第42話 帰ってきたリリコ①

帰ってきたリリコ


入籍後、リュウの部屋での2人の新婚生活は少しずつ落ち着いてきた。今日は久しぶりに揃ってスーパーに買い物にやって来た。

「今夜は何食べます?」

「回鍋肉は?なんか今、回鍋肉食いたなった。」

ラジャー!もと子は敬礼した。並んでスーパーに入り、家にある食材を考えながらカゴに買うものを入れていく。

「キャベツとピーマンと,,,」

リュウはキャベツを手にした時、ふと思い出した。

「そうや、もとちゃん。今月最後の週末、キップス最後の出勤や。最後に常連さん達と飲んできたいねん。いつもより帰りが遅くなるけどエエかなあ?」

リュウはおそるおそるもと子に聞いてみた。するともと子はアッサリと言った。

「うん、いいですよ。じゃあ私、その日は夜勤入れますね。そしたらリュウさんも気兼ねなく飲めるでしょ?」

「エエんか?ありがとうな。」

「だって贔屓にしてくれたお客さんのおかげでリュウさんもお金もらえてたわけだし。お礼言ってきて下さいね。」

もと子の笑顔にリュウは思った。嫁さんがもとちゃんで良かった!


キップス最後の出勤日、リュウに会えるのが最後とあってたくさんの常連さんたちがやって来た。いつもの仕事をしながら声をかけられる度に、その一人一人に丁寧に挨拶をしていた。久しぶりに顔を出してくれた客と少し話し込んだ後、リュウはフロアを横切ろうとしていきなり腕を捕まれた。

体勢を崩しかけて振り返るとそこには一人の気の強そうな感じのする美しい女とその後ろに金髪に青い瞳の男が立っていた。

「アタシがプレゼントした香り、使ってくれてるんやね、リュウ。お待たせ。やっとあんたを迎えに来たわ。」

女はそう言うとおもむろにリュウの首筋に手を回し唇を重ねた。リュウは驚いて女の体を離した。周りの客も目を丸くして見ている。

「冷たいやん。まさか私のこと、もう忘れたん違うよね?」

女の言葉にマジマジと顔を見たリュウはハッとした。

「,,,リリ?」

「フフ、やっと思い出した。何年ぶりだっけ?まあ、いいわ。とりあえずこれ渡しとく。」

リリコは白い封筒をリュウのパンツのポケットに入れると、軽く手を振り、金髪の男と店を出て行った。呆気に取られたリュウが我にかえってパンツのポケットに差し込まれた白い封筒を取り出した。開けてみると中からパリ行きの飛行機チケットが一枚。そしてリリコの名刺が入っていた。名刺にはリリコのメールアドレス、スマホの電話番号、止まっているホテルの名前と部屋番号が書いてあった。リュウは意味が分からず、仕事が終わったら連絡することにした。


常連さん達と飲みに行き、昼前にリュウは帰ってきた。夜勤明けのもと子はすでに暗い部屋で寝ていた。もと子を起こさないように隣の部屋の布団に入った。家に帰り着く前にリリコにはメールで連絡しておいた。

