第31話 忍びよる影⑥

 リュウは川端と並んで病院近くの歩道を歩いていた。これから正樹のマンションに向かう。リュウは1人で行くつもりだったが、自分もどうしても行くと川端がついて来た。リュウに頼まれて正樹との間を取り持った川端は責任を感じていた。真面目な正樹のもと子へのアプローチには真剣なものを感じる。正樹もプライドをかけてリュウからもと子を奪い取ろうとしているように思える。川端はひどく緊張していた。

 教えてもらった正樹の住所は新しい高級マンション。エントランスを入り、正樹の部屋番号を押すとすぐ正樹の返事が聞こえた。

「どうぞ、上がってください。」

2人が乗り込むとエレベーターは静かに高層階まで上がっていった。エレベーターを降りて正樹の部屋の前に行き、インターホンを押すとすぐ正樹がドアを開けた。正樹は2人を広いリビングに招き入れ、濃いベージュの柔らかな皮のソファにリュウと川端を座らせた。

「コーヒーでいいかい?」

まもなくクリスタルマウンテンのいい香りが漂ってきた。高そうなカップにいれたてのコーヒーが注がれ、リュウと川端の目の前に置かれた。

「先生、お構いなく。話をしたらすぐ帰りますから。」

「そう?まあせっかく入れたんだから飲んでってよ。僕も須崎さんに話があるから。」

リュウは正樹を睨んだままカップに口をつけ、正樹は何事もないようにカップのコーヒーを味わっている。川端もカップに口をつけたものの全く味がわからなかった。

申し訳程度に口をつけたカップを置くと、リュウは正樹に向き合った。

「先生、いつももとちゃんが仕事でお世話になってます。でもプライベートは別ですから。俺たち結婚するつもりなんで、もう邪魔しないでもらえますか。もとちゃんも困ってます。」

正樹も静かにカップを置き、にこやかに微笑んだ。

「君たち、そうなんだ。でも、僕も彼女と結婚したいと思ってる。僕のまわりは僕のお金目当てで寄ってくる女の子ばかりだった。棚橋さんのように僕のお金に興味を持たない女の子は初めてだ。彼女には側にいて僕を支えて欲しいと思ってる。」

「それは先生の事情ですよね。また別で探してくださいよ。」

正樹はコホンと一つ小さく咳をした。

「先日、中村さんに聞いたよ。須崎君も苦労してるんだね。」

「俺のことはどうでもいいんです。」

「いや、よくない。君は苦労してるからこそ女の子1人で同じような苦労をしてきた棚橋さんを大事に守って上げてるんだろう?2人ともお金の苦労をいやというほど味わっているはずだ。」

正樹の言葉をリュウは苦虫を噛み潰したような顔で聞いた。

「そうですよ、先生には一生わからないような苦労をしてきましたよ。」

「その通りだと思う。だからこそ、彼女が僕と一緒になったら彼女は今後そういう苦労は無くなるんだ。奨学金もすぐ全額返してあげるしね。」

正樹の言葉にたまらず川端が割って入った。

「ちょっと待ってください!先生ほどのお金持ちでなくても幸せになれるでしょう?先生は今の棚橋さんが気に入ったんでしょうけど、リュウさんと知り合う前の棚橋さんは暗くてオドオドしてて今と全然違うんです。リュウさんと知り合って今の明るい棚橋さんになったんです。棚橋さんにとってリュウさんはかけがえのない人なんです。どうか棚橋さんのこと、手を引いて下さい。」

「先生は札束でもとちゃんと俺の頬を叩くつもりなんですね。」

「そんなのあんまりです!」

リュウの言葉を聞いて川端は半泣きで正樹に訴えた。すると正樹は川端の方へ向き直った。

「ところで川端君のご両親はお元気で仲良しなのかな?」

「時々ケンカもしますが、まあ元気でそれなりに仲良くやってます。けど、それが何か?」

川端は目尻に涙をためて怪訝な顔で正樹を見た。

「そうか。だったら君は自分が須崎君側の人間と思ってるだろうけど、親に世間の荒波から守ってもらって子供時代をおくった点で僕と同じ側なんだよ。彼らは僕らが想像できないような苦労をしている。その痛みを知っているからこそ須崎君は棚橋さんを身を挺して守ってきたんだよ。」

