第37話 忍びよる影⑫

 次の日、朝からもと子の着替えや、入院に必要なものを持ってリュウはもと子の病室にやって来た。もと子は昨夜、病室に入るとしばらくして目を覚ました。ただ麻酔が残っていたようでボンヤリしていて、チラリとリュウを見た後、看護師と少し会話し、また眠りについた。

リュウは着替えや、洗面道具等をベッド横の物入れに片付けていた。ふとベッドがきしむ音が聞こえた。

「もとちゃん、起きたんか?」

リュウが慌ててもと子の方を見ると能面のような無表情のもと子がリュウを見ていた。リュウは思わずもと子の手を握り、頭を下げた。

「もとちゃん、ホンマ、ごめん。俺が悪かった。」

「,,,」

リュウが握りしめた手は全く握り返されることはなかった。リュウが頭を上げると、もと子と目が合った。その目はどんな色もうつしていなかった。

「もとちゃん?」

「,,,リュウさん、別れましょう。」

「お、怒ってんのか?そら、そうやな。ごめん、ごめん、もうもとちゃんと別れたいなんて言わへん。だから許してくれ。」

「私の荷物、着払いで送ってくれますか?」

もと子は力のないかすれ気味の声で言った。

「う、嘘や!頼む、頼む、そんなん言わんといてくれ。許してくれ!」

リュウは声を震わせて、病室の床に土下座した。

コンコン。ノックの音と同時に病室のドアが開いた。主治医戸村は床に土下座する男の姿に驚いた。

「な、何してるんですか?こんな所でそういうの早くやめて下さい!」

戸村はリュウの腕を取るとサッとたたせた。リュウはひどくうなだれて、戸村に謝った。

「すみません、彼女に許してもらえなくて、つい。」

戸村はリュウを一瞥すると、もと子を診た。戸村が病室を出ていくと、リュウは力なくもと子の側に座った。

「,,,もとちゃん。」

「今日は来てくださってありがとうございました。もう大丈夫です。お帰りください。」

もと子はリュウと目を合わすこともなく、天井を向いたままかすれた小さな声で話した。

「…もとちゃん、ちょっと出てくる。すぐ戻るから。」

青い顔をしたリュウはおぼつかない足元で病室のドアを閉めた。


 ショックのあまり、どうしていいかわからなくなったリュウは自販機でコーヒーを飲んで気持ちを落ち着けようとした。

「リュウ、もと子、どないや?」

うつむいたリュウが振り向くと津田が立っていた。津田は青い顔をしてやつれているリュウに驚いた。

「もと子、アカンのか?」

「いえ、大丈夫です。話も出来ます。でも、俺、別れようって言われました。」

「お、おう。とうとう俺の時代が来たやんけ。」

津田がいつもの冗談を言ってもリュウは悲しげにうつむくばかり。

「お前が頑固やからもと子、切れたんやな。まさか、お前諦めるんちゃうやろな。」

津田はリュウの衿元を掴んだ。

「,,,俺、どうしたらいいのか,,,」

「ひたすら謝れ、逃げるなんて許さんからな。」

リュウを引きずるようにして津田はもと子の病室に行った。病室のドアを開けると津田はもと子の枕元に立った。

「もと子、具合はどうや。」

もと子はやはり能面のような顔で会釈した。

「お前、リュウと別れるらしいな。ということは俺のとこに来る気になったんやな。」

「いえ。年季が明けたら遠くの病院に移ります。今までありがとうございました。」

「…アホ、そんな簡単に俺への借りがなくなるわけないやろ。泣き笑いの忙しいお前がどうしてん?なんや今日はえらい冷たいな。」

少し顔を歪めただけで、もと子は何も言わなかった。津田はショックを隠せず、また来ると言い残して帰っていった。


病室にリュウともと子、2人きりになった。

「もとちゃん、なんか欲しいものあるか?」

「ないです。もう、仕事行って下さい。」

そう言うと、もと子は目を閉じて、リュウが話しかけてもなにも言わなくなってしまった。

