第41話 忍びよる影⑯
もと子が退院して数日後、リュウは川端を呼び出した。
「リュウさん、お待たせしました。棚橋さん、具合どうですか?」
仕事帰りに駅近のファーストフード前で2人は落ち合った。川端は人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「おかげさまで少しずつ元気になってきてる。ありがとうな。」
店内に入るとリュウが川端の分も支払い、川端の取った席にコーヒーを運んだ。
「晩ご飯作らなあかんから長居できんねん。今日はこんなんでごめんな。食べてや。」
「すんません、ゴチになります。」
川端は嬉しそうにパティが何段も重なったハンバーガーにかぶりついた。
「いや、今日はな、お世話になったお礼にこれ、もらって。」
リュウは白い封筒を川端に渡した。脂のついた指をナプキンで拭くと川端は封筒を開けた。
「あ!招待券!うわー嬉しいです。また遊びに行きますね。」
喜ぶ川端を見てリュウも顔を綻ばせた。
「川端君にはホンマ、お世話になったもんな。ありがとうな。あ、こっちは漆田さんに渡してくれる?」
リュウから同じ白い封筒を渡された川端は唇を尖らせた。
「これ、招待券ですか?なんであんな奴にあげるんです?」
「職場復帰した時にもとちゃんがいじめられんように、まあワイロみたいなもんかな。そんでよかったら来週の土曜日にきて欲しい。俺、挨拶したいからって伝えてくれへんか?」
「ゲ?直々に挨拶するんですか?アイツ勘違いしませんか?」
心配する川端に薄く笑うとリュウはコーヒーを飲み干した。
「大丈夫。挨拶するだけやから。」
不服そうな表情の川端はふと思い出したように言った。
「あれ、そう言えば棚橋さんが退院した日、病棟の大きいゴミ箱に落ちてました。棚橋さんが無くした婚姻届。すみません、うっかりして、今思い出しました。」
川端は伸ばしたシワだらけの婚姻届を出してきた。リュウは確かに自分のサインをしたものと確認した。
「ありがとう。不受理届を出した事、どこかで聞いてんな。」
津田のアドバイスが無かったらと思うとリュウはゾッとした。カバンに婚姻届をしまうとリュウは川端の目を真剣に見た。
「川端君、これからもなんかあったらよろしくな。」
川端はポンと胸を叩いた。
リュウに誘われて漆田は大喜びでやってきた。気合を入れて鮮やかな赤いドレスを身に纏い、ドレスに合う色を唇に置き、今夜はリュウを手に入れる。漆田はご機嫌だった。
店内に入るとすぐ男がやって来た。
「すみません、漆田さんですか?リュウさん、急に忙しくなってしばらく僕がお相手をするよう言いつかってきました。」
「はあ、アンタが代わりなの?」
ガッカリしたものの目の前の男をよく見ると、リュウと顔立ちも雰囲気もよく似ている。周りの客も同じように思うのかチラチラとこちらを見ている。漆田は少し気分が良くなった。
「仕方ないなあ。本物が来るまで我慢してあげるわ。」
「ホントっすか。ああ助かった。大事なお客さんだからってリュウさんに頼まれてたんすよ。」
ホッとして思わず見せた笑顔はドキリとするほど色気がある。もしかしたらこっちの男の方も結構楽しいかも。そう思うと自然に男に微笑んでしまう。
「僕、島村コウジです。お姉さんは?」
「アタシ?アタシは漆田桃子。」
「桃子さんはキレイで名前もキュートですね。俺のことはコウジって呼んで下さい。桃子さんって呼んでいいですか?」
「まあ、いいわよ。」
気のない素振りをワザと見せた。コウジは桃子さん、桃子さんと笑顔で何度も呼びかけて話しかけてくる。漆田が受けてやると本当に嬉しそうに笑う。しかもその笑顔はリュウに似て漆田の心をわしづかみにするフェロモンたっぷりの笑顔。気がつくと、もうリュウのことは頭から離れていた。店に来て、小一時間も経った頃、不意にコウジが漆田の肩に手を回し引き寄せた。
「桃子さん、俺じゃダメ?2人でここから抜け出さない?」
耳元に顔を寄せてコウジが囁いた。コウジのムスクの香りが漆田の心を捉えた。顔を上げるとリュウに似た、いやリュウよりも心を捉える硬質で冷たい美しい顔。漆田はもうリュウなんかどうでもよくなった。しばらくコウジと見つめ合った後、顔が上気してくるのをごまかしながら漆田もさらにコウジに顔を近づけて答えた。
「…ふーん、いいよ。」
コウジは思いっきり嬉しそうな顔をして漆田の手を握ると店の隅へとスルスルと移動し、人混みに紛れて夜の街へと2人で消えて行った。
その夜から漆田はコウジの客となった。コウジは瀬戸が経営するホストクラブのホスト。最近、一番お金を払ってくれる客が以前ほどお金を落とすことが出来なくなり、売り上げが落ちていた。コウジの雰囲気がリュウに似ていたことからマネージャーのロキが声をかけた。
「太い客になりそうな女、いらんか?」
その言葉に一も二もなくコウジは乗った。ロキにアドバイスをもらってリュウに似た風貌にして漆田の相手をすることになった。
