第30話 忍びよる影⑤
漆田は眉間にシワを寄せ、爪を噛みながら歩いていた。昼間、もと子が看護師長の中村に声をかけられて何度も頭を下げているところを見て、ざまあみろ!とほくそ笑んだ。リュウとの交際に反対されているとばかり思い、溜飲を下げた。ところが、勤務の引継ぎが終わり、帰ろうとした時、中村に呼び止められた。そしてリュウと会った話を聞かされた。
「見た目と違って真面目ないい人だったわよ。本当に棚橋さんのこと大事にしてるんだってわかったわ。心配してくれたけど大丈夫。ありがとうね。」
中村はそれだけ言うと人のいい笑顔を見せて業務に戻っていった。漆田はためらいがちに、お手数おかけしましたと言ったもののハラワタが煮えくりかえる思いだった。
なんであんなショボい女がリュウみたいないい男に大事にされんのよ!絶対許さない!
漆田は何かいい方法はないものかと考えながら駅までの道のりを歩いていた。
「お疲れ様。」
不意にかけられた声にハッと顔を上げた。黒縁メガネのフチをツンと上に上げ、30半ばのスーツ姿の男が目の前に立っていた。男は最近、大学病院から戻って来た院長の息子、病院の跡取り。院長と同じ苗字なので、みんなから正樹先生と呼ばれている。
「漆田さん、考えごとしながら歩いてたらケガするよ。」
屈託ない正樹を見て漆田はひらめいた。
漆田は深刻そうに眉をひそめて、大きくため息をついた。
「うん?なんか悩み事?相談に乗れるものならのるよ。」
「あの、実は棚橋さんのことで心配なことが…」
「棚橋さん?彼女どうかしたの?」
漆田はこの頃急にキレイになったと評判になったもと子を正樹がさりげなく気にしているのに気づいていた。
「女たらしに騙されているんです。看護師長の中村さんに相談したんですが中村さんもうまく騙されてしまって。棚橋さんってスレてないでしょう?早晩あの子が悲しい思いするんじゃないかって心配なんです。」
「ええっそんなことが!僕、出張帰りで今から病院に戻るんだけど急がなきゃならないわけじゃないんだ。もし良かったら近くのカフェで話聞かせてくれる?」
正樹は真剣な面持ちで漆田をお茶に誘った。笑いが込み上げてくるのを必死に抑えて、悲しげに下向き加減で漆田はこたえた。
「もちろんです。」
漆田と正樹は目の前にあるこぢんまりしたカフェに入っていった。
漆田から話を聞いて以来、正樹はますますもと子の様子が気になってしまう。小さな頃に親をなくして1人で頑張っていること、辛いことがたくさんあったろうに明るく、器用とは言えないが何事も一生懸命なこと、その健気な姿をつい目で追いかけてしまう。
こんないい子を泣かせるなんて許せない。自分なら確実に幸せにできるのに…正樹はとうとうもと子を幸せにするために行動を起こすことを決意した。
引継ぎが終わり帰ろうとしたところ、川端は正樹に声をかけられた。
「川端君、週末なんか予定ある?」
「いえ、特にないですけど、何か?」
川端が返事を言い終わるやいなや正樹は川端を廊下の隅に連れて行った。
「川端君、キップスってお店知ってるよね。僕、行ってみたい。連れてってくれる?」
正樹が少し恥ずかしそうに川端に頼んだ。跡取り息子なのに気さくで真面目な正樹を慕う川端はよろこんで!と笑顔でこたえた。
週末、川端に連れられ、正樹はキップスにやって来た。にぎやかな雰囲気にチラチラと周りを眺め、正樹は少し居心地悪そうにしていたが、ゴージャス美女の取り巻きに囲まれているリュウを認めるとつぶやいた。
「あの店員さん、スゴイお金かかってそうな美女達に囲まれてるね。いやあスゴイ。どんな人なんだろうね。」
「ああ、あの人、リュウさんっていって俺の知り合いです。おしゃべりしてみます?めっちゃいい人なんですよ。呼んできますね。」
川端はリュウを正樹のところへ連れてきた。
「リュウさん、こちら、うちの病院の正樹先生です。跡取り息子なので院長と区別するために名前でみんな呼ばせてもらってるんですよ。」
「こんばんは、須崎です。みんな名前からリュウって呼んでます。よろしく。」
リュウは正樹に笑顔で会釈した。正樹も名刺を渡しながらリュウに挨拶をした。
「初めまして。新宮正樹です。リュウさんって棚橋さんの彼氏なんですよね。いやあ想像以上にイケメンだ!」
「え?先生、知ってるんですか?」
リュウと川端が顔を見合わせた。正樹はニコリとするとリュウは改まって挨拶をした。
「いつももとちゃんがお世話になっています。ありがとうございます。」
