第38話 忍びよる影⑬
次の日の夕方、リュウはもと子の病室に行った。6時に面談室に呼ばれている。少し早めに病室に行った。リュウが来ても、相変わらずもと子は天井を見たまま、微動だにしない。
「もとちゃん、具合どうや?昨日八重さんから聞いた。もとちゃんを苦しめてごめん。もうずっと側にいるから許してくれ。」
「…信じられません。」
もと子は少し首をまわし、リュウを見つめて一言だけ弱々しく呟いた。
「もう一度だけ、もう一度だけ俺にチャンスをくれ、頼む!」
リュウは必死の形相で土下座した。
コンコン。ノックと同時にドアが開いた。
「今日の6時に…はあ?またこんな事して!いい加減にして下さい!」
主治医の戸村は苦々しく言うと、リュウの腕を取って立たせた。
「確認です。棚橋さん、婚約者さん、2人とも6時に面談室に来て下さい。理事長も来ますので。それと、あなた、ちゃんと手を洗って下さいよ!棚橋さんが感染症になったらどうするんですか!痴話喧嘩は退院してからにして下さい。」
戸村はプリプリ怒りながら病室を出ていった。
リュウはため息をつくとベッド脇の椅子に腰掛けた。
6時。リュウは足元のふらつくもと子を車椅子に乗せ、面談室に入った。面談室は6人がけのテーブルとイスのセットがギリギリ入るほどのスペース。奥の窓側に理事長と息子の正樹、手前に主治医の戸村が座った。向かい側、理事長の前にもと子、隣にリュウが座った。戸村が話し始めた。
「今日は理事長からお話があるようなんですが、その前に私から一言。」
戸村はリュウを睨みつけた。
「あなたね、なんで土下座するんです。2回めですよね!汚いんですよ。病室の床は!」
「先生、すみません。どうしても彼女に許してもらいたくて。もとちゃん、俺のせいで心が壊れてしまったんです。俺、一生かけて償いたいんです!」
リュウは必死の形相でもと子を見つめた。
「重いです。償っていらないです。」
もと子はリュウの顔すら見ずに答えた。
「もとちゃんが要らなくても俺は償う。ずっともとちゃんの隣におるで。」
「もういいです。」
「俺は諦めへん。」
リュウはもと子を睨みつけ、もと子はやや眉をひそめて2人の言い合いが続いた。
バシッ!机が叩かれた。
「ああ、もういい加減にしてください!盛り上がってるところ悪いけど、棚橋さんのそれは一時的なものだと思いますよ。時間かかるかもしれませんけどね。」
戸村は今度はもと子に向かって吠えた。
「棚橋さん、婚約者さんがこれだけ謝ってるんだから許してあげたらどうですか?こんな事を言うのもなんですが、あなたね、男から見たら大した事ないでしょ。婚約者さんほどのいい男、今回逃したら二度と来ないよ。いい加減、意地張るのはやめた方がいいですよ。」
もと子は少し目を見開き、その顔は赤みがさしてきた。
「ちょっと待って、先生。心配してくれるのはありがたいですけど、先生、言い過ぎやわ。もとちゃんはよく笑い、よく泣く表情豊かな子なんですよ。笑顔なんかめっちゃかわいいんです。それにもとちゃんはものすごい頑張り屋で、この年頃の女の子が男や遊びにうつつ抜かしてるのに夢に向かってオシャレもせんと頑張り続けたんですよ。頼れる人もおらんで1人で頑張り続けてきたスゴイ奴なんです。」
リュウの言葉にもと子は少し驚いた顔をした。
「今回、もとちゃんが怒るのは当たり前なんです。もとちゃんも俺も金では苦労しました。だから豊かな生活ができるなら、俺と居るよりもとちゃんは幸せになれると信じた。でももとちゃんは違った。金より俺を選んでくれたんですよ。なのにもとちゃんの幸せを願いながら、もとちゃんの気持ちを無視してしもた。その結果がこれですよ。全て俺が悪いんです。もとちゃんが俺を信じてくれるようになるまでなんでもします。どこまででも待ちます。だからいいんです。」
リュウは言い切るとくちびるを噛んだ。
すると、やり取りを見ていた理事長が割って入った。そしてまだ不服そうな戸村を宥めて、面談室から追い出した。理事長はあらためてリュウともと子の2人を見た。
「須崎君の言う通り。棚橋さんはアタシに言ったわ、アルバイト先を一緒に探してくれたり、ナイフを持つ暴漢に須崎君が躊躇せず飛び込んで助けてくれたのよね。頼れる人がいなくて心細い思いをしていた彼女にとって須崎君は身内のような安心できる存在だったのよ。彼女、寮が焼けて須崎君の家に居候させてもらった時に須崎君が作ったお弁当の写真、大事そうに見せてくれたわ。友達が出来たのは須崎君のキャラ弁のおかげなんですってね。須崎君、棚橋さんに友達作ってあげたくて毎日頑張って作ったのよね。明け方帰ってくるから、眠かったでしょ?それをおして、おやつまで持たせたのよね。もう本当のお兄さん以上よね。この子ね、須崎君がカッコいいって話したのはちょっとだけだった。この子は須崎君自身が大好きなのよ。」
