黄昏
「先生は世の中で何が一番美しいと思いますか。」
三ヶ月前に病院から忽然と姿を消した看護師から来た手紙はそうはじまっていた。
手先の器用で、患者からも人気の看護師であった。
気立が良く、なによりも容貌が優れていた。
私のところに訪ねてきた時はあどけなさの残る少女の顔をしていた。
そこで私は少し鼻をいじってやった。
私は耳鼻を専門としていた、その職業柄と言おうか、彼女の顔を見た時、『もう少し鼻を高くしたらきっともっとべっぴんになる』、そう確信した。
彼女は格段に美しくなった、その時私は蛹から蝶が飛び立つ瞬間を思い起こした。
病院には彼女目当ての客が増え、繁盛した。
自分の腕ではなく、彼女の看護を求めて人がきた。
だから彼女がいなくなり、一気に寂しくなった。
「私は今、京都の〇〇病院に勤めていますの。
今は呼吸器科の看護師をしております。
そこで出会った患者様が面白いことを言うんですの。
檸檬を知っているか、と。
もちろん知っております、あの黄金色の果物です。
患者様は檸檬の魅力についてうんうんと語るんです。
檸檬が世の中で一番美しいんだよ、そう仰います。
でも私は青森の生まれです、だから林檎も美しいですよ。そう申し上げました。
いやいや、檸檬が一番だ。そう言って患者様は聞かないのです。
だから私は市場に行って患者様に檸檬を買って差し上げようと思いました。
きっと喜ぶでしょうからね。
でもどこの市場を探しても檸檬は見つかりません。朝も夜も八百屋にはあの黄金色の塊は置いていないのです。
患者様にはこのことは内緒にしていました。
だって驚かせたかったんですもの。
でも、ある日外で掃き掃除をしていると患者様が窓から「ユリちゃん、ユリちゃん」と私をお呼びになりました。
集めていた落ち葉を木のそばに寄せて、急いで患者様の部屋に向かいました。
患者様は、「ユリちゃん、見てみて。」そう言って、病院着の胸元からスッとあの黄金色の塊–檸檬–を出したのです。
私はびっくりしました。あれだけ探してもどこにも見つからなかったのですから。
それに患者様は肺結核を患っていましたのでそんなに遠くには行けないはずです。
家族の方が持ってきたのかしら、そう思いましたが、患者様を訪ねてきた方は一人もいらっしゃいませんでした。
褐色の骨張った手の平の上に、黄金色の紡錘形はカーンと、場違いな色彩を放っていました。
「ユリちゃん、持ってみなよ」
患者様は私の掌にそれを乗せました。
「胸に当ててみて」
私は患者様の仰るとおりにしました。
体に冷たさが染みてきます。
しかしその冷たさの中には、何か燃える様に熱いもの激しいものを感じました。
そして心なしかそれが脈打っている気がしました。
「ユリちゃん、本当に美しいものを見たくはないかね」
患者様の光の入らない瞳に私が映っています。
「この檸檬を丸善に置いてくるんだ。
でもただ置くだけじゃいけない、ちゃんと準備が必要なんだ。
丸善にある絵画や画本、ありとあらゆる美しいものを高く積み上げるんだ。
そしてその上にこれを置くんだ。
そうすればきっと、世の中で一番美しいものが見えるよ」
私は気になりました。
世の中で一番美しいものはなんなのでしょうか。
私はとても見てみたくなりました。
患者様から檸檬を受け取り、今丸善に向かっております。
この手紙はその道中にポストに投函したものです。
私は先生の病院でたくさん学ばさせていただきました。
私にとってはかけがえのない美しい日々でした。
無言で出ていき、ご迷惑をおかけしました。
無礼をお許しください。
しかし、きっとそれも神様からの導きだったのです。
私は今から世の中で一番美しものを見に行きます。
それもきっと神様から与えられた運命なのでしょう。
美しいものに心を惹かれるのは人の性なのです。先生が私に手術を施してくださった様に、
人は美しいものを手にしたくなるのです。
先生にもきっと、喉から手が出るほど欲しいと思える美しいものが見つかるでしょう。
それでは、お元気で
ユリ子」
手紙を読み終えると、患者が健診に来た。
「先生、お世話になっております」
先月手術をした患者だが、治りが早く縫合跡も目立たなくなっていた。
「丸善のニュースは知ってますかね、先生」
「丸善に新刊でも入ったんですかね。」
「そんな呑気なことじゃねぇですよ。京都の丸善で爆発があったんですよ」
京都の丸善。顔からさぁっと血が引いていくのを感じた。
いや、きっと偶然だ。実際、手紙がポストに投函された日から日数が経っている。
京都で投函した手紙が、東京に届くまで三日はかかる。
机の上の封筒の消印を確認する。
大嘘つきの女だ、しかしちゃんと京都から四日前に送られている。
「警察の話だと、人が巻き込まれたかもしれんのだ。世の中物騒だね」
患者が出て行った後、急いでテレビをつけた。
そこには、丸善とはわからない、柱だけの建物があった。
アナウンサーが話している。
「こちらは現場の丸善です。警察の話によりますと、身元不明の遺体が一つ見つかったとのことです。」
私は急いで田宮特高課長に電話をかけた。
「丸善の爆発について教えていただきたいのだが」
「この話は管轄が違うから、知っている情報は少ないし、いくら先生の頼みでも口外するのは」
「以前調べていただいた看護師が関係してるかもしれないんですよ。」
「何?」
「その遺体に鼻の治療痕はなかったか。鼻にシリコンを入れた形跡はなかったかね」
「ちょっと待ってておくれ、調べるから。うん、うん、うんうん、たしかに鼻に治療痕があるようだ。しかしそれがなんの関係に?」
「ありがとう」
そう言って一方的に電話を切った。
そして机の上に置いてある手紙をもう一度見た。
彼女はわかってたんじゃないだろうか。
それが檸檬ではなく爆弾であったことに。
彼女は眩い光に包まれた。
沢山のカラフルな紙切れが雪吹雪の様に舞い、
ガラスの破片が光を反射して、宝石の様に輝く。
世の中で一番美しいもの、それは命だよ。
君はそれを見たかったのかね。
生きているという実感を手にしたかったのかね。
彼女のカルテを引き出しから出し、
手紙とともに燃やした。
赤い炎がめらめらと熱く燃えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます