第2話 Line of Duty Death
1976年
2月2日
黒柳徹子司会のトーク番組「徹子の部屋」(NET→テレビ朝日系)放送開始。
宇都宮では麻薬関連の犯罪が急増しており、常習者は青少年を含む500人とも言われていた。
東武新聞の女性ジャーナリストである
これに屈しない彼女を恐れた麻薬の元締めである
2月4日
インスブルック冬季オリンピック開幕。2月15日まで。
当初、1976年冬季大会は1970年に開催された第69回IOC総会でデンバー(米国)での開催が決定していたが、環境破壊等の問題で住民の反対運動のため、1972年10月に実施された住民投票で大会開催が返上され、1973年2月にインスブルックに開催が決定した経緯がある。そのため、前回の札幌大会の閉会式で行われた板垣武四・札幌市長からウィリアム・マクニコルデンバー市長への大会旗引き継ぎを、この回の開会式で板垣市長からアロイス・ラガーインスブルック市長へ改めて行った。インスブルックでの開催は1964年以来2回目の開催で、大会のロゴは1964年大会とほぼ同じだが五輪マークが黒一色になっており、文字のフォントも変更されている。
実施競技はアイスホッケー、アルペンスキー、クロスカントリースキー、スキージャンプ、スピードスケート、ノルディック複合、バイアスロン、フィギュアスケート、ボブスレー、リュージュの10種目だ。
朱鷺子が亡くなったとニュースで知り、銀次は驚いた。彼女のウンチクはナカナカのものだった。
『レストランのイスとテーブルが広まったのは何がきっかけだと思う?』
『分かりません』
『少しは考えなさいよ。関東大震災よ』
1923年(大正12年)9月1日(土)午前11時58分に発生し、死者は9万9300人、不明者は4万3500人にのぼる。
2月4日
グアテマラ地震が発生。
水戸市。街は
高嶋は森脇を打倒するために、正式な取り締まりでなく非合法的な攻撃によって森脇の組織を衰退させる計画を図師に打ち明ける。元軍人で特殊作戦にも従事したことのある図師は、警察の支援はおろか同僚にすら身分が明かせない危険な作戦を了承し、早速チームの編成を行う。
図師の子供を身籠もっている妻の
図師は静代の助言から、投げナイフの使い手であ
一方、図師の同僚である
図師が声をかけた3人は作戦を了承し、まず森脇のカジノを襲撃する作戦を実行しようと集まった際、こっそりチームについてきた堺の部下であり、自動車運転に長ける
そんな時、森脇は日ごろから対立していたギャングの
涼子の計画によって森脇の自宅に盗聴器の設置を成功させたチームは情報収集を行い、麻薬ルートの襲撃を成功させるなど戦果を上げるが、チームの行為を石原の報復行為であると考えた森脇は右腕の用心棒である
織田は石原だけでなく、その妻や使用人らを皆殺しにする。只でさえギャング同然の行為である上、自分たちの行動で関係ない人間にまで死者が出たことにチーム内で図師を除く唯一の既婚者である斎藤涼子は嫌悪感を訴えていた。
そんな中、涼子の盗聴によって森脇の大きな稼ぎの元である隠れ電信会社の存在を突き止めたチームは会社の壊滅に成功するが、その場にあった金を一切盗まなかったことから森脇に襲撃者がギャングでなく警官であることを察知され、そこから盗聴器の存在やチームの身元が割れてしまう。それを知らない図師たちは森脇の罠である偽の取引におびき出される。
別行動を取っていた奈々は皇子が森脇の手下に襲撃されたのを間一髪守り、自分たちの状況を理解すると皇子を江口賢人に預け、図師たちの加勢に向かう。図師らは梅宮ら森脇の手下らの襲撃を受けるが、奈々の活躍で窮地を脱する。が、チームに同行せず、アジトにて盗聴による情報収集を行っていた涼子が織田のマシンガン攻撃によって命を落としてしまう。
さらに図師の妻、静代も襲撃を受け、江口の元に身を寄せていた皇子の元には森脇が直々に出向き、皇子をかばった江口は森脇にナイフで腹を刺され殺害される。静代は辛うじて無事であり、子供も無事に出産できたが、森脇に正体がバレてしまった以上、水戸からの逃亡を余儀なくされる。