リュウは理事長の言葉を目を潤ませて聞き、傍のもと子も俯いてしんみりと話を聞いていた。
「これだけ須崎君に思い入れがあるのに須崎君に振られて棚橋さん、苦しかったと思う。絶望したのよね?」
もと子は理事長の顔を見ると悲しげにうなずいた。
「だから、須崎君が土下座して謝ったって早々信じられないわよね。だから…」
理事長は持ってきたファイルから何やら用紙を一枚取り出し、下の方に何かを書いた。書き終えると、その用紙を隣の息子の正樹に渡した。正樹も母の理事長の書いたところをチラチラ見ながら書いた。そして押印。理事長も自分の印を押した。その用紙をファイルに挟み、リュウの前に滑らせた。
「証人欄は書いた。あとはあなた方に任せたわ。」
用紙を手に取ったリュウは驚いた。
「…婚姻届?えっ?」
「須崎君、口だけじゃ、棚橋さんは信じられないじゃない。」
理事長はしれっと言った。次は正樹がもと子に向かって語った。
「棚橋さん、僕が証人欄にサインしたってことは、もう君を諦めた、君達の結婚を認めるってこと。ゴメン、君をこんなに苦しめて。本当にゴメン。」
正樹は苦しそうに頭を下げた。そしてリュウに向かった。
「須崎君、僕が言うのもなんだけど棚橋さんのこと頼みます。もう、2人の邪魔はしない。応援するから安心して。」
「先生…ありがとうございます。理事長さん、ありがとうございます。」
リュウは立ち上がると深々と頭を下げた。
「いいのよ。こちらこそ、本当にごめんなさい。須崎君、それよりあなた、いつサインするの?早くしてあげたら?棚橋さん、いっぺんに治るんじゃないかしら?」
理事長の言葉に笑顔でうなずくとリュウは用紙をファイルから取り出した。
「用紙の下に見本を入れといたわ。2人で相談しないと書けないところもあるでしょうから書けるところだけでも書いたら?棚橋さん、安心するでしょ。」
リュウは書けるところを全て書くと、もと子に用紙を見せた。
「必要な書類、俺が手配してええかなあ、もとちゃん?」
渡された用紙を手に取り、リュウの顔を見上げるともと子は婚姻届をぎゅっと胸に抱き締めた。理事長、正樹、リュウの顔を順番に見た。
「理事長、先生、リュウさん、ありがとうございます。」
深々と頭を下げたもと子の涙がこぼれ落ちた。
理事長は微笑むと自分のペンを差し出した。
「あなたも書けるところを書いとく?」
理事長からペンを預かると、もと子は婚姻届に名前を書こうとした。見本で試し書きしようとしたところ、力が抜けて字が揺れてしまった。
「リュウさん、なんか力が入りません。」
もと子は困ったようにリュウを見た。
「かまへん。もとちゃんが書く気になってくれただけで今日は充分。明日、2人のハンコ持ってくるから、その時に書こう。」
リュウはもと子の背中をさすった。ぎこちない笑顔をリュウに向けると、もと子は謝りながら理事長にペンを返した。
「婚姻届出したら教えてね。お花ぐらい贈らせて貰うわ。八重さんによろしくね。棚橋さんのことわざわざ電話で教えてくれたのよ。瀬戸さんって人も須崎君のこと心配してた。あなたたち愛されてるのねえ。」
理事長は笑顔で2人に声をかけると難しい顔をしている正樹と面談室を出て行った。
「もとちゃん、いつ届出すか相談しよう。届、持って帰ろうか?」
リュウが声をかけると、もと子は首を振った。
「今夜だけはこの届を見ながら眠りたいです。」
リュウは微笑みながらうなずくと、婚姻届の入ったファイルを胸に大事に抱き締めているもと子を乗せた車椅子を押して病室に戻った。
その頃、ナースステーションでは中村と川端と漆田が言い合いをしていていた。
「漆田さん、どこ行ってたの?探したんだけど。」
「ああ、師長、川端がリネンをいい加減にして整理していたので直してたんです。ホント、ちゃんとやって欲しいわ。」
「俺、ちゃんとリネン整理しましたよ。変なこと言わないでくださいよ。」
「何言ってんの、アンタがちゃんと出来ないからアタシが気をきかして整理してあげたんじゃない。」
「リネンが整理できてなかったなら川端君にやらせて。漆田さんは自分の仕事してくれないと困るでしょ。」
「アンタのせいで叱られた。ホント、使えない。」
漆田は川端に捨て台詞を吐いて、向こうへ行ってしまった。
クソババア!そう心の中で愚痴ると川端は小さく舌打ちをした。
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