1—2


 濃霧のなかで人を追うのは、じつに困難な作業だ。霧もこれほど濃くなると、水蒸気というより、密集した綿のなかへ突入していくような気分になる。


 僕はじきにユーベルを見失った。あわてふためいてヨアヒムに助力を頼み、探しまわったものの、まだダグレスたち警察には知らせなかった。ユーベルの行動が不審だったので、万一、殺人事件に関与していたときのことを考慮したのだ。


 時刻はこのとき、六時すぎだった。かけつけてきたヨアヒムと手分けして探すうち、ようやく三十分もして発見した。ユーベルは森の遊歩道にそって歩きながら、何かを探しているようだった。


「ユーベル! 何してるんだ。危ないじゃないか」


 背後から声をかけると、ユーベルはふりかえって微笑した。泣きわめいて部屋に閉じこもった昨夜から、また態度が一変している。


「リスを探してたんだよ」

「昨日も殺人犯に襲われたっていうのに、ダメだよ。勝手に外に出ちゃ」

「うん。ごめん」

「今すぐコテージに帰ろう」


 僕が手をつかむと、ユーベルは従順についてきた。僕は安心したが、このとき、ユーベルはペカチュウを背負っていなかった。ユーベルはリスを探していると言ったが、もしかしたら、ペカチュウのことじゃないかと、ふと思った。


「ペカチュウ、どっかに落としたの?」

「あのリス、ペカチュウって言うんだ」


 僕が愕然がくぜんとしたのは言うまでもない。

 そう。僕はオタクだ。それは自覚してる。僕につきあって、ユーベルもそのへんは、そうとう詳しくなっていた。ペカチュウが電気ネズミだってことくらい、オタクの常識ではないか。こんな初歩的な間違いをするなんて、いったい、ユーベルはどうしてしまったのか?


「ぼく……変なこと言った?」

「ああ、いや、なんでもない。あとで僕が探しておいてあげるよ」


 口では言ったものの、僕の動揺はおさまらなかった。

 僕のなかに、ある疑惑がうずまいていた。このごろのユーベルのようすを見て、あるいはそうではないかと、ずっと考えていた。


 じつのところ、ユーベルのように育ってきた人が、その病に侵される例は少なくない。ユーベルの入院期間が短くてすんだのは、その症状がなかったおかげだ。が、むしろ、ユーベルほど極端にすさんだ生活を送ってきて、これまでその症状を発していないことのほうが驚愕に値する。


 多くの場合、三歳未満でくりかえし虐待を受けた精神は、自己防衛のため、パーソナリティーの分裂を起こす。いわゆる多重人格というやつだ。自身にくわえられる暴力を自己とは異なる人格に押しつけることで、苦痛から逃れようとする手段だ。


 この症状の患者は一つの人格が体を動かしているときは、その他の人格は活動を停止している。記憶は共有しないので、自分のなかにほかの人格が存在していることを、多くの場合、知らない。記憶が欠落するという認識しかない。


 つまり、今のユーベルだ。

 これまで、ユーベルは彼の生い立ちとしてはまれにも、この症状を発していなかった。だが、森へ来てからのユーベルの態度の豹変は、パーソナリティーの入れかわりが起こっているとしか思えない。


 以前の彼にはなかった症例ということは、森に来てからその病になったのだろうか?


 ユーベルの身体がクローンであり、一歳時のそれのように、フルスピードで形成されつつある脳内神経回路に過度のストレスがかかってしまったことが原因か?


 あるいは、オリジナルの幼児期に、すでに病は萌芽していたのか?


 その可能性もゼロではない。

 たとえば、ユーベルがさらわれた二歳のときに解離を起こしていたら、彼の本来のパーソナリティーはそのあと停止していたことになる。虐待を受けたあとの人格は、ずっと他人格だったのかもしれない。だとしたら、眠っている二歳児の未熟な人格を発見することは、エンパシストにとっても難しい。


 幸いにして、解離性同一性障害は治せない病気ではない。エンパシストがいなかった時代にくらべれば、治療にかかる時間も労力も少なくてすむ。


 僕が恐れているのは別の問題だ。多重人格者は多くの場合、自他に対して攻撃的な人格を持っている。あたえられる苦痛に対して、自分、または自分以外のすべてを破壊することで、その苦痛を打破しようとする人格だ。


 もしもだ。オリジナルのユーベルが二歳のときに病気を発症していたと仮定する。この人格はきわめて本能に近いむきだしの感情のはずだ。善悪の区別などつかない。


 ユーベルは崩落事故を起こしたときのことを、無我夢中だったからよくおぼえていないと言っている。もしも、このとき、十数年間、眠り続けていたもう一人の人格が覚醒していたのだとしたら……ユーベルの二歳児の人格が破壊者の特性を持っていたとしたら……。


 そう考えることが恐ろしい。

 ここで起きた三件の殺人事件。これらを起こしたのが、ユーベルのなかの破壊者だったとしたら、ユーベルは幽閉どころではない。生存権を剥奪はくだつされる可能性すらある。


 僕はなんとしても、ユーベルがしたことではないという証明をしなければならない。


 僕は昨日、昼すぎに一人で森を探しまわり、ペカチュウのなかに隠されたこの手記を見つけた。今のユーベルはもう一人の人格らしいので、ナイショで読み、今に至る。


 ユーベルを二十四時間、監視しておくために、マーティンに相談して、撮影用のカメラを一台つけておくことにした。ステルスモードにしてユーベルにロックオンしておけば、気づかれることなく見張っていてくれる。僕のカードパソコンに撮影された画像が送られるようにしてもらった。

 マーティンは僕の目的を、それとなく察しているようなので協力を惜しまない。


 さて、ではいよいよ、現時点だ。僕は次の行動に移る。

 まずはあの人の思惑をさぐりに行こうと思う。

 あの人がなぜ、この森に来ているのか。その件にユーベルが関係しているのか、ひじょうに気になる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る