そして、計画通り漆田はコウジにのめり込んだ。店に行き、金を払えばコウジは漆田の手を握って漆田だけを見つめてくれる。優しくささやいてくれる。時には一夜、自分だけの男になってくれる。コウジの腕の中で漆田は思った。他の女なんかに負けない。コウジはアタシだけのもの。コウジを独り占めするために他の女に負けまいとどんどんお金を注ぎ込むようになった。
リュウは川端から漆田の話を聞いた。
「漆田の奴、病院辞めましたよ。なんかホストにハマってるらしくて、ここの給料じゃ足りないって怒って辞めて行きました。」
「ほお、辞めてくれたんや。これでもとちゃん、安心して復職できるわ。それに俺のこと、諦めてくれて良かったわ。川端君、いい知らせをありがとうな。」
「いやあ、僕も嬉しいっす。気分良く働けるようになりました。」
川端とのラインを終えたリュウは、TVを見て、笑い転げているもと子に知らせた。
「え?ホント?漆田さんには悪いけど、嬉しい。これで安心して働ける。」
もと子は抑えきれない笑顔を滲ませた。
「良かったなあ、もとちゃんが安心できて俺も嬉しい。」
リュウも心からの笑みを浮かべ、もと子の髪を優しく撫でてやった。
もと子が病院に復帰する前日、リュウともと子は2人で婚姻届を出しに行った。市役所の帰り、いつもよくお参りする近所の神社に寄った。2人は拝殿の前で神様にご挨拶をした。この日に合わせて準備した結婚指輪をリュウはポケットから出した。
「もとちゃん、神様の前で誓います。もとちゃんを幸せにします。」
リュウはもと子の左手を取り、薬指に結婚指輪をはめた。
「私もリュウさんを幸せにします。」
もと子は顔をほのかに赤らめてリュウの左手薬指に結婚指輪をはめた。
2人は微笑んで顔を見合わせた。
神社の賽銭箱の前で2人ならんで柏手を打った。
「俺ら、幸せになれますように。末長く一緒にいられますように。」
お互いの薬指に指輪をはめあい、2人きりの結婚式を挙げた。本当の結婚式はもと子の病院の年季が明けてから上げる予定。先に届けを出したのは、もと子が退院後しばらくして新たに理事長と正樹が証人としてサインしてある婚姻届が送られて来たので、ならばと籍を入れることにしたのだった。さらにリュウとしては正樹の心変わりがないうちに、という思いもあった。
もと子は神社を出てからも左手薬指に煌めく結婚指輪を何度も目の前にかざしてウットリとながめた。
「ゴメンな、もとちゃん。婚約指輪やれんで。」リュウは心から申し訳なさそうに謝った。
「そんなの気にしないで下さい。結婚指輪さえ有れば充分。」
今まで見たことのないようなこの上ない笑顔でもとこはリュウに微笑み、その腕につかまった。
「結婚式までには用意するわ。でも高いもんは買うてやれん。ゴメンな。」
「念願叶って、リュウさんのお嫁さんにしてもらえたんですよ。これ以上贅沢言ったらバチが当たります。」
いたずらっぽい目をしてもと子はリュウを見上げた。
「俺の方こそ、もとちゃんみたいないいお嫁さん貰えて神様に叫びたい、ありがとうございますって。」
「ワタシらいい夫婦かも。」
嬉しそうにもと子が言うと、当たり前や!とリュウも笑った。
「あ、そうだ。入籍の記念に行きたいところがあるんです。」
「ん?どこ行きたい?」
「六甲山。」
ゲ!リュウはもと子の顔をマジマジと見た。
もとちゃん、怒ってる。根に持ってる。リュウは焦った。緊張した。
「え?そんな緊張しないで下さい。六甲山って私達にとっていい思い出がないじゃないですか?でも六甲山っていい所でしょ?だから楽しい思い出で上書きしたいなあと。」
「あ、なんや。そうかあ。よし、そんなことなら是非行こ!」
リュウはホッとした。面には出さないが、気にしてくれているリュウの様子がもと子は実は嬉しかった。
あ!と言うとリュウはまた申し訳なさげにもと子に謝った。
「ごめん、もとちゃん。次、六甲行くのは電車とかケーブルでもエエか?金無いから車借りるのはキツいわ。でももとちゃんがどうしても車でないと嫌やって事ならどうにかするで。」
「車にこだわりないですよ。ケーブルから見える眺めは良いのかなあ?」
「そら、車道から見える眺めと違って景色もエエやろ。」
「あ、だったらケーブル乗ってみたいです!」
「もとちゃん、六甲山は有馬温泉からも行けるみたいやで。」
「有馬温泉も行ってみたいです!温泉、温泉!」
もと子はリュウと繋いだ手を大きく何度も振った。
「リュウさん、絶対行きましょうね。約束!」
もと子が出してきた小指にリュウも小指を絡めた。指切りげんまん嘘ついたら針千本
飲ます、指切った!もと子は新しい楽しみが出来て、ますますご機嫌になった。俺はエエ嫁さんもろたなとリュウは嬉しくなった。
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