チームの行為が明るみに出て、このままでは彼らの懲戒免職は避けられず、高嶋の引責辞任も時間の問題となった。図師は最後の賭けとして森脇が涼子を殺害したのを目撃した皇子の証言をもとに、森脇を殺人容疑で逮捕しようとする。死亡した涼子の盗聴によって入手していた情報で森脇に抱きこまれていた検事の
激しい銃撃戦の末、堺が殉職するが、図師は森脇との一騎討ちを制し、森脇を逮捕する。皇子の証言で森脇は有罪となり、一味は崩壊する。
2月6日
アメリカで、ロッキード事件が発覚する。
この事件は、国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自民党衆議院議員で田中角栄元首相が、1976年(昭和51年)7月27日に受託収賄と外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の疑いで逮捕され、その前後に田中元首相以外にも佐藤孝行運輸政務次官や橋本登美三郎元運輸大臣2名の政治家が逮捕された。
さらに収賄、贈賄双方の立場となった全日空の若狭得治社長以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団やCIAとも深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出した。また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。
銀次は有給休暇をとってフランスに出かけた。🇫🇷
銀次は何年か前にローマ帝国にタイムスリップしたことがあったが、そのときはフランスはガリアと呼ばれていた。ローマ帝国のカエサルが大軍を率いてガリアを攻めて、食糧を調達し征服を遂げた。
カエサルは自分の任地であるガリア南部(現マルセイユ)で補給を受けたが、この時代にはトラックなどはないので食糧を送り届けることは出来ない。
カエサルはガリア所部族の一部を味方につけて、忠誠の証として食糧を供出させた。ガリアは400万の人口を支えるだけの農業生産力を誇っていた。
ガリア人ウェルキンゲトリクスはカエサルの食料調達手法を知り尽くしており、クーデターを起こした。彼は自らの土地や町を焼く焦土戦術でローマ軍をジリ貧に追い込もうとしたが、戦略の不徹底により敗北した。
銀次はフランスのジェップというところにやって来た。第二次世界大戦において、ジェップ近くで行われた空戦、海戦の音が1951年になってから聞こえるようになったとホテルのロビーにいた老人が教えてくれた。
「あれは51年の8月4日の朝4時頃だった。海から響く轟音で私は起きた。銃声や阿鼻叫喚も聞こえたが、何も見えなかった」
そんな時間に起こされるなんて地獄だな?と、銀次は思った。
2月7日
名張毒ぶどう酒事件で名古屋高裁に第3次再審請求。
銀次はコルシカ島にやって来た。
南北183km、東西83kmに及ぶ島は2億5千万年前に西側で隆起した花崗岩に5千万年前に東側の堆積岩が押し付けられ片岩が出来たという地質からなり、ほとんどが急峻な山岳で占められ、2500メートルを超える高峰が連なる。最高峰はチント山(コルシカ語ではモンテ・ヂントゥ)で2710メートル、ついでロトンド山(同モンテ・ロドンドゥ、2625メートル)、アル・バルダート山(同カブ・アウ・ベルダードゥ、2583メートル)、ビアンコ山(同カブ・ウィアンク、2562メートル)、ミヌータ山(同プンタ・ミヌーダ、2556メートル)である。これら高峰は島を2つに分けるように西北から南東へ連なっており、その西側と東側では風俗や社会形態、言語などが対照的に異なっている。
沿岸部の気候は他の地中海沿岸地域と大差なく年中温暖で少雨であるが、山岳地域は冷涼多雨で冬季には雪が積もり、スキー場が4箇所ある。
沿岸部の地形は東部(東海岸)と西部(西海岸)でまったく異なっている。東海岸は極めて単調で、コルシカに数少ない平野も広がり、ラグーン(潟)も所々で見られる。ラグーンのうち主なものは北部にある全域が自然保護区に指定されているビグリア潟(コルシカ語で「ビグーヤ」)、中部アレリア近辺にありカキやムール貝の養殖が行われているディアヌ潟(同「ディアナ」)、ウルビノ潟(同「ウルビーヌ」)である。