正樹はまっすぐな眼差しで川端を、そしてリュウを見た。

「僕は須崎君に棚橋さんと別れてくれとは言わない。お金の苦労を知っていて、彼女を本当に愛しているなら取るべき態度は一つだからね。」

リュウは拳を震わせ顔色をなくした。それに対して正樹は再びゆっくりとコーヒーを味わっていた。

「リュウさん、帰りましょう!」

固まってしまったリュウの腕を取り、川端は立ち上がった。玄関までリュウをひきずろように連れていくと正樹の方へ振り返った。

「先生、僕は今日まで先生のことを医師として、人として心から尊敬していました。でもこれからは人として尊敬し続ける自信がないです!」

目に涙を溜めて言う川端を変わらず穏やかな様子で正樹は見ていた。

エントランスに着くと川端は青い顔をしているリュウの両肩を掴んで強く揺すった。

「リュウさん、しっかりしてください!ツライ思いをしてきたからこそ棚橋さんはリュウさんを選んだんでしょ?幸せはお金だけじゃない!棚橋さんが好きなのはリュウさんだけなんです。絶対変な考え起こさないでくださいよ。」

「あ、うん…」

「…頼みますよ…」

心ここに在らずのリュウに川端は半泣きになった。マンションを出たリュウは立ち止まって振り返った。白く立派な高層マンション。複雑な思いで見上げた。


 もと子は最近、忙しいリュウになかなか会えなくて寂しかった。今日は久しぶりにピンクのママに会いに行った。ドアを開けると今夜は所々スパンコールが縫い付けられた黒のワンピースを着たママがお客のカラオケの準備をしていた。

「お久しぶり、元気だった?」

ママは相変わらずの艶やかな笑顔でもと子を自分の目の前のカウンター席に手招きした。

「ママさん、聞いてください!」

くちびるを尖らせてもと子はママに駆け寄った。

「どうしたのよ?先に飲み物決めて。その後話、聞くから。」

「チューハイレモン。」

ママはもと子の前にチューハイレモンを置いた。

「ママさん、聞いてください!職場で病院の跡取り息子先生に声かけられて困っているのをリュウさんに相談したんです。そしたらリュウさん、話をつけに行ってくれて。それはいいんですけど最近、リュウさん、忙しくってなかなか会えないんです。リュウさんに会いたい〜」

ママはヨシヨシともと子の頭を撫でてやった。

「ふーん、でもここのところ、リュウはよく来るのよ。来てはボッーとしてる。なんか頭を悩ませる仕事があるんじゃない?」

「税理士さんですもんね。私には予想もつかないことがあるのかも。」

「そうよ。何にも心配しなくていいのよ。そういう時は静かに見守ってあげたらいいんじゃない?」

「わかりました。そうします。ママさんに聞いてもらって良かった。」

もと子は安心して満面の笑みを浮かべた。

「そうそう、アンタもなんか歌う?ストレス発散よ。」

もと子はうなずくとママから渡されたカラオケの冊子を早速広げた。


 今日は久しぶりにリュウと会う。もと子は朝からワクワクしていた。今日は1日雨という予報なのでリュウの部屋でまったり過ごすことになっている。見たかったDVDを持って、スーパーで食材とオヤツを買い込みリュウの部屋へ向かった。もらった合鍵でドアを開けるとリュウはまだ寝ていた。もと子はリュウが眠っている間にご飯を炊き、ご飯が炊き上がるまでに昼食用の親子丼とほうれん草のおひたし、豆腐と油揚げの味噌汁を、夕食用にポークカレーとプチトマトをたくさんのっけたサラダを用意した。カレーはリュウが明日の夜も食べられるように多めに作った。ご飯の匂いに誘われてリュウが起きてきた。リュウは大きく伸びをした。

「おはよう、もとちゃん。飯、作ってくれててんなあ。あーええ匂いや。」

リュウはもと子の隣にやってきてもと子の頬に軽くキスすると鍋から溢れでる美味しそうな匂いを?クンクンとかいだ。

「もう少ししたらご飯炊き上がりますよ。待てますか?パンもありますよ。」

「飯が炊き上がるまでにシャワー浴びてくるわ。もとちゃん、一服しとって。」

リュウは着替えを持ってシャワーを浴びに行った。そのあいだにもと子はテーブルの上に箸や食器を並べてご飯の用意をした。そして自分のために紅茶を入れると八重から借りた結婚情報誌をバッグから取り出し、ページをめくり始めた。和装がいいかなあ?それともドレス?素敵な衣装を着た美しいモデルの写真をうっとりと見ていた。

