花の曲
増田朋美
花の曲
花の曲
その日は、日曜日というのに雨が降っていて、寒い日だった。一寸風も吹いて、傘が反対方向に開いてしまいそうなくらい、風が吹いていた。そんな中で、着物で過ごすということはちょっと酷だなあと思われるのであるが、昔の人は、こんな天気の時でも、着物を着ていたのである。
その日、由紀子は岳南鉄道の駅員の仕事が休みだったので、製鉄所へ水穂さんに会いに行った。もう仕事がない時は、水穂さんに会いに行くのが、由紀子の日課になっている。そして、水穂さんの世話を手伝うことにしている。其れが世話をしている杉ちゃんや、利用者さんたちの手伝いになるのか、それとも邪魔になるのかよくわからないけれど、とにかくそうしてやりたいと思うのであった。由紀子は、急いで朝食を食べると、車に飛び乗って、水穂さんのいる製鉄所まで、アクセルを踏むのだった。
数分運転して、由紀子は製鉄所に到着した。製鉄所の、インターフォンのない玄関をガラッと開けて、何も迷いもなく四畳半へ行く。水穂さんは、眠っているかと思われたが、今日は布団の上に起きていて、いつも着ている寝間着ではなく、着流しの着物を着ていたのだった。
「水穂さんどうしたの?布団に寝ていなくて、良いんですか?それとも、具合がよくなったんで、起きてみようと思ったのですか?」
由紀子は急いで水穂さんに聞いてみる。
「いえ、そういう事ではありません。今日はお客さんがみえるので、起きていなければならないんです。ただそれだけの話です。」
水穂さんは、そういって数回咳をした。そうなると、由紀子は具合がよくなったわけではないんだなということを知った。
「お客さんって誰ですか?誰がみえるんですか。」
とりあえず、由紀子はそう聞いてみる。
「ええ、桂浩二君とその生徒さんです。」
そういってまた咳をする水穂さんに、断ることはできなかったのだろうかと由紀子は思った。なんで水穂さんは、具合が悪いから、今日は遠慮させてくれとか、そういうことが言えないんだろうなと思う。
「具合が悪いのなら、寝ていた方がよいのに。」
由紀子は思わずそういったが、水穂さんは、態度を変えなかった。とりあえず由紀子は、水穂さんの背中をさすってやろうと試みたが、水穂さんに払いのけられてしまったのである。水穂さん、大丈夫ですか、と、由紀子はそういったが、水穂さんは何も言わなかった。と、同時に、
「こんにちは、右城先生いらっしゃいますか。」
玄関先から、浩二の声が聞こえてくる。由紀子はなんでこんなふうに、タイミング悪く来てしまうのだろうなと思った。
「右城先生。連れてきましたよ。ぜひ、厳しく指導してやってください。彼女にも、多少の事では驚かないようにと言ってありますので。」
そういって、インターフォンのない玄関から、浩二は靴を脱いで、中に入ってきてしまったようだった。同時に、ひとりの女性の声で、
「こんにちは。よろしくお願いいたします。」
と、いう声が聞こえてきた。何だ、人の家に入ってくるのなら、お邪魔しますとか、そういうことを言うんじゃないのと思いながら、由紀子は、玄関の方を向いた。同時にふすまが開いて、
「こんにちは。右城先生。紹介します。僕のところに目下、ピアノを習いに来てくれています、横山繭子さんです。」
と、浩二が一人の女性を連れてやってきた。浩二自身は背広姿だったが、横山繭子さんという女性は、一寸古着だと思われる、訪問着を身に着けて、帯を文庫結びに結んでいた。
「ああ、どうもありがとうございます。ずいぶんかわいらしい着物じゃないですか。よく似合いますね。」
水穂さんは、彼女の着物を見てそういうことを言った。由紀子から見たら、かわいらしい着物というわけではない。エメラルドグリーンの地色に、刺繍で桐紋を入れただけの訪問着で、袖は60センチくらいあり、かなり古いものを着ていると思われる。最近は古着着物を安く売るリサイクル着物という商売もあるが、それの中でも、古典的な柄の着物はものすごい安いと聞いたことがある。由紀子は、そういう着物を着ている人が嫌いだというわけではないのだが、いまとなっては大した額にはならない古着の着物を、そうやってかっこつけて着用しているというのは、ちょっといやだった。着物を着るのであれば、化繊とかそういうものでもいいから、今の時代に合った、ちゃんとしたものを着てもらいたいと思う。水穂さんは良く似合うねと言っているけれど、由紀子は、そういう風には見えないのであった。
