第5話 闇の王②


「タナトス?」

 聞き慣れない単語に啓吾は眉を顰める。

 状況が理解できない啓吾とは対照的に、理凰は険しい顔で白髪の男を睨み、男はひどく不敵に笑う。

「まさかあの計画を知ってるやつがいるとはなあ――いや、そんな生易しいもんじゃねえな」

 何かに気が付いた男は堰を切ったかのように笑いだした。

「ヒャアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! そうかお前もこっち側か! 兄弟よお!」

 遅れて啓吾も異変に気が付いた。

さっきの攻防でついた式波理凰の傷が塞がっていく、男に勝るとも劣らない速度で肉体が修復されて、まるで何もなかったかのように綺麗な肌に。

「……貴方は、一体?」

「……離れていてください」

 啓吾の質問に理凰は答えなかった――つまりそういうことだろう。

 直後、理凰と男のぶつかり合いが始まった。

 剣と爪牙が打ち鳴らす金属音、爆発のような音、男の獣の咆哮の三重奏が戦場を彩る。

 啓吾は二人の動きを五感をフル稼働にして、彼らの動きを追うので精一杯だった。

 その乱暴な音楽を奏でる奏者たち、式波理凰と白髪の男の衝突が苛烈を極めていた。

「タナトスを絶望させるのは初めてだぜ!」

 そう声高らかに笑う男の腕が飛ぶ。

 しかし切り飛ばされた腕が、方向転換して戻ってきた。そして理凰の首に巻き付く。どうやらこの男もヘカトンケイルと同じように切り落とされた腕を自由自在に操れるようだ。

 一瞬理凰動きが止まったのを見逃さずに、男が渾身の一撃を放つ。

 身体の一部というよりもはや凶器と化した男の爪が理凰の胴に再び五本の筋を刻む。

切り傷から血が吹き出すが、やはり式波理凰の奴の鋭利な爪甲に縦に裂かれた肉体がすごい速さで修復されて、理凰は再び牙を剥く。

「まだだ、まだまだ足りねえぞ!」

 壮絶な戦闘に入り込む余地はない、啓吾と怪我をして満足に動けない秀はただ立ち尽くす。

 二人の戦闘は両者決定打を与えられないまま、切り合いが続いている。互いに激しい攻撃を繰り広げているものの、煮え切らない膠着を打開することができない。

「ならこいつは、どうだあ!」

 男が一瞬下がり、転がっていた死体を蹴り上げた。

「……くっ」

 理凰目掛けて次々と飛んでくる死体。

死体とは言え傷つけるわけにはいない、ひたすら回避に専念する。

「オラオラオラァ! まだまだ弾はあるぜ!」

 男の所業に怒りを覚えながら、死体を躱し続ける。そして一瞬の隙を突き、視界を覆う死体の間を瞬時に駆け抜ける。

 刹那に一気に肉薄し、次の一撃で奴にとどめを刺す――決意の刃を振るおうとした。

 しかしその一撃が放たれることはなかった。

「……これならどうだ?」

――奴は動けなくなった秀を盾にしていた。理凰の動きが急停止する。

「こうすれば手出しできないんだよ、お前は」

 男が完全に動けなくなった理凰を嘲わらった、卑劣極まりない男に怒りで歯噛みする。

 手出しできない理凰を見ながら男が秀の首に噛みついた、噛まれた部分から流れ出る二筋の血の轍。喉を鳴らしながら秀の血を呑む。

「かっ……はあ」

 呻き声を上げる秀、その健康的な肌の色がみるみる白くなっていく。

 その異様な光景は、御伽噺に出てくる吸血鬼のようだった。

 満足したのか、吸血鬼は首筋から口を離した。

「消えろ!」

 命を吸いつくされ、動かなくなった秀を突き飛ばして、理凰にぶつけた。

力が抜け、倒れ込む秀を理凰は支えた。

咄嗟のことだったため、完全に無防備になる。間髪入れずに男が秀ごと貫手で貫こうとしていた。

 腹部に衝撃、そして異物が体内に滞留する感覚。見ると腹から腕が生えていた。秀を庇うのを優先するあまり回避が間に合わなかったのだ。

腹部から異物が離れた、夜風が体内に吹き込む。腹に空いた大穴から流れ出した血が赤い水溜りを作り上げていた。

 際限なく垂れ流し続ける血、再生が追い付かずに、意識が血だまりに沈んでいく――。

「……そんな」

 啓吾は膝から崩れ落ちた。

 式波理凰が負けた――彼との関わりは一日に満たないが、ワイバーンを圧倒し、ヘカトンケイルを屠った、おおよそ人知を超えた強さを誇った人、いやタナトスと呼ばれるものが。これから一体どうすればいい。

