第3話 Slaughter
銀次は時空の扉から江戸時代にタイムスリップした。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)、吉良上野介が本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下を歩いていたところ、浅野内匠頭が上野介の後ろから声をかけ、あるいは「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う)で肩先を斬りつけ、更に斬りつけたところ、上野介が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上を傷つけた。小さ刀は上野介の烏帽子の金具にも当たり大きな音をたてた。そして上野介が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた。
すぐさま、内匠頭はその場に居合わせた梶川与惣兵衛に刀の鍔を押し留められ、異変に気付いて駆けつけた周囲にに取り押さえられ、柳之間の方へと運ばれた。一方の上野介は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に御医師之間に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた。上野介の傷は外科の第一人者である栗崎道有により数針縫いあわせられている。
その後、目付が双方から事情を聴取し、老中に報告、側用人柳沢吉保を経て将軍徳川綱吉にまで伝えられた。即日内匠頭には切腹の裁定が下り、一方の上野介は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。
「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」
浅野内匠頭は目付より取り調べを受けたのち、幕府の裁定を待つため、芝愛宕下の陸奥一関藩主田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。
内匠頭はこの時点から罪人としての待遇になっており、乗せられた駕籠は江戸城の平川門から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった。16時頃に田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ態勢ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた。
内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、畳2枚、若しくは
一方で、当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていたので、内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で切腹をした。
切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎・大久保権左衛門、介錯は御徒目付磯田武太夫であった。
遺体は浅野家の家臣達の片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ、菩提寺の泉岳寺にひっそり埋葬された。
同時に赤穂藩の改易も決まった。まず伝奏屋敷に詰めていた赤穂藩士は、内匠頭が御馳走役を外されたことを理由に退去を命じられ、急遽御馳走役を引き継いだ佐倉藩主戸田忠真が到着したのと入れ違いに、上屋敷へと引き上げた。この時、藩士らが騒動を起こしたときに備え、武力で抑えられるよう上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた。14日夜、内匠頭の正室の阿久里は剃髪し、名を瑤泉院と改め、翌15日明け方に実家の三次藩主浅野長澄に引き取られた。
15日からは江戸詰めの藩士が藩邸を退去、町家の借家に引き上げ始めた。18日には内匠頭の従弟の大垣藩主戸田氏定が、赤穂藩の地権書である朱印状を幕府へ老中土屋政直へ返還している。17日には上屋敷、18日には赤坂下屋敷、22日には本所下屋敷がそれぞれ、幕府に収公された。この騒動の最中、町人の中で藩邸に忍び込んで空巣をやる者がおり、大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている。
銀次は
安兵衛は、寛文10年(1670年)、越後国新発田藩(現在の新潟県新発田市)溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。母は同藩士・溝口盛政の六女(盛政の父・溝口政友は丹羽氏の出自。賜姓によるもので、新発田藩主溝口氏との血縁関係はない)。姉が3人おり、長女・ちよは夭折、次女・きんは蒲原郡牛崎村の豪農の長井弥五左衛門に嫁ぎ、三女は溝口家家臣・町田新五左衛門に嫁いだ。安兵衛の幼名は武庸だ。
母は、武庸を出産した直後の同年5月に死去したため、しばらくは母方の祖母のところへ送られて、祖母を母代わりにして3歳まで育てられたが、祖母が死去すると再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる。しかし、武庸が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる(浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという『世臣譜』にある説が有力とされる)。
浪人後、ほどなくして父が死去。孤児となった武庸は、はじめ母方の祖父・盛政に引き取られたが、盛政もその後2年ほどで死去したため、姉・きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られた。元禄元年(1688年)、19歳になった武庸は、長井家の親戚・佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内正春の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王(他の3人は奥田孫太夫、菱沼式兵衛、塩入主膳)と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現・新宿区納戸町)に一戸建ての自宅を持った。
