殺して終わりだったはずよ』


 上から目線の言い草。それが彼には気に食わない。何が魔法少女だ、そのおべべを脱がせりゃただの女じゃねえか、股ぐらのこいつみたいに。


「馬鹿が。ここであいつ殺せば全部終わるだろうが。なんで日和ってる必要があんだよ」

『カレルレンの命令違反よ。こんなことをしてただで済むと――』

「ああ、『ただ』じゃ済まねぇさ。『ヴァルプルギス』殺った褒美はなんだろうなぁ」


 彼は、喚く声を無視して通話を切った。


「うるせぇな、コスプレ娼婦がよ……痛ぇっ、歯ぁ立てんじゃねえぞボケが!」


 ケネスは女を股下から引き剥がし、恐怖に歪んだその顔を何度も殴打する。

 ――運転席の部下はそれを無視して、『現場』からの通信を受け取っていた。

 双眼鏡からは、様子が見える。

 白昼夢のダイナー。周辺に、武装した部下たちが集まる。誰も彼も、魔法少女の装備の改造品を携えている。


『店内、完全に沈黙しました。1班、2班ともにこれより突入します』


 なるほど、確かに沈黙。店外に吐き出されている割れた窓ガラスが物語っている。


「こんなもんか? ちょろいな。だが、こいつで手柄が得られるなら、ボスも俺を――」


 そう、確かに誰もが黙り込んでいた。

 その瞬間までは。



 店内は煙の匂いで満ちており、数分前とは別種の沈黙がそこにあった。

 影の中で、彼女は身をかがませていた。それから、すぐそばにあるものを見た。

 ガラスやテーブルの破片に埋もれるような形で、カレクの死骸があった。

 苦しげな声も聞こえてこない。ただの死んだ肉だった。そこに指を伸ばして、あることに気付く。まぶたを閉じてやろうとしたが、既に顔面の肉はほとんど削げ落ちており、意味のないことだった。無数に空いた穴からは血が流れ、内臓の破片が吐き出されていた。彼女は指先のやり場を失ったまま、視線を他にさまよわせた。

 あらゆるダイナーの残骸が、野放図に散らばっている。煙と、点滅する光。その中にそれはあった。

 座席に座ったまま全身を撃たれて死んでいる老人。苦痛を顔面に刻印されたまま、カウンターの奥に移動する途中で身体をこわばらせて動かなくなった中年女。もう、悲鳴をあげることはない。二度とない。

 ――足音。複数の。何者かはすぐに分かる。

 重装備。それが、こちらに向かってくる。間もなく、この静寂も破られるだろう。


 ハイドは目を瞑り、これからすべきこと、やろうとしていることについて考えた。

 その脳内に、カレクの姿と、自分の娘の姿が交互に現れていた。つい数分前までは想像もしていなかった。自分の周囲に破壊が広がっているさまなど、もはやありえないものと思っていた。

 しかし、甘かった。現実はまさにこれだ。目を開ければすぐに対応しなければならない。ではどうするのか。自分は今逃げるべきなのか。助けを呼んで、それから娘を連れて、それから……ああ駄目だ、この街がファフニールの支配下にある以上、それも不可能な話。

 ならどうするべきだったのだ。ああ、カレクの問いかけに応じなければよかった――いくつもの追想が浮かんで消えた。それからひとまず、今すべきことを考えた。

 存外あっさりと答えは出そうだった。この状況を切り抜けるための最適解。

 だが、駄目だ。それをやれば自分はもう戻ってこれない気がする。あの場所へは、娘のところには、二度と――。


 目を開ける。

 そこにあったのは、死だった。無関係な人間の、死。


「……っ!」


 それを改めて見た瞬間に、ハイドの中で感情が沸き立って、衝動が固定された。

 さまよっていた指先が、拳の中でギュッと握り込まれた。

 それしかない。

 今は、それしかない。

 後悔の尾ひれを引きずらせながら、彼女は決断した。口の中が苦かった。

 足音の群れが、近づいてくる――。



「動け動け動け、油断するんじゃねえぞ、魔法少女はバケモンだ、人間じゃねえ!」


 隊長らしき男の怒号と共に、店内に突入していく兵士たち。ガラスを踏み、崩れ落ちた看板を足蹴にしていく。出番を待っている兵士の一人が、店の前で銃器の最終チェックを行う。

 ボトム部分が異様に膨れ上がった機関銃――装甲服のポケットから、黄金色のカートリッジを取り出す。小さな文字で呪文のようなものが彫り込まれている。サイド部を展開してセッティング、蓋を閉じる――銃器側面のパネルに文字が流れていく。それは魔法の名前を告げる。緑のグリッド線がクロームメッキのボディ全体に走る――準備完了。

 店の周辺に人々が集まってくる。粗末な身なりをした地元の住民たち。


「おいあんたら、何が起きたんだよう、魔法少女とかって……」「あ、あんたらが殺してくれるんだろうな、」

「わ、儂の娘は、魔法少女に殺されたんだ、お願いだ兵隊さん、魔法少女を、」


 老婆が突入待ちの兵士にすがりつき、つばを飛ばしながら懇願する。


「いいから邪魔だどけっ、仕事のジャマだっ」


 兵士が怒鳴り、老人を張り倒す。ぎゃっと悲鳴を上げる。それを無視して突入に備える。


 店内は火花が到るところで散り、照明の一部がずり落ちて暗くなっていた。兵士たちは隊列を組んで緩慢に侵入し、周囲を見た。呼吸音と、心臓の鼓動。足元で瓦礫が鈍い音。不気味な静寂の中で、彼らは獲物を探った……。

 物音。異様なまでに高く、大きく響いた。

 兵士の一人がとらえた。一足先に発信源の方角を向いて、改造銃器を構える。

 次の瞬間。

 ……テーブルの大きな切れ端が、兵士に向けて飛来した。彼は咄嗟に身体を捻り回避する。それは彼に当たることなく、空中を舞い、後方の壁へ衝突した。兵士は安堵した。

 だが、そこで彼は気付いた。

 自分の身体の表面に、小さな爆発の欠片が付着している。

 知るはずもない。それは……超極小サイズの、超新星爆発。

 有と無。すべての『機物』を生み出す力の、賜物――。


 彼の体表面が爆ぜて、大きく後方へ吹き飛ばされた。窓ガラスが割れて、外へと吐き出される。悲鳴が尾を引いて店外へと響き渡った。そして……残った兵士たちは見た。

 ……小さな爆発の欠片。それを引き起こした者を。テーブルの破片を投げた者を。


 瓦礫を押しのけて、影の中からひとつのシルエットが姿を表した。

 ゆっくりと身を起こすのは一人の女。ただの女だった。一見どこにでもいそうな印象の、薄暗い女だった。縮れた黒い髪をわずかに振って、兵士たちを一瞥した。そのまま数秒。

 彼女は、両手を広げて――。

 その手のひらに、円周状の魔法陣を現出させた。

 周囲がその光に照らされ、兵士たちがおののき、少し後ずさる。



 そして彼女は――ヴァルプルギスは、彼らを睨みつけた。

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