第33話 忍びよる影⑧

 リュウはもと子を送り、車を返すと自分の部屋に帰り着いた。もと子に別れを告げるメッセージを打ったもののどうしても送信が押せない。リュウはウロウロと広くない部屋を歩き回った。送信を押さないと、と思いつつ、心が拒否する。考えていると息苦しくなってくる。とりあえずテレビをつけてみた。よく見るタレントが出ているCMが流れている。ぼんやり見ていると番組が始まり、大物芸能人の豪邸が映し出された。家の中には豪華な調度品。上質な服をサラリと着こなす綺麗な奥さん。奥さんともと子の顔が重なって見えた時、リュウは送信を押した。そしてラインをブロック。全てを振り切ろうとリュウはシャワーを浴びた。シャワーから出て、体を拭きTシャツに着替えた。何気なく洗面台にあるコロンを手に取った。香りがフワリと香った途端に目の前にもと子の姿が思い出された。

「リュウさんの香り、大好き。」

もと子がリュウの胸に顔を埋めて抱きついて来た。照れ臭そうに少し顔を赤くして笑ったもと子。もうもと子のあの笑顔を見ることはできない。そう思うとこのまま、一人でこの部屋にいるのは耐えられない。スマホを握りしめたままリュウは上着を取ると夜の街に出て行った。



「今日はすごく楽しかった。ありがとう。

俺より先生の方がもとちゃんを幸せにできる。

別れよう。

もとちゃん、幸せになってくれ。」

もと子は我が目を疑った。


なぜ?

今日はいつもより優しかったのはこういうこと?

先生の家や実家を見せたのはこのため?


頭が混乱してその夜はあまり眠れなかった。

次の朝、どうにか気持ちを切り替えて出勤した。病院の近くまで来た時、誰かに肩を叩かれた。振り向くと正樹がいた。

「おはよう、棚橋さん。昨日の夜、須崎君から君を頼まれた。君のこと、大切にするから安心して。また連絡するからね。」

正樹は心からの笑みを浮かべて声をかけると片手を上げて先に行ってしまった。

先生がリュウさんを奪った。

もと子は足から力が抜けそうになるのを必死に堪えた。

どうすればいい?

とりあえず、仕事中は考えないようにしよう。仕事が終わってから…もと子は病院に急いだ。


 勤務明け、ナースステーションから出ようとして、もと子は川端に声をかけられた。

「棚橋さん、なんか顔色良くないけど、大丈夫?」

「川端君、これから時間ある?よかったら相談に乗って!」

もと子から事情を聞いた川端は2人でピンクに行くことにした。


ピンクに着いた。ドアを開けるとママはおつまみの皿を女の子に渡しているところだった。

「ママさん!」

ママの姿を見るともと子は駆け寄った。今にも目から涙をこぼしそうになっているもと子に抱きつかれ、ママは少し驚いた様子だった。

「アンタ、どうしたの?」

「リュウさんに別れようって。」

泣きじゃくるもと子をヨシヨシと宥めながら、ママはもと子と川端をカウンター席の奥に座らせた。

「なるほどね。これでわかったわ。」

「何がわかったんですか?」

川端が渡されたおしぼりで手を拭きながら聞いた。

「リュウね、昨日の晩、遅くに来たんよ。ベロンベロンになって。そんでスマホのもと子とツーショットの写真見ながら泣いてたの。なんで泣いてんのって聞いても何にも言わないでお酒飲み続けて、最後はつぶれて、瀬戸ちゃんに迎えに来てもらったのよ。」

「そんなことが。ママさん、うちの跡取り先生が棚橋さんにアタックしてる話、知ってますか?その先生、今朝、棚橋さんにリュウさんから棚橋さんを任されたから安心してって言ってきたそうです。」