一方西海岸は断崖絶壁が続き、平野は中部のグラヴォナ川(コルシカ語で「ア・ラウォーナ」)河口付近にあるのみである。西海岸北西部のポルト湾は奇岩群で知られ、「ピアナのカランケ、ジロラータ湾、スカンドーラ自然保護区を含むポルト湾」として世界遺産に登録されている。
コルシカ島は面積の割に急峻な山岳地帯が大半を占め、それほど大規模の農業・産業が展開できない土地であるため居住人口は少なく、沿岸部および山岳部には手付かずの自然が残されている。島全体の4割近くがコルシカ地域自然公園 (PNR) に指定されており、夏にはハイカーが大勢訪れる。
コルシカ島ではフランス併合後、断続的に民族主義運動が起きている。しかしそれはフランスからの独立というよりは、その経済規模の小ささとフランス国家への歴史的な依存性からフランス共和国の中にとどまりながら立法権など政治的決定権を獲得する自治主義が中心である。
1975年8月に自治主義勢力(ピエ・ノワール)とフランス治安当局との間で激しい闘争(アレリア(フランス語版)闘争)が展開され、自治主義勢力が非合法化されると、分離主義勢力のコルシカ民族解放戦線(FLNC)が組織されるが、1982年に地方分権政策の一環としてコルシカ地域議会が設置されると求心力を失い分裂する。そして現在繰り広げられている武力闘争は独立戦争などではなく、民族主義を名乗るグループ同士の内部抗争であり、近年は失業で悶々としている島の若者たちを徴用するなど非行問題化しつつある。一般の島民は民族主義には理解を示しつつも、政治運動からは一線を画しており、コルシカ人がフランスからの独立を望んでいるという指摘は不正確である。
インターポールのボブ・マッカートニーは、5年も組んできた相棒のトム・ウィリスから加齢を理由とした引退の意思を告げられる。しかし退職を2日後に控えた日、トムは以前から追い続けていた通貨偽造団の倉庫(場所はパリにある。)に単独で潜入し、ボスのクリス・ジャクソンに殺されてしまった。
復讐を誓ったボブは新たな相棒アンジェリーナ・ライアンと共に捜査を再開、偽札の運び屋を手始めに、クリスの弁護士を辿って彼の行方を追う。そして、9日の夜クリスの居場所を突き止めるが…。彼はコルシカ島にある廃屋の中で背中を刺されて死んでいた。
銀次はコルシカ島にある都市、アジャクシオにやって来た。
いくつかの仮説があるが、伝説的なギリシャ神話の英雄アイアースによって街が創建されたという説が強い。現実的な仮説としては、トスカーナ語のagghiacciu(ヒツジ小屋)からアジャクシオ(アヤッチュ)となったというものがある。他に、近年の東ローマ帝国文献によって支持されている、ギリシャ語の単語に起源を発するAgiationである。agathèとは『幸運』や『良い係留地』を意味する(南仏の町アグドと語源を同じくする)。
武藤は織田裕二郎と麻薬ビジネスを辞めた後に何をするかを語り合う。織田はコルシカ島に引っ越しすることをすすめる。武藤は過ちを正したいと言うが、織田は無理だと答える。
2月10日
武藤は本田技研から発売されたばかりの『ロードパル』を新宿にあるディーラーから盗んで逃げる。世田谷にある解体屋の
武藤は1月に監禁されていた頃を回想した。織田は武藤を自分のアパートに連れて行き、大金を見つけられて殺した家政婦の死体の始末を手伝わせる。織田は車のグローブボックスからタバコを取ってくれと武藤に頼み、武藤は銃を見つけて取り出すが、織田の説得で引き渡す。
我に返ると川崎にある民宿の大浴場にいた。
武藤は部屋に戻り、100円を入れてテレビを見た。ニュースで悪徳検事の木村拓朗が毒を盛られたことと刑務所内で森脇が首を吊って死んだことを知る。
代々木にある織田のアパートに行って金を探し、冷蔵庫の扉の内側から金を見つける。そこに2人の警察官、
武藤は新宿中央公園のベンチに座っていた薄汚いカッコをした
🏕武藤は松本の寝泊まりしてるテントで銃を見つける。さらに武藤は東池袋にある印刷会社に行き、長崎と芳賀に20万を要求するが2人は拒否する。
「馬鹿じゃねーの」と、長崎。
輪転機がガシャガシャ音を立てている。
武藤は銃で長崎と芳賀を殺す。さらに、居合わせた男たちの運転免許証を取り上げて脅す。長崎の分け前を奪ったのちに会社を爆破して手がかりを消す。
2月15日
インスブルックオリンピック閉幕。
結果は次の通り。
🥇ソビエト連邦
🥈東ドイツ
🥉アメリカ合衆国
東池袋署強行犯係の
ヒューゴ・ボーチャードが開発した大型拳銃ボーチャードピストルを原型にゲオルグ・ルガーが改良・開発したもので、自動拳銃黎明期の成功作の一つであり、支点で二つに曲がって伸縮する“トグルアクション”式機構が大きな特徴である。その独特な機構の動きから、尺取虫の愛称で呼ばれた。
口径は9 mm、装弾数はシングルカラム・マガジンによる8+1発である。
使用弾薬は9mm×19パラベラム弾であり、20世紀から21世紀にかけて自動拳銃用の弾丸として広く使われているこの拳銃用弾薬は、元来はこの銃のために開発された。「パラベラム」とは、ラテン語の「Si vis pacem, para bellum(「平和を欲するなら戦争に備えよ」という箴言)」から採られており、「戦争に備える」の意味で、当時DWM社が商標化した。
なおアメリカの大手銃器メーカーであるスターム・ルガー(Ruger)社とは、日本語のカナ表記「ルガー」が偶然一致するだけであり、ゲオルグ・ルガー技師や製品を含め、両者は無関係である。
2月16日
衆議院予算委員会でロッキード事件の証人喚問を開始。小佐野賢治(国際興業社主)が喚問の場で発した「記憶にございません」で話題になる。
銀次は最近、栃木県警から東武署に派遣されてきた
2月19日
警察葬が執り行われる。雷門は辛うじて命をとりとめていたが、銀次は雷門をかばうように大量の銃弾を浴びて亡くなっていた。雷門は葬儀の挨拶で涙ながらに「銀次とは兄弟だ」とだけ語ると、そのまま言葉を失った。
2月24日
東京地検、ロッキード事件の強制捜査を開始。 [[2月27日]]ー西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)がスペインから独立宣言。
銀次は冥界での裁判で天国へ行けることが決まった。冥界で白い髭を生やした仙人に言われた。
「お主は下界で善い行いをそれなりにして来たようだ。元の世界に戻ったら悪人のみを殺すことを許可しよう」
仙人はさらに2020年にコロナという感染症が発生し、世界を蝕むことを銀次に教えてくれた。
銀次は仙人から地図をもらった。🗺
銀次はフェリーで鹿児島沖にある
宮廷にやって来るとアントルメを振る舞われた。演じもの料理のことで、緑色に色をつけた小麦や豆の粥、茹でた臓物、煮こごりなど。見た目はグロテスクだが美味かった。
14世紀のユーラシア大陸では東アジアに発し中央アジアを経てヨーロッパにまで達したペストの大流行が起き、また19世紀半ばまで続くことになる小氷期がいよいよ本格化して寒冷化により農耕牧畜への大きな被害が出たため人口が大きく減少した。さらに、パクス・モンゴリカによる交易の広範な活性化により財貨の過剰流動性の制御が困難となり、また当時のユーラシア大陸全体に保有されていた銀の総量に従属する決済能力を超えて交易が拡大した結果、全世界的に経済活動が急激に縮小した。この事により歴史は新たな相へと向かう。
ヨーロッパではペストにより人口が大きく減少した後、イタリア・ルネサンスにより、新しい時代へと大きく転換した。
13世紀にユーラシア大陸を覆っていたモンゴル帝国は弱体化し、アジア各地に明朝やティムール朝などモンゴル帝国の体制の影響を受けながらも地域的な新しい国家が誕生、モンゴル帝国の皇帝直轄政権たる大元ウルスは中央政府の権力闘争による混乱のもと、中国本土の内乱の中から台頭した明朝の脅威から逃れるため、大都を捨て北部モンゴル高原へ退去した(以後、北元と呼ばれる)。一方、13世紀末に成立したオスマン帝国も勢力を拡大した。これらの中規模帝国は、モンゴル帝国の統治下で普及した黒色火薬を用いた火砲(大砲や小銃)を軍制の中核に据える事で戦術の大規模な変貌を来して軍隊が急激に膨張、この巨大化した軍隊を扱う戦略の再編を経てやがて歴史学で火薬帝国と呼ばれる国家体制を成立させることとなる。
正確な統計はないが、全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。モンゴル帝国の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになり、病原体の拡散の障壁が失われたことが、この大流行の背景にあると考えられている。
14世紀の日本は、時代区分上では中世、鎌倉時代後期から室町時代の初期(南北朝時代の全期間を含む)にあたる。
2度に渡る元寇を撃退し、得宗権力を強めた鎌倉北条政権であったが、武士たちに募る恩賞の不満や徳政令の発布、霜月騒動、平禅門の乱などによる政治的混乱で政権への不満を招いていた。
後醍醐天皇の討幕運動に足利尊氏・新田義貞ら有力御家人が参入した結果鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる天皇親政を開始する。新政は天皇が中華皇帝的な専制統治を行う方向性を志向しており、唐突な改革による混乱と恩賞のあり方などが武士のみならず公家の不満を招き、離反した尊氏が京都に室町幕府を開いて北朝を立て、吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝と対立する(南北朝時代)。
その後南朝の勢力は衰亡するが、尊氏と弟直義が対立する内紛(観応の擾乱)が起き、南朝は混乱に乗じて息を吹き返す。幕府内部での政治抗争は3代将軍足利義満の時代まで続き、抗争により有力守護大名が南朝に奔るといった状態が繰り返される。今川貞世が九州へ派遣されて平定を完了すると、室町幕府の権力は確立され、1392年に義満により南北朝の合一が行われる。これより前の1379年には室町幕府の政治事件「康暦の政変」も起こっており、以後義満は1391年に明徳の乱、1399年に応永の乱を自らの主導により誘発して対抗勢力を駆逐し、やがて天皇の権威にせまる将軍権力を確立する。
元寇により日本と元朝の公式の通商は途絶えたが、天龍寺船などの寺社造営資金の調達のための貿易船(寺社造営料唐船)の派遣や、留学僧の渡来など、ある程度の交流は続いていた。14世紀の東アジアには倭寇と呼ばれる海上勢力が活動しており(14世紀の倭寇は「前期倭寇」と呼ばれる)、中国で1368年に成立した明王朝では、日本に倭寇鎮圧を求めており、この頃九州に割拠していた南朝勢力である懐良親王は明の使節を迎えて冊封を受ける。15世紀に入って足利義満が冊封を受けなおして「日本国王」となり、大陸との交流は絶頂を迎える。
一方、当時の朝鮮半島でも倭寇征伐が行われており、その過程で名声を得た李成桂が高麗王朝を倒し李氏朝鮮が成立する。
琉球では中山・南山・北山の三山時代を迎えて、いずれも明王朝に朝貢をし、高麗にも使節を送っていた。三山のうち中山が勢力を拡大し、15世紀に琉球王国の成立にいたる。
銀次は竜宮島にある時空の扉から古代ローマにやって来た。ペガサス焼きという料理が流行ってると町人から聞いた。
銀次は子供の頃読んだ本の内容を思い出した。
ポセイドーンの子を身ごもったメドゥーサが英雄ペルセウスによって倒された際、ペーガソスはクリューサーオールと共にメドゥーサの首の傷口から生まれた。その後ペルセウスはヘルメースから与えられた翼のあるサンダルで、エチオピアの上空を飛んでいるときに岩に縛り付けられたアンドロメダーを発見した。一方のペーガソスは天に上り、ゼウスのもとで雷鳴と雷光を運ぶという名誉ある役割を与えられた。
ペーガソスはコリントス出身の英雄ベレロポーンの愛馬になったとも伝えられている。ピンダロスの詩によると、最初ベレロポーンはペイレーネーの泉に現れるペーガソスを捕らえようとして苦労した。すると夢にアテーナーが現れて面繋のついた黄金の轡を授けた。ベレロポーンはこの轡を用いることでようやくペーガソスを捕らえることができた。ペーガソスはポセイドーンからベレロポーンに与えられたともいう。そしてベレロポーンはペーガソスに騎乗して戦うことで、アマゾーンやソリュモイ人の討伐、怪物キマイラを滅ぼすという武勲をたてた。
しかしベレロポーンは次第に増長し、ついにはオリュムポスに昇って神々の集会に加わり、神々がどこに自分の座を持っているのかを確かめようとした。しかしベレロポーンはゼウスの怒りに触れ、驚いたペーガソスはベレロポーンを振り落とした。地に墜落したベレロポーンは足を折り、一人淋しくその生涯を終えた。
文芸の神ムーサイがピーエロスの娘たちと歌を競ったとき、ムーサイの歌を聴いたヘリコーン山(ボイオーティア地方の山)は異常に膨れ上がって天界にも届きそうになった。そこでペーガソスはポセイドーンの命により、ヘリコーン山を蹴って元に戻した。またヘリコーン山にはヒッポクレーネー(Ιπποκρήνη,「馬の泉」の意 )という泉があり、ペーガソスが蹴った場所に湧いたとされる。
同じ名前の泉はトロイゼーンにもあり、そこでもペーガソスが地を蹴って泉を湧かせたと伝えられている。
実際のペガサス焼きは翼をつけて天馬に見立てたウサギ焼きだった。その他にも生きたツグミの入ったイノシシの丸焼きや故障ソースの中で泳ぐように飾られた煮魚などもあった。プルーンにトゲを刺してウニを表現したものはユニークだった。
料理人の名前はカエキリウスという。
紀元前210年頃、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス(紀元前206年の執政官)の長男として生まれた。弟にルキウス・カエキリウス・メテッルス・カルウスがいる。職歴はプラエトル(紀元前148年)、コンスル(紀元前143年)、近ヒスパニア属州総督(紀元前142年)、ケンソル(紀元前131年)である。
紀元前168年に第三次マケドニア戦争が終結した際、司令官ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスの勝利をローマに報告している。その後、アンティゴノス朝マケドニアは滅び、マケドニアは四つの自治州へと分割された。その約二十年後の紀元前149年、王国最後の王ペルセウスの子ピリップスを自称したアンドリスコスがローマからの独立を宣言し、第四次マケドニア戦争が勃発した。
開戦直後はマケドニアが優勢だったが、翌紀元前148年、プラエトルのメテッルスが総司令官としてローマから派遣され、ピュドナの戦いでマケドニアを破った。アンドリスコスは捕らえられ、マケドニアは正式にローマの属州となった。
紀元前147年、メテッルスはスカルフェイアの戦いでクリトラオスを破り、翌紀元前146年にはカイロネイアでアルカディアの軍を破った。これと同時期に、コリントスの住民が訪問したローマ元老院議員に対し無礼な言動を働くという事件が起こったため、ローマからコンスルのルキウス・ムンミウスが派遣された。これを聞いたメテッルスはムンミウスがギリシアに到着する前にコリントスを平定しようとした。ポリュビオスによれば、ペロポネソスが政情不安定なことを聞いたメテッルスが、ガイウス・ファンニウスらを派遣し、コリントスで開かれていた集会で敵対的な人々を説得したものの、アカイア同盟のクリトラオスは人々を扇動した。アカイアでクリトラオスを破り、その後任者ディアイオスをも破ったという。
メテッルスはマケドニア平定の功績により「マケドニクス」の尊称を得た。イタリアに戻って凱旋式を挙行した後、カンプス・マルティウス(マルスの野)にカエキリウスのポルチコ(後にオクタヴィウスのポルチコとなる)およびユピテルとユノーに捧げられた大神殿を建設した。これはローマで初めての大理石を用いた建造物であり、メテッルスがギリシアから持ち帰った、アレクサンドロスの配下の武将達の騎乗像で装飾されていた。
紀元前143年、コンスルとなったメテッルスはイベリア半島に遠征してウィリアトゥス率いるケルティベリア人(ガリアからイベリア半島に来たケルト人と、イベリア人の子孫)を破り、これを従えた(ヌマンティア戦争)。