「初めまして。横山繭子と申します。どうぞよろしくお願いします。」
と、彼女はそういってあいさつした。文庫結びに帯を結んでいるが、多分、作り帯を入手したのだろう。彼女が自身で結んだというより、和裁の先生か何かにお願いして、作ってもらったというような感じだ。繭子さんは、しっかり挨拶はしてくれたのだが、由紀子は自己紹介する気になれなかった。
「どうもありがとうございます。僕は、磯野水穂、旧姓右城です。彼女は僕の世話をしてくださっている今西由紀子さんです。」
水穂さんが自分を紹介してくれたので、由紀子はちょっとほっとするのであった。
「と、いうことは先生は、婿養子という形で結婚されたんですか?」
と、繭子さんは聞いた。
「ええ、まあそうです。そういうことになりますね。」
と、水穂さんは答える。
「そうなんですか。珍しいですね。どこか婿養子が必要な方がいたのでしょうか?どうしても家業を継がなければならない女性だったとか?」
繭子さんはそういうことを言っている。由紀子は彼女にたいして一寸イラっと来てしまったのであった。何でそういう事まで言わなければならないのだろう。
「繭子さん。変なことまで質問してはいけませんよ。すみません、彼女は思ったことをなんでも口にしてしまう癖がありまして。日ごろから気をつけろとは言ってあるのですが。」
と、浩二が急いでそういった。確かに繭子さんは、一寸変だなと思われるところがあった。その目は常に一点を見つめることはなく、四畳半にあるものをきょろきょろと観察している。グロトリアンのピアノ、着物を入れてある桐箪笥、古ぼけた座布団と机。彼女は、それを興味深そうに眺めているのだ。
由紀子はなぜ、彼女をとめないのか、おかしいなと思い始めた。
「それじゃあ、繭子さんが緊張しすぎてもいけませんから、レッスンを始めましょうか。では、繭子さん、一曲通して弾いてみてくれますか。」
と、浩二が言うと、繭子さんははいと言って、よいしょと立ち上がり、水穂さんのグロトリアンのピアノの蓋を開けて、譜面台に楽譜を置き、よろしくお願いしますと頭を下げた。
「シューマンの花の曲を弾きます。よろしくお願いします。」
そういって、繭子さんは、ピアノを弾き始めた。確かに、演奏技術もあって、演奏としてはよくできているとおもった。でも彼女の性質なのだろうか。長く伸ばす音符などが短すぎる。もうちょっとゆったり構えてもいいのではあるまいか。
花の曲はさほど長い曲ではなく、数分で終わってしまった。というより、彼女が演奏を気ぜわしくしているから、短い曲のように見えてしまっただけなのかもしれない。
「どうでしょうか。」
演奏し終わった繭子さんは、急いでピアノのイスから降りた。
「ええ、技術的にはよくできていていい演奏だと思います。ですが。」
「ですが?」
水穂さんの批評に、繭子さんは真剣な顔をしてそう聞いた。
「もうちょっとテンポを落としてもいいと思います。其れと、伸ばす音は、意識して伸ばすようにしてください。あなたは、落ち着くというのがとても難しいと思うから、伸ばす音に出くわしたら、意識して、数字を数えること。これを心がけるようにしてくだされば、もっと楽に弾けると思います。」
水穂さんは、繭子さんに言った。なんで、水穂さんは、こんなに繭子さんに対して気を遣うのだろうかと思う。由紀子にしてみれば、繭子さんの演奏は、たいしてうまくもないと思う。だって気ぜわしく音が動いているし、水穂さんが指摘する通り、音が短すぎる。クラシック音楽をやるのだから、こんなにガサツな演奏ではいけないのではないかと思うのだが。
「先生、テンポを落とすってどれくらいなんでしょうか。私、具体的にメトロノーム記号で言ってくださらないとわからないんです。」
繭子さんがそういった。水穂さんにこんな事を言っていいのかと由紀子は思うのであるが。
「ええ、そうですね。ちょっと待って下さいね。」
水穂さんは立ち上がって、本箱の中から、楽譜を一冊取り出した。由紀子は、手伝おうかと思ったが、水穂さんは、それはさせなかった。繭子さんが使っていた楽譜は、インターネットでダウンロードしたものらしく、音符の書き方に一寸違いがあった。最も由紀子は楽譜が読めないので、詳細は分からなかったけれど。
「原典版には69と書いてあるから、ご自宅にかえったら、メトロノームで測ってみていただけたらと思います。」
