第39話 忍びよる影⑭、

もと子と久しぶりに仲直りができ、リュウは笑顔で見送られた。婚姻届は年季明けまで待たずに退院したらすぐ出そうということになった。住むところは年季明けまではとりあえずリュウの部屋に。一つずつ結婚に向けて話が進むことにもと子の表情は少しずつほぐれていく。

「リュウさん、明日も来てくれる?」

まだ表情は固いもののリュウの手を握って甘えてくるもと子の頭を優しく撫でて、リュウはもちろんと応えた。

もと子の笑顔を思い出しながら帰宅の道すがら瀬戸にもと子と仲直り出来たことをお礼の言葉と共に伝えた。

「仲直りできたきっかけなんですが、理事長さんが婚姻届を持って来て、もとちゃんの目の前で理事長さんと正樹先生が証人のところを書いて、もとちゃんに渡したんですよ。」

「オバハン、なかなかやるやん。」

瀬戸は婚姻届の話を聞き、クスクス笑った。

「本当に瀬戸さんと八重さんのおかげです。お二人が理事長さんに、もとちゃんの事を知らせてくれたから理事長さんも動いてくれたんです。ありがとうございました。」

リュウは電話越しに深々と頭を下げた。

「役に立って良かったわ。けどなあ、もと子がおかしいと連絡してきたのは津田なんやわ。心配してたからアイツにも知らせたって。」

リュウは瀬戸への電話を切るとすぐ津田に電話を入れ、津田が心配してくれたお礼と仲直りができたことを伝えた。

「津田さん、理事長が婚姻届を用意してくれたんですよ。理事長と息子の先生が証人に署名してくれて、俺も書けるところは書いてもとちゃんに渡したんです。もとちゃん、泣いて…」

「良かったな。で、いつ出すんや?」

「もとちゃん、手に力が入らなくて署名でけへんかったんです。明日、ハンコ持って行って届を完成させて、必要な書類揃ったら相談して出そうかなと。」

「そうか、届はお前が持ってんねんな。」

「いえ、もとちゃんが今夜、眺めながら寝たいって持ってます。」

すると津田は少し焦ったような声を上げた。

「お前さあ、お前が自分のとこ全部書いてて、相手のとこ、誰かに署名、押印されて書類揃えて出されたら、知らん奴とお前結婚したことになるんちゃうんか?あのなあ、お前は元気で入院なんてしたことないから知らんやろうけど、病院って結構泥棒入るんやで。悪いことは言わんから明日、朝イチで住んでるところの市役所行って、婚姻届不受理届を出して来い。」

思いがけない話にリュウは津田の話を聞くうちにだんだん怖くなってきた。

「考えたことも無かったです。ありがとうございます。俺、絶対行ってきます。」

なかなか寝付けず、寝不足の頭をかかえたままリュウは次の朝、職場に連絡を入れると朝イチで市役所に行った。幸いにも婚姻届は出されておらず、無事に婚姻届不受理届を出すことができた。


その夜、仕事が終わるとリュウはもと子の病院に飛んで行った。もと子の病室に入ろうとして、ふとネームプレートを見ると、そこには知らない名前が。驚いてナースステーションに行き、もと子が4人部屋に移った事を知った。もと子の移った病室のドアを開けると窓側のベッドにもと子が背中を向けて横になっていた。リュウは同じ部屋の人達に会釈して、もと子のベッド脇に立った。