「お前、いいぜ。百点の顔してやがる」

 いつの間にか吸血鬼が目の前に立って、こちらを見下している。

「なあ聴かせてくれよ。今どんな気持ちだ?」

「……な……」

「あん?」

「何でこんなことを、平然とできるんだ……」

「あ? 人間だって腹が減ったら牛、豚、鶏、羊を殺して食うだろ」

 この吸血鬼は何を言っているのだろう。

「人は家畜じゃない……」

「ああ、何言ってやがる。目がある、鼻がある、口がある、美味い、カス……五つも共通点があるじゃねえか、なら一緒だろ」

 今理解した。この男は人間とは違う、心も体も血に染まり切った吸血鬼。そこに人の尺度など存在しない。あるのはありとあらゆるものを自らの糧とする、強欲の化身、目の前にいるのはそういうやつなのだ。

「……僕も殺すのか?」

 そしてその吸血鬼は今自分を手にかけようとしている。

「俺はなあ、絶望が好きなんだ」

 そういうと吸血鬼は啓吾の顔を覗き込んだ。

――殺される。その考えが頭をよぎった瞬間、思わず目を瞑ってしまう。

「……おい言っただろ低能、俺は絶望が好きだってなあ」

 吸血鬼がそういうと、目を開いた時には視界から吸血鬼が外れていた。

 代わりに吸血鬼に背後だった場所に、何かが立っていた。

人だ、しかもそれは吸血鬼によって血を吸われた親友――。

「……秀」

 思わずその名を呼んだ。

「ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ」

 しかし返ってきたのは人間性を一ミリも感じさせない唸り声だった。

 よく見ると秀の様子がおかしい。丸くなった背中、脱力して揺れる両腕、それは人間というよりは彷徨っている幽鬼に近い。

「ガアアアアアアアアアアア!」

 呆然と立ち尽くす啓吾に飛びかかる。秀がいた場所と啓吾が立っていた場所は距離があったにも関わらず、一気にこちらと距離を詰めてきた。

「ぐあっ!」

 ほぼ無抵抗に地面に押し倒された。そのまま首を絞められる。

――息が止まり顔面に血が上って熱くなる。

 占めている首を掴んで何とか抵抗するがびくともしない。首を絞められているという表現では生温い、抵抗しなければ握力で首の骨をへし折られそうなレベルの力である。

 必死で抵抗しながら、啓吾は秀の顔を見た。いつもの柔和な雰囲気は鳴りを潜め、狂気を帯びた血走った眼をしていた。

「しゅ……う」

 息絶え絶えながら、友の名を呼ぶ。

「け……い、ご」

 秀も途切れ途切れだが確かに自分の名前を呼んだ。

 左目から一筋の涙が、顔に零れ落ちるのと同時に秀の両腕の力が緩む。

 そのまま両腕を振り払う。足りなくなった酸素を補充するかのように咳き込む。

「秀!」

「……く、るな」

 駆け寄ろうとする啓吾を秀は制止する。

「この、まま……だと、お前を……」

 言葉を言い終わる前に、今度は刀で切りかかってきた。血走った眼には殺意の光がありありと取れる。まともな状態でないことは火を見るよりも明らかであった。

「頼む……殺して……くれ」

「……そんなこと、できるわけないだろ!」

「頼む……お前を、殺してしたくないんだ」

 呻くように願いを唱える。

口ではそう言っているが、こちらに刃を向け、威嚇とは言えない殺意の籠った猛攻を繰り出す。

止むことのない猛攻、完全に意思とは関係なく体を操られているようだ。このままだとやられる時間の問題であり、この状況を回避するには――。

 嫌だ嫌だ嫌だ。頭に飛来してきた最悪の選択肢を振り払うが、その鋭い切っ先を躱すたびにその選択肢を叩きつけられる。

「どうした、奴の望みを叶えられるのはてめえだけだぞ」

その上吸血鬼の甘言が耳から滑り込んでいく。

「痛そうだよなあ、苦しそうだよなあ、さっさと楽にしてやった方がいいんじゃねえか」

心中でふざけるなと否定を叩きつける一方で、もう一つの結末が視界を横切り、惑わせる。

 感情の混迷の中、突如秀が地面に倒れ伏した。痙攣しているかのように体を震わせている。本能が目の前に人間に食らいつこうとしているのを、理性で押しとどめているのだろうか。

――しかしその壁はいとも簡単に決壊した。

「グオオオオオオオオオ!」

 獣のような叫び、ワイバーンの声にも似た声を上げて、のたうち回る。

「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 悲鳴が、断末魔が脳を少しずつ浸食してく。

 早鐘を撃つ心臓、揺蕩う視界、腹から喉元にかけてせりあがる何かを抱えながらゆっくりと大砲を構える。

 この引き金を引けば、彼の願いは叶えることができる。

 人らしさを失い、吸血鬼の眷属と成り果てるその前にせめて彼の望み通りに――いいのか? 本当に?