水穂さんはそういった。
「わかりました。ありがとうございます。その原典版というものはどこで手に入るのでしょうか。」
繭子さんはまた変なことを聞くものだ。
「ええ、楽器屋さんに行けば手に入りますよ。」
と、水穂さんが答えると、
「最近は、フリマアプリでも手に入りますよね。繭子さん、花の曲原典版とでも検索してみたらいかがですか。其れだったら、定価より安い値段で買える可能性もありますよ。ほかの手段でしたら、神保町の古本屋の通販サイトでも買うことができます。」
と、浩二が付け加えた。水穂さんもすぐにそうですねと言い直した。確かに楽譜は、今はインターネットで買えるほか、フリマアプリなどでも、安く買えることが在るし、古本屋の通販サイトでも買うことができる。だけど、なんで中古品の事を、繭子さんの前で出すんだろう。そうじゃなくて楽器屋さんで、買えるにとどめておくだけにしておけばいいのに。
「よかった。原典版というと、自筆譜と一緒ということですよね。だからものすごいお金がかかるといわれるかもしれないから、私ドキドキしちゃった。」
と、繭子さんは言った。思ったことを何でも話してしまう癖があると浩二が言っていたが、どうもそれが度を越していると由紀子は思った。癖があるのなら、自分で抑制しようと思わないのか。少なくとも普通のひとであれば、悪い癖を、何とかしようとするようなそぶりを見せるはずなんだが、、、。
「ああ、大丈夫ですよ。別に新品に限るとかそういうことはありませんし、中古でもまだまだ使えるもののほうが多いですからね。今は、簡単になんでも捨てちゃう時代ですから。手段はなんでもいいですから、ぜひ、原典版を入手していただきたいですね。」
「わかりました。私は物忘れがひどいので、紙に書いておきます。」
水穂さんがそういうと、繭子さんは手帳を広げて、花の曲原典版と書き込んだ。その手帳の使い方も何かおかしいのだ。何だか適当に書き込んだというか、ありとあらゆる事を急いで書き込んだというような感じがある。とても整理して書いたというような感じの手帳ではない。それどころか手帳自体が、どこかに何回も落としたのだろうか、汚れている個所が結構ある。
「ああ、すみません。私、落とし物をする癖もあるんです。この前、雨が降っているときに手帳を道路に落としてしまった事がありまして。だから、こんなに汚れてしまったんですよ。」
と、変な顔をして手帳を眺めている由紀子に、繭子さんはそういった。何だか悪びれた様子もないし、恥ずかしがっている様子もない。其れで当たり前というか、もう起こってもしょうがないというような顔をしている。
「まあ、悪い癖は、これから生きていくにあたって、治っていくと思いますから、それよりも、繭子さん、今日右城先生に言われたことをちゃんと守って、しっかり練習してきてくださいね。コンクールまで、あと、一か月ですから。」
と、浩二が言うと、繭子さんは、そうでしたねといった。
「コンクール何て私が出てもいいのかと思うんですが、桂先生がどうしても出て欲しいっていうものですから。」
「ああ、そうですか。コンクールは、緊張しますよね。無理をしすぎないで出場してください。」
水穂さんはにこやかにわらって、繭子さんに言った。もうその白い顔は疲れてしまっているということを示していた。でも、繭子さんは、それを読み取ってということは全くしないようだ。
「先生。ほかに注意点がありましたら、何でも言ってください。私、今日みたいに偉い先生に診てもらうことはできないと、思っていますから、可能な限り治せるところは治そうと思います。」
繭子さんは水穂さんに言った。水穂さんはそうですね、と言って、
「ええ、もう少し、音楽に体を乗らせるというか、そういうことを考えてください。其れから、一つ一つの音をとるのも大事ですが、大きなフレージングを考えることも又大切ですよ。そこも意識してくだされば、もっといい線まで行けると思います。」
といった。
「ありがとうございます。先生。私、予選で落ちてしまうと思うんですけど、でも、当日はできるだけ、自分の力を出したいと思いますから。」
「あら、そんなこと言って。繭子さん、そんなこと言わないで何とか本選に出られるように頑張ってみましょうよ。」
浩二がそういうが、繭子さんは、なんだかわかっているようなところもあるのだろうか。そこまで自信があるようではなかった。それはわかっているのなら、由紀子はちょっと安心した。