「チケットわざわざ取ってくれてすまんけど、俺には嫁さんがいるからパリに行くことはできん。仕事、頑張ってくれ。これからも応援してる。チケットはホテルに届けとく。」


夕方近くになり、ようやくリュウは目が覚めた。

「起きた?二日酔いは大丈夫?ご飯作ったけど食べれそうですか?」

流し台に立っていたもと子はエプロン姿で振り向いた。

「うん、二日酔いは大丈夫。味噌汁うまそう!」

豆腐と油揚げ、大根の味噌汁を美味しそうに啜るとリュウはスマホに手を伸ばした。

「なんか、メッセージたくさん来てたみたい。何度も鳴ってましたよ。」

もと子はテーブルに温め直した焼き鮭、かぼちゃのそぼろあんかけ、野菜炒めを並べていった。リュウがスマホを見るとリリコからメッセージが届いていた。

「明日から東京に移動。今夜、アタシの泊まってるホテルのラウンジに来て。話がしたい。」

チケットを返さないといけないのでどっちにしろ一度会うか。元カノに会うと言えば心配をかけると思い、食事を済ますともと子に声をかけた。

「あんな、昔の知り合いに急な用事ができたからちょっと行ってくるわ。」

上着をつかむと家を出た。


 リリコに指定されたラウンジはホテルの最上階にあった。車のライトが流れ、街の灯りがキラキラと黒い絨毯に散りばめられており、薄暗い店内からの眺めは美しかった。もとちゃんに見せてやったら喜ぶやろなあ。リュウはそんなことを思いながらリリコの姿を探した。ラウンジの窓際に長い髪を気怠げにかきあげながらボンヤリと夜景を眺めている女の姿が見えた。ドレープが美しいドレスに負けないほど美しい女。通った鼻筋にアーモンドアイの瞳。きりりとした眉に気の強さが一目でわかる。ピンヒールの似合う形の良い足を組み、時折グラスに唇をつけている。

「リリ。」

リュウの声に女が振り向いた。深紅の唇からあだっぽい笑みが溢れる。

「待ってたんよ、リュウ。」

女は目の前に座ったリュウを愛しげに下から上へと確認するように眺めた。

「予想以上にいい男になったんやね。ねえ、何飲む?いっぱいアンタと話したい。」

リリコは熱い眼差しでリュウを見た。

「リリもあの頃よりエエ女になってるやん。」

懐かしそうにリュウは目を細めた。

リリコの向かいに座ったリュウはリリコと出会った頃を思い出した。キップスに入り、ボチボチ仕事に慣れて来たある日、常連の作曲家に連れられてきたのが売れない歌手のリリコだった。オシャレな服装とは言い難いが、瞳に強い光を宿したリリコを見たリュウは一目見て、もう目を離すことが出来なかった。その時をきっかけに気がつくとリリコと付き合うようになり、リリコはリュウの家によく遊びに来るようになった。リュウの家はリュウと虎太郎の2人住まい。年上のリリコはリュウと1つしか離れていないのに売れっ子歌手になる夢を叶える事に邁進する芯のしっかりしていた女だった。高校を出たばかりで3才下の虎を養っていくことになり、リュウは本当にやっていけるのか度々不安になった。するといつもリリコはリュウを叱咤激励した。

「しっかりしいや!リュウやったら大丈夫。アタシが保障するで。」

リリコの強い眼差しでまっすぐ見つめられて大丈夫と言ってもらうと、いつも何故だか信じられた。

「俺、やっていける。」

どうにかやっていけそうな気になり、ピンチを乗り越えてきた。

リリコが居なければリュウは今までやってこれなかった。リリコは恋人であると同時に恩人である。しかし一年も付き合った頃、別れはいきなりやって来た。パトロンの作曲家の紹介で知り合ったフランス人のプロデューサーに誘われてリリコはパリに渡ることを決めた。

「アタシ、フランスに行く。待っててリュウ。絶対売れて帰ってくる。アンタを迎えに来るから。」

リュウは必死に止めた。だが夢を追うリリコの決心を変えることは出来なかった。


リリコの整った面差しを見ていると、あの頃のほろ苦い気持ちが思い出された。

「リュウ、アンタ話し聞いてるの?」

リリコに腕をつねられ、リュウは我にかえった。

「あ、あの時の約束をリリは守ってくれてんな。」

「そう。アンタを迎えに行くこと。それがあったからアタシ、頑張れたんよ。やっと迎えに来れた。ね、一緒にパリで暮らそう。」

リリコはリュウの手に自分の手を重ね、あの頃のような熱い眼差しでまっすぐリュウを見つめた。

「ごめん、リリ。それは無理や。俺には嫁さんがおるねん。」

リュウはさりげなく重ねられたリリコの手の下から自分の手を抜いた。

「知ってるわ。最近、結婚したんやんね。アンタみたいないい男に女がついてて当然。離婚は後からしたらエエやん。とりあえず一緒に暮らそう。」

リリコはリュウの腕に自分の腕を絡めた。

「無理、無理。リリも俺もあの頃と違う。ごめんな、リリ。」

リュウは申し訳なさそうに微笑むと飛行機のチケットが入った白い封筒をテーブルに置き、伝票をつかんでレジに向かった。

「アタシ、諦めないから。」

リリコはリュウの後ろ姿を見守った。

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