8—3


 このとき初めて、ぼくを経験した。

 もしかしたら、自分が気づいてなかっただけで、それまでにもあったのかもしれない。ぼくがその異常を認識したのは、このときが最初だった。


 ぼくの意識はいきなり飛んで、本のページをめくったみたいに、別の場所にいた。時間も経過してるみたいだった。


 さっきまで森でヨアヒムと話してたのに、どっかのコテージにいて、しかもそこはベッドのなかだ。ついでに言えば、となりにヨアヒムがいて、ぼくをダッコしてる。なんなの、これ。


 ぼくはビックリして、ヨアヒムをつきとばした。


「なんで、こんなことになってるの?」


 ヨアヒムはうたたねしてたけど、目をさましてきて、ぼくを見る。いかにも二人で初めて朝を迎えた恋人みたいな笑顔になった。


「ごめん。ごめん。寝ちゃってた」

「そんなこといいよ。なんで、ぼく、あんたと、こんなことになってるの?」


 ヨアヒムは妙な顔で、ぼくを見る。


「おぼえてないの?」

「おぼえてるわけないじゃない! さっきまで森で話してたのに」


 キレイなトカゲみたいなヨアヒムのセクシーな顔は、ますます妙な感じになる。


「ちょっと待ってくれ。そりゃ、まずい」

「まずいのは、ぼくだよ。まさか、あんたとやっちゃってないよね?」


 おぼえはないけど、なんでか、ぼく、服、着てない。下着はつけてるけど……。


 にらむぼくを困ったような目で見て、ヨアヒムは考えこんだ。長いこと熟考したあと、急にニッと笑う。


「いっそ、私と結婚しよう。責任はとるよ」


 ええーッ! そんな責任いらないって。


「バカー! ぼく、最初は絶対、タクミって決めてたのに!」

「その彼氏にふられたって、さんざん泣きついてきたのは君だよ? ほんとにおぼえてない?」


 泣きついたおぼえはないけど、タクミにふられたおぼえはあった。そっちの記憶がなくなればよかったのに。


「……そっか。そう言えば、もう大事にとっとく意味ないんだった」


 それでヤケになったと考えれば、自分の行動の説明はつく。説明はつくんだけど……おかしい。なんで、そのあいだの記憶が、ぜんぜんないの?


「もういい。ぼく、帰る」


 ぼくがベッドから立ちあがると、ヨアヒムはサニタリールームの乾燥機のなかから服をとりだしてくれた。なんで乾燥機から?


「帰るんなら送ってくよ。女の子一人じゃ危ないって言ってるのに」


 あんたが殺人犯だったら、よけい危ないけどね。まあ、どうでもいいや。どうせ、ぼくなんて、ほんとはとっくに死んでるはずなんだし。


 外へ出ると、もう日が暮れかけていた。ぼくの記憶は何時間ぶんも切りとられたように欠如してるわけだ。


 管理人のヨアヒムのコテージは、展望台の近くにあった。そのむこうは人造湖。オレンジ色に染まった空がよく見える。恋人と二人ならロマンチックな風景も、今は物悲しい。というより、悪いことの前兆のような気さえして、どっか怖い。


「しまったな。うっかりシェスタを決めこんじまったから、みんなが君のこと心配してるんじゃないか?」

「心配なんかしてないよ。きっと」


 ぼくはヨアヒムに送られて、二号コテージに帰った。だけど、コテージのなかには誰もいない。

 そうだった。エミリーたちは、日暮れ前にデメテルに行くって言ってたっけ。みんなで送りに行ってるんだ。

 ぼくは一人だけ仲間外れにされた気分で、さみしくコテージへ入った。


「心細いならいっしょにいるが、どうしてほしい?」

「帰ってよ」


 ぼくはヨアヒムを追いだして、一人でなかへ入った。

 ヨアヒムとイヤなことになっちゃったらしいので、シャワールームへ急ぐ。けど、体のどこも痛くないし、少なくとも暴力行為はなかったみたいだ。


 ぼくは洗濯されて乾燥されたばかりの服をぬいで、脱衣室に置いた。

 ダグレスの言うのがほんとなら、嫌がらせしてたのはフィッシャーって女だったらしい。もう服がなくなることはないはず。ほんとにルナじゃなかったのかな? そういえば、ルナのやつ、タクミに話があるって言ってたけど、あれ、どうなったんだろう。


(ふんだ。ルナだって、優しくされて、いい気になってられるのは今だけなんだから。そのうち、ぼくみたいにポイッて、すてられちゃうんだ)


 誰もいない浴室へ入る。

 シャワールームにバスタブはついてない。簡易宿泊所だから、こんなもんだろう。床がカラカラに乾いてて、少なくとも数時間は誰も使ってないみたい。ぼくは温度設定を低く設定して、シャワーのコックをひねった。


 これから、どうしようかな。もう家に帰っちゃおうかな。

 家にいると、ぼくのことを嫌ってる妹がにらむんだけどな。タクミと顔あわせづらいし、ほかに行くとこもないしな。


 なんだか、ぼくの居場所って、世界中のどこにもない感じ。いっそ、ヨアヒムと結婚しちゃうってのもアリかな。タクミじゃないなら、ほかの誰でもいっしょだし、暴力をふるわないだけ彼は上等だ。


 目をとじて頭からぬるいお湯をかぶっていたぼくは、かすかな気配を感じて目をあけた。廊下のほうで足音がする。


 コテージの誰かが帰ってきたようだ。サニタリールームで手でも洗うつもりかもしれない。シャワーを使う気なら、ぼくの服を見て出ていくだろう。


 そう思って、ぼくはまた目をとじた。

 今日は早朝からいろいろあって、疲れちゃった。できれば、たっぷり時間をかけて浴槽につかりたい気分なんだけど。


 そのとき、今度は思っていた以上に近くで物音がした。ぼくはビクッとすくみあがる。


 さっきの廊下の人かな。いつのまにサニタリーにまで入ってたんだろう? シャワーのせいで、ぜんぜん気づかなかった。


 ぼくはふりかえって、シャワー室と洗面所を仕切る、すりガラスのドアを見た。思わず、ギョッとする。ベッタリ人影がガラスのむこうに吸いついてる。


 ぼくは悲鳴をあげた。一瞬、気が遠のく。外で声がしたように思う。

 ばたばたと走ってくる足音が近づいてきて、廊下のドアがひらかれたときには、あのへんなカエルみたいな影はなくなっていた。ねじれたように歪んだ体を押しつけて、血走った目で、ぼくを凝視してたのに。


「ユーベル! どうしたの?」


 やってきたのはタクミだった。ぼくが裸なのを見て、ちょっとうろたえる。


「なんでもない!」


 ぼくはタクミをつきとばして、二階へかけあがった。

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