「まあ、私が本選に出ることはたぶんないと思います。家族もそういってました。私は、桂先生のピアノ教室にはいかせてもらっているけど、コンクールに出て、本選まで行くってことはできる身分ではないと思いますから。」
と、彼女はそういっている。其れはわかっているのなら、なんでその不謹慎な態度を改めないのだろうか。
「繭子さん、あなたは。」
由紀子はおもわず口に出してしまった。浩二は、もうわかってしまったかという顔をして由紀子を見た。繭子さんはそうなっても仕方ないなという表情をして、
「ええ、おかしいと思われても仕方ありません。自分でも、ほかの人と違うのはわかっています。でもどうしても、変えることができなくて。現在、働くこともできないんです。」
と、小さな声で言った。
「元々、学校でほかの同級生と話が合わないのはわかってました。私はどうしても、学校で流行っている、ビジュアル系とかそういうものを好きになれなくて、友達はできなかった。ピアノだけが友達だったんです。其れに私、高校も中退してしまって、結局、職業に就くこともできなかったし。」
「ああ、そういうことなんですね。其れを言い訳するように長々としゃべらなくても結構ですよ。」
水穂さんは、繭子さんにそういうことを言った。
「彼女は最近、精神科に通いだして、そこで病名がついたそうです。物忘れがひどい、落とし物が多い、思ったことをすぐ言うなどは、生まれ持った特徴だそうですが、それを受け入れてくれる場所を探すのが、今度の課題ではないかと思っています。其れが解決するのは、もっと時間がかかりそうですが。」
浩二が説明すると、水穂さんは、
「ええ、そうですね。大変だと思いますが、彼女が世の中の一員として認められ、幸せになることを、祈っております。」
と言った。其れは、現代の社会から言うと、飛んでもなく大変なことであると思われるが、それが、一番の願いごとかもしれないと思われた。浩二が繭子さんの現在の生活費は、家族の援助で賄っているという。そういうわけで繭子さんはできるだけ安い中古の着物を身に着けていたのだ。中古の楽譜を欲しがったのもそのせいだ。由紀子はやっと謎が解けたような気がしたが、でも繭子さんはどこかずるいというか、そういうところを、身に着けているような気がしてならなかった。
「ところで先生。あたし、どうしても聞きたいことがあるんです。どうしても私、頭の中にとどめておくことはできないので、、、。」
繭子さんがそういうことを言いだした。
「こんな事を聞いてしまうのは、とても心苦しいんですけれども、先生が身に着けていらっしゃるその着物って、まさかと思いますけど、銘仙ですよね?」
由紀子は頭がカーンと殴られたような気持ちになった。それを言ってはいけないというか、言わないでほしい質問であった。
「私、着物の事も少し勉強しているからわかるんですけどね。銘仙の着物って、確か差別的に扱われた人の、」
「その話はもうやめて!」
繭子さんが言い終わる前に、由紀子は金切り声で叫んでしまった。水穂さんが由紀子を優しそうな貌で眺めているが、その顔はまもなく苦しそうな顔つきに代わり、水穂さんは激しくせき込んでしまった。由紀子は急いで水穂さんの背中をさすってやった。浩二が急いで近くにあった吸い飲みを水穂さんの口元にもっていって中身を飲ませようとしたが、水穂さんの口元から、赤い液体が漏れ出してきたので、先に畳を汚してしまった。急いで由紀子は、水穂さんの口元にタオルを持って行って、それをふき取った。同時に浩二が吸い飲みの中身を飲ませることに成功する。幸い大した量の出血ではなく、数分後には、薬でせき込むのは止まってくれて、水穂さんは、倒れるように布団に横になった。由紀子は、急いで、かけ布団をかけてやった。浩二が、汚してしまった畳を雑巾で拭いている間、由紀子は、繭子さんを怒りに任せてにらみつけた。
「わかりました。」
繭子さんは、由紀子に言った。
「黙っています。水穂先生がそういう階級であることは誰にも言いません。私、悪い癖はあるけど、約束は守りますから。絶対に。」
由紀子は、涙が出てくるのを感じた。
花の曲 増田朋美 @masubuchi4996
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