そのようななか、元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。武庸と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、武庸は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)。
この決闘での武庸の活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣・堀部金丸が武庸との養子縁組を望んだ。初め武庸は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、金丸の思い入れは強く、ついには主君の浅野長矩に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。長矩も噂の剣客・中山安兵衛に少なからず興味があったようで、閏5月26日(1694年7月18日) 、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。
これを聞いてさすがの武庸もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、金丸の娘・ほりと結婚して、金丸の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に金丸が隠居し、武庸が家督相続。このとき、武庸は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。譜代の臣下である堀部家の養子である武庸は家中では新参(外様の家臣)に分類されており、異例の養子入りであるから武庸は金丸の堀部家とは事実上別家扱いだったものと考えられる。
赤穂藩での武庸は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役となった。元禄11年(1698年)末には尾張藩主・徳川光友正室・千代姫(江戸幕府3代将軍・徳川家光長女)が死去し、諸藩大名が弔問の使者を尾張藩へ送ったが、長矩からの弔問の使者には武庸が選ばれ、尾張名古屋城へ赴いた。
ところが、元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君・長矩が江戸城松之大廊下で高家・吉良義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。武庸は江戸詰の藩士・奥田重盛(武具奉行・馬廻150石)、高田郡兵衛(馬廻200石)とともに赤穂へ赴き、国許の筆頭家老・大石良雄と面会。篭城さもなくば義央への仇討を主張したが、良雄からは浅野長広による浅野家再興を優先することを諭されて、赤穂城明け渡しを見届けた後、武庸らは江戸に戻ることとなった。
武庸はそれ以降も強硬に義央への敵討を主張。江戸急進派のリーダー格となり、京都山科に隠棲した良雄に対して江戸下向するよう書状を送り続けた。8月19日(9月21日)付けの書状では「亡君が命をかけた相手を見逃しては武士道は立たない。たとえ大学様に100万石が下されても兄君があのようなことになっていては(浅野大学も)人前に出られないだろう」とまで主張。良雄は、武庸ら江戸急進派を鎮撫すべく、9月下旬に原元辰(300石足軽頭)、潮田高教(200石絵図奉行)、中村正辰(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式(400石足軽頭)と大高忠雄(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは全員武庸に論破されて急進派に加わったため、良雄自らが江戸へ下り、武庸たちを説得しなければならなくなった。元禄14年11月10日(1701年12月9日)、良雄と武庸は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談に及んだ。良雄は、一周忌となる元禄15年3月14日(1702年4月10日)の決行を武庸に約束して京都へと戻っていった。
しかし帰京した良雄は主君・長矩の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び良雄と面会するために武庸は、元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都に入った。事と次第によっては良雄を切り捨てるつもりだったともいわれており、実際、武庸は大坂にもよって元辰を旗頭に仇討ちを決行しようと図っている。そのようななか、7月18日(8月11日)、長広の浅野宗家への永預けが決まり浅野家再興が絶望的となると、良雄も覚悟を決めた。京都円山に武庸も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した。武庸はこの決定を江戸の同志たちに伝えるべく、京都を出て、8月10日(9月1日)に江戸へ帰着し、12日(3日)には隅田川の舟上に同志たちを集めて会議し、京での決定を伝えた。
そして元禄15年12月14日(1703年1月30日)、良雄・武庸ら赤穂浪士四十七士は本所松阪の義央の屋敷へ討ち入った。武庸は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。ただし、武庸は吉良方を一人も斬殺していない。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は義央を討ち取り、泉岳寺に詣でたのちに幕府に投降しその処分を委ねた。
討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、武庸は良雄の嫡男・大石良金らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷(大石主税良金ら十士切腹の地 )へ預けられた。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹した。享年34。主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。法名は刃雲輝剣信士。