小さいころから一緒に、いやその背中を追いかけてきた。一緒にいることが当たり前で、いつも助けてくれた幼馴染をこの手で――。

 躊躇いが体を硬直させる。

「何を……やっている」

 業を煮やし、本能の隙間から顔を出した秀が怒鳴る。

「撃てよ! 臆病者! いつまでも子供のままでいるつもりなのかお前は! いつまでも俺の後ろを歩くつもりなのか!」

 まるで飢えた野犬の荒い息を繰り返す秀、それと負けず劣らずの自分も激しい息を吐く。

 迷走する思考に強く響いた秀の言葉。それに突き動かされるかのように大砲を構える。

 この大砲の引き金はこんなにも重かっただろうか? 

「あり……が……とう」

 最後の力を振り絞って秀は笑った。

 恐怖、友愛、罪悪感、思い出、数多の感情が混濁し、渦を巻く。まるで酔ったかのように視界が回り、吐き気を催す。

「うあああああああああああああああああああああああ!」

 脳内に響く声の全てを振り払うかのような絶叫を上げ、啓吾は引き金に指を掛けた。

 放たれた閃光が秀を呑み込んだ――はずだった。

「……駄目だ」

 式波理凰だった。啓吾と秀の間に割って入り、左腕で光線を受け止めたのだ。

 式波理凰は焼け焦げた左手を気にも留めず、吸血鬼に向き直った。

 真っ直ぐな瞳に晒された吸血鬼は肩を震わせる、そして。

「絶望おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお‼」

 耳をつんざく大絶叫。

「興ざめだなあ、あー興ざめだ」

 自らの思い描いた結末にならずに怒りを爆発させたかと思えば、急に落ち着いた雰囲気になる。

「今日は帰るか」

 興味を失ったのか、吸血鬼はもう戦う気がないようで、あれだけ殺意でぎらついていた瞳からは光が失われている。

「来い」

 その命令が発せられた瞬間、秀は再び獣と化した。機敏な動きで吸血鬼の傍らに寄って行く。

「こいつを取り返したければ、明日指定の座標に来い。来なければ……どうなるかは保証しない」

 そういって秀の首を掴む。あの吸血鬼ならば相原秀の細い首など簡単にへし折れるだろう。

 吸血鬼と秀の体が霧のようになって消えていく。

「次はちゃんと絶望の顔を見せてくれよ」

 吸血鬼のほくそ笑んだ顔が夜に溶けていった。



 視界が揺れる、先ほど嘔吐してお腹の中に何もないはずなのに、吐瀉物を地面にぶちまける。

――僕は何をしようとした?

 自問しなくてもわかる。僕は――秀を殺そうとした。

「……大丈夫ですか?」

 駆け寄ってきた式波理凰、彼がいなければ今頃――。

 嗚咽漏らしながら、流れ出る涙。

 彼の望みを叶えるために引き金を引こうとした。人間じゃなくなる秀を見ていられなかった。

――いやどんな理由があったとしても、あそこで撃ってはだめだった。

 だが結果はどうだ。無二の親友は敵の手に落ち、人質とされてしまい、その上式波理凰は一度敗北した。いうまでもなく状況は最悪である。

「僕は……どうすればよかったんだ」

 何が正しかったのだろう――そんな問いに答えなんか出るわけがなかった。

「……俺は、あれでよかったと思います」

 だがしかし、現に状況は悪化してしまっている。

「貴方はどっちがよかったですか?」

「……え」

 どちらが正しいかではなく、どちらが良かったか? そんなのは決まっている。

「僕は、秀が生きててよかった、って思ってるよ……」

「……ならそれでいいじゃないですか」

 式波理凰は更に言葉をつなげる。

「……それにまだ終わってませんから」

 そうだ、まだ終わっていない。まだ秀は生きている、必ずあの吸血鬼を倒して、あいつを取り戻す。

「……取り戻しましょう、全部」

「……君は強いな」

 式波理凰の眼には臨んだ結末を手に入れるまで、どこまでも突き進む意思を感じる。

自分もそれに感化され、心の中で秀を助けることを誓う。

「ありがとう、秀を助けてくれて」

 その未来に進むための、選択を残してくれた式波理凰には感謝してもしきれない。

「……貴方はこっちに来ちゃいけないと思っただけです」

 そういう理凰の横顔は、どこか悲しそうだった。まるで昔を思い出しているかのように遠くを見つめながら。

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