第32話 忍びよる影⑦

 明日はリュウと夜景を見に行く日。もと子は明日のことを考えるとどうしても顔がゆるんでしまう。

「棚橋さん、ご機嫌だね。なんかいい事あったの?」

交際の申し込みを断ってからも気にせず誘ってくる正樹をいつもは冷たくあしらっているが今日はつい笑顔で答えてしまった。

「明日、彼が夜景を見に連れてってくれるんです。」

「ふうん、そうか。いい思い出になるといいね。」

正樹はウンウンとうなずくとサッサと廊下の向こう側に行ってしまった。今日はえらくアッサリと行ってしまったと、もと子は小さく首をひねった。


次の日、お昼過ぎにリュウは迎えにやってきた。車はレンタカーで借りたセダン。寮の近くの公園横に車を止めているとリュウからもと子に連絡が入った。公園の柵に軽く座っている黒のジャケットにグレーのパンツのリュウを見つけるともと子は大きく手を振り、駆け寄って来た。

ダークブラウンのハーフコートの下からサーモンピンクのスカートがのぞいている。

「お待たせしました。」

「ほな、行こか。」

助手席に乗り込むとリュウはメモをナビの近くに挟んだ。もと子がシートベルトを締めるのを確認して、車は走り始めた。

「今日はどこに夜景を見に行くんですか?」

「うん?六甲山やで。1000万ドルの夜景や。」

「1000万ドルの夜景!」

リュウの言葉に目を輝かせたもと子はスマホを取り出し触りだした。

「なんや、いきなり検索か?」

「だって、1000万ドルの夜景ですよ。1000万ドル自体想像もつかないのに、1000万ドルの夜景ですよ!全然想像つかないです。」

嬉しそうな声をあげてもと子はググり始めた。その姿を見てリュウは微笑ましくなった。


 もと子が六甲山のあたりを検索しながらリュウに話しかけていると車が静かに止まった。

「ん?まだ六甲山着いてませんけど?」

不思議に思ってリュウの方を見ると、道路越しにリュウは高層マンションを指さした。

「あれ、正樹先生の住んでるマンションや。この間行ったけど、めっちゃ高そうなマンションやった。家の中の家具とかもすごい高そうやったで。ソファなんか皮張りのフカフカや。瀬戸さんちのソファより高いと思う。」

もと子はとりあえず、ふーんと返事をした。

「正樹先生がお金持ちなのはわかりました。次は六甲山!」

「もとちゃんは正樹先生が大金持ちなんは気にならんの?」

「あんな大きい病院の跡取りですもん。大金持ちでないとかえって従業員は不安になりますよ。うちの病院、経営危ないんちゃうかって。」

なんで正樹のマンションを見なければならないのかもと子は訳がわからなかった。

「そうか。そんなもんか。」

リュウはエンジンをかけた。


 正樹のマンションの前を出てからしばらく車内は沈黙になってしまった。もと子は六甲山を検索し続けていた。それでも尼崎に入った頃から、神戸はスイーツの美味しいお店が多いらしい話をリュウから聞くと、先程の正樹のマンションのことはもと子の頭からすっかり離れてしまった。車は国道2号線から佃島の辺りで43号線に入り、打出のあたりで右折。山の方に向かい始めた。気がつくと豪邸が立ち並ぶ街並みに入った。

「ここが高級住宅街で有名な六麓荘や。見てみ、ごっつい家ばっかやで。」

「うわ、ホント!うちんちなんか何軒入るんだろ?」

「俺らの家なんか、ここらの家のトイレぐらいの広さしかないで。」

「そんな広いトイレ、落ち着かない。」

もと子の言葉にリュウも想像してみた。

「ああ、ホンマや。出るもんも出んようなるな。」

やだあ!ともと子はリュウの肩を叩き、2人は大笑いした。見えてくる邸宅についてあれやこれやと話していると、一軒の邸宅の前でリュウが車を止めた。

「ここが正樹先生の実家やって。門から玄関見えへんで。敷地の中に林があるで。庭も広いし、ええな、すごいなって思えへんか?」

正樹の実家を見たまま、目を離さずリュウはもと子に語りかけた。

「んー、広いけど、出るものも出なくなる家って感じですかね?」

「もとちゃん、そんなんじゃマダムになられへんで。」

「庶民の私は落ち着いたトイレのある狭い家がいいです。」

もと子はすました顔で答えた。プッと笑うとリュウは再びエンジンをかけた。

「六甲山行こか。」

もと子はハイ!と嬉しそうに返事をした。

六麓荘の東側から甲山高校のそばを通ってだんだん山道に入って行った。山道を車で通るのが初めてのもと子は似たような景色が続くのにも関わらず飽きもせず景色を見ていた。そうしているうちにオシャレな建物が不意に現れ、六甲山ガーデンプレイスに着いた。


「着いたで。夜景までは時間あるからブラブラしよ。」

リュウに促され、もと子は車から降りた。展望台に出るともと子は駆け出し、柵から身を乗り出した。

神戸から大阪にかけて見事な景色が臨める。

「うわあ、いい眺め。あれって明石大橋?瀬戸内の海がキラキラしてる。」

予想以上に大はしゃぎをするもと子の姿を微笑んで見ていたリュウは思い出した。

「もとちゃん、かわらけって知ってる?ここから素焼きの皿を願掛けしながら投げるんやけどやってみる?」

「やりたい、やりたいです!」

ヤル気満々のもと子と売店に行き、リュウは2人分のかわらけを買った。

「あんな1人5枚ずつ。お願いしながら遠くに投げるんやで。」

2人は展望台から海の方に向かって立った。もと子はかわらけを両手に挟んで何やらブツブツとつぶやいた。そして思いっきり遠くへとかわらけを投げた。続いてリュウもかわらけに小声で言葉をかけると、それっ!と遠くへ投げた。2人は5枚全て投げ終えた。