涙にくれて話ができないもと子の代わりに川端が説明した。

「何?跡取り先生がグルなの?ややこしいわね。」

もと子はママから渡されたタオルに顔を埋めてしゃくりあげていた。

「ママさん、助けてください。私、リュウさん以外の人なんて考えられない…」

「そりゃそうだわね。ずっと好きでやっと結婚するところまでこぎつけたんだもん、諦めることなんて無理だわ。」

ママは化粧が落ちているもと子に顔を拭くようおしぼりを渡した。

さて、どうしたものかと川端とママが話しているところにドアが開き、女が1人、入ってきた。

「ママ、お久しぶり。」

「あら、八重ちゃん!アンタいいところに来たわ。」

八重を川端の隣に座らせ、ママはおしぼりを出した。

「もと子ちゃんがいるならちょうどいいわ。今日はリュウ君のことで話があって。」

八重は今度はもと子の方を向いた。

「昨日の夜、リュウ君が酔い潰れてアキラんちに泊まってんね。リュウ君がここまで飲むことがなかったから今朝、アキラが何かあったのかって聞いたら、もと子ちゃんの病院の跡取り先生にもと子ちゃんを譲ったって言ったらしい。ホント?」

「本当のことみたいです。今朝、先生からも聞きました。」

もと子は泣き腫らして真っ赤になった目を冷たいおしぼりで冷やしながら答えた。

なにそれ!八重は頭を抱えてのけぞった。

「当のもと子ちゃんの気持ちをほっといて勝手に男2人で決めたの?大きなお世話やんね。」

「先生にリュウさんが話つけに行くのに、僕付いてったんですけど、先生の圧倒的な財力にリュウさん、打ちのめされた感じです。」

「確かに大きな病院の子だもんね。」

川端の言葉にママが続いた。

「先生が棚橋さんの奨学金なんて一発で返すとか言ったもんだからリュウさん、ショック受けたんじゃないですか?」

「そりゃ奨学金の返済がなくなったら嬉しいですよ。でもリュウさんが居ないなら意味ないのに…私の借金は私が返します。」

もと子は目に力を込めて言い切った。

「そっか。うん、もと子ちゃんの気持ちもわかった。今朝、リュウ君の話を聞いてアキラがバカなことはやめろって怒ったんよ。いつもならすぐわかってくれるのに、今回はリュウ君、頑固でね。アキラは顔を殴ったんだけど、それでももと子ちゃんのためだからと今も譲らないらしいわ。だからアキラが私に話を持ってきてんね。」

八重はもと子の手に自分の手を重ねた。

「私も協力するからリュウ君とより戻そう。ね?」

「…は、はい!」

もと子は涙目になって言葉を詰まらせた。

ママ、八重、川端ともと子の4人で作戦を練ることになった。といっても急にいいアイデアが出るわけもなく、行き詰まってしまった。

「とりあえず、今日は私達4人でグループラインしましょう。グループ名はもと子応援隊ね。いいアイデアが出たり、なんか変わったことがあったらみんなで共有しましょ。私はリュウが来たらあの子が心変わりするよう持ってくわ。」

ママは優しいまなざしをでもと子と目を合わすと八重と川端、それぞれと目を合わせ、うなずき合った。

「皆さん、よろしくお願いします。」

もと子はスツールから降りて3人に頭を下げた。

「頑張ろうね。大丈夫だからめげないで!」

3人に温かい声をかけられもと子は泣きながら笑顔をみせた。


その頃、正樹は夜食を買おうと院内のコンビニに向かって歩いていた。すると後ろから声をかけられた。振り返ると漆田が立っていた。

「先生、最近、ご機嫌ですね。」

「ああ、漆田さん。おかげさまで棚橋君の彼氏から彼女のことを頼まれてね。今はまだ彼女、気持ちの整理が出来てないみたいだけど、これから距離を縮めていこうと思ってる。」

「え?棚橋さん、別れたんですか?そうですか、良かったです。先生に面倒みてもらって、これであの子も幸せになれます。」

漆田は満面の笑みを浮かべた。正樹はその笑みを漆田の親切心と思い、正樹も誠実さが滲み出たような笑みを返した。正樹がじゃあ、と手を挙げると漆田は会釈をした。正樹の後ろ姿を見ながら漆田は思った。