「もとちゃん、どう調子は?部屋移ったんやな。もとちゃん、おらんって焦ったわ。」

リュウの声にもと子が振り向いた。その顔は強張っていた。

「リュウさん、どうしよう。」

みるみるもと子の目に涙が盛り上がった。

「どうしたんや、もとちゃん?」

体を起こしたもと子はリュウの腕にしがみついた。

「婚姻届、なくなっちゃいました。どうしよう。私、リュウさんのお嫁さんになれない…」

「だ、大丈夫、こんなこともあろうかと誰かが出しても受理されへんようにしてきた。津田さんが昨日教えてくれたから朝イチで手続きしてきたんや。」

「ホント?私、リュウさんの奥さんになれる?」

「なれる、なれる。俺の嫁さんはもとちゃんだけ。心配せんと早よ元気なり。」

涙目になりながらもホッとした表情のもと子の手を握り、リュウはもと子の前で微笑んだ。しかし、心の中ではドッと冷や汗をかいた。


そこへ川端がひょっこり顔を出した。

「棚橋さん、どう?あ!リュウさん!」

川端はリュウを認めて嬉しげな声を上げた。

川端が一緒に婚姻届を探してくれたことをもと子がリュウに説明した。

「川端君、いつもありがとうな。」

いやいや、と手を振ると、川端は眉を下げて残念そうな顔をした。

「結局見つけられなかったからお役に立ってないんです。」

「いいの。大丈夫になってん。リュウさん、川端君はどうすればリュウさんが考え直してくれるかの相談も乗ってくれてたんですよ。」

「ホンマか?川端君にまで心配してもらったんか。ありがとうな。」

リュウはあらためて川端に頭を下げた。川端はリュウのそばに屈むと声をひそめた。

「何言ってんですか、前から僕は2人の味方ですやん。」

3人は顔を見合わせると微笑みあった。

「あ、ゴメン、川端君、まだ仕事やんな。おしゃべりしてすまん。」

「大丈夫です。僕、もう上がりなんですよ。棚橋さん、なんか協力出来ることあったらいつでも声かけてね。じゃあ」

川端が会釈して立ち去ろうとすると、リュウも立ち上がり、もと子に振り返った。

「ちょっと待って、川端君。もとちゃん、川端君にお礼したいねん。一緒にご飯行ってええか?」

「はい、婚姻届のことは大丈夫とわかったし、私の分もお礼してきてください。」

もと子はニッコリして、2人を送り出した。


リュウと川端が出て行った後、もと子はリュウが差し入れてくれた雑誌を手に取り、パラパラとページをめくった。すると向かいのベッドのお婆ちゃんが話しかけてきた。

「お姉ちゃん、アンタが探してた書類って婚姻届やったんか?」

「あ、はい。そうなんです。あ、探すのうるさかったですよね。すみません。」

もと子はハッとして、申し訳なさそうに頭を下げた。

「そんなん、ええんよ。それより大事な物やってんね。で、結局見つからず?」

「…はい。でもなくした婚姻届が誰かの手に渡って悪用されるっていうか、誰かが彼と結婚しようとしても出来ないように彼が役所に届けを出してくれたみたいで、ホッとしました。」

「あ、そうなんや。良かったね。」

お婆ちゃんもホッとしたような顔をして笑顔を見せた。

「お姉ちゃん、早く彼氏と結婚できるよう、早よ治さなあかんね。」

「はい、頑張ります。」

少し強張りが残るもののだいぶほぐれた笑顔をもと子はお婆ちゃんに見せた。


 病院を出たリュウと川端は病院と反対側にある駅を通り越したところにある居酒屋に入った。2人はおしぼりで手を拭きながらメニューをを眺めた。

「川端君、いつも、もとちゃんの事、気にしてくれてありがとうな。ピンクに集まった時も川端君がもとちゃんとシフト代わってくれたんやろ?今日は好きなん食べて。」

大したことして無いですよ、と言いながら川端は嬉しそうにメニューを何度もめくり直して注文をした。

まずはビールで乾杯。久しぶりに憧れのリュウと2人で飲めて川端はご機嫌だった。

「リュウさんと棚橋さん、仲直りしてくれて本当によかったです。」

「まさか、川端君まで巻き込んでるとは。本当に心配してくれてありがとう。」

リュウはあらためて川端に頭を下げた。

「頭上げて下さいよ。棚橋さんとリュウさんがうまくいってくれないと僕、リュウさんと飲めないじゃないですか。」

川端はとんでもないという顔をした。

「今回は大変でしたよね。でも、これでお二人の絆も深まったみたいだし、職場でも漆田の奴の事をみんなわかってくれて良かったです。」

「漆田って、前に教えてくれた意地悪女やな。」

「そうですよ。棚橋さんが運ばれて入院して、しばらく働けないってわかった時、アイツ、男に振られたぐらいで自殺するなんてバカみたい、こんな事で休まれて迷惑やって僕やそばにいた人らに言うたんです。」