この時代に玉が落ちている確証はなかったが、1度リアルな討ち入りを見てみたかった。
銀次が小学3年生のとき、大河ドラマ『赤穂浪士』が放映された。あの年は東京オリンピックが開催された。大石内蔵助の役は
事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が赤穂藩へと飛んだ。
第一報は、14日未の下刻(午後3時半頃)に早水藤左衛門と萱野三平が早駕籠に乗って江戸を出発し、19日寅の下刻(午前5時半頃)に赤穂に到着した。この時点では、刃傷沙汰のみが伝えられた。次いで14日夜更けに江戸を発した第二の早駕籠(原惣右衛門と大石瀬左衛門)が19日の内に赤穂に到着し、浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の改易を伝えた。江戸・赤穂間の早籠は通常7日程度かかるが、この時は昼夜連続で駆け続け、4日半程度で赤穂に着いている。一方、吉良上野介の生死が赤穂側に伝わったのは3月下旬であった。
筆頭家老の大石内蔵助は、第一報が届いた時点で藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた。そして大石を上座に据え、連日、城に集まって対応を議論した。
幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、赤穂藩士は内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである。一方で親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。
家臣達の意見は、上野介が処罰されなかった事に対する抗議の意思を籠城によって示すというものが多かったが、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったためある。
また、内匠頭の弟にあたる浅野大学に迷惑がかかると大石が考えたのも、籠城を辞めた理由の一つである。大石は城内での議論と並行して、上野介の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたが、この事が大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである。
連日の議論を経て、大石の出した結論は、赤穂城の前で皆で切腹しようというものであった。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も上野介への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである。また、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある。
銀次は恐怖で体がワナワナと震えた。
また、死なないといけないのか。
最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余りが提出した。
なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野九郎兵衛等による反対意見もあった事による。大野はとにもかくにも主君の弟である大学が大事だから、まずは穏便に赤穂城を幕府に明け渡すのが先決だと考えていたのである。
しかし切腹の神文を提出する段になって、原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した。なお原はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している。大石は4月12日に赤穂城の明け渡しを最終的に決定した。
江戸藩邸詰めの銀次(安兵衛)は、奥田孫太夫・高田郡兵衛から「必ずや殿の仇を討ちましょう」と煽られた。
3人はこの時点で、20人ほどの同志を得られたら直ちにでも討ち入りをする算段であったが、賛同者は得られなかった。国元での世論については情報を得られなかったため、籠城・討ち死にも視野に入れて赤穂へ向かい、4月14日に到着した。大石は3人に対し、将来の御家再興を視野に入れての自重を求めた。3人は他のものとも意見交換をしたが、いずれも一旦の恭順をとるという大石の意見に従っていたため、3人は討ち入りを断念した。
これらの議論が行われるのと並行して、収公に向けた手続きが行われた。
まず、藩札の引き換えの方針が早々に決定された。藩庁は、藩札の交換レートを六分、つまり額面価格の6割と定め、改易の報が赤穂に届いた翌20日から換金に応じた。この比率は他の藩札処理の事例と比べて破格の高さであった。このとき大石内蔵助は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っている。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けた。
そして、城に収められた武器については、城付き武具のほかは売り払いの許可がでたため、赤穂入藩時に前藩主池田輝興から引き継いだ分の武器以外は、大坂の商人が落札した。
これらの実務作業のほか、必要とされる書類については、元禄7年(1694年)の備中松山藩の転封の際に浅野内匠頭が受け取りを担当、大石以下赤穂藩士もこれに関わっていたため、書類作成もスムーズに進んだ。
4月19日、幕府派遣の受城目付荒木政羽・榊原政殊、代官石原正氏、受城使脇坂安照・木下㒶定立会いの下、赤穂城引き渡しが完了した。この引き渡しは特に厳戒態勢で行われ、脇坂・木下がともに軍勢を引き連れてきたほか、近隣の岡山・姫路・明石・徳島・高松・丸亀・松山の各藩が陸上・海上に軍勢を展開させた。
その後も大石ら一部藩士は遠林寺会所を間借りして残務作業を続け、5月18日に全ての書類引継ぎが終了した。同日、奉行・小役人に魚料理が振る舞われ、士分のものには金子が渡された。
赤穂城引き渡しという喫緊の課題が片付き、旧藩士の内江戸藩邸詰は町家の借家に、国元勢はそれぞれの伝手を頼るなどして赤穂町内および京都・伏見・大坂など上方一円に、それぞれ居を移して身辺を落ち着けると、浅野家中としての今後の身の振り方を巡って対立が発生した。おもに大石内蔵助と銀次とを軸に慢性的な対立状態が続き、前者は上方漸進派、後者は江戸急進派と呼ばれる。
大石は、浅野内匠頭の弟・大学による御家再興を至上命題として、幕閣や近親諸藩、将軍綱吉と近いと思われる寺院などの伝手を辿って運動を行っていた。大石家は浅野家と血縁関係が近しく、代々赤穂藩に仕えていたことから、大名・浅野家が復活することを、自身の「忠義」ととらえていた。また、大石にとっても、浅野家の「人前」が立つという目的のもと、吉良家に対しても何らかの処分が下ることを希望していた。
一方、銀次は、引き続き吉良邸への討ち入りを念願し、旧藩士から同志を募っていた。銀次は死にたくなかったが、堀部がそれを許さなかった。取り憑いたはずが、逆に弄ばれている。堀部家は父の代で浪人になってから剣豪として身を立て、高田馬場の決闘で名をはせて浅野家に召し抱えられたことから、堀部の主従意識は、浅野家代々ではなく、浅野内匠頭個人に対してのものであって、堀部にとって大学は「主君の弟」に過ぎなかった。堀部にとっての「忠義」は、内匠頭が伝来の御家を捨ててまで鬱憤を晴らそうとして、その遺志を継いで、吉良上野介を討ち果たすことにあった。
赤穂藩が廃藩になってから数カ月の間、吉良上野介および大学の処遇は明らかにならず、また上方の大石と江戸の銀次との間で書簡が交わされたが意見の一致を見ず、事態は膠着状態のまま推移した。大石の御家再興運動は好転する兆しが見えず、一方で銀次は討ち入りが成功するためには大石ら上方の旧藩士の協力が必要で、上方の旧藩士には大石が大勢での江戸下向を厳禁していたためである。当事者である大学は、事件後は閉門されて旧藩士と連絡が取れなくなっており、その意志は不明のままであった。
吉良上野介は、刃傷事件で負傷した時点ではおとがめなしであったが、一部では浅野内匠頭に対する裁定の厳しさに対する同情論から、上野介に対して厳しい見方も存在した。例えば『易水連袂録』にはもし内匠頭が上野介に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら内匠頭の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと、内匠頭の行動に理解を示している。また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである。
上野介はこうした世評を意識して、高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという。上野介は3月23日付でお役御免となった。
その後、8月19日に吉良家は呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。大名屋敷の多い呉服橋と比べ、本所は人気のない構外であったことから、討ち入りをしやすくするために上野介を郊外に幕府が移したのではないか、とのうわさが江戸に流れた。幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、旧赤穂藩士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていたというので、こうした事情が影響した可能性はある。
銀次ら急進派はこの屋敷換えを討ち入りの好条件ととらえ、大石内蔵助に討ち入りを迫った。
「いつやるの?」
「今しかなかろうな」
そこで大石は急進派を説得する為、9月はじめ頃に原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に進藤源四郎と大高源五を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった。そこで大石は自ら急進派を説得すべく、10月23日、奥野将監、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門、中村清右衛門を伴って隠棲先の山科を出発した。
一方銀次、奥田孫太夫、高田郡兵衛は、大石合流前の10月29日、討ち入りを決意するための神文を作成する。ここでは、従来の堀部の主張通り、内匠頭の意志を継いで吉良邸討ち入りを果たすことを誓い、末尾の罰文には、通常は神仏の罰とするところを「御亡君の御罰遁るべからざる者也」とした。また、討ち入りを決行する時期として、翌年3月の一周忌まで、と具体的に期限を定めた。
11月10日、芝で旧藩士の会合が開かれた(江戸会議)。参加者は、大石、銀次、原、進藤、奥野、河村、岡本、奥田、高田である。銀次は、浅野大学が閉門中に討ち入りをすれば、大学の赦免後にも「人前」が立つし、君臣の礼儀にもかなう、と述べた。一方大石は、大学の安否を見届けることを主張した。結局、先乗りしていた上方の同志をすでに説得していた急進派が優勢のまま会議は進んだ。期限を区切らないと皆の士気が下がる、という銀次の主張を大石も受け入れ、翌年3月に結論を出すことを約束した。
12月11日、吉良上野介の隠居と、嫡男義周(左兵衛)の家督相続が許可された。
これを聞いて銀次たち急進派は焦り始めた。隠居した上野介が、米沢藩上杉家に養子入りしていた実子の綱憲に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである。銀次たちは、江戸会議のために下向してそのままとどまった原惣右衛門、大高源五と相談の上、上方へ戻っていた大石内蔵助へ書状を送り、上野介の居場所を継続して監視する手はずは整えており、自分は2月に上洛するのでそこで談判し、3月上旬には江戸にもどって討ち入りを行いたい、と具体的なスケジュールを提示してせかした。また、渡世を度外視した浪人生活が一年近くに及び、当座の生活にも苦しくなる旧藩士の実情をも訴えた。
一方、大石にとっては、討ち入りの条件として「浅野家再興 および 吉良家への処分」がどちらもなされないこと、としており、後者がなくなった時点で討ち入りに反対する理由はなかった。しかし、浅野大学に対する処分が下る前に討ち入りをした場合は御家再興に影響が出る可能性があるため、引き続き討ち入りを先延ばしすべきだと主張した。上野介が無理なら息子の左兵衛を討てばよいし、閉門はたいてい三年で解けるものだから、大学の閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだといった。
銀次は、大石が前言と違うこと(上野介がお咎めなしになったのに、討ち入りに賛同しないこと)を言い出し、更に期限を浅野内匠頭の三回忌まで延ばすことを提案したことから大石に対して不信感を抱き、原、潮田、中村、大高らと連携し、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃える方向を模索し始めた。
翌元禄15年(1702年)正月9日、原惣右衛門と大高源五が上洛、大石内蔵助と面会して銀次の訴えを伝えた。その後も京都周辺の旧藩士らと会合を重ねるが、上方勢は吉良上野介の隠居を「是切(これきり)の事と覚悟」はしながらも、早急に討ち入りを決行する方向へはまとまらなかった。大高は彼らの態度について「生煮え」と評し、落胆している。
この頃、原から銀次へ充てた上方勢の情勢報告では、討ち入り案への理解者として、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、潮田又之丞、中村勘助、岡嶋八十右衛門、千馬三郎兵衛、中村清右衛門、中田理平次、矢頭右衛門七の名前を挙げている。
2月15日から数日間、山科に大石、原らが集まり、今後の行く末を決める会議が開かれた。この会議は、先立つ旧藩士間での会談内容の色彩が強く、「浅野大学の処分を待って事を起こす」という大石の従来の主張が通った。また、討ち入り期限としても、大石が新たに設定した「浅野内匠頭の三回忌」(翌年3月)が通った。原らにとっても、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃えるめどが立たなかった以上、大石の提案に賛同するよりほかなかった。
山科会議での決定を受け、討ち入り案件は「大学の処分待ち」となり、銀次ら急進派は大石による御家再興の運動を見守ることになった。この頃の大石は、大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良を討つことを考えていた。大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである。しかし主君・内匠頭の弟である大学の指示によって上野介を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。だから大石は、大学と無関係に討ち入りしようとする銀次達の意見には賛同できなかった。
4月に入ると銀次らは再び大石抜きでの討ち入りを模索し始める。
史実では死ぬ安兵衛が生き残ったら歴史はどう変わるだろう?もしかしたらコロナが起きなくなるかも知れない。
「大石が加わらなければ、切腹しなくても済むかもしれない」
4月2日の原の銀次宛書簡では、大石抜きでも同志は14,5人ほど集められるめどであると報告(名指しされたのは原、銀次、奥田、武林唯七、大高、潮田、中村、岡野、小野寺幸右衛門、倉橋伝助、田中貞四郎の11人で、その他に3,4名ほど得られる目算であったと思われる)、7月中には江戸へ下る予定であった。大石が気にする大学への影響についても、大石に近いものを外して自分たちだけで討ち入りをしたら、大学に迷惑がかかることもないであろう、と推測した。また、大石の討ち入り期限の後ろ倒しに賛同した一部同志を名指しで非難するなど、大石・銀次両派の確執が深まっていった。
大石は重ねて自重を呼びかけたが、銀次は6月に入ると十人ほどでも討ち入る覚悟を示し、大学の御家再興を待って帰参する心積もりの旧藩士らを「腰が立たない」言語道断のものであると切り捨てた。6月末に銀次は上洛して原、大高らと大石外しの相談に及び、7月中に頭数を揃えて江戸へと下る予定であった。
そのさなかの7月18日、浅野大学に対して「広島藩預かり」という処分が下った。これはお家再興が事実上あり得ない事を示していた。大学は同日、本家の広島藩邸に移った。
大学処分の報せが上方に届いたのは、24日であった。大石内蔵助が最後まで望みを託していた浅野家再興の望みは絶たれ、また銀次らの突き上げを喰らって旧藩士が分裂寸前の状態にあっては、もはや討ち入りを止めることはできなかった。
7月28日、急ぎ京都の円山にある安養寺の塔頭「重阿弥」に近隣にいた同志が呼び集められ、会議が開かれた。この席で、大石は10月に江戸に下り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した。この会議に参加したのは、大石、銀次のほかに、大石主税、大石瀬左衛門、潮田又之丞、小野寺十内、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、間瀬久太夫、間瀬孫五郎、原惣右衛門、貝賀弥左衛門、武林唯七、不破数右衛門、矢頭右衛門七、三村次郎左衛門、大石孫四郎、岡本次郎左衛門の19名で、この内、大石孫四郎、岡本次郎左衛門を除く17名が最終的に討ち入りの浪士の中に含まれている。
銀次達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴を装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている。
討ち入りの決行が正式に決まると、討ち入りに参加する旧藩士の絞り込みが始まった。
討ち入りの意志表明の身安になっていたのは、大石内蔵助が赤穂城受け渡しの時と深川会議の時に集めた神文で、最大時には120名ほどが提出していた。しかし、廃藩に伴って解散してから連絡が取れていない旧藩士も少なくなかったため、横川勘平が江戸、貝賀矢左衛門と大高源五が上方の同志の間を一人一人訪ねて回り、討ち入りの意志の確認が行われた。具体的には、「敵討ちをやめるほかない」とまず説明して提出済みの神文を返却し、受け取りに抵抗したものを志あるものとみなして、盟約に加えた。
この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の3人が脱盟している。大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら3人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった。
大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日に京を出て、11月5日に江戸に到着している。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという 。10月26日には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている。
このころ、同志たちはすでに困窮を極めており、大石瀬左衛門は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし、磯貝十郎左衛門も家賃が2カ月も払えなかったという。大石は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった。
12月2日、頼母子講を装って深川八幡前の大茶屋に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた。
赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた。 これは、吉良上野介がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである。茶会の情報を手に入れたのは 大石内蔵助の一族である大石三平であった。三平は茶人山田宗徧の弟子だが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた羽倉斎が江戸で新道や歌道を教えており、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて、この情報を聞いたのである。
銀次はあまりの寒さに泣きそうだった。昭和ならコタツとかあるが、そんなものこの時代にあるはずなく手を息で温めた。
赤穂浪士の一人である大高源五もやはり山田宗徧の弟子で、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいた。
11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、小山田庄左衛門(100石。片岡源五右衛門から金と着物を盗んで逃亡)、田中貞四郎(小姓あがり、150石。酒乱をおこして脱盟)、中田理平次(100石)、中村清右衛門(小姓、100石)、鈴田重八郎、瀬尾孫左衛門(大石内蔵助家来)、矢野伊助(足軽5石2人扶持)が姿を消した。
そして討ち入り3日前の12月11日まで同志の中にいた毛利小平太(大納戸役20石3人扶持)も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった。
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、四十七士は銀次の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませ、寅の上刻(1703年1月31日午前4時頃)に借宅を出た。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は掛矢(両手で持って振るう大型の木槌)で門を打ち破り吉良邸に侵入した。
表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱を竹竿にくくりつけ、玄関の前に立てた。
裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたが、その長屋の戸口を
四十七士は吉良上野介の寝間に向かったものの、上野介は既に逃げ出していた。茅野和助が上野介の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した。上野介はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は上野介を探した。
そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した。
「吉良、覚悟!」
間は浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた。無事上野介を討ち取ったのである。
そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた。ここまでわずか2時間程度であった。
双方の死傷者は、吉良側の死者は15人、負傷者は23人であった。銀次も折れない刀『炎龍』で奮戦した。一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は2人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている。
吉良上野介を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。
途中、吉田忠左衛門と富森助右衛門が大目付の仙石伯耆守に討ち入りを報告すべく隊を離れた。また寺坂吉右衛門も理由は分からないがどこかに消えた。銀次は宿主を堀部から寺坂に変えていた。
泉岳寺についた一行は内匠頭の墓前に上野介の首を供え、一同焼香した。
上野介の首と共に内匠頭の遺品の小刀も供えられた。鞘から抜かれた小刀は、軽く三度上野介の首に当てられた。この儀式をそこにいた浪士全員が行った。近松行重が書いたとみられる記録では、上野介を墓前にお連れしたと記載し、内匠頭自身がそれを討って悔いを晴らしたとする。
吉良上野介の首はその後箱に詰められて泉岳寺に預けられた。寺では僧二人が吉良家へと送り届け、家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内が受け取った。この時の二人の連署が書かれている、上野介の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が上野介の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、上野介は菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。
赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。
幕府は赤穂浪士を、細川越中守綱利、松平隠岐守定直、毛利甲斐守綱元、水野監物忠之の4大名家に御預けとした。赤穂浪士達は預け先にて、細川家などで罪人扱いではなく、武士としての英雄として扱われたとする話が残る。一方、毛利家には浪士の部屋をくぎ付けにするなど罪人として厳しい扱いをした記録も残る。その他、各大名家で多少の混乱もあった。
赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたからである。