「また、夕方来るな。」

リュウは悲しげに眉をひそめて病室をあとにした。

 次の日、休日ということもあり、リュウは昼過ぎに病室やって来た。相変わらずもと子は無表情で最低限のことしか話さない。無理に笑顔を作って話しかけていた。

ノックがして病室のドアが開いた。

「…もと子ちゃん、具合どう?」

八重が瀬戸と一緒に見舞いにやってきた。

八重の声に気づき、もと子とリュウは顔を向けた。

「瀬戸さん、八重さん、お忙しいのにすみません」

リュウが立ち上がり、頭を下げた。憔悴したリュウを見て、瀬戸と八重は顔を見合わせた。

そんなん、ええの、と言いながら八重はもと子のベッド脇に移動した。瀬戸はリュウに声をかけて、病室の外に連れ出した。自販機の前でコーヒーを4つ買うとその1つをリュウに投げてよこした。

「津田から聞いた。もと子、お前と別れるって言ってるらしいな。お前、どうすんねん?」

「…謝って許してもらいます。でも、もとちゃん、とりつくしまもなくて…」

「とりつくしまがなかったらどうすんねん?まさか別れる気ちゃうやろな。八重がせっかく結婚する気になっとんねん。お前らだけの問題ちゃうんじゃ!」

瀬戸はこめかみに青筋を立てて睨みつけてきた。

「…あ、諦めません。」

「土下座したおしても、許してもらえ。絶対結婚しろ。わかったな。」 

自販機前のソファに腰を下ろして、2人は無言のまま缶コーヒーを飲んでいた。

そこへ八重がやって来た。

「アキラ、お待たせ。リュウ君、そろそろ失礼するね。」

「八重さん、ほったらかしですみません。」

「いいのよ。それより病院の帰り、アキラんちにちょっと寄ってくれる?話があるねん。」

微笑んだ八重は不機嫌なアキラの横っ腹に肘鉄を喰らわすと瀬戸のベンツで帰って行った。


その夜、病院の帰り、リュウは瀬戸のマンションにやって来た。インターホンを押すとすぐドアが開き、瀬戸が顔をのぞかせた。

「上がれや。八重がメシ作って待ってる。食ってけ。」

「あ、でもいいんですか?」

「やつれた顔して、殆ど食ってないんやろ?早よ上がれ。」

すんません、軽く頭を下げてリュウは部屋に上がった。瀬戸の部屋は明るく、暖かかった。テーブルに座ると熱いお茶を八重が入れてくれ、しばらくして鍋焼きうどんを出してくれた。

「しばらくあんまり食べてないでしょ?消化のいいものにしとくね。」

湯気の立つ鍋焼きうどんをふうふうと冷ましながら食べていると目頭が熱くなって来た。鍋焼きうどんを食べ終わると八重がリュウの前に座り、淡々と話し始めた。

「あのね、アキラとリュウ君が病室を出た後、もと子ちゃんと話したんよ。もと子ちゃんがリュウ君と別れたいって言ってるのは、2つ理由があるねんね。一つが、よりを戻してもこの先リュウ君に捨てられてまたこんな思いするのは怖くてたまらないということ。二つ目がもと子ちゃん、病院で目を覚ましてから心が止まってしまって嬉しいとか悲しいとか感じられないらしいよ。もと子ちゃん、表情がなかったでしょ?そのせいみたい。リュウ君に迷惑かけるからこんな自分がリュウ君の側にいちゃダメなんだって思ってる。」

リュウは驚いて目を見開き、そしてうなだれた。

「そんな心配を…一つめは大丈夫です。俺はもうもとちゃんを手放すなんてしないです。二つめの、悲しいとか嬉しいとかわかんないんですか?もとちゃんの心、そこまで壊れたって…俺のせいですね。」

「お前、心の壊れたもと子、どうすんねん?」

瀬戸と八重が心配顔でリュウの顔をのぞいてきた。

「どうもしないです。俺、一生かけてもとちゃんの心を治します。またもとちゃんの笑顔見たいんで。」

目を潤ませながらリュウは笑顔で答えた。



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