「もとちゃん、何をお願いしたん?」

「リュウさんとおじいさん、おばあさんになっても仲良く夫婦出来ますようにってお願いしました。リュウさんは?」

「俺はもとちゃんが幸せになりますようにって。」

「あら、残念!リュウさんがそばにいてくれるんだから、そのお願いはもう叶ってますよ。」

もと子は嬉しそうにリュウに笑いかけた。

「そうなんか。俺なんかでええんか。」

微笑むとリュウはもと子の肩を抱いた。

ディナーの予約時間まで景色を眺めることにした。晴れた空に夕焼けが映える。海と空がオレンジ色で繋がり、所々ネオンがつき始めた港町はまるで絵のような美しさだった。

「記念に景色をバックに2人で写真撮っていいですか?」

バッグからスマホを取り出そうとするとリュウがその手を押さえた。

「後で送るから、写真は俺が撮るな。だからもとちゃんは景色を楽しんで。」

「えー!リュウさんと2人で撮った写真をスマホの待ち受けにしようと思ってたのに。」

唇を尖らせるもと子を宥め、リュウはもと子と顔を寄せあって何枚も写真を撮った。

日が完全に沈み、空には満天の星。街は宝石箱をひっくり返したようにキラキラと灯が灯る。もと子は1000万ドルの夜景にため息をつく。

「もとちゃん、そろそろ予約時間や。レストラン行こか。」

はい、と返事したもののまだまだ夜景に後ろ髪を引かれ、チラチラと後ろを振り向く。

「ご飯食べたら、また見に来よう。」

リュウの言葉に絶対ですよ、と言うともと子はリュウの手に自分の指を絡めた。


レストランに着くと夜景のよく見える席に案内された。席に着くとすぐコースが始まった。カラフルで目にも楽しい前菜に、コンソメスープ、ボリュームのあるサラダ、パン、メインは神戸牛のステーキ。デザートは季節のフルーツを添えたバニラアイスとベリーのシャーベットとコーヒー。

「リュウさん、すごく贅沢。とっても美味しいです。今日なんかの記念日でしたっけ?」

堪能して満足げにコーヒーをすすりながらもと子は聞いた。

「特になんもないで。たまにはええやん。俺にはこれぐらいがしてやれる精々やし。」

もと子がリュウの言葉に小首をかしげた。

「断るために先生とメシ行った時はもっと豪勢やったんちゃうん?」

「うーん?いつ断る話をしようかってそれで頭がいっぱいで、コースだったと思うんですけど、よく覚えてないです。第一、断ったのに諦めてくださらないので怒って、お支払い前にご馳走様って逃げちゃった。」

へへ、ともと子は苦笑いをした。

「奢りがいのないやっちゃな。次はちゃんと味わってお礼言うねんで。」

コーヒーを置くともと子は手を振った。

「ナイナイ。正樹先生と次はないですもん。」

なんでそんなことを言うのだろうともと子は不思議に思った。

食事が終わり、再び展望台に戻った。

「ああ、やっぱり綺麗。光を散りばめたみたい。」

ウットリと夜景に見惚れるもと子の隣で肩を抱いていたリュウもしばし夜景を見ていた。どれほど夜景に見惚れていたのか、肩を抱いていた手に力が込められたと思うと急にもと子はリュウに抱きしめられた。その手はもと子の頭をしっかり胸に押しつけていた。小さなため息が溢れるとリュウが小刻みに震え、ポトリと雫がもと子の頬に落ちた。

「リュウさん?」

「もうちょっとだけ、このままにさせて。」

もと子はうなずき、自らもリュウの背中にしっかり手をまわした。


 しばらくして展望台の閉まる時間となった。

リュウともと子は手を繋いで駐車場に戻った。車に乗り込むと、疲れたせいかもと子の目がトロンとしている。

「寝ててええで。着いたら起こすし。」

車が走り始めてすぐ、もと子はドアにもたれてグッスリと眠ってしまった。もと子の寝息だけが車内に聞こえた。暗い山道を抜けて帰りは高速道路にのった。行きにかかった時間よりも短い時間でもと子の寮の近くの公園に着いた。リュウは車を止めるとしばらくの間、もと子の寝顔をぼんやりと見ていた。すると、もと子がうっすらと目を開けた。

「目、覚めたか?着いたで。」

「…うん、もう着きました?ありがとうございます。」

まだ寝ぼけた顔をしてもと子は笑った。たまらずリュウはもと子を抱き寄せ、キスをした。

「リュウさん、大好き!」

初めは驚いて目を丸くしていたもと子は満面の笑みを浮かべた。

寮の前まで送ってもらい、もと子は部屋へ入るとすぐシャワーを浴びた。車中で寝かせてもらったおかげでシャワーを浴びる元気はあった。バスタオルで頭を拭いているとスマホがなった。リュウからメッセージが届いていた。バスタオルを肩にかけラインを開けた。メッセージを見ると、もと子は目をまん丸にして腰を抜かしてしまった。

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