紀元前131年にはケンソルに選ばれたメテッルスは、ローマの風紀退廃に歯止めをかけることを明確に宣誓した。任命時に行った演説において彼は、放蕩を防ぐため全市民に婚姻を義務付けると述べた。しかしこれは大衆の強い反発を買い、暴徒によりタルペーイアの岩(カピトリヌスの丘の南にある崖。ここから突き落とす処刑が多く行われていた)から落とされて殺されそうになったが、危うく難を逃れた。
銀次がやって来たのはヌマンティア戦争の頃だ。
ケルティベリア人は、ローマによって城壁都市を築くことを禁止されていた。その頃に強大化したセゲダが周辺の町を圧迫し、町に城壁を築きはじめると、ローマは前の条約を理由にこれを制止しようとした。セゲダは禁止されたのは新規の町の建設であって旧市の城壁ではないと答えた。ローマは兵力を派遣し、セゲダに貢納と兵力供出を求めた。セゲダはこれに対しては現在そのような義務は負っていないと答えた。ローマは第一次ケルティベリア戦争の後に課した貢納と兵力提供の義務を免除したが、それはローマに忠実である場合にかぎり、という但し書きがついていた。そのことを理由に、ローマはセゲダの攻撃に向かった。
紀元前153年に、ローマはクィントゥス・フルウィウス・ノビリオルの指揮のもとに約3万の兵力をヒスパニアに送った。セゲダの城壁はまだ完成していなかったため、セゲダ人は町を引き払って同じケルティベリア人であるアレワキ人のもとに逃げた。アレワキ人は同盟を承諾し、カルスを将軍に選んだ。
将軍選出の三日後に、カルスは2万の歩兵と5千の騎兵をもって待ち伏せを行ない、行軍中のローマ軍を攻撃して破った。追撃中のカルスは、補給部隊を護衛していたローマ騎兵と遭遇し、戦死した。その当夜、アレワキ人はヌマンティアに集まってアンボとレウコを将軍に選んだ。
三日後にノビリオルはヌマンティアのそばに到着した。ヌミディア王マシニッサは、ローマを援けるために300の騎兵と10の象を送ってよこした。ノビリオルは象で町を攻めようとしたが、負傷した象が暴走して味方を攻撃し、混乱したところをケルティベリア軍に攻撃されて敗走した。
ノビリオルは騎兵将校ビエシウスを派遣して周辺の友好部族から騎兵を集めさせたが、ビエシウスも待ち伏せされて戦死した。相次ぐ敗報に、ローマの補給倉庫があったオキリスの町がケルティベリアについて反乱した。ノビリオルは行動継続を断念して冬営したが、物資の不足で多数の犠牲を出した。
翌前152年に、ローマの指揮官はマルクス・クラウディウス・マルケッルスに交代した。マルケッルスは、ケルティベリア軍の待ち伏せ攻撃を退け、オキリス攻囲の陣を張った。オキリスは戦闘が始まる前に降伏した。
オキリスの寛容な扱いを聞いたネルゴブリゲ人は、マルケッルスに和議を申し入れたが、交渉中に一部のネルゴブリゲ人がローマ軍の補給隊を襲撃した。マルケッルスは和平派のネルゴブリゲ人を捕らえて鎖につないだ。和平派は事件について釈明したが、マルケッルスのもとには、ローマに忠実な部族がおり、彼らはネルゴブリゲ人と争っていたため、和平を望まなかった。マルケッルスは両派のヒスパニア人使節をローマに送った。ローマの元老院は戦争継続を決定した。
司令官交代までの間に、マルケッルスはヌマンティア近郊まで進軍して、ケルティベリア人と講和した。
前151年に、執政官ルキウス・リキニウス・ルクッルスがヒスパニアに着任してマルケッルスに代わった。副官にスキピオ・アエミリアヌスを伴ったルクッルスは戦争の継続を望み、直前の戦争と無関係のワッカエイ人の土地に侵入した。ルクッルスはカウカに攻撃をしかけ、講和を求めたカウカに対し、町の中に兵士を駐屯させることを要求して認められた。ルクッルスは兵士をカウカに入れると、和約を破って市民のほとんどを殺し、町を略奪した。
次いでルクッルスはインテルカティアの町を攻撃した。インテルカティアは長く抵抗し、壁が破壊されてもローマ軍を撃退した。食糧が不足したため、ルクッルスはインテルカティアから物資の供給を受けるという条件で和議を結んだ。その後ローマ軍はパランティアを攻撃したが、得るものなく帰還した。