腕もいいし、人柄もいい。その上お金持ちだけど、つまんない男。そして、キップスで見かけるリュウの姿を思い出した。ヒョウを思わせるようなしなやかな体。喧嘩で鍛えたらしい筋肉。煌めくライトの中で切長の瞳に硬質な美しい顔。フェロモンが溢れるのに寄ってくる周りの女達には媚びることもないクールさ。思い出すだけでため息が出る。棚橋みたいな女にはもったいない。今のリュウは彼女無しなので、今度は自分にもチャンスがある。そう思うと体が熱くなってくる。そういえば棚橋は最近、暗い顔をしているのをよく見かけるようになった。

アンタにはもったいない。あんな素敵な人の横に居るなんて夢を見る時間は終わり。いい加減、現実に戻らなきゃ。ホント厚かましいんだから。漆田は心の中でザマアミロ!と叫び、笑い出したくなるのを抑えられなかった。


 次の日、もと子は次の班に業務の引き継ぎを終えるとすぐ看護師長の中村に廊下の隅に呼ばれた。

「帰る前に、理事長室に寄ってくれる?理事長が棚橋さんに会いたいそう。」

「理事長?」

「正樹先生のお母さんだから、正樹先生があなたのことを気に入ってるのが気になるんちゃう?」

何を言われるのか?契約期間が開けるまでは何がなんでも働かせてもらわないと奨学金を返済しなくてはいけなくなる。もと子は拳を握りしめ気合を入れた。


理事長室の前に立った。初めて理事長室に入る。ノックをすると部屋の中からすぐ声がした。

「棚橋さん?入って。」

失礼しますと言うと、もと子はドアを開けた。

理事長は薄いピンクの仕立ての良いスーツを身につけ、グラデーションに染められたブラウンのショートヘアがよく似合うハツラツとしたキャリアウーマン。少し気後れを感じながらもと子は理事長の前に立った。

「そこ座って。ちょっと話が聞きたいのよ。」

大きなオーク材の机の前に置いてある大きな黒い応接セットのソファを理事長は指差した。もと子は下座に浅く腰掛けた。コーヒーでいいわね?と言うと、もと子の返事も待たずに理事長はコーヒーをもと子の前に置いた。

「あなたが棚橋もと子さん?率直に聞くわね。うちの正樹と結婚するつもりなの?」

憤然としたもと子はハッキリと返事をした。

「正樹先生と結婚なんてしません。私には婚約者がいるんです。」

「え?付き合ってないの?」

「そうです。彼と結婚するのを楽しみにしていたのに先生が私から彼を遠ざけたんです。」

もと子は目に怒りを滲ませて訴えた。

「正樹の独り相撲ってことなのね。あなたではうちの嫁は無理でしょ。お互いに不幸だしね。ああ、良かったわ。」

理事長は前のめりに座っていたが大きく息を吐くとソファの背もたれにドンともたれた。

「良くないです。私がお断りしているのに先生は全然納得して下さらないんです。理事長、助けて下さい。彼を返して下さい。」

もと子は頭を下げた。

「わかったわ。私もあなたには彼氏と結婚してもらいたい。正樹がしつこく言い寄ってるうちにあなたの気が変わられても困るからね。」

気が変わるわけない!と思い、もと子はムッとした。もと子の気持ちも知らず、理事長は小首を傾げて考えた。

「…んーそうやね。こんなのはどう?私と正樹の前であなたがどれだけ彼のことが好きなのか話して、こんなに彼のことが好きなんだから諦めるよう私が正樹に言い渡す。どう?」

「あ、いいですね。お母さんの理事長に話してもらったら先生もわかって下さるかも。」

「じゃあ、正樹と時間合わせるからまた近いうちに連絡するわ。今日はもういいわよ。」

理事長はソファから立ち上がった。もと子はよろしくお願いします、と頭を下げると理事長室のドアをを閉めた。

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