「もとちゃん、死ぬかもしれんかったのに…」リュウも悔し気に顔を歪め、拳を握りしめた。「その上、棚橋さん休んで忙しなってるのに時々、リネン室で整理するふりして一服してるんですよ。」

「リネン室?」

「面談室の隣ですね。」

リュウは嫌な予感がした。

「それに何かあるたびに、誰かのせいで忙しい、とか言うんで、みんなウンザリしてます。だから士長が棚橋さんの部屋の担当にアイツが来ないようにしてるんですよ。」

川端はぷりぷり怒りながら唐揚げを食べた。

「士長さんにも助けてもらってるんや…」

「正樹先生が棚橋さんにアタックし始めてからは棚橋さんが困ってるのはみんなわかっているのに漆田が、ことあるごとにくっつけようとするんですよ。」

「そんなことがあったんや。」

漆田…覚えとくわ、リュウは眉間にシワをよせ、目を細めた。


川端と別れ、部屋に戻ったリュウは、スマホを充電しようと取り出した。見ると画面には正樹からメッセージがあった。

「話したいことがあるから連絡下さい。」

リュウは慌てて正樹に電話した。コール3回で正樹が出た。

「先生、須崎です。もとちゃん、具合悪くなったんですか?」

焦った声に正樹は慌てて、棚橋さんとは無関係な用事で、安心するよう話した。リュウは大きなため息をついた。

「須崎君、本当に棚橋さんが大事なんだね。」

今度は正樹が大きくため息をついた。

「安心してください。僕は来月東京の病院に移ることになりました。あらためて、須崎君と棚橋さんに謝りたい。僕が意地を張ったばっかりにこんなことに。本当に申し訳なかった。」

正樹が電話の向こうで深々と頭を下げている様子がうかがえた。

「先生、もういいんです。ピンクのママから聞きました。スタッフルームの清掃をしてもらったそうですね。ママの大事な店を汚してしまって俺らどうしようって悩んでたんで本当に助かりました。」

「それは彼女を追い込んだ結果だから、ご迷惑料ですよ。気にしないで下さい。」

「ありがとうございます。それに俺たちも先生に謝んなきゃならないことがあるんです。せっかく書いてもらった婚姻届をもとちゃん、なくしたんです。本当にすみません。」

「え、なくした?」

リュウは不思議そうに答えた正樹に今朝、気がついたら婚姻届がなくなっていたことを話した。

「それはなくしたというより、盗られた可能性もありますよね。」

「ええ、俺は盗られたんじゃないかと思ってます。川端君に聞いたら最近リネン室でサボる奴がいるらしいし。」

「リネン室で?…実はもう一つお伝えしたいことがあります。棚橋さんのことを僕に言ってきた人がいて、まあ煽られたんですが、その人が棚橋さんのこの状態を知っているにも関わらずしつこく諦めるなと迫って来たんですよ。もちろん、キッパリ断りました。でもその人、棚橋さんの同僚なんで気をつけた方がいいと思うんです。」

「そいつ、もしかして漆田って奴ですか?」

「知ってるんですか?」

正樹は思わず大きな声を出してしまった。

「リネン室でサボる奴、そいつです。それに以前、もとちゃんと買い物していたら偶然会って声かけてきましたよ。俺のファンだって。もとちゃんが横にいるのに俺の腕に手を絡ませてきて、家までついてこようとしました。」

リュウは吐き捨てるように言った。

「婚姻届の件、漆田君があやしいですね。僕も気をつけてみてますが、須崎君達も気をつけて。」

スマホを置くとリュウはアゴに手をやり、憎々し気につぶやいた。

漆田、待っとけ、俺はもとちゃんを苦しめるお前を許さんからな。それにしても早めに手を打った方が良さそうやな。

リュウの目が冷たく光った。

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