「何、見てんの?」

いつのまにかシャワーを終えて、着替えたリュウが肩越しにのぞいていた。

「結婚式、どうしようかと思って。この雑誌、八重さんが貸してくれたんです。」

もと子が嬉しそうに話した。リュウは小さく息を呑むともと子の頭を撫でて炊飯器の前に行った。

「飯、炊けてるな。食おか?」

リュウが丼にご飯をよそい、親子丼の具を上からかけてテーブルに持っていった。雑誌をカバンになおすと、もと子が味噌汁を温めてお椀に入れた。ご飯が並び、2人はテーブルについた。

「いただきます!」

両手を合わせた後、早速食べ始めた。

「美味しいわ、もとちゃん。もういつでも主婦できるで。」

「ありがとうございます。うちの旦那さんの教え方が上手いからです。」

ウフフともと子が笑うとリュウも少し笑った。

ご飯を食べ終えて2人は隣の和室に移った。

「もとちゃん、DVD見よか?なんか持ってきた?」

もと子は少し前に人気だった映画のDVDを持ってきていた。

「これ、見たかったんですけど忙しくて見に行けなかったんです。」

「おお、そうか。まずこれ見よか?」

「じゃあこれ見終わったらリュウさんの見たいの見ましょうね。」

もと子がプレーヤーにDVDをセットしているとリュウがたたんだ布団をひき始めた。

「え?」

少し顔を赤らめモジモジしながらもと子が見ているのに気がついた。

「DVD見るんやで。ゴロゴロしながら見ようかなと思って。」

「そ、そうですよね。」

「もとちゃんがその気ならそれでもええけど?」

「あ、いや、あの、後で」

次第に声が小さくなった。

「どっちでもええけど、布団ひけたから、とりあえずこっちおいで。」

リュウに手を引かれて並んでゴロリと横になった。DVDが始まるとすぐリュウはもと子の背中から前へ腕を回してきた。もと子の髪を耳にかけ、首筋をくすぐったり、もと子の髪に顔を埋めたり、その度にもと子は小さな甘い悲鳴をあげた。

「リュウさん、DVD見てないでしょ?」

「俺のことはええから、もとちゃんだけ見とき。後であらすじ教えて。」

もう、と怒った風な声をあげるも、久しぶりに会ったためかいつもよりリュウがかまってくれるのが嬉しく、戯れあっている間に何度も巻き戻して見るハメになった。

夕食のカレーを仲良く食べた後、もと子が食器を流しに下げて洗おうとすると、後ろからリュウに手を押さえられた。

「置いとき。俺が後で洗っとくから。早くあっち行こう。」

昼からひいたままの布団に押し倒された。もと子はリュウの匂いに包まれて息をするのも忘れそうだった。幸せに酔いしれている時、ふと目をあげてリュウの顔を見た。カーテンの隙間からこぼれる月の光にもと子を見つめているリュウのまつ毛がキラキラと光るのが見えた。もと子は体を起こし、リュウのまつ毛にキスをした。

「どうしたんですか?涙?」

そのまなざしがもと子にはなぜか悲しげで辛そうに見えた。

「泣きたいほどもとちゃんが好きやってことや。もとちゃん、幸せになってな。」

「リュウさんさえいてくれれば私は幸せです。他には何にもいらない。」

「嬉しいけどな、それだけっちゅうわけにもいかんやろ。」

不思議そうにリュウを見るもと子の頭を愛おしげに撫でた。もと子はリュウの肩に手を回した。リュウもキツくもと子を抱きしめた。

「今回、もとちゃんがご飯買ってくれたやろ。次は俺が全部出す。車借りるから夜景見に行こ。ご飯は何が食べたい?」

「なんでもいいですよ。」

「じゃあ、適当に選ぶで。」

初めてのドライブで夜景を見に行くのが嬉しくてたまらないもと子は今から大はしゃぎ。

「遠足前の小学生か!」

「だって嬉しいんだから仕方ないです。」

リュウに突っ込まれても、もと子はリュウの腕に自分の腕を絡めた。


もと子を寮の前まで送り、もと子が部屋に入るのを確認するとリュウは駅へと向きを変えた。角を曲がり、寮が見えなくなるところまで来るとリュウはスマホを取り出し電話をかけた。

「須崎です。先生、この間の話ですが…」

一言、二言話すと電話を切った。

「…もとちゃん。」

リュウは目頭を指でつまむと空を仰いだ。

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