「これはこれはご丁寧に。」
正樹もリュウにお辞儀をした。
「聞いた通りリュウさんはモテモテですね。こんなに美女に囲まれているんじゃ、早晩、棚橋さんが悲しい思いをするのは確実ですね。」
先ほどまで穏やかな表情だった正樹はいきなり射るような眼差しをリュウに向けた。正樹の変わりぶりに川端は驚いた。
「先生、なんのことですか?」
川端に構わず正樹は続けた。
「ある人から聞きました。女癖の悪い男が真面目でおとなしい棚橋さんを騙してること。」
「先生、なんですか?いきなりケンカ腰ですね。俺はもとちゃんとキチンと付き合ってます。もとちゃんを泣かす気はないですからご心配なく。常連さんとは男女問わず仲良くさせていただいてます。それが仕事ですから。」
川端は目の前のやり取りに正樹とリュウの顔を何度も交互に見た。
「先生、楽しんでいってくださいね。じゃあ、川端君またね。」
リュウはとって付けたような営業スマイルで正樹と川端から離れていった。
「あんな男、僕は許さないよ…川端君、帰ろう。」
「え?え?リュウさん!」
離れていくリュウを気にしながら正樹に腕を引っ張られて川端はキップスを後にした。
それからの正樹はあからさまにもと子を誘うようになった。今まではただ目で追うだけ。必要な場合以外は声をかけることはなかったのだが。正樹に誘われるたび、もと子はいつも笑顔で断っていた。もと子が困っても病院の跡取り息子の正樹を誰も止めることは出来ない。このままではラチがあかないともと子は意を決した。
病室を出たところの正樹にもと子が小さな声で話しかけた。
「正樹先生、今夜お話ししたいです。お時間ありますか?」
「もちろん。急だからお店の予約取れないな。8時に駅前の喫茶店で待ち合わせでいい?」
うなずいて去っていくもと子の後ろ姿を顔を綻ばせた正樹が見つめていた。
8時過ぎ、約束の喫茶店で落ち合った正樹ともと子は近くのレストランに入った。せっかくだからご馳走すると言う正樹に押し切られ、コースで食事をすることになった。正樹の選んだワインで乾杯。正樹は満足気にワインを楽しんでいるが、もと子は軽く唇を濡らしただけ。料理がどんどん運ばれ、最後のコーヒーがサーブされた。
「あの、先生、先日から度々お誘いしてくださるんですが、私には結婚する予定の人がいるので、申し訳ないですがお応えできません。ゴメンなさい。」
もと子は深々と頭を下げた。
「うん、知ってる。リュウ君だっけ、イケメンでモテモテだよね。キップスですごくキレイな女の子達に囲まれてたよ。君、見たことある?」
「…」
もと子は頭を下げたまま困ったように上目遣いで正樹を見た。
「仕事だって言ってたけど、どうだか。あんな奴、別れた方がいい。」
「リュウさんはたしかにイケメンです。でもそれだけじゃないんです。私のピンチにはいつも助けてくれて私にとってかけがえのない人なんです。」
「君は勘違いしてるんじゃないか?僕と付き合おう。結婚を前提として。優しくて何ごとにもひたむきな君にはずっとそばにいて僕をささえてほしい。」
「結婚を前提なんて、ますますお付き合いできません。わたしはリュウさんと結婚するんです!ごちそうさまでした。」
そう言い切ると、もと子は椅子から立ち上がり逃げるようにレストランを後にした。
残された正樹はゆっくりコーヒーを飲みほした。
「棚橋さん、必ず目を覚まさせてあげる。安心して。」
正樹は椅子から立ち上がった。
もと子はリュウの部屋へ行った。インターホンを鳴らすとのんびりした声が聞こえた。
「今ごろ、誰や?」
風呂上がりかタオルで頭を拭きながらリュウが
ドアから顔をのぞかせた。
「リュウさん!」
もと子は目を潤ませてリュウに抱きついた。
「なんや、なんや?」
リュウはもと子を抱えてドアを閉め、椅子に座らせた。
「どうしたんや?何があった?」
心配そうにもと子の顔を覗き込むリュウにもと子は先程の正樹からの結婚を前提とした交際申し込みの話をした。
「私はリュウさんのお嫁さんになりたいだけなのに、なんで邪魔するの?」
泣きじゃくるもと子の背中をリュウはさすった。
「ちゃんと断ってくれてんな。もとちゃん、ありがとう。この後は俺が話つけてくる。もとちゃんはなんも心配せんでええ。俺の嫁はもとちゃんだけや。」
リュウは川端にラインをした。
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