元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した。
切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた。
当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた。
赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された。赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺にも37回忌の元文4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている。
銀次は奥多摩にある森に逃げてきた。轟々と音を立てながら竜巻が現れた。🌪
銀次は
『儂は竜巻に乗って戦国時代からやって来た』
嶽丸の目はマジだった。
銀次は竜巻のすぐそばまで駆けた。
渦に巻き込まれた銀次は次なるステージにワープした。
2019年4月1日
銀次は京都にやって来た。河原町四条にある日本茶スタンドにやって来た。抹茶ラテを頼んだ。抹茶をまろやかなミルクに注ぐと見事なグラデーション。
夕食は四富会館にあるおばんざい店に向かったが、市役所裏に移転したとのことだった。
きんぴらやマグロの漬けなどが格別だった。
吉良邸には赤く輝く玉が眠っていた。厠の中でそいつを見つけたとき、銀次は発狂しそうになった。
それにしても、おかしな道具を持った人がたくさんいる。板前に恥ずかしいが聞いてみた。
「実は記憶を失ってね、最近の記憶がないんだ。アソコの席の女性が手にしてる箱みたいなのは何だ?」
「スマートホンのこと?あれは電話ですよ。それだけじゃなくて、辞書機能やカメラ機能などたくさんついてる。ゲームなんかもあれで出来ます」
「すげーな」
勘定を払い、店を出るとグアヤベラシャツを着た中年が近づいてきた。キューバのサトウキビ畑で働いていそうな雰囲気だが、彼は間違いなく鯉淵だった。
「もしかして、蒲生さんじゃないですよね?いや、殉職したはずだよな?ご親戚ですか?」
「人違いでは?」
鯉淵はマフィアとの関係を知られ、宇都宮から逃亡した。銀次は鯉淵と別れ、ビジネスホテルにやって来てニュースを見た。
この日はいろいろなことがあった。
元号法に基づいて、5月1日以降の新元号を閣議決定(第4次安倍第1次改造内閣)。その後、菅義偉内閣官房長官が総理大臣官邸にて予定より11分遅れで午前11時41分に新元号「令和(れいわ)」を事前発表。
悠仁親王がお茶の水女子大学附属中学校に進学。
法務省の外局として「出入国在留管理庁」が発足。
同日より働き方改革関連法(働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律)が順次施行。
山形市、甲府市、福井市、寝屋川市が中核市となる。
新日鉄住金が社名を日本製鉄に変更、同時に国内外グループ会社50社以上の称号も変更。
鉄道運輸規程改正により、刃渡り6cm以上の刃物(包丁類、ナイフ類、なた、鎌、はさみ、のこぎり等)について、直ちに取り出して使用できないような状態にしておかない限り鉄道車内への持ち込みが禁止となり、6cm以下のものについても原則車内での使用が禁止となる。
NHK連続テレビ小説100作目『なつぞら』放送開始。
しかし、主演の広瀬すずのことを銀次は全く知らなかった。
4月2日
国土交通省が、3月29日午後7時ごろ、関西国際空港の南西約90キロの上空を飛んでいたケアンズ発関空行きの豪ジェットスター機(ボーイング787-8型)が、左右両側のエンジンの出力が一時低下するトラブルがあったと発表。出力は回復し、同機は約20分後に着陸した。同省は同日、航空重大インシデントと認定し、国の運輸安全委員会が調査を始めた。
18時過ぎ、「JR兵庫駅に停車中の普通電車内で、ペットボトルから薬品がまかれ、乗客100人が体調不良を訴えている」と兵庫県警本部に通報があった。兵庫署員らが同駅に駆け付け、車内や駅構内を調べたが、異物などはなかった。この通報で神戸市消防局は消防車35台を出動させた。兵庫県警からは同署のほか、県警鉄道警察隊など約70人が現場に急行した。同署は虚偽通報とみて、偽計業務妨害の疑いで調べている。
4月4日
東京地検特捜部は、3月に保釈されたばかりの竹内自動車の前会長、
4月5日
小惑星探査機「はやぶさ2」が「リュウグウ」に向けて衝突装置 (SCI) を分離し、小惑星における世界初の人工クレーターの作成に成功。
🇨🇳中国海警局の4隻 (海警1501、海警2305、海警2401、海警33115) が尖閣諸島沖の領海に侵入。
23時30分頃、北陸新幹線佐久平駅周辺で77歳の男が線路に侵入し2回にわたり高崎駅 - 長野駅間で運転を見合わせた。線路侵入により1本運休、15本が遅れる影響が出た。長野県警察上田警察署は男を新幹線特例法違反で現行犯逮捕。
4月8日
🇨🇳中国海警局の4隻 (海警1501、海警2305、海警2401、海警33115) が尖閣諸島沖の領海を航行。
4月9日
財務大臣の麻生太郎が記者会見を行い、『2024年度上期をメドに、偽造防止などの観点から様式を新たにして日本銀行券(紙幣)を発行する』と発表。新しい日本銀行券(紙幣)肖像については『一万円紙幣:渋沢栄一』『五千円紙幣:津田梅子』『千円紙幣:北里柴三郎』として現行紙幣(一万円:福沢諭吉、五千円:樋口一葉、千円:野口英世)から一新する。また『五百円貨幣についてもデザインも変更して2021年上期をメドに発行する』ことも併せて発表された。
4月10日
日米欧などの国際共同研究グループ(イベントホライズンテレスコープ)が、巨大ブラックホールの撮影に初めて成功したと発表。チリやメキシコ、米国、スペイン、南極にある8つの電波望遠鏡を連動させ、極めて解像度の高い巨大望遠鏡に見立てて観測した。謎に包まれた天体の解明につながるノーベル賞級の成果と言われている。
同月9日に、青森県沖で消息を絶った航空自衛隊三沢基地所属の最新鋭ステルス戦闘機F35Aについて、防衛省が墜落したと断定した。同月9日夜には、現場周辺海域でに浮遊物を回収し、機体左右の尾翼の一部と確認された。
4月14日