ケルティベリア人はこうして独立を保持したが、ローマ領に侵入することはなかった。前143年に、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスがローマ軍を率いて突如ケルティベリアに侵入すると、アレワキ人はやむなくローマに従った。残る有力都市は、ヌマンティアとテルマンティアであった。
メテッルスに代わったクィントゥス・ポンペイウスは、ヌマンティア付近に陣営を張った。ヌマンティア軍はローマ軍と小競り合いを起こして悩ませた。ポンペイウスはヌマンティア攻略をあきらめて、テルマンティアに向かった。しかし、テルマンティアでも敗れて引き下がった。ポンペイウスはマリアという小さな町を降し、セゲタニアにいた盗賊を攻めて勝った。
ポンペイウスは、前140年に再びヌマンティア攻囲に戻った。彼は川の付け替え工事をしてヌマンティアを飢えさせようとしたが、ヌマンティア人はたびたび出撃して工事を妨害し、ローマ軍を攻撃しては損害を与えた。消耗したポンペイウスはヌマンティアと和平交渉を行なった。
前139年には、マルクス・ポピッリウス・ラエナスがポンペイウスに代わって指揮権をとった。ポンペイウスの和平交渉は元老院に却下された。ポピッリウスはルソネス人を攻撃したが、何も達成するなく帰還した。
後任のガイウス・ホスティリウス・マンキヌスは、前137年にティベリウス・グラックスらを従えてヌマンティア攻略に向かったが連戦連敗を喫した。マンキヌスは陣営を撤収させようとしたが、これに気付いたヌマンティア軍はマンキヌスの軍を撃破し、町の近くで包囲した。マンキヌスはヌマンティアとローマを対等にする条件で和約を結び、引き上げた。
ローマ元老院はこの和約に怒り、同僚の執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキナを派遣してマンキヌスに替わらせた。
アエミリウスは元老院の命令に反し、ワッカエイ人に口実をもうけて攻撃をしかけた。ワッカエイの中心都市パランティアは、ローマ軍の攻囲に耐えぬいた。ローマ軍は食糧がつきて撤退し、追撃されて損害を出した。
マンキヌスとヌマンティアの和約を審議した元老院は和約を破棄し、かわりにマンキヌスをヌマンティアに引き渡すことを決めた。ヌマンティア人は引き取りを断った。
ローマの司令官はクィントゥス・カルプルニウス・ピソとなり、ヌマンティアとの戦争を継続することになった。しかしピソはヌマンティアに対して軍事行動を起こさなかった。パランティア近郊を略奪し、その後はカルペタニに軍を留めて任期を終了した。
戦後、銀次は時空の扉を使い元の時代に戻った。時代が進んでると思ったが1976年の2月24日のままだった。
推理作家の
それが起こる30年前、誰よりも美しく天性の社交家でもあった智恵は
「アイツのせいで結婚もできねーよ」
2月25日の午前7時40分頃、宇都宮市内を流れる田川の下流で、智恵の水死体で発見された。はじめは自殺と認定されたが、翌26日に東武大学病院での司法解剖の結果、他殺(扼殺)の疑いが高いとして捜査が開始された。
銀次は冥界に落ちたときに豚みたいに醜い顔に変えられた。そのため、同僚たちから罵詈雑言を浴びせられていた。9つの玉を集めてあの世に行けば、元の顔に戻るんだろう。
古代ローマに行ったのに何も獲られなかった。
遠藤賢司、石原裕治、斎藤涼子の3人は冥界にやってきた。冥界は地底にあり、ゲジゲジやダンゴムシが壁を這っている。
仙人が3人の前に現れた。
「おい!ジジィ、ここから出しやがれ!」
石原が叫んだ。
「口を慎みなさい」
「私たちが何をしたっていうの?」
涼子は今にも泣きそうだ。
「ここから出たければ2025年の世界を救うんだ」
仙人は遠い未来に起きる大惨事について説明した。
「各時代に散らばる9つの玉を集めるんだ」
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