このエピソードを読む
2021年10月3日 16:42
読了しました😌三島由紀夫『金閣寺』の溝口と同様、本懐果たせず終いだった粍野ですが(溝口の本懐は金閣寺を焼くことではなく、共に心中することだったと思うので)──。読み終えてまず思ったのは、粍野は金閣寺の放火にどこまで真剣だったのかということで。今日しくじったとあれば、再度の放火は実質不可能。それゆえ、早急に立てざるを得なかった計画は緻密さを欠いたものになってしまった──とは云うものの、はたして本当に緻密な放火計画は不可能だったのか、内心こうなることを予期していた、望んでいる節さえあったのではないかなぁと。寺務所へ連行される道すがら──粍野は「自身がこの次来ることはない」「新しい金閣が建ったとして、どうせ偽物」「見る価値はなく、能動的に見に来ることは金閣に対する冒涜」だと考えている、すなわち“自分の生きる未来”に目を向けてはいるのですよね。これが捉えようによっては、計画を阻止されて、自分はもう伽藍洞になったのだから、今この瞬間“大義は崩れ去った”のだから、もうここには来なくて良いよね? と他ならぬ自身に云い訳しているようにも取れてしまいまして。そこが、非常にいいなぁと。もし粍野が本懐を遂げていたら、きっと彼がなんかカッコいい感じで物語が幕を閉じちゃうと思うのですよ。「ホントに燃やす気あった?」という一抹の疑念を持たせてくれるところに、彼と云う“人間”が描かれていると感じました。つまるところ、人を描いた作品として面白かったです。余談。『金閣寺』の溝口は放火後天守閣に入れなかったことを「金閣寺に拒絶された」と解釈して逃走するのですが、あれも捉えようによっては大分都合の良い、人間臭い解釈なのですよね(笑)心のどこかにある「死にたくない」を目前の事物に巧いこと繋げて、生きようという方へ向かっただけちゃうかなぁと(この点に関しては、元となった事件で犯人が生きているのだからそうしただけでは? とも取れるのですが)。そう考えると、やはり件の作品も人を描いた物語として「名作」だったと思います。
作者からの返信
レビューとコメントをいただき、ありがとうございます!大変鋭いご指摘をいただいて、驚いています。粍野が「内心こうなることを予期していた」点については、仰る通りです。第8 話の時点で、彼は自分の力でまやかしの金閣の再建を止めることは困難だと認識していました。放火を含めた彼の行動は負け戦と分かっていながら、せめて抵抗の意志を示そうとした、というところでしょうか。そう考えると、伽藍堂云々も「ほら、負け戦なりにやれることはやったし、もういいっしょ?」という彼自身への云い訳と見ることができ、「他ならぬ自身に云い訳」というご指摘とつながります。この辺について、執筆時点では私自身が粍野の思考を十分に言語化できておらず「彼は何を考えているんだろう?」と思いつつ描いていた節があります。今回のご指摘でこの点に対する一つの解を得ることができ、すっきりしました!本懐を遂げてハッピーエンドというよりは、失敗して情けない姿を晒す終わり方にすると決めていたので、執筆する中で無意識に人間臭さを描こうとしていたのかもしれません。
2021年6月24日 17:24
自主企画MTSに参加して頂き、ありがとうございました。企画にふさわしい作品でした! すごく面白かったです!
ありがとうございます。この作品にしっくり来る企画がなかなかないため、企画していただけて嬉しかったです。また杜松の実さんの作品も拝読しました。夏目漱石にはあまり明るくないのですが、楽しめました!
2021年2月21日 16:05 編集済
素晴らしい。大学生らしい人間主張の猛りが目に染みるほど鮮烈で、物語の筋も考えさせられるもので大変に楽しめました。
ありがとうございます! 三島由紀夫の原作自体の読み取りが難しく執筆に苦労した作品なので、楽しんでいただけて嬉しいです!
読了しました😌
三島由紀夫『金閣寺』の溝口と同様、本懐果たせず終いだった粍野ですが(溝口の本懐は金閣寺を焼くことではなく、共に心中することだったと思うので)──。
読み終えてまず思ったのは、粍野は金閣寺の放火にどこまで真剣だったのかということで。
今日しくじったとあれば、再度の放火は実質不可能。それゆえ、早急に立てざるを得なかった計画は緻密さを欠いたものになってしまった──とは云うものの、はたして本当に緻密な放火計画は不可能だったのか、内心こうなることを予期していた、望んでいる節さえあったのではないかなぁと。
寺務所へ連行される道すがら──粍野は「自身がこの次来ることはない」「新しい金閣が建ったとして、どうせ偽物」「見る価値はなく、能動的に見に来ることは金閣に対する冒涜」だと考えている、すなわち“自分の生きる未来”に目を向けてはいるのですよね。
これが捉えようによっては、計画を阻止されて、自分はもう伽藍洞になったのだから、今この瞬間“大義は崩れ去った”のだから、もうここには来なくて良いよね? と他ならぬ自身に云い訳しているようにも取れてしまいまして。
そこが、非常にいいなぁと。
もし粍野が本懐を遂げていたら、きっと彼がなんかカッコいい感じで物語が幕を閉じちゃうと思うのですよ。「ホントに燃やす気あった?」という一抹の疑念を持たせてくれるところに、彼と云う“人間”が描かれていると感じました。つまるところ、人を描いた作品として面白かったです。
余談。『金閣寺』の溝口は放火後天守閣に入れなかったことを「金閣寺に拒絶された」と解釈して逃走するのですが、あれも捉えようによっては大分都合の良い、人間臭い解釈なのですよね(笑)
心のどこかにある「死にたくない」を目前の事物に巧いこと繋げて、生きようという方へ向かっただけちゃうかなぁと(この点に関しては、元となった事件で犯人が生きているのだからそうしただけでは? とも取れるのですが)。そう考えると、やはり件の作品も人を描いた物語として「名作」だったと思います。
作者からの返信
レビューとコメントをいただき、ありがとうございます!
大変鋭いご指摘をいただいて、驚いています。
粍野が「内心こうなることを予期していた」点については、仰る通りです。第8 話の時点で、彼は自分の力でまやかしの金閣の再建を止めることは困難だと認識していました。放火を含めた彼の行動は負け戦と分かっていながら、せめて抵抗の意志を示そうとした、というところでしょうか。
そう考えると、伽藍堂云々も「ほら、負け戦なりにやれることはやったし、もういいっしょ?」という彼自身への云い訳と見ることができ、「他ならぬ自身に云い訳」というご指摘とつながります。
この辺について、執筆時点では私自身が粍野の思考を十分に言語化できておらず「彼は何を考えているんだろう?」と思いつつ描いていた節があります。今回のご指摘でこの点に対する一つの解を得ることができ、すっきりしました!
本懐を遂げてハッピーエンドというよりは、失敗して情けない姿を晒す終わり方にすると決めていたので、執筆する中で無意識に人間臭さを描こうとしていたのかもしれません。