11時10分ごろ、東京発博多行きの山陽新幹線「のぞみ17号」で、乗客の男が非常用ドアコックを使ってドアを開け、線路に飛び降りた。山陽新幹線は新大阪-岡山間で運転を見合わせた。兵庫県葺合警察署によると、男は車掌に確保され、約45分後に再開した。男は、新神戸駅で警察に引き渡され、新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法違反の現行犯で逮捕された。
4月17日
🇨🇳中国海警局の4隻 (海警2303、海警2307、海警2308、海警2502) が尖閣諸島沖の領海に侵入。
4月19日
昼ごろ、東京都豊島区東池袋の交差点で87歳の男が運転していた乗用車が暴走し、通行人を次々とはねる交通事故が発生。この事故で3歳の女の子とその母親の2人が死亡、8人が重軽傷を負った(東池袋自動車暴走死傷事故)。この事件は、高齢者の免許返納が増加するきっかけになった。
4月30日
天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行に伴い、この日24時限りで第125代天皇明仁が退位(譲位)。午後5時から退位礼正殿の儀(退位の礼の中心儀式)が行われた。天皇の退位は光格天皇以来202年ぶりで明仁は歴代天皇の中で退位するのは59人目、憲政史上では初めてのことである。元号「平成」最後の日。(明仁から徳仁への皇位継承)
5月1日
午前0時、皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位し、「
5月4日
北海道大樹町の民間企業・インターステラテクノロジズが開発したロケット「MOMO3号機」がこの日の朝同町の実験場から打ち上げられ、日本の民間企業として初めて宇宙空間への発射に成功。
天皇徳仁の即位を祝う一般参賀が皇居で行われ、141,130人が訪れた。
5月9日
🇨🇳中国海警局の4隻 (海警1305、海警2306、海警2501、海警35115) が尖閣諸島沖の領海を航行。
京都市の左京郵便局から、ゆうパック数十個を積んだ軽ワゴン車が行方不明になる事件があり、届け出を受けた京都府警察下鴨警察署が捜索。
5月15日
ゆうパック数十個を積んだ軽ワゴン車が行方不明になった事件で、15日昼過ぎに京都市東山区内のコインパーキングで下鴨署員が発見し、運転していた27歳の男を横領容疑で逮捕した。荷物は無事だったが、釣り銭用の現金がなくなっていた。
5月20日
🇨🇳中国海警局の4隻 (海警1501、海警2305、海警2308、海警33115) が尖閣諸島沖の領海を航行。
5月24日
🇨🇳中国海警局の2隻 (海警1501、海警33115) が尖閣諸島沖の領海を航行。
5月25日
アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領が28日までの3日間の日程で来日。安倍晋三首相と共にゴルフのプレイ、大相撲の観戦をして両国の交流を深めた。
5月30日
🇨🇳中国海警局の4隻 (海警1501、海警2305、海警2308、海警33115) が尖閣諸島沖の領海を航行。
6月1日
銀次は殺し屋の武藤を追ってメキシコにやって来た。1976年2月16日、銀次を殺そうとしたのは武藤だった。73歳の武藤はかなりヨボヨボだった。あの頃とは顔の形もかなり変わった。
ユカタン半島の北部に、チチェン・イツァと呼ばれる古代マヤ文明の都市遺跡を見つけた。遺跡の中で見失った。武藤はコウモリに姿を変えることが出来た。🦇石造りの神殿や修道院があり、そこにモザイク彫刻が施されている。チチェンは『井戸のほとり』、イツァは『水の魔術師』という意味がある。チチェン・イツァには2つの泉があるが、生贄を捧げる凄惨な場所であった。
セノーテって泉からは人骨や宝石、金や翡翠の装飾品が出土した。
「なるほど、ここはかつて水不足にあったんだな?」
ユカタン半島一帯は熱帯に属し、降雨量は多いが水不足になったのは土壌が石灰質だからだ。
「水が枯れるってのは悲惨だ」
生贄を選ぶためにサッカーに似た試合が行われていた。銀次は球技場にやって来た。試合に勝った者が首を切られることになる。
生贄は体を藍色に塗られ、巨大な石の上に仰向けで寝かせられ、神官によってナイフで胸を切り裂かれ、心臓を取り出し神の像に押しつけ、血を塗りつけたのだ。
あと数年で世界が滅びるなんて銀次には信じられなかった。
30歳で結婚した
2020年6月10日
六本木にある、コンピュータもない粗末な事務所を訪ねると、セールストークをあっと言う間に暗記して、コンビニで万引をしている少年を、「教材を買えば黙っててやる」と脅して売りつけて英雄扱いされる。
稼ぎで購入したジャガーを駐車場に停めていると、高校時代の友人でコンビニでバイトをしてる
妻から貧困層を相手にしていることを咎められたことをきっかけに、金持ちを相手に変え、会社は急成長した。フォックス誌の取材に応じるとその名は若者にも知られることとなり、入社希望者が大挙して押し寄せるようになった。自宅のパーティに出席した
しかし、ある捜査官が俊介の動きに疑問を持ち、内偵を進めているとの情報が知り合いで元刑事の私立探偵から入る。自ら連絡を取るのは危険だと警告を受けるも、俊介は別荘へ招待する。巧みな話術で取り込もうとするが、買収するのかと脅かされ別荘から追い出す。
当局の動きに焦りスイスの銀行に資産を隠そうとするが、口座はヨーロッパ人でないと開設できないと言われ、ロンドンにいる親戚の
島村も自分の資産を運ぼうとするも、仲間の
そんな中突然、元刑事の私立探偵から電話があり、自宅と会社が盗聴されているという情報が入る。
盗聴されないよう公衆電話のあるカントリークラブへ向かい、詳細をやりとりしているうちに遅れてきた薬の効能で卒倒する。なんとか這いずりジャガーで帰宅するも、翌朝目覚めた時には奇跡的に無傷ではあったが、車は大破していた。
中国に核でも落ちねーかな?銀次は思った。
銀次は
日はとっぷり暮れ、1番星が輝いていた。
優馬は
歩きタバコがいけないことすら銀次は知らなかった。銀次が死んだ頃、自宅のトイレは汲取式だったがウォシュレットなんて素晴らしいものが普及していた。使い方を知らずに優馬にレクチャーしてもらった。
神澤はバタフライナイフで応戦してきたが、炎龍で弾き飛ばし奴の腹を突き刺して殺した。
2022年クリスマスイブの出来事だった。
神澤邸の金庫にはエメラルドグリーンの玉が眠っていた。
「これで2つ目」
神澤邸を出ると竜巻が現れた。
銀次は竜巻に飛び込み、次なる時代へとタイムスリップした。
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