6—1



 早朝の深い霧が晴れると、さわやかな天気だった。ひと足早い五月晴れ。気持ちいいブルーだ。


 僕は寝不足ではあったが、疲労は感じなかった。そんなことを感じていられないほど緊迫していたのかもしれない。


 今、僕が考えているとおりのことが起こっているのなら、ユーベルはとんでもないことになっている。僕の想像をはるかに超えた事態だ。


 それでも、僕はやらなければならない。どんなことをしても、ユーベルを助ける。


 僕は兄やダグレスに前もって相談し、ユーベルを散歩に誘った。兄には、僕がユーベルの手記を隠していたことについて、さんざん小言を言われた。ヘッドロックをかけられたり、くすぐり責めにされたりしたものの、まあ、そういう細かいことはいい。はしょっていこう。


 僕は長い話をするために、森の定番散歩コースを選んだ。展望台から湖を一周するコースだ。

 ユーベルはかるくハミングしながら僕のあとをついてくる。僕の胸は痛んだ。


 展望台の屋上には天体望遠鏡があり、夜になれば星が見られる。ゆるいスロープを描く展望台の階段をあがっていくと、僕らのほかに人影はなかった。


「ここなら、ゆっくり話ができるね」


 ユーベルはけげんな顔をして、僕を見た。澄んだ水色の瞳のなかに、妖しい黒真珠の輝きを見たように思う。


「思いこみって怖いよね。僕は君の行動が不審になってきたころに、解離性同一性障害じゃないかと疑った。だから、君の手記が事件解決の手がかりになると思いながら、そこにこめられた最大のメッセージを見すごしていた。ほんと、自分をぶんなぐりたいよ。君はあんなに必死に訴えてたのに。誰かが君の時間を盗んでる。君のなかに誰かがいるって」


 フランス人形みたいに可愛いユーベルのおもてに、とばりのように、ある表情がおりてくる。たしかに見おぼえのある、妖艶な……。


 人魚姫の美しい声をうばった深海の魔女のような、その顔つきを、僕はまっすぐに見つめた。


「君が誰なのか、わかったよ。イヴォンヌ・ヴェラ。そうでしょう?」


 ユーベルは考えあぐねるように、金色の巻毛をかきあげている。急に、これ以上ないほどキュートな笑顔になって、笑い声をたてた。だが、その仕草は映画のなかの女子高生みたいに、現実世界では少しだけ可愛すぎる。


「やだ。どうしちゃったの? タクミ。まじめな顔で言うから、ビックリしちゃった」


 僕は愛くるしく口元を押さえる彼女の手をつかんだ。


「あなたがリスと言ったリュックのなかに、本物のユーベルが書き残した手記があったんだ。僕は肝心のことを見落としていたよ。多重人格は表層意識から外れているときの人格は時間が止まっている。なのに、ユーベルはそのあいだに夢を見てるんだ。つまり、これは多重人格なんかじゃない。他人の夢に共感してしまう、なんだ。ユーベルは強い人格に遭遇すると、その人物に心をあやつられてしまう。それを利用して、イヴォンヌ。あなたがユーベルの体を動かしてるんだろ?」


「もういいよ。ぼく、帰る」


 怒ったような顔で、ユーベルは僕の手をふりほどこうとする。だが、僕は離さない。華奢なユーベルの手首には、とうぶん、僕の手形がアザになって残ってしまうだろう。


「僕は以前、あの子がもっとも助けを必要としていたときに、その手をつかむことができなかった。だから、二度と離すわけにはいかないんだ!」

「タクミ。どうかしてるよ。なんで、イヴォンヌがぼくの体を乗っ取るだなんて、そんなことしなくちゃいけないの?」


 ユーベルは侮蔑的な目で僕をにらんでいる。だが、僕がイヴォンヌの秘密をどこまで知っているか気になるのだろう。抵抗はなくなり、おとなしくなった。


「じゃあ、最初から説明させてもらいます。ヴェラさん。あなたはルナを使って、僕らをこの森へおびきだした。目的はユーベルだが、僕を誘いだせば、ユーベルがついてくるだろうことは見越していた。ルナはあなたの協力者だったんだ。監査官を選ぶとき僕を指名したり、森で静養したいと言ったのはルナですからね。あなたのバックアップを得て、映画界に進出できる約束だったんじゃないかな。どおりで、エンパシーで調べても、機械で検査をしても、ルナに異常がないはずだ。全部、演技だったんだ。

 もちろん、機材が倒れてきたのは、ほんとでしょうけど、もしかしたら、ほんとにただの事故だったのかもしれませんね。レマがやったんだなんて、あなたがたが言ったウソにすぎないんじゃ?

 まあ、そこは重要なとこじゃない。僕らはルナにだまされて、まんまと森にやってきた。あなたは僕らと知りあいになると、さっそくユーベルを女優に抜擢して、より親しく交際するきっかけを作った。そうしながら、裏ではユーベルにしつような嫌がらせをくりかえした。

 じっさいにはフィッシャーさんにやらせてたのか、ほかの誰かにやらせてたのか、あなた自身がしたことなのかはわかりません。その後のウォーレンさんの行動を見ると、実行犯はウォーレンさんだったのかもしれませんね。フィッシャーさんがやっていたというのは、あなたがたの証言にすぎない」


 ユーベルに反応はない。僕の推理がまちがっていたのかと思うほど無反応だ。でも、そのことがすでにおかしい。ユーベルはこんな突拍子もない推理を聞かされて、黙って聞いているような性格ではないのだ。


「こうやって、あなたは、じわじわとユーベルを追いつめた。精神的に疲弊させるのが目的だ。ルナに対して、僕に好意があるふりをさせたのも、あなたの指図だったんでしょうね。ユーベルを僕から引き離して、孤立させるために。これが思った以上にきいて、かわいそうに、ユーベルは……」


 僕は昂りそうになる心を抑えるために、ユーベルの手をつかむのとは反対側の手をにぎりしめた。自分の爪が手のひらにくいこむ感触が、いくらか僕を冷静にする。


「あなたの計画は着々と進んでいった。なのに、そんなときにフィッシャーさんを殺したのは、なぜですか? 結果的にはダグレスに疑われて、よりいっそうユーベルを苦しめることになったけど。あなたが最初から、フィッシャーさんを殺すつもりだったとまでは、僕も思わないんです。おそらくだけど、フィッシャーさんは、ウォーレンさんがユーベルに卑劣な行為をしてることに気づいたのではないですか? フィッシャーさんはあなたたちがやってることをまったく知らなかった。それで、ウォーレンさんを問いつめたか、または僕らに知らせようとして殺された。

 あの日、ウォーレンさんが森のなかを歩いていたのは、もちろん散歩のためじゃない。言い争いになってとびだしていったフィッシャーさんを追っていったんです。だけど霧のなかで、はぐれてしまった。ユーベルが出会ったときのウォーレンさんは、フィッシャーさんを探してウロウロしていたところだった。そうですよね?」

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